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第十五話 「ミレスと恩人の正体」

 ミレス・ビィンセントは考えた。


 信じられない。今でも夢かと思う。


 ギロティナと揉めた時に覚悟はした。モンテスキュー家の跡取り娘に逆らい、ティムちゃんを裏切ることを拒んだのだ。

 あの時、ギロティナは実家の借金を盾に脅してきた。「うちが出資していたよね?」「借金で首が回らないって聞いてる」——その言葉通り、融資は確実に止められるだろう。そうなれば、多額の借金を背負っているビィンセント家は破産だ。


 眠れない夜が続いた。ギロティナの脅しが頭から離れない。食事は砂を噛むようで、何を口にしても味がしない。学園では友人たちの声が遠く霞み、授業にも集中できなかった。


 家族に相談することはできない。両親に心配をかけたくない。自分の問題で家族を巻き込むわけにはいかない。一人で抱え込むしかなかった。


 悪夢が襲う。

 ギロティナの冷たい笑み、取り巻きたちの下卑た視線、そして家族の失望した顔。目覚めると冷や汗に濡れたシーツが肌にまとわりつき、現実という名の悪夢が始まる。


 鏡の中の自分は憔悴していた。頬は削げ落ち、目の下には深い隈ができている。このままでは学園生活も続けられないかもしれない。


 毎日が地獄だった。

 食事の時間も、家族と顔を合わせるのが辛い。何も知らない両親の優しい言葉が、かえって胸に刺さる。「大丈夫? 顔色が悪いわよ」という母様の心配そうな声に、涙がこぼれそうになった。


 父様は相変わらず実直で、娘のために一生懸命働いてくれている。そんな父様の姿を見ると、自分の情けなさに嫌気がさした。


 どうすればよいのかわからない。このまま手をこまねいていたら、爵位は剥奪され、学園に通うことはもちろん、食べることすらままならなくなる。最後に残るのは、貴族の誇りを捨てて身を売ることだけ。


 そこまで堕ちるくらいなら——いっそ死んだ方がましだ。そこまで思いつめていたのに。


 蓋を開けてみれば——借金が消えていた。アナスィー家という救世主が現れたのだ。


 アナスィー家の政治力が動いた。借金元との交渉、時には王家への働きかけまで。人を疑うことを知らない父様を食い物にした契約書の数々が、法廷で次々と無効判決を受ける。残った債務はアナスィー家が無担保で引き受けた。まるで悪夢を消し去るかのように。


 それだけではなかった。準男爵という中途半端な爵位が、男爵へと格上げされる。王家からの正式な勅令——父様の長年の誠実さが、ようやく正当に評価されたのだという。


 知らせを受けた瞬間、現実感が消えた。


 使者の手から受け取った羊皮紙を父様と何度も見返す。借金完済証明書、爵位昇格勅命書。どちらも王家の印章が燦然と輝いている。


 奇跡だった。地獄の底から一気に天上界へ引き上げられたような眩暈。涙が止まらなかった。ギロティナの脅しから解放され、家族に迷惑をかけることもなくなった。学園生活を続けることができる。


 家族全員で抱き合って喜んだ。


 アナスィー先輩への恩は、命をかけても返しきれない。


 それなのに、怒涛の展開の中できちんとしたお礼も言えていなかった。今度こそ、心からの感謝を伝えよう。


 アナスィー先輩は、ティムちゃんの鞄を手に右隣を歩いている。まるで専属の従士だ。王家すら動かすアナスィー家の嫡男が、庶民のティムちゃんに鞄持ちで仕えている——こんな光景を誰が信じるだろう。


