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第十四話 「暗殺者リュコーの受難(後編)」

 国家連合が血の代償を持って指定した立入禁止地域サントゥアリオ。この封印の地には、古の時代より人類を脅かし続けた無数の厄災が、永劫の眠りについている。


 その奥底に封じられた最凶の災厄生物こそが、災厄蟹(カンセール)だ。


 一見すれば、ただの甲殻類に過ぎない。されど、その本性は「凶暴」という概念そのものを体現した殺戮の化身だった。鋼鉄など紙屑同然に切り裂く鋏は、かつて当代の勇者が身に纏っていたオリハルコンの鎧さえも、まるで薄布を裂くかのごとく貫通したと伝えられている。


 またその装甲も鉄壁の名に恥じぬ堅牢さを誇った。いかなる名剣も歯が立たず、伝説の大聖剣ですら刃こぼれを起こして朽ち果てたという。


 さらに恐るべきは、あらゆる魔法属性への完全耐性。火、水、木、土、風、雷、光——古今東西の術者が編み出した全ての魔法を無効化する。当時最大の炎術士と謳われたマルテが、命を削って放った最大火炎呪文(テラファイヤ)すら、カンセールの前では微風に等しかった。


 まさに歩く災厄。


 たった二匹の番が世界を恐怖の淵に突き落とし、人類存亡の危機を招いたのである。


 数多の英雄が挑み、そして散っていった。国家連合が総力を結集してようやく弱体化させ得たその時、不世出の聖者たる大僧正マルクスが己の命と引き換えに究極の封印術を発動。かくして災厄蟹(カンセール)は、永遠の封印の檻に囚われることとなったのだ。


 その正体については諸説紛々としている。


 魔界からの迷い子説、戦場の怨念が蟹の魔獣に憑依した突然変異説——真相は今なお謎に包まれている。しかし確実に言えることは、たかだか四十センチ程度の小さな身体に、世界を滅ぼし得る力が宿っているという事実だ。


 それ故にサントゥアリオには、各国の精鋭部隊が不眠不休の警戒を続けている。二度と災厄を解き放ってはならぬと、血と汗で築いた監視体制を維持し続けているのだ。


 ところが——長い年月は、いかなる組織をも腐敗させる。最重要機密を扱うサントゥアリオといえども、その例外ではなかった。


 俺には、世界災厄警備隊の隊長の一人を手駒として囲っている。金の力で魂を売り渡した、使い勝手の良い駒だ。


 いつものように、その男を呼び出した。


「へっへっへ、ヤナの旦那には本当にお世話になってます。いつも美味しい思いをさせてもらって、感謝の言葉もございません」


 聞くだけで吐き気を催す、卑屈な媚声である。


 博打の沼に嵌まり込み、首が回らぬほどの借金を背負った哀れな男。俺は金という鎖でこの愚物を縛り上げ、意のままに操り続けている。


 今回の要求は、とある好事家が災厄蟹(カンセール)を一目見たがっているというもの。封印された箱ごと、しばらく貸し出してもらいたいと持ちかけた。


 常識的に考えれば、狂気の沙汰である。世界を震撼させた伝説の災厄生物——それを持ち出すなど、死罪どころの騒ぎではない。そんな相談を口にしただけで、即座に捕縛され、問答無用で処刑台送りとなるだろう。


 ところが、この男の脳髄には金貨の輝きしか宿っていない。国家の安危も、職務の神聖さも、とうの昔に博打場の賭け金として溶かし尽くしている。

 嘆かわしいことに、人類最後の砦とも言うべき最重要警備区域に、このような腐敗した輩が少なからず巣食っているのが現実だった。


 もはや救いようがない。


 まあ、そんなことはどうでもいいがな。


 俺にとって重要なのは、あの忌々しい金髪の小娘——ターゲットの命を絶つことのみ。国家が滅びようと、世界が破滅しようと、知ったことではない。

 暗殺者リュコーとしての誇りは地に堕ち、無残に踏み躙られた。


 この屈辱を雪がずして、何が暗殺者か!


