第五十六話 「最終決戦、悪役令嬢をやっつけろ その9」
どうしてこうなった?
黒兎馬の鞍に跨り、眼前には霊長類最強の女バッチョ。一騎討ちという名の死刑執行が、今まさに始まろうとしている。
とんだ無理ゲーに参加するはめになった。
背筋を冷たい汗が伝い落ちる。心臓が肋骨を内側から叩き続ける。もちろん、まともに一騎討ちする気なんてさらさらない。
この天下の名馬に跨り、地の果てまで逃げるつもりだ。
だが、いくら名馬といえど、この鉄壁の包囲を突破できるのか。相手は霊長類最強の女とその精鋭部隊だ。逃走ルートは完全に塞がれている。
作戦が必要だ。綿密な、そして大胆な。
一騎討ちの名乗りを考えるフリをしながら、脱出方法を思考する。
本当は、このまま籠城していたい。
だが、誰も止めてくれない。むしろ軍団員たちは一騎討ちを煽り、率先して俺の逃げ道を塞ぐ。
だめだ。妙案が浮かばない。
これはもう本当に、辞世の句を考えたほうがいいのか?
「お姉様」
絶望に打ちひしがれる中、ティムが声をかけてきた。
期待しない。
どうせ中二病全開の言葉だろう。
「何かなティム?」
もう応援の類はおなかいっぱいだ。
俺が死んだら、ベルムの海に骨を撒いてほしい。
「緊急事態です。西通り裏手で、大きな戦闘の衝突を探知しました」
大きな戦闘?
そういえば、ドンパチと爆発音が聞こえていた。
ふむ。恐らく裏手側に敵の別動隊が突入したのだろう。
西通りを制圧するのに、正面だけがルートではない。裏手側にも通じる道がある。
敵も見逃してくれなかったようだ。
ゲンさんたち、大丈夫かな?
いや、武器もたくさんある。
何よりゲンさんたち力自慢の男たちが大勢いる。櫓こそないが、戦力はこちらより充実している。
それに、バッチョを含め敵の主力はこちらが引きつけている。裏手側にいる敵の戦力は、恐らく三番手だろう。
うん、なんとかなる。そう信じるしかない。
「お姉様、この大きな魔力……一つは六魔将ルクセンブルクの魔力です。あやつが侵入してきたようですね。ただ、もう一方の魔力、得体が知れませぬ。我が様子を見にいこうかと思います」
ティムが慌てている。
霊長類最強のバッチョが攻めてきたときも動じなかったティムが、ようやく慌ててくれた。
ティム、今さら事態を把握したのか?
いいよ。テンパり過ぎは困るが、緊張感は大切だ。
ただ、得体は知れている。
どう考えてもバッチョ特戦隊とゲンさんたちが戦っているのだろう。
「ティムは持ち場を離れないでね」
「し、しかし、この魔力、捨て置くには危険です。せめてニールゼンを斥候に向かわせるべきです」
「いや、私は状況を把握しているから」
「そうでしたか! さすがはお姉様、この事態も計算のうちなのですね!」
相変わらず、中二言語全開のティム。
俺が状況を把握していると伝えると、すんなり引き下がってくれた。
さて、俺はどうしようか?
辞世の句第二章、いや、逃走の算段を考えないと。
「ティレア様」
ん!? 振り返ると、青い髪をしたエルフの美青年とその一派。
西通りから逃げた住民を追いかけていたドリュアス君たちである。
戻ってきたようだ。
服装はぼろぼろだ。どうやら逃げた住民に追いつき、一戦してきたらしい。
本当に危なっかしい連中だ。下手をすれば怪我どころか命を失っていたよ。
まったく目が離せない。
こいつらに言いたいことは山ほどある。
ただ、今は非常事態だ。小言はこの戦いが終わってからにしよう。
「あーご苦労様、ゆっくり休んでね」
「ティレア様、話は伺いました。なんでも不遜な人間を駆除するため、御自ら一騎討ちをされるとか」
おっ、これは?