 改めて見ると、異様としか言いようがない。アナスィー先輩は王国屈指の名門の後継者だ。政治力、経済力共に他を圧倒し、並の貴族なら平伏するほどの存在。


 その彼が、転入生の少女に付き従っている。


 しかもティムちゃんの歩幅に歩調を合わせ、時折振り返って様子を窺う気遣いよう。完璧に主従が逆転している。これを見た他の生徒なら、失神するかもしれない。


 アナスィー先輩の器量の大きさか、ティムちゃんの器が底知れないのか——。


 きっと両方だろう。


 意を決してアナスィー先輩に駆け寄る。今度こそ、心からの謝意を伝えなければ。


「アナスィー先輩、本当に、本当にありがとうございました」


 深々と頭を下げる。せいいっぱいの感謝の念を。


「まさかアナスィー家が借金を完済してくださるなんて。それに爵位の昇格まで……一家心中を覚悟していた身です」


 声が震える。あの地獄の記憶が胸を締め付けるが、今は感謝の想いが勝っている。


「父も母も感謝してます。私も生きる希望ができました。屋敷に光が戻り、使用人たちも帰ってきて……本当に、本当に……」


 込み上げる感情に声が詰まる。これは歓喜の涙だ。


「ミレス君、前にも言っただろ。お礼はいい。俺は大したことしていないから」


 アナスィー先輩は手をひらひらと振り、取るに足らないことのように言う。


「そんなことありません!」


 思わず声が上ずる。通りかかった生徒たちが振り返るが、知ったことか。


「先輩がどれほど骨を折ってくださったか分かっています。下手をすればアナスィー家も危険に晒されかねないのに、ビィンセント家を救ってくださった。王家への働きかけなど、どれほどの労力と政治的危険を……」


 王家を動かすことの困難さは想像に余りある。無数の根回し、綱渡りのような政治工作、利害関係者との緻密な交渉。一歩誤れば、アナスィー家自体が窮地に陥ったはずだ。


「ギロティナのような大貴族を敵に回すリスクまで……主家のエリザベス家は王家に次ぐ権勢を誇ります。そんな相手に真正面から挑んでくださって」


 涙が頬を伝う。アナスィー先輩の恩の重さが身に染みる。


「また学園に通えるなんて夢にも思いませんでした。このまま苦しみ続けるならいっそ死を選ぶつもりだったのに……こうして生きていられるなんて」


 実直な父様を擁護する者はいた。だが、ここまで身を削ってくれる人間はいなかった。誰もがエリザベス一派のような権力に逆らうことを恐れている。それは当然の処世術だ。だからこそ、アナスィー先輩の行動は奇跡の領域にある。


「ここまでしていただいて……何をお返しすればよいでしょうか?」

「ふ~何も返さなくていい」


 アナスィー先輩は面倒そうに手を振る。これ以上ティムちゃんとの時間を邪魔するなという無言の圧力が伝わってきた。


「で、でも……」

「ミレス君、しつこい。君が感激するのもわかる。だけど、俺に感謝するのは筋違いだよ。今回俺が動いたのは、ビィンセント家への義憤からじゃない」

「え……それは、どういう?」


 アナスィー先輩の言葉に困惑する。義憤でないなら——まさか見返りを期待しているのか?


「俺は慈善事業で動くほど甘い人間じゃないってことさ」


 淡々とした口調。その表情に偽りはない。照れ隠しの嘘でもなさそうだ。


 確かに血縁もないビィンセント家を支援する理由などない。冷静に考えれば、情に流されるほど貴族は単純ではないはずだ。莫大な資金を投じてまで我が家を救ったのは、なぜ?


 嫌な憶測が頭をもたげる。もしやギロティナに代わって、金銭でビィンセント家を支配するつもりか? 借金の肩代わりは、新たな従属関係の始まりかもしれない。


 それとも——肉体が目当て?


 アナスィー先輩は紳士的だが、所詮は男だ。没落貴族の娘なら、多少の無理も通ると踏んだのかもしれない。


 これまでの親切が全て計算だったとしたら……。


 ひどい。


 軽蔑の眼差しを向ける。


「あ~変なことを考えているようだけど、全然違う。俺が君たち一家を救ったのは、カミーラ様のご命令だからだ」

「えっ!?」


 思考が停止した。


 カミーラ様って——ティムちゃんが?

 まさか。


「ミレス君、カミーラ様に感謝するんだよ。カミーラ様のお言葉がなければ、ここまで手を貸すことはなかった」

「つまり、家族が救われたのはカミーラ様のおかげだと?」

「もちろん。それ以外に動く理由などない」


 アナスィー先輩は当然のように答える。その表情に一抹の迷いもない。


 いくらティムちゃんを崇拝しているとはいえ……。


 恐らく家族の救済に要した費用は数千万ゴールドに及ぶ。我が家の債務だけでもその額だ。加えて王家への工作費、ギロティナへの対抗資金……。


 伯爵家といえど、これほどの出費は痛手のはず。しかもギロティナのような権門に敵対したのだ。そのリスクは想像を絶する。一歩誤れば、アナスィー家の破滅すらありえた。


 それほどの代償を払ってまで、ティムちゃんの一声で動いたというのか?