 腐敗した駒から災厄蟹(カンセール)の封印箱を受け取る。


 表面には古代文字が刻まれ、幾重にも術式が張り巡らされていた。悠久の時を経てなお力を失わぬその封印術——流石は史上最高の術者と謳われた大僧正マルクスの手になるものだ。


 けれども——耳を澄ませば、微かに異様な音が聞こえてくる。


 ミシリ、ミシリと。


 まるで何かが内側から圧迫しているような、不吉な軋み音。


 いる。確実にいる。


 鉄壁の結界に守られているはずなのに、災厄蟹(カンセール)の禍々しい気配が漏れ出している。


 そういうことか——全てが理解できた。


 この封印、外観こそ威容を保っているが、内部は相当に劣化している。長い年月をかけて、封じられた災厄が執拗に圧力をかけ続けていたのだろう。滴る水が岩をも穿つように、確実に、着実に封印を蝕み続けていたのだ。


 もはや古の時代の強固さは失われている。封印は既に瀕死の状態——崩壊の時を待つのみだった。


「ヤナの旦那、どうかなさいましたか?」


 俺の沈黙を不審に思ったのか、男が媚びるような声で問いかけてくる。


「……何でもない」

「へっへ、それにしても信じられませんよ。こんな見すぼらしい箱に、あの災厄蟹(カンセール)が封じられているなんて。もちろん、これは正真正銘の本物ですからね」

「見れば分かる」

「そうですか。それにしても好事家というのは奇特な方々ですねぇ。こんなものを拝むために大金を積むんでしょう? 俺にはとても理解できません」


 この愚物は、事の深刻さを微塵も理解していない。


 確かに表面上は、封印術が正常に機能しているように見える。俺でさえ一瞬は欺かれかけた。だが、真に術に通じた者が注意深く観察すれば、この結界の脆弱性は明白だ。


 それにしても、この男以外にも気づいた者はいなかったのか。この組織の無能さには呆れるばかりだ。


「ところで、代替品の準備はできているのだろうな?」

「もちろんです。紛失などしようものなら、この首が飛んでしまいますよ。完璧な偽物を用意して置き換えました。誰にも気づかれません」

「間違いないな?」

「はい。ただ、ヤナの旦那……好事家の方々の鑑賞が終わりましたら、必ず返してくださいね」

「……返却は必須か?」

「ヤ、ヤナの旦那、どうかご勘弁を! さすがにSSランク危険種ですよ。いつまでも偽物で誤魔化せませんぜ。それに万が一、封印が破れるようなことがあれば……」


 愚かな心配をしているものだ。

 俺はまさに、その封印を破ることを目論んでいる張本人だというのに。


 まあいい。主人として、この哀れな駒に最後の安息を与えてやろう。


「分かった。用が済んだら返却する」


 俺の言葉に、男の顔がほころんだ。

 そして安堵すると途端に欲が顔を出すのか、受け取った金貨を愛おしそうに懐に仕舞い込む。そのまま賭場へと向かい、酒と博打に溺れるのだろう。


 卑小な悪党よ——束の間の平穏を存分に味わうがいい。



 数日後——


「この度は、誠に申し訳ございませんでした!」


 万全の準備を整えた俺は、金髪娘の前に現れるや否や、深々と頭を下げた。


「ヤナさん、そんなに改まって……一体全体なんで謝ってるの?」

「先日の洞窟の件です。私の不手際で、ティレアさんにご迷惑をおかけしてしまいました」

「えっ!? ヤナさん、私は別に怪我なんてしてないよ。何度も言ったでしょう? あの時は突然の静電気に驚いただけで、ヤナさんのせいじゃないって。むしろ珍しい薬草の群生地を教えてくれて、感謝しているくらいなのに」


