第四話 「従僕アナスィーの矜持」
魔法学園高等部三年のアナスィーは、深いため息をついた。
警告してあげたのに……。
今年中等部に編入してきた少女ティム。庶民の出身でありながら抜群の成績を収め、教師たちも舌を巻いているという。その美貌も相まって、中等部ではすっかりスター扱いだった。
成績優秀、銀髪の美少女、教師や先輩にも物怖じしない性格。
しかし、庶民……。
これだけの条件が揃えば、目をつけられないはずがない。高等部の連中が「指導」という名の制裁に乗り出すのは時間の問題だった。普通なら、目立った杭は打たれるものだ。
ところがティムは違った。庶民ゆえの魔力不足を補う卓越した戦闘技術で、次々と返り討ちにしていったのである。
そして遂に、学園の女王まで引っ張り出すことになった。
嫌いじゃないんだけどなぁ。
ティムもエリザベスのような覇王の資質を持っている。もし潰されることがなければ、きっとエリザベス卒業後の女王になっていたかもしれない。
アナスィーは自分を生粋の従士だと分析していた。
俺は人の上に立つ人物ではない。絶対的な君主の下で力を振るう参謀タイプ。さらに言えば、仕えるなら男性より女性がいい。カリスマのように気高く美しい人のもとで働きたい——そんな願いを抱いていた。
そして選んだのが、この学園の女王エリザベスである。
彼女は完璧すぎた。頭脳明晰な上に魔法の実力も群を抜いている。試験、研究、あらゆる分野で成功を収めてきた。現生徒会長のムヴォーデリを天才と賞賛する者も多いが、俺に言わせれば彼はただの秀才に過ぎない。
本当の天才とは、彼女のことを言うのだ。
百年に一人と言われるほどの彼女だ。周囲を下に見るのも仕方がない。家柄も才能も劣っている生徒を同格に思えるはずがない。生徒たちもまた、そんな彼女に嫉妬し讒言した。
ただ彼女は、敵を許さない。どんな手段を使っても、徹底的にいたぶり追い詰めた。思い出したくはないが、中にはかなりエグい目に遭った者もいる。
そうしていくうちに、学園で彼女に逆らえる者は誰一人としていなくなった。
そんな中、エンケのグループを倒し、次々と貴族の子弟を打ち倒す少女が現れたのである。庶民のくせに貴族を蔑ろにする。
これだけの騒ぎを起こしておきながら、エリザベスに何の挨拶もしない。これでは制裁してくれと言っているようなものである。
エリザベスのターゲットにされたティムは、現在中庭にいるらしい。女王直属の僕である俺とペイン、ボノス、バッタは、それぞれの取り巻きを連れてティムを制裁しに向かった。
中庭に着くと、銀髪の少女は傲岸不遜にも女王のソファーで惰眠を貪っていた。ティムはよりにもよって女王の神殿で堂々と昼寝をしていたのだ。
エリザベスがティムを睨みつけている。
その額には青筋が浮かんでいた。
ティムは虎の尾を踏んだことに気づいていない。
仕方がない。できるだけ穏便に済ませるため、フォローしてやるか。
「おい、起こせ」
取り巻きの一人に命令する。
まずはソファーから叩き起こす。これ以上、女王の逆鱗に触れるわけにはいかない。
「あ、あの、乱暴はやめてください」
取り巻きがティムを起こそうと近づく。
すると、一人の少女がティムを庇うように進み出てきた。
「なんだ、貴様は?」
「あ、わ、私は……」
少女は、ペインのドスの利いた台詞に怯えている。見覚えのある顔だった。
そうだ。確かヴィンセント・ミレスと言ったか。
昔、パーティーで見かけたことがある没落貴族の娘だ。
「君はヴィンセント家のご令嬢だね。分かっているとは思うが、我々には逆らわない方がいい」
「アナスィーの言う通りだぜ。ヴィンセント家のような没落貴族が、エリザベス様に楯突く気か!」