ドリュアス君が何か物申したいらしい。
そうだよね。
ここで軍師なら「なんと危ういことを。わが君に万が一の事があってはなりません。どうかそのような蛮勇はお控えください」とか諫言する場面だ。
うんうん。ドリュアス君、他の奴らと違うところを見せてくれ!
期待に満ちた眼差しでドリュアス君を見つめる。
「最前列で、拝見させていただいてもよろしいですか?」
「ん? う~ん? な、なんだって?」
思わず耳に手を当て、聞き返してしまう。
「いえ、参謀としてあるまじき行為かもしれません。ですが、ティレア様が一騎討ちをなされると知り、興奮さめやらぬ心地でございます。あ~その御雄姿を間近で拝見しとうございます!」
ドリュアス君は、顔を紅潮させ身をもだえている。
いや、おま……本当に参謀にあるまじき行為だぞ。
どこの世界に君主を一騎討ちに突撃させる軍師がいる!
ドリュアス君は、俺の勝利を信じて疑わない。
参謀ならあらゆる可能性を考慮すべきなのに。というか、相手は霊長類最強の女だ。
可能性云々の話ではない。
さっさと止めろぉおおお!
……って、だめだこりゃ。
もうこいつに期待するのは無理だ。頼れるのは己のみ。
ドリュアス君を無理やり退出させ、頭から煙が噴き出しそうなほど対策を考える。
思考を重ね、思考の奥深くへ沈んでいく。
その時――背後でカチッ、カチッと音が響いた。
何の音?
まるでカチカチ山の狸になった気分だ。
俺の心は、火事ぼうぼうだよ。
「お楽しみください」
「はぁ? なにそれ? 嫌味か! 誰よ?」
現状をあざ笑うかのような言動に、苛立ちが爆発する。
下手人を探すため、首を左右に振り周囲を見渡す――ってエディムゥウ!!
眼前には……。
狼の如き鋭い八重歯を持った美少女、エディムがいた。
いつの間にか戻ってきてくれたようだ。
まさに天の助け。
神様仏様エディム様だ。
エディムの体調を確認して、当然一騎討ちの後事を託したよ。
あぁ、これで安心。
一息つこうとしたが、またもやトラブルが発生した。
エディムが、黒兎馬に騎乗できないのである。
黒兎馬が嵐のように暴れる。暴れる。
この黒兎馬、人には慣れていても魔族には過敏に反応するようだ。
エディムは半魔族である。厳密には人間ではない。
なるほど、野生の勘は侮れない。
黒兎馬は、エディムの中に流れる魔の血を敏感に察知したのだ。
吸血鬼の豪腕を持ってしても制御できない暴れ馬。
さすがに名馬と言われるだけはある。
って感心している場合ではない。
こんな調子では一騎討ちなどとてもできない。
どうすればいい?
打開策を模索していると、ティムがつかつかと黒兎馬へ歩み寄った。
そして、何やらヒソヒソと話しかける。
すると、どうだ!
見事に黒兎馬をどうどうと鎮めてみせたのだ。
名調教師ティムのおかげで、黒兎馬は借りてきた猫のように大人しくなった。
エディムが騎乗しても問題なし。それどころか、とても仲良くなったようだ。エディムと黒兎馬の間で何か通じるものがあったらしいね。
一気に絆が深まっている。
一人と一騎で、アイコンタクトを交わし頷き合っている。お互いにハイタッチしそうな勢いである。
いいね。まさに魔中のエディム、馬中の黒兎だ。
さぁ、いざ出陣。
エディムなら……エディムならなんとかしてくれる。
ここでバッチョを倒せなくてもいい。手傷を負わせ退却させるだけでも、この後の士気が違う。
期待を胸に、エディムが疾走した。
速い。そして、なんと荒々しいのだ!