 この女は、俺が心血を注いで設置した電撃罠(サンダートラップ)を、未だに「静電気」だと言い張っている。


 虫唾が走るが、ここは堪えるのだ。


 俺はこの謝罪を口実に、あの災厄の化け物を押し付けねばならない。何としても受け取らせる必要がある。


 この女の戯言に調子を合わせるしかあるまい。


「いえ、バチバチ洞窟は元来、静電気が蓄積しやすい特殊な地形でして……その説明を怠った私の落ち度です。つきましては、心ばかりの詫び品を用意いたしました」


 恭しく頭を下げ、災厄蟹(カンセール)の封印箱を差し出す。


「そんな、大げさすぎるよ。律儀すぎるというか……私は怪我もしていないのに。いくらなんでもヤナさんに悪いよ」

「いえいえいえ、何がなんでも受け取ってもらわないと困ります。あの一件以来、夜も眠れぬほど心を痛めておりました」


 箱を金髪娘の手元へと押し付ける。


 夜も眠れなかったのは確かだ——ただし、屈辱に歯軋りしていただけだが。今度こそ貴様を地獄に送ってやる、最強の暗殺者リュコーの名にかけて!


「う~ん、そこまで気にしなくても……でも、受け取らないとヤナさんが気にして睡眠不足になっちゃうのよね?」

「はい、もうずっと気にかけて気にかけて……受け取ってもらえないなら何日でも居座る覚悟です」

「そ、そっか。そこまで言うなら……遠慮する方がかえって迷惑よね。うん、わかった。ありがたく受け取るよ」


 金髪娘は困惑の表情を浮かべながらも、ついに箱を受け取った。


 勝利だ——ついに、あの忌々しい女に死の贈り物を手渡すことができた。


 いかに規格外の力を持つこの女とて、歴史に刻まれた真の災厄には敵うまい。しかも、封じられているのは二匹だけではない。禍々しい気配から察するに、災厄蟹(カンセール)は封印の中で着実に数を増やしている。


 かつて、たった一つがいが一国を滅ぼした。今や数十匹へと増殖した化け物の群れ——いかなる英傑といえど、これに立ち向かうのは不可能だろう。


 金髪娘は何の警戒心も示さず、その忌まわしい箱を開けようとしている。


 朽ちかけているとはいえ、大僧正マルクスが命を賭して施した封印だ。本来なら容易に開くものではないのだが……


 まあ、この化け物じみた女なら、やってのけるだろう。


「ヤナさん、随分と古めかしい箱ね。これって何? なんか箱の蓋が開かないんだけど……」

「申し訳ございません。年代物の骨董品でして、金具が経年劣化で歪んでいるのかもしれません」

「そうなんだ。どうしよう? 開かないぞ」

「いえ、所詮は木箱に過ぎません。どうぞ、力任せにひき破ってください」

「本当にいいの?」

「ええ、お気になさらず」

「それじゃあ——えい!」


 贈り物への気遣いから手加減していたのだろうが、金髪娘が本気で力を込めた瞬間、封印の箱はあっけなく開かれた。


 もはや驚きもしない。大僧正マルクスが生命を代償に編み上げた結界を、これほど軽々と破り去るとは……。


 そして——解き放たれた箱から、濃密な殺意が奔流となって溢れ出した。


 圧倒的だ。


 先ほどまで微かに漏れ出ていたものなど、真の力のほんの片鱗に過ぎなかったようだ。


 純粋なる混沌。原始の悪意。


 息が詰まる。


 長年、死線を潜り抜けてきた暗殺者の俺が、その場に立っているのがやっとだ。


 何という殺気——人類への果てしない怨嗟が、数百年の封印に圧縮され、今まさに解き放たれたのだ。凄まじい瘴気が空気を震わせ、現実そのものを歪めている。


 意識が遠のきそうになる。


 だが、耐えろ!