「い、いえ、そんな……」
「さっさと退け!」
ペインが少女を乱暴に突き飛ばした。ヴィンセントは頭を強く打ったのか、そのまま気を失った。
乱暴者め、ペインは直情的だから好かん。
ただ、結果的には良かったか。これ以上女王に逆らうと、彼女自身が危険だった。
「ふぁあああ、まったくうるさい虫どもだ」
ティムが呑気にソファーから体を起こした。
周囲の状況をまるで理解していない。
「銀髪の小娘、さっさとそこから降りろ!」
「む? 無礼者!」
ペインがティムを掴もうと手を伸ばした瞬間、ティムの手がペインの腕を捉えた。軽い捻りと共に、鈍い音が響く。
ペインは苦痛に顔を歪ませながら、折れた手首を押さえて膝をついている。ティムは何事もなかったかのように立っていた。
やはり、見事な技術だ。老練の域に達している。
「て、てめぇ、貴族に逆らう気か!」
「ふむ、こう羽虫が騒がしいと眠れぬな。よし、食後の腹ごなしも重要であったな。ほら、かかってこい」
「調子に乗るなぁ!」
「ふん!」
ボノスがまんまとティムの挑発に乗った。ティムに飛びかかった瞬間、ティムに逆に投げ飛ばされてしまった。一発で沈むボノス。
ボノスも弱くはないものの、相手が悪い。
ティム、技のキレが違う。肉体技術だけで言えば、ティムは学園でもトップスリーに入るのは間違いない。
「ふふ、それが噂の古武術ですの? 魔力が粗末な庶民が考えつきそうなこと」
「誰だ?」
「ワタクシを知らない? 学園に君臨するこのワタクシを! 愚かすぎる……これだから庶民はだめなのよ」
「なるほど、お前が噂の女王か。それなら王都の守護神がいるはずだ。どいつだ?」
「身の程知らずが! 庶民のくせに守護神バッチョ様を名指しか!」
その通りだ。
バッチョは、アルクダス王国最強の守護神だ。いつもエリザベスの警護だけをしているわけにはいかない。周辺諸国への威圧や慰撫に忙しいのだ。
ティムは、バッチョにも喧嘩を売る気なのか?
狂犬すぎる。
「バッチョは、ここにはおらんのか?」
「調子に乗りやがって……アタイはあんたが今まで倒してきた雑魚どもと違うよ」
バッチョを軽く扱うティムにキレたのだろう。
バッタが腕まくりをしてティムの前に現れた。
「ふむ。弱そうだが、お前が守護神か?」
「アタイは、バッチョの姪のバッタだ」
「なんだ、つまらん。バッチョを出せ、バッチョを!」
「はん。叔母様がお前みたいな小娘を相手するわけないだろうが!」
バッタは、バッチョの血筋なだけあって、格闘術も並々ならぬ力を持ち合わせている。バッチョもバッタを後継者にするべく血汗をかいて指導しているとか。
バッタは、格闘術で言えば間違いなく学園最強の戦士だ。
ティム、バッタを今までの相手と同じに考えていると痛い目に遭うぞ。
ティムの挑発を受け、バッタが猛牛の如く突進する。
その足音が石畳を震わせた。バッタの筋肉が隆々と盛り上がり、まるで鋼鉄の塊が突進してくるかのような迫力だった。これまでティムが相手にしてきた連中とは根本的に違う。バッタの拳には、石柱をも砕く威力が込められている。
バッタはいきなり本気のようだ。
「くらえ! 蒙古筋肉爆撃!」
バッタの渾身の一撃が空気を切り裂いた。その拳風だけで近くにいた取り巻きたちの髪が激しく舞い上がる。直撃すれば、並の生徒なら確実に意識を失うほどの威力だった。
バッチョ直伝の奥義——それは単なる力技ではない。相手の動きを封じ、逃げ場を断つ緻密な計算に基づいた必殺技。これまで数多の強者を沈めてきた、バッタの代名詞とも言える技だった。
しかし——
「その程度か」
ティムの声は、まるで微風のように軽やかだった。
信じられない光景が目の前で展開された。
