第九話 「オルティッシオの奮闘(前編)」
せ、背中を流れる冷や汗が止まらない。
体中の水分がすべて出尽くすのではないか。それほどの滝のような汗が流れている。
ここは、とある建設現場……。
冒険者ギルドの人間とその雇い主の人間に連れ立ってきてみれば、そこには輝くばかりの銀髪をした美しい女王がいらっしゃった。
そう、我が敬愛する主人カミーラ様である。
ギルドに潜入して、生意気な小娘を制裁するという依頼を受けた。
依頼の中身を開いてみれば、そこにはカミーラ様がいましたと……。
カミーラ様は学園に潜入されておられる。私は冒険者ギルドに潜入した。そこでたまたま交差しただけの話である。こういう任務のかち合いはよくあること。この場合は、お互い知らぬ振りをしてやり過ごすのがセオリーだ。
ゆえに、カミーラ様は私を知らない振りをされておられる。それだけだ。決してこいつらと同じように私を敵と見なしているわけでない、そのはずだ!
そのはずなのに……なぜかカミーラ様はじっと私を見つめている。
そして、普段あまり表情を変えないカミーラ様が大笑いしておられるのだ。
「くっくっくっ、くっあっははははは! すごい、すごいぞ。エリザベスと言ったな。正直、貴様を舐めていた。まさかここまでの刺客を用意してくるとは思わなんだ」
「ふん、そうやって余裕でいられるのもここまでですわ。こいつらは無法集団。あなたすごく苦しんで死ぬことになりますの」
「くふふ、そうか。無法集団か。はみ出し者のこいつにふさわしい名だな。確かにこいつ相手では片手間というわけにはいくまい。我も本気を出そう」
カミーラ様はなぜか私を睨みながらお話になる。
こ、こいつって私じゃないですよね?
おそらく人間の中でもまだマシな戦闘力の奴を指しておられるのだ。
わ、私ではない。私ではないのだ。
「ふふ、生意気なあなたが絶望に染まる顔を早く見たいですわ。皆が皆、危険でダーティー。特に、こいつの危険さは別格よ」
そう言って雇い主の人間までもが私を指さして愉悦する。
なんて恐ろしい真似をしやがる!
このクソ女を先に始末するか!
いや、だめだ。この女を殺せばランク昇格の話がおじゃんになるだけではない。冒険者の資格も剥奪される。
ここは冷静になれ。
そう、この場合、私はカミーラ様の邪魔をしないようにそっと戦線離脱をすればいい。この任務は失敗になるが、別な任務でランクを上げればいいのだ。
カミーラ様の人間退治を邪魔するわけには――って念入りに柔軟体操をしておられる!?
カミーラ様は手足をゆったりと伸ばし、背筋を美しいアーチを描くように反らしておられる。通称、「すとれっち」というものだ。
ど、どういうことだ?
この程度の人間相手にやりすぎではないだろうか?
い、いや、違う。これには深い理由があるのだ。
柔軟体操はティレア様推奨の体操だ。何をするにしても怪我をしないように柔軟体操が必須だとおっしゃった。あの程度の人間でも、万が一――いや億が一――いやいや兆が一、カミーラ様が怪我をしないとは限らないからな。
そう、これは用心深さの表れなのだ。カミーラ様ほどの実力者でも、慢心することなく完璧な準備を怠らない。
さすがはカミーラ様だ。
血の気が引く予感を振り払おうと必死に自分を納得させていた。
うぅ、カミーラ様の準備運動は続く。
流れるような動作で肩を回し、関節という関節をほぐしておられる。足首も円を描くように回している。その所作一つ一つが、まさに戦闘前の儀式のような荘厳さを帯びていた。
や、やっぱりおかしい。いくらなんでもこの程度の人間相手に、ここまで念入りに身体をほぐす必要があるのだろうか?
背筋に悪寒が走る。
――ってじゅうどうの型まで練習されてる!?