 改めてティムちゃんを見つめる。確かに美貌の持ち主で、神秘的で、圧倒的力を持っていて、カリスマもある、でも爵位も持っていない平民のティムちゃんが?


「冗談でしょう? 本当の理由をお聞かせください」

「ミレス君、本気で俺を怒らせたいのか? 俺がカミーラ様のことで戯言を言うと思ったら、それこそ心外の極みだ!」


 アナスィー先輩の激昂が伝わってきた。普段の冷静さは影を潜め、感情を露わにして詰め寄る。その瞳には真剣な怒りが宿っている。


 これは——本物だ。心の底からティムちゃんに従っているのだ。


 それならティムちゃんとは一体何者なのか? ただの転入生でないのは明らかだ。しかし王族でも名門貴族でもないはず……。


 ティムちゃんって本当何者なんだろう?


 とにかく、本当の恩人はティムちゃんのようだ。


 ティムちゃんを見る。


 つまらなそうに歩を進める彼女にとって、この会話など取るに足らない雑音でしかないようだ。


「カミーラ様が私達一家を救ってくださったのですか?」

「うむ。ミレス、貴様は我の人形なのだ。我の許可なく学園を離れることは許さん」


 ティムちゃんは実に淡々と答える。まるで自明の理を述べるかのように。


「そ、そうですね。カミーラ様、ありがとうございます」


 混乱の渦中にいた。いつものようにティムちゃんに「人形」呼ばわりされたが、今回はその重みが違って感じられる。それでも、お礼は述べておこう。


 ティムちゃんの一声で、アナスィー先輩が数千万ゴールドを投じたのだから。


 ティムちゃんは、アナスィー先輩の献身的な奉仕を当然の権利として受け入れている。自分の言葉一つで名門の家財が動くのは自然なことだと言わんばかりに。そこに遠慮の欠片もない。


 庶民が伯爵家を意のままに操る——そんなことが現実に起こりえるのか?


 ただティムちゃんを見ていると、それが真実なのかもしれないと思えてくる。彼女には常人とは異なる、得体の知れない何かがある。


 はあ……ティムちゃんの転入以来、世界の理が次々と覆されていく。


「では、家の爵位昇格もカミーラ様のご意向で?」

「うむ。準男爵だったか? 語呂が悪いので『準』を除いた。人間の爵位など些事だが、我の人形の名前だ。語呂の悪さは不愉快だからな」


 絶句した。


 父様の人格が評価されて昇格したのではなかったのか?

 語呂が悪い——ティムちゃんの美意識が最優先?


 王家の公式発表は「長年の誠実な行いが認められた」だったが、実際はティムちゃんの気まぐれだったらしい。


「さすがに冗談だよね?」

「冗談ではないぞ。我は男爵の響きを気に入っている。ミレス・ビィンセント男爵——良いではないか。ゆえにこれで決定だ」


 ティムちゃんは堂々と宣言する。爵位決定は王家の大権のはずなのに、まるで自分が裁定したかのような口調だ。


「はっ。全てはカミーラ様のご意思のままに」


 アナスィー先輩がティムちゃんの言葉に平伏する。その姿は完全に忠実な家臣そのものだ。


 本来、爵位は王家が功績ある者に——もはやどうでもいい。これまで悩んでいたことが馬鹿馬鹿しくなってくる。


 この世界には、知らざる法則が支配しているらしい。


「ところでアナスィー、貴様の家は伯爵だったな?」


 ティムちゃんが唐突にアナスィー先輩に視線を向ける。


「はい。お望みとあらば男爵への降格も辞しません」


 アナスィー先輩は即答する。その表情に一瞬の躊躇もない。


 待って。降格とは? 伯爵から男爵への格下げなど、家門の没落を意味するというのに。


「うむ、そうしろ。アナスィー男爵——良い響きではないか。伯爵より遥かに好ましい」

「謹んでお受けいたします」


 アナスィー先輩は歓喜に満ちた表情で頭を下げる。まるで栄誉を賜ったかのような喜びようだ。


「ちょっと待ってください、先輩! 降格だなんて……」


 慌てて制止しようとする。いくら何でも、これは常軌を逸している。


「ミレス君、俺は本気だよ。降格するだけでカミーラ様からの覚えが良くなる。親を殺してでも実行するよ」


 アナスィー先輩……。


 その瞳には本気の決意が宿っていた。狂信にも似た忠誠の炎が燃え盛っている。悪女に貢ぐ哀れな男どころの話ではない。

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