ティムはバッタの拳を片手で軽々と受け止めていたのだ。まるで子供の戯れを大人が受け流すかのような、圧倒的な余裕。
バッタの拳とティムの掌が接触した瞬間、衝撃波が周囲に広がった。しかし、その衝撃を一身に受けたティムは、微動だにしない。それどころか、どこか退屈そうな表情を浮かべている。
「なっ? アタイの奥義、蒙古筋肉爆撃を受け止めただと!」
バッタの声は震えていた。これまで誰も受け止めることなど不可能だった必殺技が、いとも簡単に無力化されたのだ。
「ほれ、宙に舞え!」
ティムが動いた瞬間、バッタの巨体が宙に浮いた。
それは芸術的なまでに美しい技だった。ティムは寝転ぶような体勢になりながら、両足でバッタの重心を捉える。そして流れるような動作で、バッタの体重を利用して天高く投げ上げたのだ。
回転投げ——それも完璧な軌道を描いて。
バッタの巨体が空中で一回転、二回転と舞い踊る。まるで羽根のように軽やかに、しかし確実に重力に従って落下していく。
ドスン!
地面に激突する鈍い音が中庭に響いた。学園最強の格闘家バッタが、完全に戦闘不能状態で地面に伸びている。
あのバッタをかくも簡単に倒すとは……。
愕然とした。これまで見てきたティムの戦いの中でも、これは別格だった。単なる技術ではない。バッタとティムの間には、埋めようのない絶対的な実力差があったのだ。
「ほれ、次だ」
ティムは立ち上がりながら、まるで準備運動が終わったかのような表情で次の相手を求めた。
「ば、馬鹿が。もうその手に乗るか」
格闘術なら学園一のバッタを倒したのだ。取り巻きどももティムの実力を実感したようである。取り巻きたちは、ティムを円形に取り囲んだ。
古武術封じ……。
そう、近づかせなければいいのだ。ティムの噂は上級生の間で広まっていた。凄まじい古武術の使い手だと。バッタを倒したことからも、格闘術に関して言えば学園一だ。
しかし、俺たちが何の対策もしていないと思ったら困る。
魔法が不得手な庶民の唯一の対抗策である格闘術……。
ネタがばれてしまえばそれまでだ。遠距離から魔法攻撃をすればよい。魔法が弱点のティムにとっては、鬼門であろう。
「さあ、調子に乗るのもこれまでだぜ」
「へっへ、四方から魔法弾の一斉射撃だ。銀髪の小娘、死んだぞ」
「ふむ……」
「どうした? びびってるのか? 悔やんでも遅い。庶民のくせに立て続けに貴族の子弟に逆らいやがって。それなりの制裁をしてやらんと気が済まん」
「そうだ、そうだ。お前のせいで貴族のプライドはずたずただ」
「ああ。調子に乗ってエリザベス様の神殿も穢しやがって! 身の程知ら——うっ!?」
その時、一人の取り巻きが突然よろめいた。額に小さな石が当たり、鮮血が流れている。男は呆然と自分の血を見つめた後、そのまま前のめりに倒れた。
投擲術……。
簡単に聞こえるが、並大抵の技術ではない。
腕力、命中力が一定の水準に達していないと戦士は倒せん。まして魔法学園の生徒を倒せるとなれば、一朝一夕の修行では無理だ。正確な軌道計算と、相手の急所を狙い撃つ技術——それは弓術にも匹敵する高度な戦闘技能だった。
この少女は、どこまで戦闘術に精通しているのか。
「我は学園では、極力魔法をセーブしておる。縛りプレイ中なのでな。遠巻きにするだけの羽虫には容赦なくこれをぶつける」
ティムは手の中で小石を弄びながら、まるで玩具を見せるかのような表情を浮かべた。
「こ、このやろう!」
まずい。取り巻きの二年たちがキレやがった。手加減なしの魔法弾の攻撃だ。多少痛い目に遭わせる必要はあったが、殺すのはやりすぎだ。
「や、やめ——」
なっ? 避けている。魔法弾を避けるのか!
