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チョコレートムースの起

「少し用事があるんで」と唯一の女性会員の内海が部室から出て行くと、「さて」という会長のパラダイム転換の一言で室内には猥談が飛び交い始める。しかし耳を潜めて聞いてみれば、年齢に関する議論であるらしいので本筋からは離れてはいないようである。ここは会長の統率力に敬意を評する場面であろう。

「猥談は いくらしてても 飽きないなあ」とは先代の会長(女子)が残した辞世の句であるが、まさにそれを表すようにあっという間に時は過ぎ、窓の外の太陽は沈みかけている。

午後五時の下校のアナウンスが校内にこだまし始めた。当然日が暮れるまで学校に残って活動を続けようという気概を持った人間のいない『美しき生命』である。会員たちは議論を直ちに切り上げると、我先にと帰り支度を始めた。会規則により、帰り支度の一番遅い奴が部屋の鍵を職員室まで返すことになっている。会員たちは文化部とも思えないほどの手際のよさを発揮し、水門から勢いよく放水される泥水のように冷房の効いた部屋から飛び出した。なぜこれほどまでに必死かと言うと、このボランティア同好会の部室は職員室から最も遠いところに配置されているからであった。ざっと見積もって四百メートルトラック一週半はあるだろう。建前上は近所の二級河川のゴミ拾いでもしていそうな『美しき生命』であるが、代々計画倒れ前提のプロジェクトが計画倒れになるのに業を煮やした教師一同が、満場一致で日の当らない辺境の地へ追いやったのである。半分は教師たちの激励の意も込められていたこの処置だったが、先代の会長は「これぞオルタナティブね」と小躍りして喜び、目下現会長は「他の部活の利便を考えれば」と会の謙虚さを謳い文句にして、なかなか状況は改善されないでいる。

 と、そんなことはともかくとして本日の鍵当番は例によって純になった。

 純はあからさまに渋い顔をして会の薄ら笑うメンバーを見渡した。純が会に入って以来、純以外鍵を返しに行ったことはないのである。つまり、純はとてつもなく鈍臭い。

「ふん、ロリコンどもめ」

 純は帰宅する会員の背中に向ってそう毒づき、職員室に向って歩き始めた。純から遠ざかるロリコン共は夕方六時半から始まる大きいお友達御用達のアニメ談義に花を咲かせていた。純は「そんなロリ巨乳アニメなんて見ていない」と会員たちに吹聴しているが、VHSに録画してテープが擦り切れるほどまで繰り返し見るほどのヘビーウォッチャーである。純の足は自然と速くなった。

職員室まで階段を五つ超え、暗がりで先の見えない廊下をひたすら歩く。かなりの体力を消耗した純は誰もいない職員室にノックして入り、鍵をさっさと返却した。

さて帰るか、とカバンを背負い直すと後ろの方から声を掛けられた。この声には聞き覚えがある。倫理を担当している並木教員だ。ぼやっとしたしょうゆ顔と裏腹に並みの声優よりもいい声を持った、中々腐女子の間で評判の高い先生である。閑散とした室内に、その低く響くいい声は良く合う。しかし、純には呼び止められる理由が浮かばない。世間話でもしようというのだろうか。純は自慢の仏頂面で振り返る。早くアニメが見たいんだが。

「なんでしょうか?」

「いや、今日生徒は全員甲子園に行っていると聞いていたから」

「ああ、それならうちらだけお留守番です。ボランティア同好会です」

「うちの学校にそんな同好会あったんだね。知らなかった。それでどんなことをしているんだい? 応援にも行かずに活動するなんて随分と熱心じゃないか」

 並木教員はさも感心したという風に薄い頭をハンカチで拭いていた。純はテレビに甲子園を映しながら、アニメ雑誌を捲り、雑談を繰返していたとはさすがに言えず、嘘八百のプロジェクトをでっち上げた。すぐに見破られるだろうが、純の口はすらすらと動いた。これもアニメを見たい一心であろうか。純はさっさと帰りたかった。腐女子に高評価でもロリボイスにしか過敏な反応を示さない純に取ってみれば目の前のいい声はロリボイスとの遭遇を邪魔するけしからん高い壁である。それも登っても気持ちよくはない残念な壁。しかし、純の見破られないことに定評のない嘘は、黄昏時の職員室ではかえって高い信憑性を作り上げているらしかった。並木教員は純がしゃべるごとに深く頷き、ワゴンセールのためだけに作られたような凸レンズの向こう側が輝きに満ちていく。

「それはすごいじゃないか。ぜひ協力したい」

 え?

 純は心の中で珍しく疑問符を催した。そんな言葉待ち望んでいない。この教師は『美しき生命』の今までの醜態を知っているのだろうか。

そういえば、と純は思い出した。しょっぱなの倫理の授業で確か今年赴任してきました的なことをいっていた気がする。

純は全力でその協力を断るしかない。断らなければ、壮大なプロジェクトを実行しなければ無くなる。

純は今まで見せたことの無い、イギリス紳士顔負けの勝負顔を作り、低姿勢でお断り申し上げる。

「お気持ちだけで充分ですよ。このプロジェクトは僕ら、生徒だけで実践することに意義があるんです」

 その言葉に胸を打たれたのか、並木教員は腕を組み大きく頷いた。

「その通りだね。いや、感心した。この時代に君のような生徒に巡り合えるとはね。この学校に赴任してきてよかった」

「あはは」

 純はぎこちない愛想笑を目一杯作り出した。

「そうだ。あまりいいものではないが」

 並木教員はきれいに整理された引き出しを開けると、そこから狛犬のような形をした、小さな置物を手にした。

「お守りだ。プロジェクトの祈願にでも持っていてくれ」

「はあ」

 純は掌を上に向けてそれを受け取った。よく見ると狛犬ではなく、豚のような面をしている。お世辞にもあまりかわいいとはいえない。むしろ少々グロテスクである。

「このお守りはトリトといって、日本で言う招き猫とか福助みたいなものでねえ。魔よけにもなるらしい。去年ペルーに旅行に行って来た時に買ったんだけど。よくは知らないけれど牛を象ったものらしい」

 牛か。なんだか納得がいかないがそう思えば見えないこともない。純はここで断ると面倒臭いことになるだろうと気転を利かせ、あまり有り難くは無いが、有り難く受け取ることにした。純はお礼を言って頭を下げた。

「困ったことがあればいつでも相談に乗るぞ」

 純はギラギラとした太陽のような精神の反射を後ろの方に感じながら職員室をささっと後にした。


 家に着くころには純の頬はやつれ、一晩空気にさらした煎餅のようになんだか味気がなくなっていた。駅から自宅まで、端から見ればジョギングのようなペースだが、純本人に言わせれば「このままだと心臓たんが死ぬ!」程の超ハイペースで駆け抜けたのだった。駆け抜けたといえば聞こえはいいが、目的は夕方六時から始まるロリ巨乳アニメである。決してカッコよくはないだろう。しかし、今日という日の中で純が輝いていたのは正しくVHSの録画ボタンを押すその瞬間だった。予約すればいいじゃないかと現代っ子は言うかもしれないが純の家は代々純和風を由とする、農地改革以来の梅農家であるためにBDはおろかDVDすら実践投入されていない。そのため録画はもちろん手動で、チャンネルを変えずに膝を抱えて見守らなければならない。前近代的な誰もが忘れてしまった光景は見ていて多少ほほえましくもあるが、映像の種類が種類なだけになんだか痛々しくもある。けれどそんな周囲の目を他所に純の目は爛々とテレビ画面に釘付けになっていた。大きなお友達とはまさにこの惨状を指すに違いない。

 あっという間にエンディングを向え、次回予告のロリラップが高野家の純和風のリビングを席巻していた。

 純は感無量といった表情をどやっと作ると、「アカネたん、ハァハァ」と、早速新キャラに浮気をしていた。本当にロリで巨乳であれば見境がない。純はアカネたんのパンチラシーンを確認すべく、巻き戻しボタンに手を掛ける。とそこでいつもとは違う何かに気付いた。

「何かが足りない」と、純の思考がふと止まる。

「あ、しまった」

 巻き戻しすぎて前々回のロリラップが流れ始めた。早送りボタンを押そうとしたが、純の手が止まった。丁度前々回は神回だったのだ。今日は両親ともに遅くなると聞いている。せっかくなので純はまた膝を抱えて画面に向った。

と、二階で物音がした。リビングの上は丁度妹の部屋である。「ああ」とそこで思い立つ。

「今日は弥恵と一緒に見ていないじゃないか!」

 高野弥恵は現在悩み多き中学一年生であり、腹違いの妹でもなければ、再婚相手の連れてきた義妹でもない、正真正銘の純の妹である。ただ、純の妹とは思えないほどの美貌と容姿を兼ね備えたロリ巨乳であり、つまり純好みの妹なのである。きっと遺伝子配列がこうも違うのかと天国のワトソンとクリックも感嘆の悲鳴を上げることだろう。妹萌えなど現実にありえないのではないかという議論が世界中で沸く中、高野弥恵はそれのアンチテーゼとなりえる逸材である。

 まず、なんといってもその容姿である。純の記憶に拠れば弥恵の胸は小学五年生の夏ごろからエルニーニョ現象の勝ち馬に乗ったがごとくに膨らみ始め、この夏もその成長、止まりません。ママさんという内通者に拠ればFはあるという。もちろんこのFはギターコードのFではない。誰しもが挫折などしない、とても友好的なFである。純は理性を抑えきれずに一度妹に向って「Fなの?」と聞いたことがある。案の定「クソ兄貴ッ!」と息子さんを蹴られ、のた打ち回ったのは言うまでも無い。

 胸に成長ホルモンを全て奪われてしまっているのかは世界の誰しも分からない最重要機密であるが、弥恵の身長は小学校五年生のままあまり変化を見せていないようである。百五十センチにも足りていないようで、純の目測に誤りが無ければ懐に上手く収まる大きさであるという。純は理性を抑えきれずに一度妹の背後から「ぽむっ」という効果音つきで抱きしめたことがある。案の定「クソ兄貴ッ!」と息子さんを蹴られ、のた打ち回ったのは言うまでも無い。