 俺はこの瞬間のために、すべてを賭けてきたのだ。忌々しい金髪娘の絶望に歪む顔を、断末魔の叫びを——この目で見届けるまでは、決して倒れるわけにはいかない。


「あれ? なんか中でごそごそ動いているねぇ。なんだろう?」

「それは料理人のティレアさんにお喜びいただけるかと思いまして」

「本当! 嬉しいなあ。動いているということは、新鮮な食材なのね」


 金髪娘は無邪気な期待を込めて、死の箱を覗き込んだ。


 そして——


「あ、蟹だぁああ! これはタラバガニ? でも鋏の形が少し違うわね。もしかしてシャンハイガニ? いや、それにしては随分と大きいし……こんな種類、見たことがないよ。ねえヤナさん、これなんて蟹?」

「さすがはティレアさん、お目が高い。これは極めて稀少な新種です。歴史上類を見ない、人類が驚愕する蟹とでも申しましょうか」

「すごいじゃない! そんな貴重なものを、ありがとう」

「恐れ入ります」

「それじゃあ、早速調理してみるね」


 そう言って金髪娘が、災厄の蟹に手を出す。


 災厄の蟹は、容赦なくその近づいてきた手に、その凶悪なはさみをぶつける。


 まずはその指、切り刻まれるがよい!


 くっくっくっく、あっははははははは……ま、まじで?


 金髪娘は、災厄蟹(カンセール)のはさみで指を挟まれながらも平然としている。それどころか「うん、活きがいいねぇ~」とにこやかな始末である。


 そ、そんなことがありえるのか? さ、災厄の化け物だぞ?


 人類を恐怖に陥れて何百年も語り継がれている。その凶悪な鋏で鋼鉄の鎧ごと切り刻んだという。その餌食になった者は、数知れない。「大食」の異名で恐れられ、当代最強の戦士たちすら一瞬で肉片に変えた魔物。城壁をも噛み砕いたという、その破壊力は伝説となっている。


 まさか偽物か? 伝承が大げさな作り話だったのか?


 いや、違う。今この瞬間も漂っている、この圧倒的な殺気が物語っている。これは紛れもなく本物だ。国を滅ぼしうる災厄——Sランクの冒険者が最高級の装備を身に纏おうとも、瞬時に肉塊と化すであろう絶対的な脅威。


 それなのに、なぜ——


「いや~本当にありがとうね。こんなに新鮮で活きのいい蟹は初めてよ。ほら、私の指をこんなにぎゅっと挟んで。身がしっかり詰まっていそうね」

「あ、あの……痛くはございませんか?」

「え?」

「ですから痛くはないのかと?」

「そうねぇ~痛いくらいに挟んでいるよ。ヤナさんもちょっと待っててね。今日は美味しいカニ料理をご馳走するから、楽しみにしていてね」


 金髪娘は何事もないかのように、次々と蟹を箱から取り出していく。


 一方の俺は、解き放たれた災厄蟹たちの濃密な殺気に押し潰されそうになりながら、この異常な光景を呆然と見つめるしかなかった。


 さらには——


「素手だとぉおおおお!!」


 し、信じられるか?


 金髪娘は、災厄蟹(カンセール)の甲羅を素手で割っているのだ。伝説の武器の攻撃でもものともしなかった災厄蟹(カンセール)の甲羅を、まるで卵の殻でも剥くかのように。


「そ、そんなに驚かなくても。確かに素手で行儀が悪いように見えるけど、ちゃんとした料理工程の一つだから。これでも私はプロの料理人よ。任せて」


 相変わらず、ずれた会話をしている。


 もはや、この金髪娘の規格外ぶりに何度驚けばいいのか分からない。


 俺が口を開けたまま呆然としていると、店内に一人の男が現れた。男は金髪娘を見るや否や、深々と頭を下げる。この店の従業員——金髪娘の部下らしい。


 と、とにかく冷静になれ。


 深く息を吐く。


 よし——金髪娘の暗殺は、完全に諦めた。


 そうだ、あれは人間が相手にしていい存在ではない。この金髪娘こそが、真の災厄なのだ。

 天下の暗殺者リュコーにとって、生涯初の完全敗北。屈辱に歯軋りしたくなるが、事実は受け入れねばならない。


 だが、せめて——せめて金髪娘の周囲の者たちが災厄に襲われる様を見届けてやろう。それが俺にできる唯一の復讐だ。


 幸い、まだ処理されていない災厄蟹(カンセール)は数多く残っている。


 金髪娘は調理の手を動かしながら、現れた男と何気ない世間話を交わしていた。


 贈り物をもらったという話。

 中身が珍しい蟹だったこと。

 その蟹を今、調理しているということ——

 危機感のかけらもない。


 男はオルティッシオという名らしい。このオルティッシオも全く警戒していない。空気を震わせるほどの濃密な殺気に包まれているというのに、まるで平和な午後のティータイムでも楽しんでいるかのようだ。