ティムは軽業師の如く、立て続けに放たれる魔法弾を避けていた。右に左に器用に移動し、取り巻きどもを翻弄している。
そして、隙を見ては石ころを投げて相手を倒していた。いつの間にかエリザベスの周囲には、俺以外、誰も立っていなかった。
「ふう〜使えない手足は困りますわね。躾のなっていない猿が調子に乗るじゃありませんの」
エリザベスの機嫌は悪い。眉がピクピク動いている。
危険な兆候だ。
この状態のエリザベスは、人殺しを厭わない。
「エリザベス様、庶民とはいえ、名うての貴族たちを打ちのめした実力の持ち主です。銀髪の小娘は、エリザベス様の家来になる資格は十分かと」
「……そうね。確かに庶民にしてはまあまあの器量に実力。私の道具の一員としてもよい」
「それでは……」
「ですが、まずはワタクシの足元にひれ伏してもらいますわ。庶民のくせに我が神殿に勝手に入った罪を償わせ——ごほっごほっ、何を!」
何だと!
ティムがエリザベスに泥を投げつけたのだ。
エリザベスの顔に泥がべったりと付着していた。完璧に整えられていた前髪が額に張り付き、頬に茶色い汚れが筋を作っている。
エリザベスは呆然と立ち尽くしていた。何が起こったのか理解できずにいるようだった。そして、ゆっくりと自分の頬に手を当てる。指先に茶色い泥が付着しているのを見て、ようやく現実を理解したようだった。
「わ、ワタクシの顔に……泥を……」
最初は困惑の声だった。
しかし、次の瞬間——
「庶民風情が! このワタクシに!」
エリザベスの声が怒りで震え始めた。
誰も——誰一人として、エリザベスの顔に泥をつけたことなど無かった。王族でさえ一目置く彼女の美貌を汚すなど、考えることすら禁忌だった。その禁忌が、いとも簡単に破られた。
エリザベスは誇りを傷つけた相手を決して許さない。これでティムが生き残る唯一の道が無くなった。
「貴様のくだらん能書きを聞いてやるほど我は暇ではない。早く守護神とやらを呼べ。我は貴様より霊長類最強とやらに興味がある」
「な、舐めるんじゃありませんことよぉ!!」
エリザベスが雄叫びを上げて魔法弾を放つ。
瞬間、空気が唸りを上げた。エリザベスの超高速魔法弾——それは取り巻きたちが放つ駄作とは次元の違う代物だった。青白い光の矢が空間を切り裂き、残像すら残さぬ速度でティムに迫る。
魔力の密度が違う。圧縮された魔力が弾丸となって放たれた瞬間、周囲の空気が震撼した。直撃すれば、並の魔法障壁など紙切れ同然に貫通するだろう。
これこそが、学園の女王と呼ばれる所以——
なっ? これも避けるのか!