 そして純と似ても似つかないロリ顔にロリボイスである。本人は非常にコンプレックスに思っているらしく、中学生になってからショートだった髪を伸ばし始め、現在セミロング程になっている。少しは大人っぽくなるだろうという算段だったらしいが、これがロリ顔によく似合う。純は理性を抑えきれずに一度妹に向って「上目遣いでお兄ちゃんって言ってみて」と頼んだことがある。案の定「クソ兄貴ッ!」と息子さんを蹴られ、のた打ち回ったのは言うまでもない。

 純は毎週多少のSっけのある妹とこのアニメを見ていたのである。何かが足りないと思ったら、えもいわれぬ妹の罵声であった。純が口を真一文字にして画面に釘付けになっているとその度に「きもい」「えろい」「変態」といった罵声が妹のうちから発せられる。先天的にM体質の純はそのたびに脳幹をくすぐられる様な快感を得ることができた。

オタクっけのない妹であったが、段々とこのアニメに夢中になっていることを純の鈍感な感性は珍しく見逃さなかった。部屋に篭もりがちな思春期の少女がこの時間にだけリビングに自然と足を運ぶようになれば誰でも妹の心境の変化に気付くに違いないだろうが。

最初のうちは「高校生にもなってアニメとか見ちゃって」とか「ロリ巨乳とか現実に無いって」とかなんとか文句を垂れていた。(純が「じゃあ、弥恵の胸は一体なんだ?」というと、案の定「クソ兄貴ッ!」と息子さんを蹴られ、のた打ち回ったのは言うまでも無い)しかし、コアなファンの間でほぼ定説となりつつある、どうでもいい第四話から妹の目つきが変ったのである。味噌汁を飲みながらある場面では碗で顔を隠し、ある場面では加え箸をしながら目を潤ませ、ある場面ではハンバーグをひき肉ほどの細かさまで砕いていた。

しかし鈍感な純は妹の不自然な様子に気付いたはいいものの原因を究明するまでには至らない。単にアニメが好きになったんだろうとそんなに重くはみていないのだが、何が妹の琴線に触れたのか、第四話に問題の確信があるに違いないのだがと、純は足りないお頭で考えていた。「考えて答えが導き出せなくてもいいのは高校生までよ」とママさんから「最近弥恵が夜中にアニメを見ているのよ。しかもどうでもいい第四話ばかり」とのヒントとも内通とも言える情報が懐にはあるのだが、結果よりも過程を重んじる純は「分からないままでいいこともある」と見事にことなかれ主義を発揮した。

 純は「よし」と膝を叩いて妹の部屋へと向った。体の調子でも悪いのだろうか、と妹大好きの純は何食わぬ顔で階段を駆け上がる。階段を忍者のようにして上るのが純の特技の一つである。

 転がるようにして妹の部屋の襖の前に立つと「開けるぞ」という言葉と同時にドアノブを回し開く。返事はおおよそ聞いていない。この行為によって過去に何度かのた打ち回ったことがあったが、それもまたよし。妹の安全(?)が最優先である。

「やーえちゃん。もうアニメ終わっちまっ……」

 と、純は言いかけ、言葉に詰まる。

 弥恵は確かにそこにいた。そこにいてきちんと机に向い、なにやら夢中で漫画を読んでいる。それはいつもの光景であり、いつもの夕暮れ時のように胸に白いクマがプリントされた部屋着を纏い、どこからみてもリラックスしていて隙だらけである。

しかし弥恵が夢中で視線を落ちしている漫画がいつもの愛くるしい少女漫画ではなかったのである。純は妹の弥恵の手にあるものに見覚えがあった。今日内海が部室に持ってきて、熱心に読んでいた百合漫画雑誌に良く似ていた。というかそのものだった。そうでなかったら純が気づくはずがない。

もちろん百合といっても植物園に行って見ることの出来る、綺麗に咲き乱れる植物の方ではないことを予め断っておこう。百合は百合以外の何ものでもない。要は女同士がちちくり……まあ、つまり女の子同士の愛である。

弥恵は少し遅れて純が部屋に入ってきていることに気付いた。兄妹の視線がきれいに交錯する。弥恵は持ち前の高い集中力をここぞとばかりに発揮して物語に入り浸っていたらしく、純の階段を駆け上がる不快な足音にも、一応掛けておいた酔っ払いのような加齢臭が漂ってきそうな野太い声にも全く気付かなかったようである。

弥恵はかなり動揺しているようで頬から額まで色白の肌に見る見るうちに赤みがさしはじめた。

「お、おう」

「……」

 弥恵はしばらく部屋を見回しながら、なんだか言葉を探しているように口元をあわあわとさせていたが、とりあえずという風に、

「勝手に入ってくるなっていつも言ってるでしょ!」

 と兄に向かって怒鳴りつける。しかし兄は動じる様子はない。「部屋の入るな」「いいや、入る」の押し問答はこの兄妹何回繰返したか分からない。

「ちゃんと声を掛けたし、ノックもした」

「返事する前に入ってくるなって言ってるの!」

 そうやっていつものやり取りが続くと思われたが、しかし次の一言がいつもと違った。本来であれば「弥恵が無事で何よりだ」と続くのだ。

「それより」

 純の視線が弥恵の手元に向けられた。途端、弥恵の視線がざわめきはじめた。

「何読んでんだ?」

「……た、ただの少女漫画だって」

「それって百合漫画だろ?」

「な、何で知ってるの、……って、ち、ちがっ、あうあぁ」

違うも何も百合漫画であることに間違いは無いはなかった。

まさかこの兄貴に鎌をかけられるなんてと弥恵は独りごち、そしてはっとなって慌てて背中に例の物を隠したが、机の上にも同ジャンルの同人誌やらが結構な量詰まれていた。もう言い逃れは出来ないと悟ってか、弥恵の目元は陰り、椅子の上で頭を垂らした。

「どれ」

純はひょいと机の上から百合同人の一冊を手に取るとペラペラと捲った。

「ああっ、それは駄目ッ!」

 珍しく弱気にすがり付いてくる妹に興奮しながらも、その同人誌の中身を見て純は少なからず仰天した。手にした同人誌は先ほどまで純がニヤニヤしながら見ていたロリ巨乳アニメの同人だったのだ。

しかも第四話以降空気の姉妹の百合百合なお話。

 純は「弥恵がどうしてこんなものを読んでいるんだ?」と疑問に思わざるを得ない。兄として理由を尋ねなければいけないだろう。

「弥恵……おまっ、」

 しかし、そこで純は気付いた。弥恵の様子がなんだかおかしい。小さい肩を諤々と震わせて、小さい唇の隙間から「ぷしゅう、ぷしゅう」と二酸化炭素を漏らしている。耳をすませば呪詛の念に聞こえなくも無い。というか、呪詛の念だった。

「み……た……な……」

 純は慌てて同人誌を机の上に戻すと、宥めるように、

「い、いい趣味をしているじゃないか。お兄ちゃんはリベラルな人間だから、こういうの良く理解できるんだぞ」と不得手な愛想笑を浮かべながら口走る。

当然、純の言葉は逆撫で以外の効果を持たなかった。

弥恵はわなわなと華奢な肩を震わし、上気していた顔を更に上気させ、

「出てけええええええええええええええええええええええええええええええええぇッ!」

 と兄の自慢のロリボイスを炸裂させる。その効果は向こう両隣の木に止まる烏を立ち退かせるほど強力なものだった。

 純は転げ落ちるように部屋から脱出すると一目散にどどどどどどと階段を駆け下りた。気がかりは振り向きざまに見た妹の瞳には浮かんだ涙。「悪いことをしてしまった」と純の胸は激しく痛み、けなげな妹をとても愛おしく思うのであった。


 純の家から徒歩で五分足らずで海岸に面した砂浜に出る。純は痛む胸を押さえながらその砂浜へと向った。

その手には手綱が握られていた。その先には首輪がついており、愛犬のチャベスは少し煩そうに首を振りながら純の前を歩いている。チャベスはダックスフントである。血統書なんてたいそうな代物は高野家のタンスの引き出しには保管されていないが、ダックスフントのともすれば砂浜に埋まってしまいそうな短すぎる四本足が何よりの証拠となるだろう。

 気持ちを落ち着かせるために散歩に出たのであるが、純が胸を患っていることなど関係なしに、チャベスはその短すぎる四本足を不器用にバタつかせ、砂浜を駆けていく。どちらかというと掻き分けていくといった方がいいかもしれない。チャベスが掻き分けた砂は意図したように、純の茶色いスニーカーをさらに茶色に染めていく。

目下のところテンションの上がる要素を現世社会に見出すことのできないでいる純はぐいっと手綱に力を入れた。気持ちを汲んでくれない愛犬に少々イラッときたのである。チャベスはビクンと後ろに引き寄せられるようにして、コテンとかわいらしく尻餅をついた。

 チャベスは首を純のほうに向けると、多少恨めしげに視線を寄越し、「ぷぎゃあ」と吠えた。擬人法を素直に受け取ってしまう純は申し訳なさそうにして視線を海の方へ反らした。

 それにしても、である。

「なぜ、わが妹が百合本なんぞを?」と純は首にぶら下げた足りない頭を無理やり働かせて考える。

 冷静に考えれば、涙を溢すほどに怒るほどのことではないような気がしないでもない。

ただ百合本を熱心に読んでいるところを目撃しただけである。

 まあ、熱心に読んでいるのが非常に気に掛かるわけだが……、それに言い訳すら出てこないほどに弥恵が動揺するのも珍しいことだった。純のような大人気ない兄を見て育ち、少し背伸びをしたがるいたいけな妹である。

 弥恵の顔はあんなにも上気していたなあ……。

そこで純は『思春期の恥ずかしい条項』という本に「兄弟に自分の性癖がばれると恥ずかしいよね」といった記述があることを思い出した。

 まさか、本当にわが妹はどうでもよい第四話の姉妹のように女の子どうしで百合百合したいのか?