 そして——運命の瞬間が訪れる。


「ほらオル、蟹よ~」


 金髪娘が何気なく調理台から災厄蟹(カンセール)を取り上げ、オルティッシオの目の前に差し出した。


「ほぉ~これは懐かしい瘴気を——ぐはぁああ!」

「おぁあああ! オル、しっかりして!」


 オルティッシオの絶叫が店内に響き渡る。続いて金髪娘の慌てふためく声。


 そうだ——これでこそ正常な反応!

 金髪娘があまりに規格外すぎて、すっかり忘れていた。災厄の化け物とはこういうものなのだ。人を恐怖に陥れ、絶望させる——それが当たり前の反応なのだ。


 さあ来い、阿鼻叫喚の地獄絵図よ!

 俺は固唾を呑んで、惨劇の展開を見守った。


 ……

 …………

 ………………


「大変~血が出てるじゃない。蟹め、オルを離しなさい!」

「ふ、ふんがー! 鼻が、鼻がぁああ!」


 聞こえてきた会話に、俺は耳を疑った。


 ……それだけか?


 災厄蟹(カンセール)は確かにオルティッシオの鼻を挟んでいる。多少の出血もある。叫び声も上がっている。


 間違いなく災厄蟹(カンセール)が引き起こした被害だ。

 しかし——たったそれだけ。


「あ~もうなんて赤ちゃん肌なのよ。早く回復魔法を――ってティムはいないか。誰か絆創膏を持ってきて!」


 金髪娘が災厄蟹(カンセール)を引き剥がし、オルティッシオには「ばんどえいど」なる簡易包帯を貼って一件落着。


 国を滅ぼした化け物だぞ——鼻血程度で終わりかよ!


 こいつらは一体何者なのだ……?


 何もかもが理解を超越している。呆然とする俺の視界に、ふと異常な光景が飛び込んできた。


 ん? 箱が倒れている!?


 まずい——全部逃げ出したのか?


 先ほどの騒動で箱が横倒しになったらしい。蓋は完全に開き、中に封じられていた災厄蟹(カンセール)が一匹残らず解き放たれていた。


 数十匹の殺意の化身が、店内を埋め尽くしている。


「うわあああ、全部出ているぞぉお!!」


 思わず絶叫してしまった。


 災厄蟹(カンセール)——完全解放。


 自らの手で仕掛けた計画だというのに、この瞬間になって恐怖に支配されていた。数十匹が放つ圧倒的な殺気の前で、全身の震えが止まらない。


「本当だ。まずい。みんな逃げちゃうよ。みんな蟹を捕まえるのよ!」

「「はっ!」」


 金髪娘の一声で、どこに潜んでいたのか、複数の男たちが店内に雪崩れ込んできた。そして躊躇なく災厄蟹(カンセール)の捕獲に取りかかる。


「うお、この蟹、馬鹿力だな」

「しかもやたら素早い」

「いてて! 攻撃的すぎるだろ。このド畜生、挟んだら離しやがらない」

「こうなったら魔弾で——」

「待て! ティレア様は生け捕りにしろと仰せだ。攻撃魔法は禁止だ」

「ちくしょう、生け捕りは面倒だな。いてて、だから挟むなって!」


 男たちの怒声と悲鳴が入り乱れ、店内は戦場と化した。災厄蟹(カンセール)を相手に、全員が右往左往している。


 阿鼻叫喚、混乱、恐怖——確かに俺が望んだ光景ではある。


 いや、違う。何かが根本的に間違っている。

 こんなはずじゃない。こんなはずじゃないんだ。


 おかしいだろう?


 何度でも言うが、これは国落としの化け物なんだぞ!