まさに暴走機関車である。
さすがミューとともに邪神軍の最高戦力なだけはある。
そして……。
「一太刀じゃあああ! たった一太刀で姉御がやられたぞぉおお!」
一人の男の絶望に満ちた悲鳴が、戦場に響き渡った。
轟くような大声が周囲を震わせる。
「そ、そんな馬鹿な!」
「ああ、どうしましょう。ボウガチョさん!」
「お、俺が知るか! バッチョの姉御があんな簡単に……こ、この女、化け物だ。に、逃げろ!」
「「う、うぁあああああ!」」
す、すごい。
なんという反響だ。
恐怖が伝染病のようにバッチョ部隊へ広がっていく。
強面で鳴らした強者たちが、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
霊長類最強の女 対 最強の吸血鬼。
頂上決戦と言ってもいいこの戦いは、蓋を開けてみればあっけなかった。
エディムの圧勝だ。
ものの見事にバッチョの首を斬り落としたのである。
さぁ、勝鬨だ。
勝利を宣言し、この戦いを終結させよう。
「かちど……『殲滅しろ!』」
えっ!? 今、俺何を言った?
内側から声が聞こえたような……。
「おぉ、お姉様は殲滅をご希望だ。殺せ! お姉様に歯向かう者は根絶やしにするのだ!」
ティムが俺の言葉に従い、軍団員たちに号令する。
まずい!
俺とティムの命令を聞き、軍団員たちが城壁から飛び出していった。
総大将を欠いたとはいえ、敵の戦力は丸々残っている。このまま飛び込めば犬死だ。
飛んで火に入る夏の虫である。
「やめ……『何をもたもたしている。全員出撃だ!』」
「「はっ!」」
まただ。
また俺の意志に反して、言葉が紡がれる。
俺の声なのに、俺の意志ではない。
俺の口、どうなってしまったのか?
もしかして敵の攻撃?
人の身体を操る能力とか?
そうか! 舌の裏に敵のスタ●ドが取り付いているのかもしれない。
ベロを伸ばし、舌に何か付着していないか手で触って確認してみる。
何も見当たらない。
ふむ……。
さっぱりわからない。
謎だ。さらに、身体も妙に重たくなってきている。
身体が動かしづらい。
まじで俺の身体、どうなっているの?
原因を考える。
だけど、時間がない。
早く、早くなんとかしないと!
事態は緊急を要している。
俺のダメ押しの一言が効いたらしく、軍団員たちは目の色を変えて突撃している。
ただでさえ、勝利に浮かれた中二病患者の群れだというのに……。
俺の言葉が火に油を注いでしまった。
もはや軍団員たちは、ブレーキの壊れた暴走列車そのものである。蟻が餌に群がるようにバッチョ特戦隊へ特攻していく。
そして……。
解決策も見出せないまま、とうとう軍団員全員が櫓から出撃してしまった。
あぁ、なんてこと……。
せっかく犠牲者ゼロでバッチョを撃退したというのに。
愕然としたまま、空を見上げる。
想像したくもないが……。
この先でティムが、オルや変態、軍団員全員が無残な最期を遂げているかもしれない。
うっ、うっ。
泣き叫びそうになるのを必死に堪え、城壁から身を乗り出す。
なっ!? どうなっている?
にわかには信じられない光景が眼前に広がっていた。
あ、圧倒している!?
邪神軍のおバカな連中が、次々とバッチョ特戦隊の面々を駆逐していく。軍団員たちの襲撃に、いいようにやられるバッチョ特戦隊の者たち。
さきほどから聞こえていた悲鳴は、軍団員たちではなくバッチョ特戦隊の連中だった。
う、嘘だろ?
魔法学園主席のティムならこういうこともあるかなってワンチャン思うけど……。
変態や虚弱のオルまで、簡単に敵を屠っている。
どういうことだってばよ?
誰か説明してくれ?
あ! ふと、頭によぎった。
トレーニング中の変態やオルの均整の取れた肉体。
歴戦の戦士と言ってもいい身体能力とパワー。
その他、数え切れないほど決定的な場面を見てきた。
なぜ俺は、今までこいつらを弱いと決めつけていた?