 純は記憶の片隅にある第四話を思い返してみる。この話だけは二回しかみていないからなかなか鮮明には思い出せない。「二回見たんじゃねえかよ!」との突っ込みが入りそうだが、第四話以外は少なくとも十回は見ていた。第一話の視聴回数は優に五十を超えるだろう。それを鑑みるに純の第四話に向ける興味の無さが推し量れる。と同時に純のロリ巨乳に向ける一途で揺るがない性癖も推し量れることだろう。つまり、それほどまでに第四話にはロリ巨乳分が少ないのである。

しかし、ただ単にロリ巨乳分が少ないだけであれば、多種多様な趣向を持った大きなお友達たちに「どうでもいい」とは呼ばれなかっただろう。呼ばれるにはそれなりの理由があった。ひとえに過剰に含まれた百合である。監督が熱を出して寝込んだ隙に監督代行以下が待遇改善を訴えるため、だとか、監督代行が趣味に走った、だとか、監督代行がどこぞのフェミニズム団体に脅迫された、だとか、そもそも監督代行なんてクレジットされていないのだが、奇妙な噂が乱立するほどに第三話との流れをぶった切った内容だったのである。

その百合は本編だけに止まらずにオープニング、エンディング、はたまた提供各社まで侵食し、テレビ画面を三十分間、百合色に染めあげたのだった。その弁明責任を未だ果たさずの愚かしい所業は、少数派の人々を「むふふ」とさせ、魔法少女を待ちわびた大多数をテレビの前に置き去りにした。ちなみに第五話は何事もなかったように第三話からの続きで、ロリ巨乳の魔法少女がお風呂場でお兄ちゃんに裸を見られるシーンから始まっている。ゆえに第四話は「どうでもいい」のである。

「お姉ちゃん、むしろお姉さまが欲しいのだろうか、こんなに妹想いの兄がいながら……」

 妹の弥恵の繊細な乙女心が誰よりも分かった気でいる高野家の長兄は、夕日をバックに弥恵のために立派に果たしてきた様々な所業を回顧する。

 たった数秒間考えただけで、次のような確信が純の中で生まれ落ちた。

「お姉さまなど要らぬではないかっ!」

 こんな妹想いの兄貴がいるならば、姉の必要性など皆無である。それが純の結論である。

そこで純ははっと思う。

「まさかお姉さまになりたいのではなかろうか……?」

 妹は妹であるべきだ。お姉さんなんて……、と切って捨てようとした、その刹那である。

「……いいや、待てよ?」

 純の脳裏に輝きを秘めたダイヤモンドの原石ならぬ、妄想の原石が投下された。純は妄想力の限りを尽して、妹の弥恵のお姉さん振りを餃子の皮を包むように大事に大事に妄想の原石を磨いていく。

純は人差し指であごの中心をぼりぼりと上下に掻き始めた。『美しき生命』の会員らによれば、純はあごを上下に掻くことで妄想力を極限にまで高めているのだという。みみず腫れの様に跡が残るだけならよいが、天野は教室で純があごから大量の血を流しているのを目撃したことがある。天野が「おい、あごから血ぃ出てるぞ」と慌てていうと、純は自分が血を流していることに驚きながらも「はあ? 何言ってんの? これ鼻血だしッ!」となんだかカッコ付けては譲らなかった。確かに純の言い分は全くの虚偽ではなく、きちんと鼻からも血液をたら流ししていたのである。「いや、その血は鼻からでてねぇし……って血流しすぎなんだよ!」と、さすがの天野でも突っ込みどころが多すぎて、どこから突っ込んでいいやら分からなかった。

後からその習性を見抜いた天野だったが、純がなぜ倫理の時間に血を流していたのかは未だに不明のままである。錆びて開かなくなった裁てばさみのように純は口を割らないでいるためだ。会長は「七不思議に加えようか」とにこやかにいって、内海は「どうせリビドーって言葉に反応したんでしょ」と切って捨てた。

純のその不可解な習性は血を流すという失態をクラスの皆に包み隠さず、バッチリ、はっきりとお披露目したにもかかわらず一向に治る気配は無かった。「逆に悪化の傾向にある。現在の純のあごはしゃくれず、引っ込まずのつまらないあごではあるが、将来はケツあごが約束されたも同然であろう」との、天野談である。

それはともかくとして、純の妄想は目下驀進中である。

妹にヒステリーを起す弥恵。

妹と喧嘩して無意識のうちに学校中を徘徊する弥恵。

妹と桜の下で抱き合う弥恵。

そして二人を抱きしめる俺。

「いいッ! それ採用ッ!」

 そう言って鼻血を垂らしながら、純はグッと拳を握りしめた。

 結局、ロリで巨乳であれば見境がないのである。

けれど、弥恵が百合なのかどうかということよりも、純は弥恵に嫌われてはいないだろうか、と心配でならなかった。察しの通り、もちろんのこと、弥恵は純のことをこれっぽっちも好いてはいないのだが、なんと涙を見せられたのはこれが初めてのことだったのである。

 純の瞳孔の裏側では、去り際に垣間見た涙を浮かべた弥恵の表情が現在進行形で、生放送で、実況中でフラッシュバック!

 日はもう少しで海に沈もうとしていた。チャベスの影と純の影は長く砂浜に横たわり、痛んだ胸に追い討ちを掛けるような情景を醸し出す。

 純の気管支の辺りはその情景に促されるようにして次第に何かに締め付けられたようになって、心臓が鼓動を繰返す度にそれは苦しみとなって感じられるようになる。

 何? この気持ち?

 純はまるで恋に恋する少女のように胸の前で五指を交互に組んだ。

 ああ、神よ。

 祈るごとに不安は募ってくる。

 もう二度とお兄ちゃんって呼んでくれないんじゃないだろうか……。

 もう二度と一緒にお風呂に入れないのではないだろうか……。

 もう二度と一緒のお布団で寝てくれないのではあるまいか……。

 一応断っておくと、弥恵が小学生になってからは上記のような羨ましい限りの行為はすっかり健全に鳴りを潜めている。そしてこれから行われるという目星は流れ星になってじゅっと燃え尽きて久しい。

 純は砂浜に膝を突くと、そのままゆっくりと砂浜にへたり込んだ。チャベスはじっと純の方を窺うようにしていたが、くるくると純の周りを一通り徘徊すると、純の胸に頭突きをするようにして懐に潜り込む。そして小さくあくびをすると純と同じように果てしない水平線を眺めるのである。

「おお、チャベス、分かってくれるか」

 純は味方を得たような気持ちになり、チャベスの背中に頬ずりをした。

しかし、チャベスは勘違いはなはだしいという風に、

「キュワン」

 と甲高い泣き声を上げて純の懐から飛び出した。そして純にお尻を向けると小火は一刻も早く鎮火しなければならない、という風に短い後ろ足を器用に掻いて、砂を浴びせた。

「う、うわっ、チャベスぅ。やめろッ! こらっ、ちゃ、チャベスぅ」

 この世の人と犬の主従関係の概念を根底から覆しかねない、微笑ましくも理解し難いじゃれ合いが続く中、ふと純のズボンのポケットから何かが落ちた。見れば、並木教員から貰ったお守りであった。確かトリトとかいう牛のお守りである。人を食ったような生意気な表情がニヤリと純の方を向いていた。

 純はそれ見て、くわっと表情を強張らせた。

 妹との確執をどうして防いでくれなかったのかっ!

 異国ペルーのお守りなど役に立たぬではないかっ!

 先ほどまで異国の神(イエス様)に祈りを捧げたとは思えぬ、身勝手な怒りが純の心の底辺からふつふつと沸き上る。

そして純はついに手にしたお守りを力いっぱい放り投げた。

目の前に海が広がっているので、当然海に投げるのかと思いきや、さすがに貰い物を海に投げ込むのはよくないと思いなおしたのか、直前でくるりと体の向きを変え、横に長く続いている砂浜に向ってお守りを投げ付ける。

「えいっ」

 教科書には決して記載されていない、惚れ惚れするほどの見事な乙女投げである。

純はこう見えても小学校時代に少年野球のリトルリーグに在籍していた。しかし、元広島の緒方のようなバッティング技術を持ちながらも、いかんせん肩が弱く、乙女投げが板について離れないためにその道は挫折することになった。その肩の弱さは高校時代の現在も変らないようである。純の右手から放たれたお守りは目先三寸のところにポトリと落ちた。それでも純の胸のうちはすっきりとしたらしく、純は自慢の横顔を夕焼けに浴びせながら、自慢のストレートヘアを掻き揚げると、「ふうっ」といってお守りに向って歩き出した。

と、純の足元からチャベスが一目散にお守りを投げた方に向って駆け出した。そういえば手綱を放したままである。純は慌ててチャベスを追いかける。

「待てっ! チャベス、チャベスッ!」

しかし、慌てることは無かったようだ。チャベスは犬らしく主人の放り投げた物を追いかけ、それを口に咥えて戻ってきた。純はほっと胸を撫で下ろし、そんな主人思いのチャベスをとても愛おしく思い、同時に感心もするのであった。高野家の教育方針は泣く子も黙るずばり放任主義である。それは三年前に親戚から里子に出されたチャベスにも当てはまり、高野家の人々は芸の一切をチャベスに強要することはしていなかった。何も教え込んでいないのになあ、とわしゃわしゃと純はチャベスのお凸を撫で付ける。

しかし、チャベスは口に咥えたお守りをなかなか離そうとはしない。既によだれまみれになっている。いい味でもするのだろうか。純はこのままだと罰が当りかねないと、チャベスの口からお守りを引き離しに掛かる。と、手を指し伸ばした瞬間。

ころん。

まあ、ころんという音がチャベスの口元から出たのではないのだが、まさにころんとチャベスの舌を通り、ごっくんとチャベスの体内へと入っていった。チャベスは長い舌でぺろりと口元を拭った。高級料理店の看板メニューを平らげたような、さも満足そうな表情を見せている。

 そんなチャベスの表情とは裏腹に純の顔は真っ青になる。こんな得体の知れないものを飲み込んでしまうなんて、と赤ちゃんが誤って漂白剤を飲んでしまいパニックを起す若奥さんのように慌て出す。純のチャベスにかける愛情は家族一である。チャベスを引き取ることを真っ先に賛成していたのは純であるし、飼い始めてこの方、チャベスの世話は全て純が受け持っていた。チャベスというどこかの社会主義国の大統領に似た独裁者を髣髴とさせる名前を付けたのも純である。

「ええと、そうだ! 牛乳を飲ませなきゃ!」と純はチャベスを目の前にあたふたとして、赤ちゃんが誤って漂白剤を飲んでしまいパニックを起す若奥さんのように牛乳を求め始めた。

一方でチャベスはかわいい顔をさらにかわいらしくして、

「キュワンッ!」と吠える。

主人を宥めるように尻尾を振り、ご機嫌のようである。純も「なんとも無いのかしら?」と安心しかけたそのとき、

「ん? チャベスどうした?」

 急にチャベスが吠えるのを止め、尻尾がへたりと垂れ下がる。つぶらな瞳が閉じられると、はたりと砂浜に倒れてしまった。

「ああ、チャベスう」と純は泣きそうになりながら、チャベスに呼びかける。

 揺すってもピクリともしない。

 叩いてもいつものようにがぶっと噛み付いてこない。

 口元に耳をやる。呼吸をしてない。

「し、しっかりしろッ! チャベース」

純の頭の中でチャベスとの思い出が走馬灯のように次々と甦えってくる。

初めて純の家にやってきた日。

純に懐かずに真っ先に妹の方に懐いて男泣きしたあの日。

近所の猫数匹の縄張りに殴りこみ返り討ちになったあの日。

「ううう」と純の頬には涙がつたい、それがチャベスの鼻先に落ちた。その瞬間、

 パチリ。

チャベスは何食わぬ顔をして、純の顔をその精気に満ちた瞳に映していた。

 そして開口一番。

「泣くな、少年よ」

 国立音大の声楽科を卒業したような、低音の程よく効いた、いたいけな少年心をくすぐるそれはそれはいい声がした。


……………………………………………………????