ティムは、エリザベスの魔法弾をものともせずに避けている。これは、肉体技術だけの問題ではない。常人を遥かに超えた反射速度だけでなく、魔法発動までの術式を読み切っていないと到底無理だ。
どうやら俺は勘違いしていたらしい。
ティムは、魔法技術もエリザベスより上のようだ。
「生意気なあ!」
エリザベスが再び魔法弾を放つ。しかし、ティムは紙一重でそれを避ける。エリザベスの攻撃が激しくなるほど、ティムの動きは流れるように美しく見えた。
「くっ!」
三発目、四発目と立て続けに放たれる魔法弾。しかし、全てが空を切る。ティムは舞うように、踊るように、エリザベスの猛攻を回避し続けた。
「遅い。詠唱まで時間がかかりすぎている。鍛錬不足だな」
エリザベスの顔が真っ赤に染まった。プライドを傷つけられた怒りと、自分の魔法が通用しない屈辱で、表情が歪んでいる。
「はあ、はあ、ちょこまかと。なら二つならどうだあ!」
エリザベスが両手から魔法弾を連射する。しかし、これも見事に避ける。エリザベスは必死に魔法弾を撃ち続けるが、完全にティムに見切られていた。
呼吸も絶え絶えなエリザベス。額から汗が流れ、息遣いが荒くなっている。これまでの優雅さは微塵もなく、まるで追い詰められた動物のようだった。
こんなエリザベスを初めて見る。いつも超然としていたエリザベスが、年下の少女に翻弄されている。ここまで余裕のない女王の姿を見たくはなかった。
……
…………
………………
「はあ、はあ、はあ、あ、当たりさえすれば、当たりさえすれば……」
「当ててみろと言いたいが、今日のノルマは羽虫の魔法弾を全て避けることだ。その程度の魔法弾など被弾しても痛くも痒くもない。しかし、決めたルールを破りたくないからな」
ティムは、まるでゲーム感覚のように話す。エリザベスの魔法弾を少しも脅威に感じていない。
そして——。
「ほれ。足払いだ」
「きゃあ!」
エリザベスがティムに足をひっかけられ、地面に倒れた。
ドサリという音と共に、エリザベスが地面に這いつくばる格好になった。高級な制服が土で汚れ、髪も乱れて顔を覆っている。
「こ、この私を地面に!? 誰も私に土をつけたことのない私が!」
エリザベスの声は怒りと屈辱で震えていた。這いつくばったまま、震える手で顔の泥を拭おうとしている。けれども、手も汚れているため、かえって汚れが広がっていく。
「貴様のような小物は、泥に埋もれているのがお似合いだ。それよりも、バッチョを出せと言っているのに」
「こ、後悔しなさい。私の全てを持ってでもあなたを潰してあげます」
エリザベスは地面に膝をついたまま、ティムを見上げた。その目には、これまで見たことのない憎悪の炎が燃えている。
「そうだ、その意気だ。そうでないと遊びがいがない」
そう言って、ティムはエリザベスの頭を足で踏みつけた。
「きゃあああ! や、やめて。やめなさい!」
エリザベスの悲鳴が中庭に響いた。王国最高の権威が、庶民の足で地面に押し付けられている。これ以上の屈辱があるだろうか。
「銀髪の小娘めえ! 許さん、貴様もお前の家族も全てワタクシが生き地獄に落としてやる!」
エリザベスは地面に顔を押し付けられたまま、震え声で叫んだ。
いかん。
エリザベスは、その戦闘力もさることながら、その権力も類を見ない。いつもの余裕な口調は鳴りを潜め、殺気を込めた目だけがらんらんとしている。
今の彼女ならプライドを捨ててでも、なりふり構わずティムを潰すだろう。実家の権力を使うことに何ら躊躇しないはずだ。
「は、早く謝るんだ。君のお姉さんが西通りでお店を構えているのは把握している。君のお姉さんにも被害が及ぶぞ」
「ふむ。お姉様にご迷惑はかけられぬ」
「今更、後悔してもおそいですわあ!」
「いや、勘違いするな。お姉様と狩りを楽しむのも面白い。ただ、獲物が貴様のような羽虫では遊びにもならん。お姉様が落胆されるだけだ」
「あ、あなた、どこまで愚かですの! 我がエリザベス家を侮る——ぎゃああ!」
ボキッという音が響いた。
エリザベスの人差し指が不自然な方向に曲がっている。
「ひっ、ひぃいいい! 痛い。痛いいい!」
「騒ぐな。指を折っただけだ。さっきから不遜に我を指差すその指が不愉快であったからな」
なんてことを……。
誰もがひれ伏し、王家の重鎮でさえ目を伏せる彼女の手を……。
「……もうシャレじゃ済まない。全面戦争になるぞ。エリザベス様の力を使えば、王家、国家連合、冒険者ギルドすべての機関が君を狙ってくる。そうなるだけの地盤をお持ちなのだ」
「そうか、そうか。やっと面白くなりそうだ」
なっ? 彼女はエリザベスの権力を歯牙にもかけていない。
なんだ、なんなんだ、彼女は……。
俺の中で何かが音を立てて崩れていく。
これまで俺が信じていたもの、忠誠を誓っていたもの——それが砂の城のように脆く崩れ落ちていく感覚だった。
エリザベスは確かに優秀だった。魔法の才能も、学業成績も、家柄も申し分なかった。だからこそ俺は彼女を選び、従士として仕えることを決めたのだ。
しかし……
今、目の前で展開されているのは、圧倒的な差だった。
これが本物の力なのか?