弱者である俺が、こいつらを諭していたから?
俺の手で簡単に抑えつけられるこいつらを、どうして強者と認識できる?
いや、違う。何かが根本的に間違っている。
そもそも――なぜ俺は自分を弱者だと?
幼い頃の記憶。
……あれは、本当に?
脳裏に別の映像が閃く。
燃える街。逃げ惑う人々。破壊の中心にいる幼い自分。
そうだ。
俺は……。
俺は、強い。とてつもなく強い。
この世の誰よりも強い魔王の力を――
はぁ、はぁ。
息が詰まる。認識が歪む。自我の境界線が溶け始める。頭蓋の内側で何かが軋む。きりきりと、脳髄を締め上げるような激痛。
俺は、本当は……。
眼前では、バッチョ特戦隊が悲鳴を上げながら撤退している。
軍団員の一人が拳を振るう。
敵のどてっ腹、鎧ごと貫通して大穴が開いた。
軍団員の一人が魔弾を放つ。
あっという間に数十の敵が爆殺された。
まるで大人と子供、いや、蟻と巨人だ。
軍団員たちは、弄ぶようにバッチョ特戦隊を簡単に殲滅していく。
強い。
彼らは、中二病患者ではない。本物の魔族だ。
銀髪の少女が、腕を振るう。
魔線が放たれ、数百の死体が細切れへと分解された。
別格の強さ。
まさに閃光のカミーラの名に相応しい。
カ、カミーラ?
あ、あれ?
じゃあ、ティムは?
妹のティムはどこにいるんだろ?
優しくて愛くるしい。
俺の後をとことこついてきていた可愛い妹。
ティム、ティム、どこにいるの?
お姉ちゃん、不安だよ。ねぇ、早く出てきて。
ねぇ、誰か答えてよぉお!
あ、痛い。
痛い、痛い。
あ、あ、あ、あ……あ、頭が痛い。
あまりの痛みにその場へ蹲る。
もう意識を保っていられない。
俺が最後に見た光景。
オルが嬉々として、敵を屠っていた。
敵将らしき男の首を捻じ切り、こちらへその生首を見せるオルの笑顔を最後に……。
意識は暗転した。
■ ◇ ■ ◇
ルクセンブルクは、大量の血を吐きながらうごめいている。身体はズタボロに引き裂かれ、時折、ピクピク痙攣していた。
南十字で、急所を断裂してある。
普通の魔人であれば即死だが……。
ルクセンブルクは、頑強な魔人の中でもトップの実力を持つ六魔将だ。その頑健さが仇となっている。
中々死ぬことができず、この地獄のような苦しみが続いているのだ。
「ごぼっ、うげぇ! はぁ、はぁ」
「すさまじい苦痛が体中を巡っているでしょう。同情はしない。自業自得だから。ただ、魔王について一つ聞きたいことがある。それを教えてくれるなら、とどめをさしてあげるわ」
ミレスはルクセンブルクに提案する。
ルクセンブルクはその問いに答える代わりに、ぞっとするほどの眼差しで睨んできた。
死にそうなくせに、目で人を殺せそうなほどの殺気を放ってくる。
残虐で残忍。
だけど、魔王に対する忠誠心だけは本物。
これは無理ね。
「……とどめをさしてあげる」
ルクセンブルクが少し驚いた表情をした。情報を吐かなかったのだ。せいぜいいたぶって殺されると思っていたらしい。
「言ったでしょ。嬲る趣味もなければ、そんな暇もない」
とどめを刺すべく、ルクセンブルクへ向かう。
安らかに眠りなさい。
大きく右手を振り上げ、そのまま振り下ろす――。
キ ン グ ク レ ム ソ ン。
なっ!?
ルクセンブルクの身体が突如として消えた。
とどめを刺そうとした私の拳は、空を切る。
どこに?