純は体をビクつかせながらもとっさに辺りを見回した。

この辺りの砂浜は夕方になると訪れる人はめったにいない。今日もいつものように人影は皆無である。純は背中の方に小さいおっさんでも隠れているんじゃないかと強情に疑いかかって、必死に首をもたげながらその場でくるくると三回転もしてしまった。

 当然のようにその砂浜には純とチャベスしかいなかった。

 純は静かに両足を畳んで正座し、恐る恐るしっぱを振るチャベスと向き合った。

「驚くのも無理は無いが、そんな奇抜なリアクションは誰も求めてはいないぞ」

 純は目を点にし、チャベスとじっと見つめあう。

「ぎょええええええええええええッ! チャベスがしゃべったよおぉ!」

 チャベスは面倒臭そうに後ろ足で腹を掻く。

「なんだその00年代から一向につまらなくなったヒットチャートみたいなありきたりな反応は。ここは『君がしゃべるなんて珍しいこともあるもんだ』と村上春樹風にアンニュイになるところじゃないか? ええ、少年よ」

 純は頭を抱えながら、言われたようにアンニュイな表情を浮かべて、頬っぺたをタイ式マッサージのように健康的にこねくり回している。

 程よい痛みを感じる。蒸らしたタオルがあればもっと程よい。

 これはつまり……。

「まあ、いい。まあ落ち着けよ。少年」

 夢でないことを少年こと高野純は悟った。チャベスは確かにしゃべっている。そして心なしか人間のようにころころと表情を変えている。

しかし内海曰く「スイーツを食べるしか脳のない厨二病患者」こと、高野純は突如として現れた苛烈な現実を目の前に、柔軟に対応することができないでいるのだ。

「これが落ち着いていられるかよッ! 意味分かんねぇよっ! しゃべるならしゃべるって言ってからしゃべれよっ! ていうか犬が気安くしゃべるんじゃねぇよっ!」

 純は両の手の平をもうじき夜のやってくるお空に向け、犬がしゃべるのをいいことに目一杯声を荒げ、怒鳴りつけた。「ファンタジーは二次元だけにしとけっての!」

「だからその気持ちを考慮して、落ち着けって言ってるんじゃないか。ええ、少年よ」

「考慮すればいいってもんじゃないだろっ! 大事なのはそれが相手に伝わっているかだろっ!」

「相手に伝える前提に考慮することは重要なのだよ、少年」

「そんなこと今はどうでもいいんだよっ!」

「よくない。議論から逃げるな。君の日頃の言動をみていると、目に付くところが多々ある」

 チャベスは、ここぞというばかりに日頃の鬱憤を晴らすように文句を垂れ始めた。飯の時間が遅い、飯の量が少ない、飯がまずい。あまりにも居丈高におっしゃるので純は思わず回心の意を約束してしまった。ドックフードの味など良くは分からないが。

 それにしても、である。純はチャベスが飼い犬としての犬権を叫んでいるところを遮り、

「なんでお前しゃべってんだ?」と聞いてみる。

チャベスはすっかり忘れていた、という風な表情をつくって、

「そうだ、そうだ。まずそこからはじめなければいけない。もっとはやく気付け、少年よ」

「お前が一心不乱に文句ばかり言うからだろ。おかげでチャベスの声にも慣れてきたし。アニメの第一話では受け付けなかった声でも、話数を経るにつれて慣れてくるみたいな感じで。今丁度第五話ってところかな」

「よく分からん」

「もっと、ショタっぽいしゃべり方だと思ってたつうか」

「ショタ?」

「なんつうか、もっと幼い声で俺にはいちいち変換されてたから、特に撫でるときとかね」

「そういわれても、君の日常の姿を見ていれば自然とこういう声になってしまうよ。犬だからといって舐めてもらっては困る」

「ってことは、今までずっとチャベスは俺のことを舐めていたっていうのか?」

「近からずも遠からずといったところだ。確かに私の君への振る舞いは従順で無かった面が多々あるだろう。が、君は私の飼い主だ。一定の敬意を今まで払ってきたし、これからも払ってきたつもりだ。それが犬の役目だろう? 何か間違っているかい、人間の少年よ」

「いや、おっしゃるとおりです」と純は正論に頭を下げてしまう。「それにしても……さっきから、その少年って言うのが鼻につくんだけど……」

「いいではないか。君は少年だろ」

「まあ、それは否定しないけど。俺には純って名前があるんだよ」

「少年が大人になれば純と呼んでやらないこともない。しかしいかんせん、君の性根が少年以外の何物でもないのだから、私の真っ直ぐに筋の通った紀州原産のパトリオティズムによって、君は少年以外の何の呼称でも呼ぶことは出来ん。名無しの猫が我輩は猫であるといった意味を少しは理解して欲しいものだ」

「別に強制はしないけど。じゃあ俺もチャベスのこと犬って呼ぶわ」

 するとチャベスはきゃんきゃんと笑い出した。尻尾もプロペラのように高速回転している。

「それは、少年、やめた方がいいな」

「どうしてだよ?」

「例えばだ。私のことを雑踏の中で「犬!」と少年が背を反って呼ぶとする。そうするとどうだ。周りの人間は君に『なんだこのやり場の無い怒りを犬にぶつけ、気を紛らわしている切れやすい少年は』といった不快な感情を抱くだろう。見ず知らずの他人の白眼視を受けるほど辛いものはない。現代社会は一介の少年よりも一介のダックスフントに優しいというわけさ。君はとたんにやるせなくなって私に上手い飯を食わせるだろう。まあ私は一向に構わないがね」

 チャベスは一息にそういってまたキャンキャンと笑っている。純をからかうのがとても楽しいようでしっぽはフルフルとメトロノームのように小刻みに動き回っている。

「それよりも」

「おお、そうだったな」とチャベスは眉をひそめて真面目な表情をつくった。それにつられて純も濃い眉をひそめて向き合う。「なぜしゃべれるかって私にも分からない」

 純は全身が砂に滑ったように仰け反ってしまった。

「はあ?」

「まあ、そう顔をしかめるな」

「分からないってどういうことだよっ!」

「まあ、聞け。先ほど私が飲み込んでしまったお守りがあるだろ」

「……そういえば、体は何ともないのか?」

「ああ。しかし、体がなんともない変わりにしゃべれるようになった」

 なんだか奇妙な会話をしているなあ、と純は頭痛がするようだった。しかししゃべれるようになったのだから頷くしかない。「うん」

「そのお守りに宿った精霊の力で私はしゃべることが出来ているらしい。いいや、どちらかといえば私は精霊と完全に混ざり合ってその力を使えるといったほうがよいのかな」

「なんでその精霊はチャベスをしゃべらせるようにしたんだ?」

「問題はそこだ。事態は緊急を有するんだ」

「緊急だってっ!」と純は緊急とか、救急車とか、バックドラフトとかエマージェンシー発動とかに熱くなるちょっと面倒臭い少年期を送っていたため、緊急という言葉にビクッと反応した。純は口角に唾を溜めながら、今にも砂浜を駆け出しそうな勢いである。わくわくどきどきである。純は目を輝かせてチャベスの次の言葉を待った。

 しかし……、

「いや取り立てて緊急というわけではないんだが……」とチャベスは純がいつにもましてノリノリなので前足で耳の後ろを掻きながら申し訳なさそうに言った。

「どっちだよっ!」

「……だって少年のノリがこんなにもいいとは思わなかったから、つい」

 確かに怠惰に怠惰を重ねて、努力して怠惰な日常を送る純の姿を見ていればそう勘違いしてしまうのも仕方がないだろう。チャベスは仕切り直しという風にコホンと咳払いをする。

「私が飲み込んだお守りの精霊は半分力を失っている。もともとこのお守りは二つでひとつ。雌雄の牛が揃って本当の力を発揮できる、と精霊が語りかけているような気がする。しかし」

「しかし?」

「並木教員が牝牛のトリトを誰かに渡してしまったんだ。これを探して欲しい。私がしゃべる用はそこにあるんだ、と精霊が語りかけているような気がなんだかしないこともない」

「……そうか。なら話は簡単だ。並木教員に会いに行けばすぐに顔が割れるだろうし、まあ、お守りが見つかるまで、まあ、語り合おうか。せっかくしゃべれるようになったんだから。チャベスもそう思うだろ?」

「その意見には賛成だ。人間と会話を交わすのも意外と悪くない」

と純とチャベスは笑い合った。まるで兄弟が久しぶりに再会したみたいに。純は笑うことで弥恵の涙を一瞬忘れることが出来た。

 けれど「あっ」とまたチャベスが何か大事なことを思い出したように声を上げた。「言いにくいんだが……」と先ほどと違って少し表情が暗い。

「……なんだよ?」

「精霊によれば、このお守りの所有者はどうやら、ちょっとばかし不幸になるらしいんだ」

「……まさかとは思うけど、もう片方が見つかるまでの所有者は俺ってことになるのか?」

「まあ、そうなるわな」とまるで他人事のチャベスである。

 妹との確執も全部こいつのせいだったんじゃないかッ!

 怒りが顔面に出ていたのだろう、チャベスは逆ギレしたように、

「勘違いするなよ。不幸になるだけであって、それは直接の要因ではない。なんでも自分の運の悪さに還元するなッ!」と説教するように怒鳴りつける。

 その剣幕に思わず「すいません」と謝ってしまう。けれど数秒考え直す。

「遠因には変わりないだろッ!」

「安心しろ。見つかるまでは精霊の力を貸してやる。これでプラマイゼロだ。ウィンウィンの関係だ」

「は? 精霊の力?」

魔法みたいなもんなのか?

