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第五十八話 「ミレスと覚醒(前編)」

 エリザベスの西通り襲撃事件から、数日が過ぎた。


 街は静けさを取り戻している。


 霊長類最強と謳われたバッチョは殺された。首謀者エリザベスは行方知れず。配下の隊員たちも、殺されるか捕縛されるかの憂き目に遭ったという。


 噂では、遠征中だった英雄ガデリオが強襲部隊を率いて王都へ急行したらしい。驕り高ぶるバッチョ特戦隊は、末端に至るまで慢心に蝕まれていた。その隙を突かれ、隊長バッチョを失い、呆気なく瓦解したのだとか。


 ガデリオの迅速な判断により、西通りの焼き討ちを企んだ極悪人どもは一夜にして壊滅した――市民はその快挙に沸き立ち、次代の王都守護神はガデリオで決まりだと囁き合っている。


 ……真実は、まるで違うのだけれど。


 実際に奴らを殲滅したのは、ニールゼンさんやオルティッシオさん率いる東方王国の精鋭部隊だ。正体を秘匿する必要があったから、ガデリオ部隊を隠れ蓑にしたに過ぎない。


 つまりガデリオは、知らぬ間に東方王国へ臣従したことになる。英雄と讃えられながら、その実、王家を裏切っていたわけだ。


 正直、だからどうしたって思うけどね。


 願うことはただひとつ。


 せっかく王都まで落ち延びてきたティレアさんたちが、穏やかに暮らせること。そのためにも、英雄ガデリオには今の立場を守り続けてほしい。


 それだけだ。


 ともあれ街には平穏が戻り、ティレアさんたちの生活は守られた。


 それは喜ばしい。


 問題は、私自身にある。


 ここ数日の記憶が、すっぽりと抜け落ちているのだ。


 怪我と疲労が原因だと、自分を納得させることはできる。


 ただ、記憶喪失それ自体が問題なのではない。


 問題は……。


 深い溜息がこぼれた。


 椅子に腰を下ろし、机の引き出しから一冊の帳面を取り出す。


 真新しい日記帳だ。


 日記をつける習慣など、これまでほとんどなかった。けれど、いつまた記憶を失うかわからない。せめて記録だけは残しておこうと、書き始めたのだ。


 表紙を開く。


 冒頭には、自分宛ての注意書きを記してある。


『ありのまま起こったことを記す』


 第三者が目にすれば、きっと呆れるだろう。日記とは日々の出来事を綴るもの――何を当たり前のことを、と。


 でも、こう書いておかなければ、これはもはや日記ではなく創作小説だ。


 それほどに、ありえない出来事の連続だから。


 試しに、ここ数日の記録を紐解いてみればわかる。



 >霜月二ノ日。


 大通りで意識を取り戻した。気絶していたらしい。

 制服は襤褸。周囲の建物は半壊。まるで戦場の跡だ。

 だが身体に傷はない。むしろ奇妙なほど調子がいい。

 羽のように軽い。肌に艶がある。理由がわからない。


 その後、口笛が聞こえた。

 バッチョ特戦隊、口笛のヒューマと直感し、音源へ走った。

 西通りの住民たちが、バッチョの部隊に追い詰められていた。


 咄嗟に魔法弾を放つ。牽制のつもりだった。


 部隊が消滅した。

 塵ひとつ残さず。


 呆然とした。

 そこまでの力を込めた覚えがない。

 民兵を誤射したかと、一瞬血の気が引いた。

 だが住民たちから歓声が上がり、それが杞憂だったと知る。

 口々に「さすがは魔法学園の生徒」と称えられた。


 称えられても、困惑するばかりだ。

 魔法弾の一撃で精鋭部隊が壊滅する。

 そんなことが、あり得るのか?