すぐに周囲を見渡すと――いた。
ルクセンブルクを片腕で軽々と抱えた金髪の少女。
「ティレ――魔王!」
声が、自然と喉から迸る。
「ほぉ~余を一目で見わけるか! これは驚いた」
ティレアさんの顔をした何かが、口の端を歪めた。
あの笑顔ではない。太陽のように暖かだった、あの人の笑顔ではない。
今そこにあるのは、悪魔の嘲笑。
間違いない。あの身体の支配権は、ティレアさんから魔王へ移った。
外見は同じ。金髪も、青い瞳も、小柄な体躯も。
だが中身が――魂が、根底から別物だ。
立ち姿が違う。視線の鋭さが違う。纏う空気が違う。
かつての温もりは消え失せ、そこにあるのは氷点下の冷気だけ。
許せない。
私の大切な人を、あの身体を、あの笑顔を――汚した。
愛しい人の顔で、これほど邪悪な表情をさせている。
怒りが沸騰する。血が逆流する。視界が赤く染まりそうになる。腸が煮えくり返り、今すぐ暴れ出したい衝動に駆られる。
だめだ。冷静に。
狂乱寸前の怒りを、老成した聖者のような精神力で押し殺す。
深呼吸。一度、二度。心拍を整える。
大丈夫。今の人間女王なら、できる。
眼を閉じ、すぅっと息を吸い込む。肺腑に冷気を満たすイメージ。
ゆっくりと吐き出し、精神を平静へと導いた。
クールダウンをして魔王を見つめる。
魔王……。
戦闘力は、六魔将の比ではない。
身体能力は少なくとも私の五十倍、魔力で言ったら百倍以上だろう。
絶望的な戦力差だ。
いや、それはもう考えるだけ無駄だ。わかっていたことだ。これは、そういう戦いではない。
気にしなければいけないのは、さきほどの能力。
未来視できる私の目を欺き、ルクセンブルクを瞬時に奪い取った。
「くっく、どうした? 何を固まっておる? 余は魔王だ。貴様の敵だぞ」
魔王が嗤う。
「ごはっ、はぁ、はぁ、キャハ、お、終わりね。魔王様のお、お力の前では、アンタの力なんて、塵にも等、しい」
死にそうになっているルクセンブルクも嗤う。
「ルクよ。無理をするな」
「あぁ、ま、魔王さ、様、も、申し訳、ございません。こ、このような失態を」
「気にするでない。余はそなたが無事であればよい」
「あぁ、なんというご慈悲――ぐふっ!」
魔王がルクセンブルクの心臓を貫く。
「あ、あぐぅ! ぞ、ゾルグさ、様?」
ルクセンブルクが驚愕の眼で魔王を見ている。
「う~ん、いいぞ。やはりそなたの魂はよい」
魔王は、ルクセンブルクの心臓を貫きながら悦に浸っている。
魂?
魔王の魂は、ずたずたに引き裂かれている。
それは、ヒヨウからの情報でわかっている。
今は修復中のはず。
ならば――今の魔王の魂はどうなっている?
確かめなければ。
調査、ググル。
私の固有能力――万物を検索し、解析する力。
意識を集中させる。呼吸を整え、五感を研ぎ澄ます。
視界が変わる。
世界が、無数の情報の集合体として視えてくる。
空気の流れ。温度の分布。魔力の波動。物質の構造。全てが、データとして私の脳裏に流れ込んでくる。
その中から、魔王だけに焦点を絞る。
検索開始。
魔王の身体に視線を注ぎ、情報の階層を潜っていく。
表層――肉体情報。筋肉の密度、骨格の強度、血流の速度。全てが人間を遥かに超えている。
中層――魔力の流れ。濁流のような魔力が全身を駆け巡っている。質も量も、六魔将とは桁が違う。
深層――魂の領域。ここからが本番だ。
さらに深く。さらに奥へ。
意識を研ぎ澄まし、魂の最深部へと潜行する。
通常の魔法士では決して到達できない領域。神の領域に近い場所。
私の人間女王としての力なら――届く!
そして、最深部へ。
視えた。
こ、これは!?