カミーラ様は重心を低く落とし、仮想の相手を想定して肩越しに投げる動作を反復しておられる。
あれは間違いなく背負い投げの型だ。
そ、そうか。人間とはいえ、本気で遊ぶおつもりなのだ。だから、型を練習されている。それだけだ。
額に浮かんだ汗を拭いもせず、現実逃避を試みる。
ただ、その型だが……カミーラ様の眼差しが想定している仮想敵の体格が、どう見ても私と同じくらいに見えるのだが。
い、いや、違う。この中に私と同じ体格の奴がいる。
ビィトという人間だ。
う、うむ。こいつはなかなかの悪党だ。人間の中では頭一つ抜きん出た実力を持つ。かなり、か~なり贔屓目に見れば、す、少しは遊びがいがあるやもしれぬ。
嫌な予感が全身の毛穴から滲み出ているが、あえてそう結論づけていると、
「ふむ。もっと素早く振るか。何せ奴は受身を知っているからな」
カミーラ様の独り言が、静寂を切り裂くように響いてきた。
う、受身を知っている!?
カミーラ様の動きが一変する。さっきまでの優雅な型から一転、実戦を想定した鋭い動きで背負い投げを繰り返しておられる。あの速度で投げられたら後頭部が石畳で砕け散るだろう。
カ、カミーラ様、杞憂ですよ。じゅうどうをこのような人間如きが知るはずがないです。緩やかな速度で十分です。
心の中で必死に訴えかけていたが、冷や汗は止まらない。
カミーラ様の動きは更に苛烈さを増していく。背負い投げの型を、まるで実際に敵を掴んでいるかのような精密さで反復しておられる。
そしてその視線は――紛れもなく私の方向を捉えていた。
「ふ~やっと殺せるな。オルティッシオ」
さらにカミーラ様の独り言が聞こえてきた。
うむ。現実逃避は無理なようだ。どう見ても私がターゲットである。
ど、ど、どういうことだってばよ!!
動揺のあまりティレア様の口癖を叫んでしまった。
一体、なぜこんなことになったのだ?
どこでボタンを掛け間違えたのだ?
ティレア様のご寵愛を一心に受けたい。その思いで冒険者ギルドに入った。ティレア様の第一の家臣となる。
そうなるはずが……どこで失敗した?
思い出せ。最初はうまくいっていたはずだ。
そう、あれは三日前……。
「それでは、行ってまいりやす」
「うんうん、あなたならすぐにでも上にいけると確信してる。頑張ってね」
「ははっ。お任せください。ティレア様のご期待に応えてしんぜやす」
ミュッヘンは、誇らしげな顔で冒険者ギルドへと潜入していった。ティレア様、御自ら激励のお言葉をおかけになる。それがどんなに栄誉なことか。ミュッヘンだけでなく、その部下達もホクホク顔の様子だ。
くっ。羨ましすぎる!
冒険者ギルド潜入は、この前の邪神軍会議で決定した案件の一つである。人族の情報収集として冒険者に成りすます。これだけであれば、諜報担当のベルナンデスが妥当である。だが、万が一強者がいたときに備えて腕の立つ人材がよいとなった。
そこで白羽の矢が立ったのがミュッヘンだ。
げせぬ。私も立候補したのだが、満場一致で却下された。お前は金稼ぎでもしてろとばかりに、財政担当となったのである。
私とミュッヘンの戦力はほぼ互角だ。
なのに、なぜミュッヘンばかり優遇されるのだ?
私も会議では必死に食い下がったのだが……。
決め手となったのは、ティレア様の鶴の一声だ。途中から会議に顔を出されたティレア様がミュッヘンを推したのである。
ティレア様は、
「へぇ~ミューって冒険者ギルドに就職するんだ。うんうん、ミューなら大丈夫、立派にやっていける。オル? なんで候補にあがってんのよ。却下、却下、遊びじゃないんだよ。オル、あなた死にたいの?」
と、おっしゃられたのである。
だぁああああ!!
思い出すだけでも嫉妬で頭がおかしくなりそうだ。
なぜだ、なぜだ?