 日記のページをめくり、天を仰いだ。


 それ以来、彼らは私を「我らが救世主」と呼ぶ。


 中には、姿を見かけただけで拝む人までいた。


 本当に、やめてほしい。



 >霜月三ノ日。


 自分の身体が異常だと、ようやく認めることにした。

 これ以上、目を背けるのは無理だ。


 体調は良好。肌には艶。

 跳べと言われれば、どこまでも跳べる気がする。


 試しに垂直跳びをしてみた。

 人目のない場所で、足に力を込める。


 跳躍。


 身体は上昇を続け、学園寮の屋上に達した。

 高さにして三十メートル。

 身体強化魔法は使っていない。純粋な肉体の力だ。


 参考までに、学年初めの体力測定では六十七センチ。

 二倍の強化魔法を使っても百四十センチだった。


 何かの間違いだと思い、何度も試した。


 間違いではなかった。

 三十メートルどころか、屋上を遥かに越え、雲を突き抜けた。

 空を飛ぶカモバードと目が合った。


 もう、何も言えない。



 日記をめくり、天を仰ぐ。


 追記。

 最近は階段を使わず、跳躍してベランダから部屋に入っている。

 三階だが、問題ない。楽だから続けている。



 >霜月四ノ日。


 今日は握力を試す。


 りんごを手に取り、軽く握った。

 弾けた。魔力は使っていない。


 獣人にでもなったのか。


 その後、様々な素材で試した。

 銅、鉄、鋼鉄、白金。

 すべて握り潰せた。


 残るはダイヤとオリハルコン。

 だが試していない。高価すぎる。


 結果はおそらく同じだろう。

 記すのはやめておく。考えても気が滅入るだけだ。



 >霜月五ノ日。


 身体能力が常軌を逸しているのは認めた。

 ならば魔力も調べるべきだろう。


 学園の測定器は三種ある。

 生徒用は最大五千。職員用は一万五千。

 研究用の大型は四万まで計測可能。学園に一台しかない。


 まず生徒用で試した。

 針が振り切れかけた。予想通りだ。


 次に大型測定器を使うことにした。

 許可は取れない。忍び込んだ。


 厳重な警備のはずだった。

 だが容易く侵入できた。

 足音を消そうと思えば消える。気配も断てる。

 警備の人間が、私の傍を素通りしていった。


 この身体は、いったい何なのか。


 測定を開始した。

 針が振り切れかけた。


 四万まで計れる機器で、だ。


 何度試しても結果は同じだった。

 埒が明かない。


 仕方なく、調査魔法を自身にかけて計測した。

 五万を超えたところで、やめた。

 恐ろしくなったからだ。


 なお、私の調査魔法は測定器より精度が高かった。

 〇・〇一の単位まで読み取れる。


 笑えない冗談だ。



 >霜月六――やめた。


 日記を閉じ、引き出しにしまう。


 これでは本当に創作小説だ。


 私の身に、いったい何が起きたのか?


 こんなこと、誰にも相談できない。


 わずか数日で、魔力は軽く五万を超えた。身体能力は獣人や鳥人を遥かに凌駕している。


 そんな与太話、誰も信じない。


 頭がおかしくなったと思われるだけ――いや、それだけでは済まないか。


 実際に戦闘力を見せつければ、信じるだろう。


 驚くだろう。


 驚いて、怯えて、私を見たら逃げ出すかもしれない。


 王家にとっても、相当に危険な存在と映るはずだ。治安部隊が尋問に来るだろう。下手をすれば、特殊機関に連行されて処刑されるかもしれない。


 ……まあ、今の私なら、その程度の機関は容易く蹴散らせそうだけれど。


 とにかく、正体が露見すれば平穏な生活など望めない。


 深い溜息をつきながら、今後のことを考える。


 こういう時は気分転換に限る。


 ティレアさんの様子を見に行こうか。


 ティレアさんは、エリザベス襲撃の際に気を失って倒れたのだ。


 口笛のヒューマ部隊を殲滅した後、お店を訪ねると、ティムちゃんをはじめ東方王国の面々が悲痛な表情を浮かべていた。


 事情を聞いた。


 ティレアさんが店の前で倒れていたという。


 心配になって駆け寄ると……ティレアさんは、すやすやと眠っていた。


 これ、ただ眠っているだけでは?


 ティレアさんは戦場に慣れていない。浮世離れしたお姫様だ。おそらく慣れない緊張と疲労が重なって、倒れてしまったのだろう。


 ティムちゃんたちは「コウセンジュウのせいだ」とか「マジャ三人衆、許すまじ」と叫んでいた。


 コウセンジュウ?

 マジャ……バッチョの部隊にそんな人物がいただろうか?