魔王の心臓を貫いた手から、黒い靄のようなものが流れ込んでいる。
いや、靄ではない。魂だ。
ルクセンブルクの魂を吸収して、自分の魂の修復に使っている!
ググルで検索を続ける。魔王の魂の全体像を把握するため、解析の精度を最大まで上げる。
データが次々と脳裏に展開されていく。
魂の構造。損傷の度合い。修復の過程。
全てが、図面のように明確に視えてくる。
視えてきた。魔王の魂の全容が。
なんという……。
魔王の魂、それはひどく損傷している。
無数の亀裂が走り、欠損した部分も多い。魂の本体――核となる部分は、全体の三割程度しか残っていない。
今、現存しているのが不思議なほどだ。
いや、不思議なのは当然だ。これほど損傷した魂では、本来なら存在を保てない。消滅しているはずだ。
なのに、なぜ?
さらに解析を深める。ググルの検索精度を限界まで引き上げる。
視神経が焼けるような感覚。膨大な情報量が頭に流れ込み、思考が飽和しそうになる。
だが、構わない。ここで全てを把握しなければ。
視えた!
魔王の核となる魂に、別の魂が縫い付けられている。二つの魂が定着して、魔王の魂を繋ぎ止めていた。
まるで――損傷した布を、別の布で継ぎ接ぎしているように。
二つの魂は、魔王の魂の亀裂を塞ぎ、欠損部分を補強している。魔王の魂が完全に崩壊しないよう、必死に支えている形だ。
そして今、三つ目の魂――ルクセンブルクの魂が流れ込んでいる。
三つの魂が六芒星の頂点を形成し、中心の魔王の魂を支えている。
なるほど、こういう仕組みか。
ググルの解析を終了させる。意識を通常の感覚へ戻す。
世界が元の色彩を取り戻した。
「な、なぜ……はぁ、はぁ、や、やっぱり、ア、アタイが失態を犯した、からですか? お、お許しを」
「い~や違うぞ。お前は大切な存在だ。これくらいの失態で罰を与えたりはしないさ」
「で、ですが、アタイ死を、賜って」
「必要だからだ。ルクよ、これは罰でも仕置でもない」
「し、死が必要! ひぃ、アタイいらないの? い、嫌だ。が、頑張ります。アタイ誰よりも強く、誰よりも残虐な……はぁ、はぁ、魔族の中の魔族になります。魔王様の、お役に立ちます。だ、だから、す、捨てないで、えぐっ、捨てないで」
血反吐を吐きながら、嗚咽混じりに懇願を重ねるルクセンブルク。
その声は次第に幼く、か細くなっていく。六魔将の威厳は消え失せ、そこにいるのはただ、見捨てられることを恐れる孤児だった。
「ルクよ。何度も言わせるな。捨てるのではない。必要だからだ」
「あぁ、ゾ、ゾルグ様、ア、アタイは、忘れてません。今まで、拾って育てていただいた御恩、はぁ、はぁ、アタイ誰よりも強くなり、ます。これからも……アタイを必要として、くだ、さい」
「ルクよ。もう十分に役立ったぞ。だから、最期は余の糧となれぇ!」
魔王の手が、ルクセンブルクの胸中深くへ――。
ズブリ。
鈍い音。
魔王の手が、ルクセンブルクのさらに心臓奥深く貫いた。肋骨が砕け、肉が裂け、内臓が押し退けられる。
血が勢いよく噴き出す。ルクセンブルクの口から、鮮血が溢れた。
「がぼぉああ! ぞ、ゾルグ……さ、様」
ルクセンブルクの声は、血に溺れるように掠れている。
魔王の手から、黒い靄が立ち昇る。
いや、靄ではない。それはルクセンブルクの魂だ。その魂を吸い取っている。
ルクセンブルクの身体が、みるみる生気を失っていく。
顔色が青白くなり、瞳の光が消えていく。
一瞬の静寂。
時が止まったような、永遠にも感じられる一瞬。
そして――ルクセンブルクの身体から、全ての力が抜け落ちた。
魔王が手を引き抜く。
ルクセンブルクの胸には、大きな穴が開いていた。
死んだ。
大粒の涙を流しながら、信じた者の手で殺された。
哀れという言葉しか、見つからない。
「ふ~いいぞ。とてもいい心地だ。ルク、お前の魂は美味であったぞ」