どうしてミュッヘンばかり得をする。先の大戦でも奴との戦績は負けていない。
うぅ……なぜなのだ……。
ふぅ、取り乱したが、わかっている。本当はわかっているのだ。
やはり先の失態が尾を引いている。
恐れ多くもティレア様に弓を引いてしまったこと。
短慮であった。時間を戻せるなら戻したい。そして、あの時の自分を殴り殺してやりたい。
なぜ、あんな愚行を犯したのか。
とにかく汚名返上だ。なんとしても手柄を立ててティレア様のご歓心を手に入れなければならない。
ティレア様はミュッヘンの奴をお見送り後、厨房に向かわれた。
今がチャンスだ。
周りに人がいれば、絶対に反対される。特に、新入りの軍師に見つかりでもしたら、口達者な奴のことだ。すぐにでも弾劾するだろう。
ティレア様は、厨房に入り包丁を握る。料理の仕込みに入られたみたいだ。食材をまな板に置き、リズミカルに切り刻んでいく。
その手つきは実に手慣れたもので、まるで熟練の料理人のようだ。ティレア様の才能は武術だけではない。あらゆる分野において完璧な技術をお持ちなのだ。
さすがはティレア様、しばし見とれていると――ではない! 撤退だ! クソ参謀が横から割り込みやがった。
「ティレア様、例の件でございますが」
新入りの軍師が、すかした顔でティレア様に近づいてくる。
ちっ、邪魔をしやがって!
ティレア様のもとへ向かおうとしたが、新入りの軍師がティレア様と何やら重要そうな話をしている。何をぺちゃくちゃと楽しそうに話をしているのだ。
ふん、ティレア様のご歓心を買おうと必死だな。
くそ、さっさと軍務に戻れ!
イライラを押さえながらクソ参謀が立ち去るのを待つ。血管が破裂しそうなほど、頭に血が上っている。拳を強く握りしめ、爪が手のひらに食い込んでいた。
そして、クソ参謀がようやく立ち去ったかと思ったら――
「ティレア様、第四師団の配置についてご相談が」
今度は第四師団のベルナンデスがティレア様と会話を始めた。
うぅ、なかなかティレア様がお一人にならない。
まるで示し合わせたかのように、入れ替わり立ちかわりティレア様の御前に現れる軍団員達。今度はエディムまでもがティレア様と何やら真剣な表情で話をしている。
このままでは埒が明かない。そして何より――時間が経てば経つほど、直訴する勇気が失われていく。
まぁ、あやつならいてもかまわんか……。
エディムは所詮、半魔族。どうとでもなる。ぐずぐずしていたら邪魔者がまた現れるかもしれん。意を決し、ティレア様に直訴しよう。
「ティレア様、ティレア様!」
思い切って声をかけた。少し声が上ずっているのが自分でもわかる。
「オル、な~に?」
「さきほどのギルド潜入について、ご再考をお願いいたします!」
今をおいて他にない。周囲が邪魔しないうちに切実に訴えかけた。声が震えているのを必死に隠そうとする。
ティレア様は、最初はキョトンとしていたが、やがてやれやれといった表情で私を見る。どうやらいまだ私の実力をお疑いのようだ。
うぅ、やはり無理か……いや、成せばなる、成さねばならぬ。この思いをティレア様にぶつけるのだ。
ティレア様の御前で片膝をつき、再度訴える。
「ティレア様、お願いします。どうか、どうかこのオルティッシオを信じてくださいませんか」
頭を下げながら、必死に言葉を絞り出した。
「ふ~オル、あなた本気で冒険者としてやっていけると思っているの?」
ティレア様の問いかけに、心が躍った。これは少し脈がある!?
「もちろんでございます。ミュッヘンにひけをとりません」
いつもティレア様はミュッヘン、ミュッヘンと奴ばかり重要視される。腕の立つのは奴ばかりではない。それをティレア様にご理解していただくのだ。
「あのね。冒険者は、遊びじゃないんだよ。あなたの我がままで周囲が迷惑するんだから」
「絶対にそのようなことにはなりません。必ず任務を成功してみせます!」
身を乗り出すように訴えた。
「……オル、悪いことは言わないからやめなさい。あなた、まじで死ぬよ」
ティレア様の声には、本気の心配が込められていた。
それから何度、訴えてみたが、ティレア様は首を縦にお振りにならない。危険だからやめろの一点ばりである。
うぉおおお! なぜだ? なぜ、ティレア様は私を過小評価されるのだ?