 よくわからなかった。


 でも、ティレアさんが無事なのは確かだった。


 その時は安堵して、その場を後にしたのだ。



 ティレアさん、元気にしているだろうか。


 うん、思い立ったが吉日だ。


 さっそくお見舞いに行こう。


 学園寮を出て、ティレアさんのお店へ向かう。


 到着後、店の裏手にある地下への階段に足を向けた。


 三歩ほど進んだところで、行く手を塞ぐ人影に気づいた。


 仁王立ちでこちらを睨むエディムだ。


「エディムじゃない。久しぶり」


 軽く手を挙げて挨拶する。


 この数日、エディムとは会えていなかった。ティムちゃんたちはティレアさんの看病に追われ、私は私で自分の身体の検証に没頭していたからだ。


「ミレス、ここで会ったが百年目だ。この前はうやむやになったが、あんたを許した覚えはない」

「この前って?」

「とぼける気か?」

「いや、そういうわけじゃないよ。エディムは事情を知っている? 私、ここ数日の記憶がないのよ」

「そういえば、お前、記憶がないとかほざいてたみたいだな」

「う、うん。少し引っかかる言い方だけど、そうなの。だから、エディムが何を怒っているのかわからないのよ」

「……では、話してやる。処刑される前に自分の大罪を自覚しておけ!」


 エディムは激昂しながら、事の次第を説明してくれた。


 話を聞き、要点を把握する。


 どうやら私は、ティムちゃんを裏切り、エリザベスの配下になろうとしていたらしい。


 エディムによれば、エリザベスの取り巻きであるロンドと行動を共にしていたという。


 思い当たる節はある。エリザベス邸への潜入計画を、ギルさんと練っていたのだ。ロンドは、その計画における駒だった。


 おそらく「敵を欺くにはまず味方から」の諺どおり、当時の私は計画遂行のためにエディムへ嘘をついたのだろう。


 今にして思えば、無謀な計画だった。穴だらけだ。


 オルティッシオさんは直情的すぎる。無鉄砲で無計画もいいところだ。私とギルさんで、なんとか穴を塞ぎながら計画を組み立てたのだ。


 エディムは、そうした事情を知らない。


 オルティッシオさん、ちゃんと情報共有しておいてほしかった。


 エディムは私の嘘を真に受けて、怒り心頭の様子だ。


「エディム、誤解よ。それは――」

「問答無用だ。ティレア様とカミーラ様には後で断りを入れておく」


 エディムが拳を振り上げた。


 腰を落とし、正拳突きの構えを取る。


 繰り出された拳が、眼前に迫る。


 これは――。


 以前にも覚えがある。


 エリザベス邸に潜入して、

 エディムを怒らせて、


 そして……。


 こんな、蠅でも止まれそうな拳を受けたんだ。


 ……ってあれ?


 やっぱり、覚えがないのかもしれない。


 目の前に迫るエディムの拳。


 遅い。


 いや、遅いなんてものではない。


 まるで水飴の中を泳いでくるかのようだ。拳の軌道、筋肉の収縮、重心の移動――すべてが手に取るようにわかる。


 なんだろう、これは。


 本気で打っているのか?