確かに犬がしゃべっている時点で、既にファンタジー、魔法の世界である。

 けれど、純は期待を抱けないでいる。アイテムがお守りであったり、力を授けてくれた大魔法使い的な人間が倫理の教員である。スケールがいちいち小さい。その力の脆弱さを想定してしまう。

 純はじとっとした眼差しで尋ねる。

「……精霊の力で、何が出来るんだよ?」

「そうだな……、あまり大それたことは出来ないが、小さい津波を起すことぐらいはできるかもしれん」とチャベスはそう言いながらふっと瞳を閉じた。

 その瞬間、ザッバーンと高波が純に浴びせられた。全身が海水でぐっしょりである。

 一方チャベスは俊敏な身のこなしで海水の被害を免れている。

「まあ、この程度だな」

 純は自分の不条理さを言葉に表そうとしたが、わなわなと震えるばかりで言葉が出てこない。

 そしてまた「あっ!」と重大なことを思い出したようにチャベスは言った。

「今度は……どうした?」とうんざりという風に純。

「言い忘れていたが、精霊の力を使えるのは二回。さっきので一回使ってしまったから残り一回になってしまった」

「そういうことは先に言えって!」

「精霊の語りが遅かったんだ。そう怒るな」

「それに、なんで二回しかねぇんだよっ! 普通三回とか、七回とかじゃねぇの? 普通とか言うのもなんか変だけど、とにかく、切り悪くねっ?」

「……こっちにもいろいろ都合があるんだって」

 一体何の都合があるんだよ、と不満を思いながら、純は超展開に提示された「精霊の力」の使い道を、うーん、と腕を組んで考えた。

まあ、今、純が抱える懸案事項は弥恵のこと以外に他ない。弥恵に機嫌を直してもらうことが、純の今一番の願いである。

「……人の心を操るようなことって出来るのか?」

 チャベスはそれを聞いた途端、軽蔑のまなざしをあからさまに送った。

「少年。それは立派な犯罪だよ」

「違うって。……ただ、弥恵と仲直りしたいだけなんだ」

 それは本心だった。このままでは家に帰れない。帰れたとしても、そこに今までのような関係は望めない。純は手の平を合わせ、頭を上げる。「頼む。この通り」

「分かった」

「おおやってくれ、」と歓声を上げようとした純に「もう済んだ」とのチャベスの一言。

「はやっ!」と仕事のあっけなさに不満を呈する純であった。

「何かこうふぁーっと力が働くときの合図とかないの? 目が光るとか、全身が光るとか、目の前が光って見えなくなるとか」

純は予兆や余韻に拘る面倒臭い人間だった。目に見えるもので表現してくれないと不安らしい。一方チャベスは面倒臭そうに頭を掻いている。

「ない! 光ってなんになる! そんなに光が欲しいなら懐中電灯でもカチカチやっていろ。そして肝心なときに電池が切れればいい! そんなことより、力を使って腹を減らしてしまったぞ、少年」

 夕日はもう沈んでしまって辺りはすとんと暗くなっていた。純とチャベスは自宅へと足を向けた。


 世の中誰しも家に帰るときは当然ように気を抜いて、「ふひー」と溜息なんかついて、なんとなしに玄関の扉を開けるに違いない。家は帰省の場であり、サプライズなど微塵も無い、期待しない、外界の汚れから袂を分かつ、いわば絶対平和領域である。

しかし、現在高野家は誕生してこの方、揺らぐことのそうそうなかった絶対平和領域が崩壊しかねないという重大な局面を迎えていた。

原因は些細な兄妹喧嘩。それ以上でもそれ以外でもない。いつだって、なんだって、壁だって崩壊するときは、些細なことがきっかけとなるのである。

ということで純は玄関の前で小さく深呼吸した。隣で腹を掻いているチャベスに向って家路何回も問いかけた質問を純はまた問いかけた。

「本当に妹の機嫌が直ってるんだろうな?」

「安心しろ、少年。精霊の力は伊達じゃない。予言しよう。妹は君の両腕の中にすっぽりと納まるに違いない」

 チャベスは自信満々にそう言い放つ。

しかし、純は妹が機嫌を直してくれたらいいなあとの小さな期待を持っていたが、携帯電話以上の利便性を精霊の力に見出せないでいるため、正直あまり期待はしていなかった。どちらかといえばどうやって妹と対面し、謝ろうかと元来のネガティブさを発揮し、マイナス思考に陥るばかりであった。せめてもの救い、味方としてしゃべることに定評のある愛犬チャベスを小脇に抱えて玄関の扉を開いた。

「ただい、ぎょ!」

思わず「ぎょ!」としてしまった。玄関の扉を開けた純の目に飛び込んだのは、腰に手を当て仁王立ちをした弥恵の姿であったからだ。

弥恵は木曾四天王の巴御前のように今にも大刀と強弓を振り回さんばかりの勇ましく、怒りに富んだ表情をズン、と純に見せつける。天守閣から和歌山の城下町を睥睨するお姫様のようにきれいに切り添えられた前髪の向こう側から、釣りあがった黒目が純を串刺しにするように威嚇していた。

まあ、しかしその怒った顔もなんだかんだでロリ顔なのでかわいいのであるが、今にも純を釜風呂に放り込み、出汁にしかねないおぞましい弥恵の剣幕は彼女がロリであることを万人に忘れさせるほどの迫力を持っていた。

まさかのお出迎え、これは予想だにしていなかった。部屋にこもっているか、リビングで項垂れているのかの、どっちかだと思っていたから。

純は危うくチャベスを小脇から落としそうになる。落ちかけてはいた。

チャベスは小脇から落ちないように純の服を引っつかみながら「あれ? おかしいな?」という風な怪訝そうな表情を純に向けた。純は「少しでも期待した俺がバカだったよっ!」という風なあわあわとした表情をチャベスに向けた。

そんな一人と一匹に向って、

「……お帰り……お兄ちゃん」と弥恵の口からは地獄に落ちた罪人から教わったような、生々しい呻き声が漏れた。

純はせっかく「お兄ちゃん」と呼ばれたのにもかかわらず、「ひぃ!」と小さく悲鳴を上げ、小脇に抱えたチャベスで顔を隠す。兄妹の喧騒に巻き込まれた方はたまったものではない。チャベスは精霊の力を使ったことなど忘れ、弥恵の怒りを一身で浴び、キャンキャンと喚いている。

純は目をぎゅっと瞑って、弥恵から発せられる罵声と暴力に備えた。純の口からは、お経を唱えるように「ごめんなさいごめんなさい」が次から次へと零れ落ちる。

しかし、弥恵の罵声と暴力はなかなか純を襲わなかった。

純は「おかしいな」と思って、チャベスの位置をゆっくりと顔から胸へと変える。

と、純の目に飛び込んだのは愛しの妹、弥恵ちゃんが涙を瞳に溜めているなんともいたいけな姿であった。

純は「まさか」と思ってちらりとチャベスの方に目をやる。ニヤリ、そうチャベスはニヤついた。

次の瞬間。

弥恵はなんと純の腕の中に自分から飛び込んできたのだ。

「ぽむっ」とやわらかい妹の体が純の胴体を直撃する。弥恵の黒髪からは少しお高いシャンプーの香りが「ぽやっ」と薫る。かつて妹と匂いを分かち合おうとして、お高いシャンプーに無断で手を出し、股間をけられ、のた打ち回った純のほろ苦い思い出を持ち出すことはこの際どうでもいいだろう。

妹の弥恵は今まさに純の腕の中にいるのだから。

弥恵のそのたわわに実った二つのファンタジーは現実に純のお腹の辺りに体温とともに感じられた。弥恵はさらにそれを純にぐりぐりと押し付けてくる。


……これが……精霊の力……だと?


純はえもいわれぬ幸福感と高揚感をぎゅっと拳を握ってかみ締める。目頭の辺りに血が溜まってきたのが分かるほど純は興奮していた。鼻血を噴出さないように軽く首をもたげながら、純は泣きじゃくる妹の肩に手を置いてそっと声を掛ける。

「そんなに泣くことないだろ。弥恵は強い子だ。涙なんて似合わないよ」

「えっぐ、えっぐ」

「弥恵、顔を上げて」

弥恵は涙を拭いながら上目遣いに純と視線を合わせた。

「えっぐ、こんな時間までどこ言ってたの? 弥恵、本当に……本当に心配したんだからねッ!」と弥恵の力の無い拳が純の胸板を叩いた。

「そうか、そうか、お兄ちゃんのことをずっと心配してくれていたわけか」

 純は弥恵の髪の毛を撫でながら、至高の微笑みを浮かべた。

 この場面を何回妄想したか、分からない。まさに夢心地。

 けれど、そうそう夢のような時間は長くは続かないのが、人生というものだろう。

 弥恵の泣き声が急にひたっと止んだ。まさに嵐の前の静けさ。

「ええ、……だって兄貴がこのまま私の秘密を抱えていったかと思うと生きた心地がしなくて。もしも他人にしゃべられたらどうしようかって不安で、不安で、不安定でどうにかなりそうで……もし兄貴が帰ってこなかったらウシノコクマイリを夜な夜な決行していたところよ」

 弥恵の声音は悪魔の囁きのように不気味に純の耳に入り、その鈍感な脳味噌に危機を告げた。

「ん? どうしちゃった、のかな?」

「約束しなさい。私の秘密を誰にもしゃべらないって」

 弥恵の力の無い拳がぺたっと開かれ、その手がそのまま鯉口を切ったような勢いで純の襟元を襲った。ロリ顔からは想像もできない馬鹿力で、純は軽々と吊るし上げられた。

「う、浮いてるぅ、俺、浮いちゃってるぅ」

「私の秘密、しゃべるんじゃねぇっていってんだよッ! ああっ! 分かってんのかよッ!」

「……は、はひぃ」

 もう精霊の力なんて信じない。


「磯臭い」

 弥恵は純を吊るし上げたまま、有無を言わせずに風呂場に放り込んだ。まるで牛乳をこぼしてしまったリビングのカーペットのようなぞんざいな扱いである。確かに純の体は先ほど精霊の力とやらの行為によって浴びせ掻けられた海水が半乾きで、周囲に昆布が腐ったような匂いを放っていたのだが。