魔王の魂が安定した。
魔王の魂は、六芒星の位置に魂を補強している。
さきほどのルクセンブルクの魂。あとの二つの魂も似たような大きさだ。
恐らく以前ティムちゃんが倒したという六魔将キラーとガルムの魂に違いない。魔族に殺された魂は天に召されず、永久に空を彷徨う。
彷徨っていた魂を魔王は回収していたのだ。
なるほど。ならば、私にルクセンブルクを殺されるわけにはいかない。
今の私は人間女王、魔からは最も遠い存在だ。
私が殺したら、その魂は確実に天に召される。そうなったら、その魂の管理は神の領域だ。魔王としては、入手不可能になってしまう。
「くっく、どうした? なぜ貴様が怒っている? ルクの性格は知っている。貴様は、さんざんに煮え湯を飲まされたはずだ」
魔王は、ルクセンブルクを指差し高らかと笑う。
「いえ、怒ってないわ。むしろ嬉しい」
「ほぉ~」
「だってね、一番片づけたい大きな粗大ごみを処分できるから!」
言葉と同時に、身体が動く。
瞬速で魔王へ駆け抜ける。
地面を蹴る。一歩で五メートルの距離を詰める。
二歩目で、魔王との距離はゼロ。
右拳を引き絞り――放つ!
最速のジャブ。
さきほどルクセンブルクを仕留めた時よりもさらに速く、的確に、最高のパンチ。
空気を切り裂き、音速を超える拳撃。
魔王の顔面へ――。
入った!
いや――。
なっ!?
拳が、何もない空間を貫いた。
魔王の姿が、陽炎のように揺らいで消える。
残像? いつの間に!
「ふむ、トリートメントをしておけ。余は、つややかな長髪が好きだ」
背後から声。
そして、髪に触れる感触。
魔王の手が、私の髪を撫でている。
いつの間に背後を取られた!
魔王にあっけなく避けられただけでなく、あまつさえ背後を取られ、なおかつ髪を弄ばれている。
「くっ!?」
即座に反撃。身体を捻り、背後へ肘鉄を叩き込む。
だが――。
手応えがない。魔王の姿はない。
むなしく空を切る。
どこへ消えた?
視線を巡らせる。
いた!
魔王は背後に回ったかと思えば、もう正面に現れていた。あまりにも速すぎて、私の目が追いつけない。未来視を発動させているのに、まったく感知できない。
速い、速すぎる。
どうして?
瞬間移動?
超スピード?
洗脳魔法?
時刻魔法?
どれも可能性がある。
正体はわからないが、どちらにしろ厄介だ。
「いいぞ。貴様はよい。さきほどの肘打ちも余でなければ、決まっておった。さすがは、高位人間を超えた者だ」
ピクンと反応してしまう自分がいる。
一目で正体を看破された。
侮れない。
「何を不思議がっておる? 余は高位人間なら知っている。古の時代に幾人も屠ってきたからな。貴様がただの高位人間なら即座に殺していた。だが、違う。お前の存在を余は初めて見た。実に興味深い」
「それはどうも。天下の魔王にそんな風に言われるなんて、光栄ね」
「くっく、気持ちが籠っておらんな」
魔王は笑う。
だめだ。魔王の能力がわからない。このままでは、魔王対策のアレも失敗する。
あの切り札は、魔王の能力を正確に把握していなければ使えない。的外れな対策では、意味がないどころか隙を晒すだけだ。
能力の見極めを急がねば……。
再び、ググルを発動させる。
今度は魂ではなく、魔王の能力そのものに焦点を当てる。
全ての五感を研ぎ澄ます。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚。
さらに第六感――魔力感知を最大限まで引き上げる。
魔王の動きを追う。魔力の流れを読む。空間の歪みを感知する。
解析開始。
魔王の周囲に、情報の網を張り巡らせる。
どんな些細な変化も見逃さない。呼吸の間隔、瞬きの頻度、筋肉の微細な動き。
全てをデータとして取り込み、分析する。
そして――能力の核心に触れようとした瞬間。
弾かれた。
なっ!?