これが真の支配者の姿なのか?
俺は改めてティムを見つめた。銀髪が夕日に輝き、まるで神々しいオーラを纏っているかのようだ。その瞳には、エリザベスのような怒りや焦燥は微塵もない。ただ純粋に、次の獲物を待つ捕食者の静かな興奮があるだけだった。
はは、胸の高まりを抑えられそうにない。
この感情をどう表せばよい?
畏怖? いや、違う。
憧憬? それも的確ではない。
これは……崇拝に近い感情だった。
真の王者を前にした時に湧き上がる、抗い難い敬服の念。エリザベスに対しては感じたことのない、魂の奥底から湧き上がる忠誠心だった。
ようやく理解した。
エリザベスは確かに優秀だった。しかし、それは井の中の蛙の優秀さに過ぎなかった。学園という狭い世界で通用する才能でしかなかったのだ。
ティムは違う。
この少女は、世界そのものを支配できる器を持っている。その圧倒的な実力、揺るぎない自信、そして何より——絶対的な王者の風格。
俺が求めていたのは、こういう主君だったのだ。
「くうう、ひ、ひどい、指を折るなんて……」
エリザベスは折れた指を抱えて泣きじゃくっている。化粧は崩れ、髪は乱れ、制服は泥だらけ。威厳も気品も全て剥ぎ取られ、ただの我儘な少女の本性を晒した。
「何を言うか。切断しなかっただけありがたく思え。我も丸くなったものだ」
「ううう、痛い、殺す。痛い、殺してやる!」
「そうだ。その痛みを覚えておけ。本気を出せ。お姉様が少しでも遊べるほどの獲物を寄こすのだ」
対してティムは、どこまでも余裕だった。まるで予定調和かのように、全てを掌握している。この展開すらも、彼女にとっては想定の範囲内なのだろう。
くっく、俺は偽物を担いでいた。
銀髪を輝かせた少女の絶対的なオーラに魅せられる。
そのカリスマは、魔力の多寡では測れない。生まれ持った血筋でも測れない。ただ純粋に、この世界を統べるために生まれてきた者だけが持つ、真の王者の証だった。
……魔力とか庶民とかどうでもよい。
いや、最初からそんなものは些細なことだったのだ。俺が本当に求めていたのは、絶対的な強者への忠誠だった。自分より遥かに優れた存在に仕えることで得られる、至上の満足感だった。
彼女の背中に見えるは覇道の翼。
それは夕日を背負い、まるで伝説の竜王が羽根を広げたかのような荘厳な光景だった。
ああ、このお方こそ、この世界に君臨する女王だ。
自然と頭を垂れる。
膝をつきたい衝動を必死に抑えながら、俺は心の中で新たな主君への忠誠を誓った。
エリザベスを見下ろす銀髪の美しい少女。
それが、初めて実感した本物の女王の姿であった。