 純がしばらくの間しょぼんとしょぼくれているうちに、チャベスは半開きになっていたドアを器用に押して風呂場にやってきた。何事も無かったような涼しげな表情をしている。

「どうした少年。そんなにしょぼくれた顔をして」

 純は天国から地獄への階段を一気に転がり落ちてきたような濁った目でチャベスを見た。反応が鈍い。

純は「はっ、チャベスがしゃべったッ!」といって、ドタッと肘から崩れた。

どうやらチャベスがしゃべれるようになったことをショックのあまりに一時的に忘れてしまったようである。

「おいおい、寝ぼけているのか、少年」

 チャベスはやれやれという風に純の懐にこつんと頭突きをした。

「ああ、しゃべれるんだったな……ってチャベスッ! 弥恵の俺に対しての仕打ちをどう説明してくれるッ! 精霊の力とやらはどこのどこにどこいったんだよ!」

 純は磯臭い頭をくしゃくしゃと掻き乱し、煩わしそうに頭を掻いているダックスフントを問い詰める。精霊の力をあまり信じていなかったくせに、純は全ての責任をその力に擦り付けようとしていた。そうでもしなければ妹に吊るされたことの悲しみで精神が破綻してしまう。

 感情が体の中を一回りしたのか、純は「ぐすん」と弱々しく涙を流し始めた。

「や……弥恵に……ぐすん……嫌われちゃったよ……ぐすん」

 チャベスはやれやれと短い前足を純の膝にぽんと置いた。

「まあ、フロに入って涙と一緒にお互いの汗を流そうじゃないか。な?」

 やけにじじ臭いことを言う犬がいたもんだ。純は涙を拭いて頷いた。

まあ、裸同志で語り合おうということになった。


 純はいつものようにチャベスの背中を洗ってあげる。どうもしゃべるとなると勝手が違うようで犬と分かっていても変な気を使ってしまう。だから「かゆいところはないか?」と純は弟に問いかけるように聞いてしまった。

「たまには弥恵君の使っているシャンプーで洗ってくれないかな? 少年が使っているシャンプーは研磨剤が入っていて毛によくないんだ」

「勝手に使うと怒るんだよ。それに弥恵君ってなんだよ。あいつのことはちゃんと名前で呼ぶのか?」

「彼女は人間が出来ている」

「まあ、それは否定しないが」

「つくづく君は妹に対して寛大というか、甘いというか。あんな仕打ちを受けてよく好きなままでいられる」

「当たり前だ。弥恵を嫌いになるはずは無い。弥恵の全部が好きなんだ。弥恵のありのままの姿を見て愛していられるのは俺ぐらいなもんさ」

 弥恵のヒステリーは純にしか行われていないことを純は知らなかった。チャベスは体を洗われている気持ち良さもあって、その辺りはスルーした。

「大した自信じゃないか」

「しかし、弥恵が一体どうして俺の純真な気持ちに振り向いてくれないのか、さらに謎が深まったよ。精霊の力は確かに働いていたんだろう?」

「その通りだ。精霊の力は確かに働いていた。そうでなければ君の胸に飛び込むなんて真似を弥恵君はしないだろうからな」とチャベスはキャンキャンと面白がっている。

 いつもの純であれば真っ先に否定してくるところである。しかし、反論すると思いきや、以外にも自覚症状があるようで、

「悔しいがその通りだ」と冷静に事の実情を受け止め、幸薄そうな下唇をかみ締めている。

「……しかし、どうして精霊の力が働いていたのにもかかわらず、弥恵はあんなにも怒ってたんだ?」

 純はチャベスの背にお湯をかけた。シャンプーを流し終わると、チャベスはふるふると震えて、水気を払い純に向き直った。

「まあ、弥恵君のヒステリーの程度を甘くみていた、という点は否めない。先ほどの弥恵君の行動を分析すると、少年に対しての憎悪と虚偽の愛情が十対十の割合で構成されていた。いくら精霊の力をもってしても弥恵君の少年への怒りに満ちた心を完全に少年への愛で埋めることが出来なかったようだなあ。あまり力を当てにするなよということだろう。まだ私も力を把握しきってはいないのだ」

 純はガックリと肩を落とす。あまり期待していなかったとはいえ、弥恵の怒りは精霊の力をも凌駕するほどに強いのかと。

「しかし少年は弥恵君との確執を免れることが出来たではないか。もしも精霊の力が働いていなければ兄妹の不幸な物語が始まっていたところだぞ」

「確かにこのまま口をきいてくれなくなるよりは大分マシだけれど」

「それに弥恵君に吊るし上げられていたとき君は心なしか恍惚な表情をしていたぞ。プラマイゼロ。ウィンウィンの関係だろ? なあ?」

 悲しいかな、ドSの弥恵に恐怖とともに興奮を覚えてしまったことは愛犬には黙っておく。しかしこう刺激が強すぎるのも困ったものである。光源氏が若紫を愛でるように純は弥恵を愛でたいのである。MにはMなりのいと限りなく歪んだ支配欲を持っているものなのである。出来れば純が欲しがるときにSっけを発してもらいたい。さっきのような生死レベルに関る激しいプレイは本来の目的から大きく外れる。といっても過激な弥恵が嫌いではないことを断っておこう。

「もう一度、精霊の力を使ってみてはくれないか」

 純は風呂につかると二の腕につかまるチャベスに向ってそういった。

「できん。精霊の力は二回までと言っただろう」

 チャベスは風呂が持つ人生観をひっくり返しかねない偉大な力によって一瞬で腑抜け面を作りながらも、浴室に響くいい声であっけなく拒絶した。

「そう言わずに頼む。俺は一度味わってしまったんだ。妹にお兄ちゃんと呼ばれたときのあの精神が一瞬のうちに昂揚し、この世の全てに感謝したくなったあの幸福感を」

「ヘロイン中毒者のようなことを言うじゃないか」

「中毒患者になるよりはとても健康的だろう。なあ頼む。この通りだ」

 純は合掌し、頭を下げた。

「まあ聞け。こればっかりは出来る、出来ないの問題じゃないんだ。一人の人間の精神に働きかける行為は一度っきりと誓約がある。それに精霊の力は半永久的に働き続けるんだ。力は一時的なものじゃない。例えば少年との関係が今までなかった人間に精霊の力を使えばずっと少年が望んだようになり続けるんだ。しかし、だ。弥恵君と少年の場合は事情が少々複雑になる。私が精霊の力を弥恵君に行使したとき、おそらく弥恵君は少年を包丁で刺しかねないほどの憎悪を抱いていたんだ。それこそ精霊の力で完全にコントロールできないほどの怒りだ。その怒りの中、無理やりに精霊の力によって生み出した少年への愛情によって弥恵君はまるで二重人格になったように、少年に向ける感情を両極に二つ持ってしまっているんだ。と、精霊が語りかけているような気がする」

「……それってなんだかやばくないか?」

「少年へ向ける感情の起伏が大きくなるだけだ。日常生活には差し障りないだろう。極端な話をすれば少年への愛情を心の奥底に秘めていても他人に強い愛情を抱きえるということだ。精霊の力を使う前と変わりない健全な状態だ」

「でも、俺に対してはずっとあんな感じなんだろ」

「そうではない。弥恵君の憎悪は少年がもたらした天然ものだ。だからその怒りを少年の力で愛情に変えてしまえばいいんだ。そうすれば弥恵君の精神バランスはひとつになって少年への愛は磐石になり、揺るがなくなるはずだ」

「簡単に言うなあ。弥恵のあの怒りをどうやって抑えろっていうんだよ」

「ちゃんと話を聴いていたか? 弥恵君には精霊の力が常時働いているんだ。それは少年に優しさを見せる隙があるということだよ。その隙をついて弥恵君との仲を睦まじくすればいい」

「なんだそれ? それなんてエロゲ」

「ゲームのように考えれば気が楽だろう」

「……俺、いつもバッドエンドなんだよな」

「……三次元でも駄目な奴は二次元でも駄目なんだな」

「うう……耳が痛い」


「それにしても意外と冷静じゃないか。全ての責任を精霊の力に擦り付けてしまうかと思ったよ」

 純は自慢のストレートヘアをトリートメントしながら言った。

「風呂のおかげ、かな。……俺はチャベスの体を洗っているときが、一番心が洗われるんだ。恥ずかしい話だがな。言葉が通じるうちにいっておくよ」

「……少年」

「……チャベス」

 純は太ましい、いや凛々しい眉毛の下に爛々と光る貴公子の瞳でチャベスをじっと見つめた。

 チャベスもくりっとしたかわいいらしい蒸気で潤んだ瞳で純を見つめる。

カポン……カポン……カポン……。

なんだかぬるま湯に浸かりながら、両者ともにツーンと恥ずかしくなってしまった。

「よせやい、よせやい。……そういう恥ずかしい話は胸のうちにしまっておくもんだぜ」

 チャベスは純に尻尾を向けた。

「わりっ。てへぺろ。こういうことは面と向っていうもんじゃねえな」

 純は後ろ手で頭を掻きながら、てへっと舌を出した。

「……そろそろ上がろうか。ぬるま湯で上せちまうところだ」

「そうだな」

 純はチャベスを抱いて浴槽から片足を出した。

 その時。

「いつまでぬるま湯に浸かってんだよッ! このこんぶ野郎ッ!」

 浴室の扉一枚隔てた脱衣所から弥恵の怒鳴り声が聞こえた。

 どうも純の着替えを持ってきてくれたらしい。万人に周知のことだが、心のとても優しい妹であることは疑いようが無いようだ。

 純は片足をまた浴槽に突っ込んで一瞬で冷えた心をぬるま湯で温めた。


「お兄ちゃん」

 弥恵の純に向ける精神状態はやはり不安定なようで「お兄ちゃん」と呼びながら睫毛の長く、ロリ顔でも気の強そうなその瞳は相変わらずつりあがったままである。

 純は風呂から上がると通常の三倍は着替えに時間を使い、弥恵に顔を合わす決心を固めていた。弥恵の笑顔を独り占めにするという任務において、純の頭の中には戦略に類する必要不可欠な合理主義的思考は未だ成長して間もないという現状がある。何事もスロースターターな純は現状維持という言葉が大好きである。

弥恵はおそらくまだ機嫌が悪いままだろう。とりあえず今日のうちは無理な行動を起さないようにしよう。何よりも地雷を踏まないようにすることが最重要事項である。

地雷とはなんぞや。

 クソゲー?