私の解析が、見えない壁に阻まれる。
これは……プロテクト?
さっきはなかった。魂を解析した時には、こんな障壁は存在しなかった。
つまり――今、この瞬間に張られた。
魔王が、私のググルに気づいたのだ。
「くっく、面白い能力だな。余の魂を覗き見るとは」
魔王が嗤う。
やはり、気づかれていた。
「だが、二度目はない。貴様の目に、これ以上余の秘密を晒すつもりはないぞ」
ググルの精度を上げる。壁を突破しようと試みる。
だめ、突破できない。
それどころか、壁の向こうにさらに壁がある。
二重、三重、四重……。
数えきれないほどの防壁が、幾重にも重なっている。なんという強固なセキュリティだ。一つのプロテクトを解析するだけでも、一流の魔法士が何十、何百人と必要だろう。しかも、数百年単位で取り組んでようやく突破できるかどうか。
そんなプロテクトを、魔王は一瞬で構築した。十重、二十重……いや、もっとかもしれない。
これでは、魔王を百パーセント解析するのは不可能だ。
歯噛みする。
先ほどの魂の解析は、魔王が油断していたから成功した。もう二度目はない。魔王は私の能力を警戒している。
魔王の対応力が異常だ。一度見せた能力を即座に分析し、完璧な対策を講じる。
それが魔王の恐ろしさ。
だけど、諦めるわけにはいかない。
完全な解析ができないなら、別の方法を考える。
勝利への道筋を見つけるため、最悪分の悪い賭けに出なければならない。能力の全容がわからないなら、戦いの中で見極めるしかない。
「必死だな。とはいえ呼吸の乱れなく、動きの精彩も保っている。余の威圧にも屈しない心地よい覇気だ。素晴らしいぞ、ミレス」
私の名を!
ティレアさんの声を使って私の名を呼ぶ。
いらつく。
どこまでも私の心をかき乱す外道め!
「ミレスよ。このまま殺すにはあまりに惜しい。どうだ。余に仕えぬか?」
「本気で言ってるの?」
「あぁ、六魔将を倒す者などそうそうおらん。貴様は、人間種のせいか身体、魔力ともに貧弱ではある。だが、それを補ってあまるほどの英知と技を持っている。余の見立てでは、貴様はヒドラーとでさえ、五分に渡り合える力を持っているな」
「魔族でも名高いヒドラーと同じに見立ててくれるなんて、光栄ね」
「くっく、これも気持ちが籠っておらんな」
魔王は笑う。
どこまでも余裕たっぷりな様子だ。
「……こんな無駄な問答をいつまでやる気?」
「まぁ、怒るな。これも上に立つ者としての宿命だ。気に入った人材がいれば、収集したくなる」
「部下をボロ雑巾のように捨てたあなたが?」
「必要に迫られたからだ。別に、憎くてやったわけではない。気にいってたさ。だから、高い地位につかせてやった。奴が喜びそうな言葉もかけてやった。余は寛大な王なのだ」
魔王は、仰々しく唄うように語る。
そこに、部下を殺した負い目は欠片もない。
どこまでも自分本位なクズだ。
「そう。あまりにゲスくて反吐が出る。アンタに仕えるぐらいなら便所のネズミに仕えたほうがマシね」
「そうか。残念だ。惜しい人材だが、余に刃向かう者は、生かしておけぬ!」
絶望的な死の波動が周囲を覆う。
ビリビリとした空気の中、視界から魔王の姿が消えた。