心の中で絶叫が響く。
ミュッヘンと私の戦績は、ほぼ五分なのに。ティレア様は完全に私よりミュッヘンを上に見ている。
くっ、もっとだ。もっと自分をアピールするしかない。
「ティレア様がミュッヘンをご信頼しているのはわかりました。確かに奴が歴戦の戦士なのは認めます。ですが、ですが、私とて奴に引けをとりません」
必死の弁明だった。
「……話はもういいかな? そろそろ料理の仕込みを再開したいんだけど」
まずい。ティレア様が話を打ち切ろうとされている。さっきから会話が堂々巡りをしているから当然だろう。
これがラストチャンスだ。今までのごり押しアピールでは無理だ。違う切り口で訴えてみよう。
「では、仮に仮にですよ。ミュッヘンより先に私がSランクに上がったらどうしますか?」
一か八かの提案だった。
「あなた何を……」
「いいからお答えください。その場合は私がミュッヘンより上だとお認めくださいますね?」
ティレア様に詰め寄り返答を問う。不遜だと思う。それでも、なりふり構っていられない。どうしてもティレア様に誤解を解いてもらいたいのだ。
「そうね~そんなことが起りうるのなら認めるわ」
ティレア様の答えに、心臓が激しく跳ね上がった。
「まことですか!」
声が裏返る。恥ずかしいほどに興奮していた。
「えぇ。あなたがもしミューより先にランクを上げたら、それは立派な戦士の証。私の直属護衛軍にしてあげる」
「直属護衛軍ですとぉお!」
興奮のあまり、声がひっくり返った。
直属護衛軍――その言葉が、全身を電流のように走る。
「えぇえぇ、そこまでの戦士ならぜひ専属ボディガードになって欲しい。頭を下げてお願いしちゃうわ――ってもういいかな? 料理の仕込みをしたいのよ」
ティレア様は苦笑いを浮かべながら、再び料理に向かおうとする。けれど、私にはもうその姿も見えていなかった。
「うぉおおお! やってやります」
興奮のあまり、大声で叫んだ。
ティレア様がよく言われる直属護衛軍。王の側近中の側近。王が最も信頼する部下を指す。
現在、この役職は空白である。
そこに私が!?
脳裏に浮かぶのは、ティレア様の隣に立つ自分の姿だった。ミュッヘンを見下ろし、他の軍団員たちから羨望の眼差しを向けられる自分。
ぬははは! 見ておれぇええ!
ティレア様のご許可はいただいた。是が非でもミュッヘンより先にランクを上げてみせる。
この私がティレア様の直属護衛軍だぁああ!!
全力疾走で冒険者ギルドに向かった。足音が石畳に響く。この私が、ついにティレア様の直属護衛軍への道を歩み始めたのだ!
★☆
オルが勢いよく走り去った後、厨房には一時の静寂が戻った。
包丁を置き、深くため息をついた。
「ティレア様、よろしいのですか?」
エディムが心配そうに声をかけてきた。
「いや、もうあんまりオルがしつこくて面倒くさくなっちゃった」
肩をすくめながら答えた。
「では、直属護衛軍の話は本気ではないということですね?」
「っていうかさ。賭け自体成立しないよ。ギルドも馬鹿じゃないんだから、オルを上位ランクにあげたりなんかしないよ」
「確かにオルティッシオ様は猪突猛進で短慮な部分があります。ですが、力だけはありますよ。ミュッヘン様より先にSランクに到達するやも……」
「むむむ。確かにオルは力(親の権力)がある。だけど、まさかそれだけで上を狙えるほど世の中、甘くないと思うよ」
「まぁ、そうですね。オルティッシオ様がミュッヘン様を出しぬけるとはとても思えません。では、お止めしなくてもよろしいのですか?」
「うん、止めなくていい。最初は反対したけど、これもいいかな。オルはボンボンだからね、挫折を味わって成長するのもいいかもと考え直した」
再び包丁を手に取り、料理の仕込みを再開した。