 こんなもの、楽にさばける。


 顔を右に数センチずらす。たったそれだけで、エディムの渾身の一撃は虚しく空を切った。


「なっ!?」


 避けられるとは思わなかったのだろう。エディムが目を見開いている。


 風圧すら感じなかった。


 いや、風圧はあったのだろう。ただ、私にとってはそよ風程度にしか感じられなかっただけで。


 ……おかしい。


 以前の私なら、この拳は脅威だったはずだ。なのに今は、まるで子供の癇癪を眺めているような気分になる。


 そんな自分が、少し怖い。


「エディム、私、記憶を無くした以外にも変化があってね。昔より強くなったみたいなんだ」

「強くなっただぁ? 調子に乗るのも大概にしろ!」


 エディムが、拳と蹴りの連打を浴びせてくる。


 右拳、左拳、右の回し蹴り、左の前蹴り。


 狙いは的確だった。顎、こめかみ、鳩尾、膝裏――急所ばかりを正確に突いてくる。


 当たれば、普通の人間なら悶絶するだろう。


「あのね、詳細は省くけど……」

「てやぁ!」


 説明を試みるが、エディムは聞く耳を持たない。


 私が避けるたびに、むきになって攻撃を重ねてくる。


 遅い。無駄が多い。


 振りかぶりが大きすぎる。予備動作を見れば、次の攻撃が手に取るようにわかる。


 半身をそらして、かわしていく。


 右に来るなら左へ。上に来るなら下へ。


 風に揺れる柳のように、最小限の動きで攻撃の軌道から身体を外していく。


 力任せだ。


 大きく動く必要すらない。その場のステップで十分に避けられる。


 エディムの息が荒くなっていく。額に汗が滲み、瞳に焦燥の色が浮かんでいた。


 正直なところ、攻撃を受けても問題はなさそうだ。ただ、力任せに打ち込まれれば、エディムの方が拳を痛めるだろう。


 それは可哀想だ。


 軽やかなステップとスウェーで、その後もエディムの攻撃を避け続ける。


 一分、二分、三分……。


 私の呼吸は乱れない。汗ひとつかいていない。


 対してエディムは――。


「はぁ、はぁ、はぁ、なぜだ? なぜ当たらん」


 息を切らせながら、驚愕の眼差しをこちらに向けてきた。


 肩で息をし、膝がかすかに震えている。全力で攻撃し続けた代償だ。


「いや、当たらないよ。そんなに無駄を含んだ攻撃をしてちゃ」


 本当のことを言っただけなのに。


「き、貴様ぁあああ!」


 激昂したエディムが、腕を振り回してくる。


 もはや技術も何もない。ただの暴力だ。


 難なくかわし、エディムの背後に回り込んだ。


 エディムが振り向くより早く、私はもう背後にいる。


「聞いて。私はエディムが考えているより、強くなりすぎたみたい」


 そっと、エディムの肩に手を置いた。


 エディムの身体が、びくりと震えた。


「……どういうことだ? この短期間に何があった?」

「うん、私も知りたい。記憶がないから原因がわからないのよ」

「そうか、秘密か。都合のよい記憶だなぁあ!」


 エディムが振り向きざまに拳を叩き込んできた。


 身体が自然に動いた。


 カウンターで、エディムの顔面に拳を打ち込む。


「ぐはっ!」

「あ、ごめん。つい身体が反応しちゃって」


 思わず手が出てしまった。


 エディムが鼻血を散らしながら、よろよろとふらつく。


 血が地面にぽたぽたと滴り落ちていた。


「あ、あ、そ、そんな……血、血だと!」

「本当にごめんね。でも、エディムが暴れるから」

「ゆ、許さん。薄汚い人間風情が、この私に血を出させただと!」


 エディムの顔が、般若のように歪んだ。


 憤怒で表情が崩れている。


 これほど煮えたぎるような憎悪をぶつけられたら、普通は……。


 怖――くないな。


 怒りによって闘気は増している。


 だが、それ以上に荒々しさが目立つ。力が入りすぎて、かえって無駄な動きが増えそうだ。


 これではティレアさんがよく言っていた「顔芸」を披露しているだけに見える。


 ……正直、まったく怖くない。


 私、もしかして恐怖心が麻痺しているのだろうか。


 ますます気が滅入る。


 検証しなければならないことが、まだ山ほどある。


 エディムはゆらりと立ち上がると、魔力を急激に高めていった。


 空気が変わる。


 エディムの身体から、紫黒の靄のようなものが立ち昇り始めた。それは渦を巻きながら膨張し、周囲の空気を震わせていく。


 地面の小石がかたかたと揺れ、私の髪が風もないのにたなびいた。


 ん?


 おお、そこまで?