表紙だけエレガンスな人気アニメの同人誌?

凄く……チェンジしたいです……?

いいや、違う。本当の地雷はそんな生活の片隅に支障のきたすような生半可なものではない。

地雷とは踏んでしまえば即起爆の恐ろしい対人兵器のことである。

純は洗面台の鏡に向い、自分の美しく、太ましい眉毛に唾をなすりつけ、頬を叩いて気合を入れた。

……が、なんだか杞憂だったようである。

 弥恵はテーブルに並んだ夕食を前にして、相変わらずの仏頂面をしながらも、頬を乗せて肩肘を突いていても、「はあ」とくどいようだが兄の自慢のロリボイスで溜息を付きながらも、純の存在をぞんざいには、辛うじてだが扱っていないようである。

夕食の献立は純の大好きなハンバーグと鳥のから揚げとエビフライである。純は心の中で小躍りして喜んだ。なんだか幼稚園児の好きな食べ物ランキングを上から順に選んだような非常に分かりやすい大好物である。

弥恵はロリ顔に似合わず料理が上手い。といっても母に料理を習い始めた頃は、B級メイド喫茶のドジっ娘メイド並みの失敗を繰返した。ゆで卵を圧力鍋で爆発させたり、包丁で指を切って五指全てに防水の絆創膏を巻いたり、クリームシチューに入れるはずだった牛乳を具が煮込まれた鍋を目の前に飲み干してしまうなどの数々の微笑ましい伝説を残していた。そんなときに純が「ああん、申し訳ございません、ご主人様って言って」と弥恵に頼むと、「ぐすん」「うわん」と泣いてしまい、運動会ですら子煩悩を披露しない親父が純の頬を張ったことはとても家庭内暴力とは言えないだろう。

しかし兄の前ではSっけを気取るいたいけな妹はそんな縦横無尽にドジっ娘を演じる自分が許せなかったようで、母の放任主義的スパルタ教育の元でひたむきに努力し、純がぼけっーと、ニヤニヤとその姿を見ているうちに、母から免許皆伝を授かった。何の裏づけもない、放任主義的な免許皆伝であったが弥恵は初めて自信に満ちた表情をそのときに見せたのである。

小悪魔的な八重歯に俯きながらの上目遣い。

舌が唇を濡らして、グロスを塗ったような光沢を生み出す。

思えばその日に初めて弥恵に「きめぇんだよ」と言われたことを思い出して純は少し鬱になる。

しかし、純の好物をこうも並べてくれるということは、妹の機嫌は既に直りつつあるのではないか。と、風呂から上がって冷静さを多少欠く、年がら年中、かに味噌が苦笑するほどの甘い脳みそは早くも楽観的希望的観測に全面同意しかけていた。

 いずれはプレイボーイを気取ることを前提に生きている純は、日頃から女の子の好意にはきちんと恐懼感激、恐悦至極の意を高々と表明することにしている。まあ機会があまり無いのが悔やまれるところだが。

 純は椅子に座りながら、

「うわー、すごい。俺の大好物ばかりじゃないか。弥恵は料理が上手だからな。弥恵の手料理を毎日のように食べることのできる俺は本当に幸せもんだよ」

と、「どやっ!」と言い放つ。あまり褒められた台詞ではないが純の顔は些細な達成感で緩んでいた。

噛まずに言えた。

純は確信する。次の瞬間、弥恵は「はぁーん」と感激のあまりにかすれたロリボイスを発して、エビフライを食べさせてくれるはずだ。「あーん」って。「あーん」って。

「あーん」

 純は無意識のうちに口を阿呆のように半開きにして、そう口走る。

 しかし、弥恵の反応はポカンを通り越して、ヒマラヤの氷河の上に吹いては止まない強風のように冷たく、そっけない。つまり、無反応である。純は慌てて締りの悪い口を閉じた。心なしか少しだけ肩幅が狭くなったように見える。

 純はちらりと弥恵の方を窺う。精霊の力は未だ健在のようで「きもい」と怒鳴りつけてきたり、お玉が飛んできたりはしなかった。純は間一髪で地雷を踏み外したような気がして、ほっと胸を撫で下ろした。

「……お母さんが朝に作っておいてくれたのを暖めただけよ。私、今日は用事があったから」

「そ、そうだったな」

 純は努めて知ったかを装っているが弥恵のスケジュールなど全く把握していないし、聞いても教えてくれない。

 普段の純であればここで会話を終了させてしまう。予定を訊くたびに「うぜぇ」と言われるのが経験で知れていた。三十回ほど「うぜぇ」と言われて本当にうざいと思われてるんだなと純は悟ったものである。人間誰しも悟ってしまうと臆病になるものだ。鈍感をそのまま3Dにしたような純でさえ、その例外ではない。

 しかし、会話を途切れさせてはいけない。エロゲよろしく、純は弥恵を落とさなければいけないからだ。そしてその前提に純に向けられた怒りをまっさらのさらさらに消し去らなければいけない。そのヒントはきっと弥恵の中に隠れているはずだ。まずは弥恵からそのヒントを引き出さなければならない。しかし引き出してしまえば、こっちのもんだ。国語の先生が言っていた。答えは文章の中に必ずあります。

しかし残念。純は現代文が数学よりも苦手だった。

純は期末の現代文のテストの点数を顧みる余裕は無く、精霊の力を信じろ、と自分に言い聞かせる。精霊の力を信じる自分を信じろ、とそんなようなことをどっかの兄貴が言っていたことをお経のように繰返す。

 そしてゴクリと唾を飲み込み、勇気を振り絞り、口を開いた。

「……で、今日はどこへ出かけてたんだ?」

 まるで高校生の娘を持った父親が言うような台詞である。

 しかし、である。以外や以外、弥恵はかぁっと薄く頬を赤く染めた。

「えっ! ……ええと」

 よしっ!

 鈍感な純にはどうして弥恵が動揺しているのか分からない。が、心の中では上半身裸の兄貴と一緒にガッツポーズをしていた。

 そして弥恵はもじもじと上目遣いで純の方をちらちらと盗み見ながらこう言った。

「べ、別に。……お、お兄ちゃんにはか、関係なんてなくなんてな、ないんだからねッ!」

 精神バランスの不安定なツン娘こと高野弥恵は見事に主人公の一言に動揺して語尾を乱す、金髪ツインテール並みのツンデレっぷり披露した。しかももれなくお兄ちゃんのオプション付だ。

 危うく萌え死ぬところだったが、口を真一文字に結んで一筋の鼻血だけという最小限の被害に留めた。純にしてみれば充分及第点であろう。

 純は少し匂いのついた台布巾で鼻の下を華麗にさっと拭うと、ここで一気に攻勢に転じることにする。兄貴は純に向って親指を立てている。

 俺、男になるよ、兄貴ッ!

「関係ないことなんてことはないだろう。弥恵は俺の大事な……そうだ本当に大事な妹なんだよ。弥恵のことが心配なんだよ」

 最後の例えは良く分からないが、弥恵はぽっとなって「お兄ちゃん」と貴公子を見つめるような眼差しで呟いた。

「あ、あの……ね。……は、恥ずかしいぃし」

「恥ずかしがらないで言ってごらん」

 もう一押し。

しかし、

「や、やっぱり、言えないよッ!」

弥恵は頬を自分の掌で包み込んで、立ち上がった。ロリ顔にその仕草はよく似合う。

か、かわええのう。

 って、いけないッ。せっかく針の穴のような光が差してきたところなんだ。このまま部屋に帰られてしまったら……。

しかし部屋に帰るのかと思いきや、それも杞憂だったようで棚からドックフードを取り出して、皿に移していた。

「ほら、チャベス。ご飯だよ」

 チャベスは口元から「ハアハア」と息を漏らしながら弥恵に駆け寄ると、うらやましいことに「いい子、いい子」といわれて頭を撫でられている。その様子を見せ付けられ、純の中の何かが発火した。しゃべる前は全く抱くことのなかった愛犬に対しての嫉妬の炎である。

純に握られた箸は少し歪んだ。折れないのは純の握力が不足しているためである。決して嫉妬の炎がガスバーナーを消す直前のようにふわっふわっしているわけではない。

あの野郎。犬のくせに……。

愛犬への怒りは弥恵がチャベスに向って笑いかけたところで頂点に達した。

普段は動物愛護団体の行き過ぎた愛護にも寛容な純であるが弥恵が関るとなると話はコペルニクス的転回である。しかもチャベスは砂浜でまずい、まずいとひときわ酷評していた、ペットショップでひときわ安いドックフードを、尻尾を振って嬉しそうにがつがつと食べているではないか。

チャベスはちらっと純の方を見た。純と目が合う。

ニヤリ。

純は確かに見た。チャベスはしゃべる能力とともに手に入れた、人間味のある豊かな表情を満遍なく行使して、純に笑いかけたのである。純は心の中で頭をひしっと抱えた。

純はチャベスを睨みつける。

長年連れ添った中である。視線を交わすだけで自然と互いの気持ちは通じてしまう。

(い、犬のくせにぃい)

(ああ、私は犬だよ。少年。これは犬の権利だ)

(さっさと弥恵からはなれろや)

(無理だな)

(ああ?)