 暗殺者としての根幹が揺らぎ始めた、その時——


超魔爆炎撃ボンバファイヤー!」


 凄まじい闘気が空間を震わせた。


 反射的にその方向を見やると、老紳士風の男が災厄蟹(カンセール)に拳を叩き込んでいる。


 何!? 粉々に砕け散っている!?


 老紳士の一撃により、災厄蟹(カンセール)は文字通り粉塵と化していた。


 ああ、ああ……


 オリハルコンの剣をもってしても傷一つつけられない伝説の化け物だぞ。この目で見たからこそ分かる——あれを破壊するなど、絶対に不可能な筈だった。長年、死線を潜り抜けてきた暗殺者としての経験が、そう断言していた。


 それなのに、一体何なんだ!


 あの鉄壁の甲羅を、こうも容易く粉砕できるものなのか?


 しかも、規格外の力を持つ金髪娘の仕業ではない。また別の人間だ。


 俺はニールゼンと呼ばれたその男を、恐怖に凍りついた眼で見つめていた。

 ニールゼンは悠然と俺の前に歩み寄ると——


「貴様、このような物騒な代物を持ち込んで、一体何を企んでいる?」


 粉々に砕けた災厄蟹(カンセール)の残骸を突きつけ、冷然と尋問してきた。


 まずい。この男は金髪娘やオルティッシオとは格が違う。災厄蟹(カンセール)を贈った真の意図を完全に看破している。


 と、とにかく白を切るしかない。ここで正面衝突を選ぶのは自殺行為だ。何としても言葉で切り抜ける。


「え、えーと……どういう意味でございましょうか?」

「とぼけるな。下手な芝居をしおって、このニールゼンを欺けると思うな」

「で、ですから、何のことやら……」

「最後に聞く。次に虚言を吐けば首を刎ねる。主君に仇なす輩に慈悲はない!」


 ニールゼンは近くにいた別の災厄蟹(カンセール)にも拳を振るい、再び粉砕した。


 偶然ではない——確実に二度目の破壊。

 何という破壊力……


 ニールゼンから放たれる圧倒的な殺気に、全身が竦み上がる。その眼光には、中途半端な答えなど一切受け付けない、鋼鉄の意志が宿っていた。


 どうする?


 もはや口先だけで誤魔化すのは限界だ。俺の正体を見抜いているのは、恐らくこの男だけ。


 不意を突いて逃走するか? いや、そんな隙は微塵もない。


 この男を倒せる算段が立たない。近接戦闘には自信があるというのに、一方的に叩きのめされるビジョンしか浮かばない。あらゆる攻撃パターンをシミュレートしても、すべて完封されてしまう。


 絶体絶命——もうだめだ。


 そんな絶望の淵に立たされた時——


「このバカちんが! 何してくれてんのよ。食べ物を粗末にするんじゃない!」

「ほげぇええ!」


 金髪娘が、あの完璧超人ニールゼンに躊躇なく飛び蹴りを見舞った。

 俺にはとても太刀打ちできないと思われたニールゼンが、呆気なく地面に這いつくばっている。


「ヤナさん、ごめんなさいね。騒がしい奴らでしょ。本当に手のかかる連中で困っちゃうのよ」

「は、はは……あはははは……」


 もはや笑うしかなかった。


 ここは一体何なんだ?

 俺は何を見せられているんだ?