 エディムの魔力が二万近くまで上昇した。


 正確には、一万九千四百二十・三。


 私の目には、その数値が手に取るようにわかる。魔力の流れが、色のついた川のように視える。エディムの体内を巡る魔力の経路、その太さ、密度、流速――すべてが。


 あ、十ほど下がった。


 また五下がった。今度は二十上がって、すぐに十五落ちた。


 安定していない。


 魔力の制御が拙い。


 体内で生成された魔力が、経路の途中で漏れ出している。まるで穴の開いた水瓶だ。せっかく汲み上げた水が、縁に届く前にこぼれ落ちていく。


 せっかくの魔力量なのに、かなりの部分が無駄になっている。


 もったいない。


 本来なら二万五千は出せる器だ。それが制御の未熟さで二万にも届かない。


 見ていて歯がゆい。思わず指導したくなる。


「くっく、ミレス、これが私の真の力だ。今からその能天気な顔を絶望の色に染めてやるからな」


 エディムが勝ち誇った顔をしている。


 私は魔力制御の拙さを指摘しようかと考えていたのに、見当違いなことを言ってきた。


 いや、違う。エディムの言うとおりだ。


 本来なら、恐怖しなければならない状況だ。


 二万近い魔力。勇者の末裔レミリアと同等の戦闘力。そんな相手と対峙しているのだから。


 危険なはずなのに……。


 いくら強くなったとはいえ、相手も万を超える強者だ。勝負は水物、油断は禁物――頭では理解しようとしている。


 なのに、恐怖が湧いてこない。


 この程度の脅威では危険信号を発しないと、身体の奥底が告げている。


 どうしよう。


 恐怖しない自分に、恐怖を覚える。


 もうひとつ気になることがある。


 エディム、人間ではないよね?


 改めて観察する。


 魔力を解放したエディムの姿は、先ほどまでとは明らかに異なっていた。


 瞳孔が縦に細く裂け、紅く輝いている。肌は蒼白を通り越して、月光を浴びた大理石のような質感に変わっていた。


 そして何より、口元から覗く牙。


 犬歯が異様に伸び、鋭く尖っている。あれで噛まれたら、人の喉など容易く裂けるだろう。


 この魔力の量と質。人間の魔術師では、どれほど鍛えても到達し得ない領域だ。


「人間風情」という言い回し。あれは見下しではなく、自分が人間ではないという無意識の告白だった。


 これらを総合すると、答えはひとつしかない。


 歴史の授業で習った。魔族の中でも、人間に最も近い姿を持ち、人間社会に潜伏することを得意とする種族。


 夜を支配し、血を糧とする不死の眷属。


「吸血鬼?」

「そうだ。何があったか知らんが、少しばかり強くなったからといっていい気になるな。貴様は所詮は人間だ。その戦闘力はたかが知れている。私は魔族だ。種の違いを見せてやる」


 エディムが誇らしげに宣言する。


 ああ、エディム……。


 王都襲撃の時に、犠牲になったんだね。


 一年前の魔族による王都襲撃。あの惨劇で、多くの市民が吸血鬼に襲われた。


 最も悲惨だったのは、襲われた市民が吸血鬼と化し、自我を失って人を襲ったことだ。


 エディムも、そんな目に遭っていたなんて……。


 胸が締めつけられる。


 ただ、エディムには自我がある。人間をやめさせられたことに変わりはないけれど。


「エディム、辛かったね」

「ふん! 何をほざいてやがる。私は脆弱な人間という殻を破れたことに、吸血鬼となった運命に感謝をしているのだ。見当違いな同情はよせ!」

「そう、人間には未練がないんだ」

「当たり前だ。そして、正体がばれたからには生かしておけん!」


 エディムが再び殺気を放ってくる。


 勝手に正体をばらしておいて、それはないんじゃない?


「エディム、一つ聞いていい?」

「命乞いなら、無駄だぁあ!」


 エディムの右手に魔力が集まっていく。


 何らかのエネルギー弾を放とうとしているのだろう。


「……魔弾」

「そうさ。驚いたか? 人間共が使う魔法弾とは格が違う。あんなカスなエネルギー弾ではない。純粋な破壊を持った塊、喰らうといい!」


 歴史の教科書で読んだことがある。


 魔族が好んで用いるエネルギー弾だ。


 それがエディムの右手から放たれた。


 漆黒の球体が、空気を焦がしながら迫ってくる。


 これが魔弾か……。


 教科書の挿絵では、禍々しい黒炎を纏い、触れるもの全てを腐食させる破壊の権化として描かれていた。


 かつての人族の英雄を苦しめ、幾多の騎士団を壊滅させた魔族の切り札。


 黒く攻撃的で、破壊を凝縮したかのようなエネルギーの塊――のはずなのに。


 なんて、しょぼいんだ。


 目の前の魔弾は、確かに黒い。確かに不吉な気配を放っている。


 だが、それだけだ。


 軌道は直線的で読みやすく、速度も私の動体視力なら余裕で追える。威力も……おそらく、私の皮膚を貫くには足りない。


 あれ?


 普通なら、ここで驚いて恐怖するべきなのに。


 駄目だ。


 どれだけ考えても、結論は変わらない。


 しょぼい。しょぼすぎる。


 そういう感想しか浮かばない。


 避けるまでもない気がする。


 当たっても、おそらく平気だ。


 あ、でも、制服が汚れるのは嫌だ。


 向かってくる魔弾に、右手を翳す。


 掌が黒い球体に触れた瞬間、ぱん、と乾いた音が響いた。


 まるで子供が投げたゴム毬を受け止めるような感触。


 手首を返し、軽く弾く。


 魔弾は進路を反転させ、上空へ飛んでいき、やがて夜空に溶けるように消えた。


 掌を見る。


 傷はおろか、熱ささえ感じなかった。


「ば、ばかな! お前一体?」

「で、質問なんだけど……」

「な、なっ!?」


 エディムが恐怖で後ずさる。


 悔しさを滲ませた瞳でこちらを睨みつけながらも、その奥には明らかな恐怖が宿っていた。


 遠慮なく、つかつかと歩み寄る。


 エディムの目の前に立つと、エディムが襲いかかってきた。


 遅い。


 殴りかかってきた右腕を掴み、そのまま「く」の字に折り曲げて関節を極めた。


 エディムは小さく悲鳴を上げ、左手から放とうとしていた魔弾の波動を止めた。


 拘束完了。


 関節を極めたまま壁に押しつけ、尋問を始める。


「吸血鬼のあなたがティレアさん達に近づく理由は? 何を企んでいる?」

「くっ、は、はなせ! う、動けない!? な、なんだぁ、その力ぁああ!」

「いいから答えろ!」


 殺気を解き放ち、エディムに叩きつけた。


「うっ、うえっ。ど、どうして? なんでミレスが、うぅえ」


 エディムを泣かせてしまった。


 大粒の涙を流しながら、身体を震わせている。


 いけない。


 慌てて手を放す。


 エディムは怯えた様子で後ずさりする。


 つい、頭に血が上って脅してしまった。


 エディムだって親友なのに。


 エディムがティレアさんたちの傍にいるのも、何か事情があるのだろう。魔族の王都襲撃から一年が経とうとしている。本当にティレアさんたちを襲うつもりなら、とっくに実行しているはずだ。


 話を聞いてからでも遅くない。


 殺気を収め、穏やかな笑みを浮かべる。


「エディム、ごめんね。何か事情があるんでしょ。よかったら教えてくれない?」

「はぁ、はぁ、ぐすっ、はぁ」


 エディムは答えず、泣きながら地下の階段を駆け下りていった。


 やはり、怖がらせすぎたか。


 失敗した。


 自分の変化は、誰より自分がわかっていたはずなのに。


 私とエディムの力の差は歴然だ。大人と子供どころではない。大人と赤ん坊、いや、それ以上の隔たりがある。


 私の方が大人の対応をしなければならなかった。


 反省しよう。


 そして、エディムを追いかけようとした矢先、エディムが手に武器を持って再び戻ってきた。


「殺す。殺してやる。ぶっ殺してやるからなぁあ、ミレス!」


 叫び声が耳に届く。


 よかった。


 その様子を見る限り、恐怖は払拭されたようだ。


 さっきまで震えていたエディムの姿はない。


 ただ、目は血走り、殺気を撒き散らしているけれど。


「……えっと、エディム、落ち着いて」

「刻む。刻んで殺して豚のエサにしてやる!」


 どうやら私は、エディムの自尊心を深く傷つけてしまったらしい。


 言葉がまったく届かない。


 手には途轍もなく高価そうな武器を携え、ぎらついた目で私を睨み続けている。


 その武器は、矛だ。


 全長はおよそ二メートル。漆黒の柄に、銀色に輝く穂先。


 穂先から立ち昇る気配が、周囲の空気を歪ませている。まるで、矛そのものが生きているかのような……。


 高価そう……。


 あ、やっとまともな感想を抱けた気がする。


 最近は見るもの聞くもの、すべてがしょぼく感じられて、心の病気かと思っていた。


 うん、ちゃんと感動する心は残っていた。


 あの矛は、素晴らしい。


 いや、素晴らしいどころではない。


 見ているだけで、背筋がぞくぞくする。


 あの穂先に触れたら、どうなるのだろう。今の私でも、無傷ではいられない気がする。


 東方王国の秘宝だろうか?


 なぜエディムが持っているのかはわからないけれど。


 エディムが矛を構える。


 穂先が私に向けられた瞬間、空気が張り詰めた。

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