「あ~引いちゃってるね。うんうん、本当に呆れたと思う。でも根は良い子たちなのよ。というかせっかくの贈り物をごめんなさいね。すぐに捕まえるから」


 金髪娘は、まるで庭先でバッタでも捕まえるかのように、ひょいひょいと災厄蟹(カンセール)を拾い上げていく。


「ティレア様、蟹の捕獲でしたら我々が——」

「いい。君達はバンドエイドでも貼ってなさい。蟹に挟まれて体中擦り傷だらけじゃない」

「いえ、この程度の傷が何ほどのものでしょう。すぐにでも小ざかしい蟹共を粉砕してご覧に入れます」

「だから粉砕するなっての!」

「そ、そうでした。それでは、生け捕りをするため陣形を整え迎撃します」

「はぁ~もういいから。あなた達に任せてたら蟹に逃げられちゃうでしょうが。まったく困ったものね」


 金髪娘は逃げ回る災厄蟹(カンセール)に狙いを定めた。


 災厄蟹(カンセール)たちは金髪娘を見て、明らかに怯えている。


 当然だろう。野生の本能が、真の脅威を察知しているのだ。


「あ、待ちなさい!」


 金髪娘が災厄蟹(カンセール)を追おうとした瞬間、逃げ惑っていた蟹たちが突然動きを止め、宙に浮き上がった。


「お姉様、捕獲完了です」


 新たに現れたのは、もう一人のターゲット——銀髪娘だった。


 学園から帰宅したらしい。銀髪娘は念動力のような魔法を駆使し、次々と災厄蟹(カンセール)を空中に固定していく。

 本来、災厄蟹(カンセール)には一切の魔法が通用しないはずなのだが……もはや何も言うまい。


「さすがティム! 魔法が上手ね。流石は魔法学園の優等生よ」

「お姉様、なかなか興味深い食材ですね」


 銀髪娘は穏やかな笑顔で金髪娘に挨拶を交わす。この銀髪娘もまた、災厄蟹(カンセール)を当然のように「食材」として扱っていた。


 規格外の化け物は、貴様もか……


 この姉妹の底知れぬ恐ろしさよ。こんな化け物姉妹の暗殺を、たった二億ゴールドで引き受けた自分の愚かさが憎い。


 冗談ではない。割に合わないなどというレベルを遥かに超越している!


 俺が後悔の念に苛まれていると——


「ほう? 貴様はあの時の……そうか、そうか。貴様が持ち込んだのか。お姉様を喜ばせるとは、褒めて使わそう」


 銀髪娘が俺の存在に気づき、声をかけてきた。


 何!? 俺を知っているだと!?


 まさか——気づかれていたのか!


 確かに潜行中、何者かに見られているような気配は感じていた。だが、顔を見られた覚えはないはず。


「ふふ。なぜ気づいたのか、という顔をしているな」


 銀髪娘はにやりと微笑み、サディスティックな表情を浮かべる。


 恐ろしい女だ……

 俺の心の内を読み取ったのか?


 俺の潜行術に隙はなかった。失態を犯した記憶もない。


 一体なぜ気づいたのだ?


「う、なぜ……?」

「我から言わせれば、なぜ気づかれないと思ったのか分からぬな。あれほど稚拙な潜行術で」

「ち、稚拙だと?」

「そうだ、稚拙だ。だがな——一生懸命に頑張る貴様が面白くてな。つい泳がせていたのだ。我の判断は正しかった。何しろお姉様を喜ばせたのだからな。誇るがよい」


 なんという言い草か。

 天下に名を轟かせた暗殺者、天才のリュコーを完全に見下している。

 これほどまでに侮辱されて、普通なら激怒するところだ。

 それなのに——怒りが湧かない。報復する気も起きない。プライドを踏み躙られても、それを当然と受け入れている自分がいる。


 俺は……俺は一体どうしてしまったのだ……


 暗殺者リュコーの手にかかれば、不可能な依頼など存在しない。確実に標的を仕留め、必ず任務を完遂する。

 殺せぬ相手など、この世にいるはずがない。

 そんな俺が——これは夢なのか? 現実なのか幻なのか?


 そうして呆然としている間にも、災厄蟹(カンセール)たちは次々と金髪娘によって調理されていく。素手で甲羅を砕かれ、包丁を入れられ——もはや完全にただの食材だった。


「あれ? なかなか焼けないわね」


 今度は災厄蟹(カンセール)を鍋で煮込んでいるようだ。災厄蟹(カンセール)はあらゆる魔法属性に完全耐性を持つ。並大抵の火力では、その身を焼くことなど不可能な筈だ。


 厨房を見ると、暖炉ではない奇妙な装置がある。スイッチを捻ると炎が発生する仕組みらしい。

 どこかで術者が火炎魔法を発動し、そのエネルギーを厨房に送っているのか。魔法大国ゼノアを彷彿させる高度な魔導技術だ。


 だが、術者の腕は並程度のようだ。あの火力では何時間燃やそうと無駄だろう。


「おかしいなあ。もう少し強火にしてみるか。ねぇ~オル、バイトの子に火力を上げるように言ってみて」

「御意」


 オルティッシオが店外へと向かう。


 そして——


「この奴隷共がぁああ! さっさと魔力を上げろ。全力で魔力を出せ。枯渇するまで絞り出すのだ!」


 聞こえてくる怒号。やはり魔法奴隷を使ったシステムか。


 たかが料理のために、貴重な魔導士を消耗品として扱っている。何という贅沢——いや、狂気だ。


 結論が出た。ここは料理店ではない。一個の国家だ。それも最強戦力を有する国家。個人経営の店などと侮っていたら、命を落とすところだった。


 こうなると雇い主のエリザベスにも腹が立つ。


「古武術を少しかじった料理人の娘」だと?


 冗談ではない。相応の賠償金を要求してやる。


 しばらくすると、厨房の火力が上がった。オルティッシオのハッパが効いたらしい。先ほどよりも威力のある火炎魔法が窺える。


「おぉ、火力が上がった! これなら――って消えちゃった。オル~なんか火が消えたんだけど……」

「も、申し訳ございません。すぐに火をつけます」


 オルティッシオが、金髪娘の言葉を受けて再び店内を出る。


 そして……。


「貴様らぁああ! 何をさぼっておるか! 気合が足らんようだな。待っておれ。すぐに鉄拳で気合を入れてやる!」


 オルティッシオの馬鹿でかい声が響く。


 いや、もう限界だろうに……。


「オル、そんな言い方するんじゃないの!」

「し、しかし……」

「いいからバイト君疲れているんでしょ。もういい、バイト君は休ませといて。私が自分でやるから」


 そう言うと、金髪娘は自ら火炎を生成し始めた。


 な——なんという火力!


 焼けている。それも芳醇な香りまで漂ってくる!


「ふんふん♪」


 鼻歌交じりで調理を続ける金髪娘。あれほどの高位火炎魔法を、まるで蛇口を捻るかのように軽々と発動している。


 ギガクラス? いや、テラクラス?


 いや、それすら超越した——人類が到達し得ない領域の魔法を目撃している。

 そして周囲の男たちは、この異常事態を当然のように眺めている

 。

 化け物だ。俺は化け物の巣窟に迷い込んだのだ。

 とうに気づいていたというのに、変なプライドを優先したばかりに、取り返しのつかない事態を招くところだった。


 こいつらを暗殺?


 寝言は寝て言え!

 ありえるか、そんなこと!


 逃げたい——今すぐにでも逃げ出したい。プライドなど、もはやどうでもいい。


「あの、それでは失礼を——」

「あ、ヤナさん待って! もうすぐ出来上がるから、せっかくだから召し上がってよ」

「そ、そうしたいのですが——」

「貴様! ティレア様のお言葉に背くつもりか!」


 オルティッシオの一喝と、他の男たちからの無言の圧力。


 化け物姉妹やニールゼンが規格外すぎて目立たないが、この連中も全員、常識を超越している。まさに災厄蟹(カンセール)のバーゲンセール状態だ。


 こんな化け物パークで、俺ごときが意志を貫けるわけがない。


「い、いえ……ありがたくいただきます」


 完全に屈服し、流れに身を任せた。


 ——それから災厄蟹(カンセール)を御馳走になり、その場を後にした。金髪娘の言う通り、ぷりぷりで絶品だった。


 もう暗殺稼業は引退しよう。


 どうせ世界は終わりだ。災厄蟹(カンセール)など比較にならない、真の災厄がすでに解き放たれているのだから。


 終末の余生を楽しむとしよう。


 ただし、この依頼で電撃罠と火薬罠を失った。大赤字だ。


 このツケは雇い主エリザベスに払わせる。精神的苦痛も含めて、たっぷりと請求してやろう。

 まあ、でも依頼は失敗したのだ——ここは慈悲でその請求額も五割引きにしてやるか。それでも破産するだろうが、知ったことではない。

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