(弥恵君が私のかわいさを求めているんだ。かわいいとは罪なことだ。正義でもあるがな)

 チャベスはキャンキャンと吠えて、純に尻を向けた。

 ぐぬぬ。

 純はメス犬を寝取られたオス犬のように恨みがましく喉を鳴らした。

そういえば、と純は思い至った。弥恵の前で会話をしないようにとチャベスとは約束もしていない。しかし長年連れ添った中である。その辺抜かりない。見事に今までのようにかわいいダックスフントを演じてくれている。

しかし、である。

なんだ、あの犬のようなかわいがられ方は。「くうん、くうん」って、さっきまでいい声でタメ口だったろうが。

純は生物の進化の歴史にいちゃもんをつけるかのような、なんとも理不尽な怒りを犬であるチャベスに向けた。しかしこの食卓において既に純は空気と化していた。弥恵は恥ずかしがってか、意図的にかは分からないが純に一瞥もしない。チャベスは意図して華麗にスルースキルを発動させて純の怒りに乗ってこない。弥恵に顎をくすぐられて、目を細めるほどに気持ちよさそうである。

しょぼん。お兄ちゃん、寂しいな。

純はやり場の無い怒りを食欲に向けた。やけになり大好物のハンバーグにまるごとがっついた。

あれ? なんだか冷たい。

どうやらレンジで暖める時間が短かったようである。ハンバーグの中心が少し凍りついている。

とたん、純の歯は強烈な痛みに襲われた。そういえば知覚過敏である。

「いったーいッ」

 純はお世辞にも男らしくない叫び声を上げた。それとともに純の箸に刺さっていたハンバーグはすぽっと独り立ちし、きれいな放物線を描いて、純のカマ声に反応した弥恵の頭上にぽとりと落ちた。

ハンバーグは肉汁と混ざったデミグラスソースを弥恵の黒髪にべったりと付けて床にベタンと辿り着いた。ハンバーグは空中旋回を体験し、宇宙旅行をして人生にやることがなくなったお金持ちの老人のように満足げでもあり、またもう食べないでくださいねという風にまずそうである。

弥恵の精神バランスはここにおいて一気に憎悪に傾いた。

「……」

「ご、ごめんな。弥恵。ハンバーグの中が凍っていて。お兄ちゃん、知覚過敏で」

 弥恵は何も言わずに目元を暗くしたまま、スタスタとリビングを出ていった。そしてすぐに戻ってきた。純の目の前でスタッと止まる。

見ると弥恵の手にはシュミテクトが握られている。

「あ、ありがとう。弥恵、お兄ちゃんこれからシュミテクトで歯をみがっ!?」

 弥恵のシュミテクトが握られていない方の手が純の襟元を掴み、純の無駄口が封じられる。

や、弥恵しゃん?

弥恵はそのまま純の襟元を掴み吊るし上げ、冷蔵庫を背に押しやった。不運にもその衝撃で冷蔵庫の上に不安定に積まれていたタライが純の頭に落下して、ドッチボールのダブルアウトさながらに弥恵のデミグラスソースのかかった頭にも落下した。

ガコン、ガコン。

しかし、なぜタライが冷蔵庫の上にあったのか?

怒りの感情に支配されてしまった弥恵にはそれはどうでもいいことだった。

「……いたい」

 弥恵はポツリと呟いた。純は恐怖でがくがくと震え上がってタライどころではない。弥恵は純の喉元をさらにきつく押さえるとぐっと力を入れた。そしてシュミテクトの蓋を片手で開けた。蓋がスパンと純の足元に転がる。まるで拳銃の安全装置を外し、言うことを聞かない人質の足元に試し打ちをしたような安っぽいギャング映画のワンシーンをみているようである。

「……何か言うことは?」

 喉元の力が相対的に緩んだ。苦しいことには変わりない。けれど搾り出そうとすれば声は出せないことは無いくらいの絶妙な力加減である。

 優しい弥恵は純の弁解を聞いてくれるらしい。まあ、その後に殺されるのが安っぽいギャング映画のセオリーのはずだが。

 @純の脳内は

「が、学校の先輩に百合本貸してもらえるように頼んでみるよッ!」

 わなわなと弥恵の肩が震えている。伏せられた顔がきっと純の世の中を舐めきった緩んだ顔を睨みつけた。

 こうも見事に地雷を踏める人間も数少ないだろう。

 弥恵は純の喉元を締め上げる。

「こ、この糞兄貴ぃいいいいいいいいいッ!」

弥恵の激昂とともに、純の口の中にシュミテクトという多くの日本人から絶大な支持を受ける、知覚過敏に特化した歯科学界の結晶が吹き割れの滝のように勢いよく流し込まれた。

 純は必死にもがき抵抗の意志を見せたが、怒りに満ちた弥恵の前になすすべなく、慣れないシュミテクトの味によって昏迷に陥った。純は普段はガム・デンタルペーストを使っている。純はなんと歯周病にも悩まされていたのだった。

 弥恵は純の口の中をシュミテクトで満たすと空になった容器を即死したように動かないでいる純の手に握らせ、髪を洗いにそそくさと風呂に向った。

 頃合を見計らって、非難していたチャベスが戻ってくる。そして冷蔵庫に持たれかかった純を第一発見した。

「……少年。自分で逝ってしまうことなんてないじゃないか」


「……おえっ」

 水道水で口の中を濯ぎ続け、ざっと小一時間は経過していると思われるが、純の胸の辺りには不快感が刻み込まれてしまってどうしようもない。食道に入ってしまった中量の知覚過敏修復用薬用歯磨剤は重力に逆らうことなく、純の胃袋へと落ちていった。健康への害はないという誰から聞いたかすら覚えていない耳学問が唯一の救いであるが、この不快感の種類は健康云々の問題ではないような気がする。なにせ毎日の習慣で「かあーぺっ」と吐き出している類のものである。構造上少量ずつ出すことに特化した歯磨き用チューブで口の中を歯磨き粉でいっぱいにされ、吐き出すことも許されず、もれなくごっくんと純は飲み込んでしまったわけだ。「また一つ犯してはいけない禁忌を犯してしまったようであるなあ」と純はひとりごち、うなだれた。誰だって旧来の慣習を破るときは罪悪感がつきまとうものだ。

 純は胸を擦りながら蛇口を閉めた。そして大好物の並べられたテーブルを見渡した。喉の奥の方からシュミテクトの残り香が感じられ、とても食べる気になれない。純は地面に落ちたハンバーグを拾うと、生ゴミとして三角コーナーに放り込み、床の汚れを雑巾で拭いた。そして忌々しくてしょうがない用途不明のタライを持って庭の物置に向かい、「あばよ」といって放り込んだ。これでもうタライが落ちてくる心配は無いだろう。

 しかし、タライの心配など弥恵の機嫌に比べれば些細なことである。

 今日はもう弥恵に近づいちゃいけない。お互いに不幸になることが目に見えている。

 純はリビングの隅のバービーハウスのような犬小屋で呑気に寝息を立てているチャベスを無理やり小脇に抱え自分の部屋に向う。

 ガチャリ。

 純は後ろ手で最近部下の評判が上々であると噂されるパパさんの配慮によって設置されたシリンダー錠を閉めた。純はパパさんの配慮を無下にして現在まで鍵などかけたことはなかったのだが、さすがに疲労困憊の態であり、締め切りを中々守らない文豪よろしく錠を施したのである。ざぞかし鍵もビックリしているだろう。

 純は椅子に座り、机の上にチャベスを乗せ、顎をくすぐった。無論チャベスの顎である。今の純に妄想する元気は無かった。

 チャベスは純の手を煩わしそうに丸くなった。

「……眠い」

「起きろ。チャベス」

「……おふっ」

「オフ? オフってなんだよッ! もうスイッチ切れたから話しかけんなってことかよッ!」

「……んふふ」

「なんだよ、なんだよ! バカにすんなよ」

 純はチャベスを何と会議に参加させようと必死である。そこでの議題は当然「弥恵ちゃんの機嫌を直す方法について」である。純の比較的楽観的な悲観的な高邁な精神はたった一日で二度も吊るし上げられたため、中古車ディーラーに何年も売れ残ったままのアメ車のようにガタが来ていた。

 猫の手も借りたい。しゃべる犬ならなおさらである。

 純がチャベスを起そうと躍起になっていると、扉をノックする音が聞こえた。ママさんが帰ってきたのだろうか。純は何の用だろうと思い、ドアに向い、鍵を開けようとした。

「兄貴?」

 純の手がぴたっと止まる。

 ……なぜ弥恵が?

 ドアの向こう側から聞こえてきたのは紛れもなく弥恵の声だ。

 純が弥恵の部屋に本人がいるにもかかわらず、不法侵入することは幾度と無く繰り返された愚行であるが、ここ一年の記憶をたどっても弥恵が純の部屋に自分から訪れたことはなかった。まるで岩戸隠れした東洋の神様がヨーロッパへ歴訪の旅に出かけてしまったような椿事ではないか。

 しかし、椿事だからといって携帯を初めて買ってもらった小学生のようにむざむざと両手を広げて喜んで入られなかった。何せ吊られてシュミテクトだ。弥恵の怒りがひとっ風呂浴びたぐらいで治まっているはずは無いだろう。弥恵は扉の向こうで「兄貴?」と言った。声音から察するにそれほど怒ってはいないように思えるが、性善説で塗り固められた確信などいらぬ。

 純は扉を開ける決心を性悪説で塗り固めた。

しかし、弥恵をどうお持て成ししたらいい。出来れば座布団が欲しい。弥恵殿を上座に迎えるためである。それで少しでも機嫌を直して頂きたい。が、そんなお尻に優しいものが純の部屋にあろうはずがない。

 そんな風に純の思考があたふたと逡巡しているうちに、またドアがノックされた。

「ねぇ、寝てるの?」

 さっきよりも声音が少しだけ強くなった気がする。しかも語尾の方が。最悪の事態は免れたい。最悪の事態とは何だ? ドアを蹴破られて吊るされることさ。

 ええい、ままよ。

 純は鍵を開け、息せき切ってドアを開けた。

まるでトラが涎を垂らしているのを目の前に、檻の扉を開けたような気分だぜ。

純の脳裏には腰の両側に拳をあてて、居丈高に睨みつける妹の姿があった。そして脳内では既に「きもい」「変態」「エロイ」といった耳になじんだロリ声の罵声が高音質で再生中である。

が、しかし、またしても純の杞憂だったようである。

ドアの前では拍子抜けするほどのあっけらかんとした表情で弥恵がロリっぽくちょこんと立っていた。

「もうっ、起きてるんだったら早く開けてよね」

 弥恵は風呂上りにふさわしく濡れた髪に火照った頬を携えていた。バスタオルを肩に掛け、外では着れないようなパステル調のもっこもことしたタオル地のパジャマを着ていた。

純は瞬時に「弥恵ちゃんの私服」という独自のデータベースにこのパジャマを検索にかけた。間髪いれずに赤字でゼロ件と表示される。おそらく今日買ってきたものだろう。恐ろしく似合っている。タオル地特有のもこもこのおかげで胸は環太平洋造山帯のロッキー山脈並みに隆起し、親指を隠してしまうほどサイズの合っていない袖は弥恵の姿をエビングハウス錯視かけていた。要はロリで巨乳であれば見境がないのである。

「……ねぇ、入ってもいい?」

 風呂上りの上目遣いにそう言われてしまっては、姫を守る騎士のような使命感を持って部屋に招き入れるしかない。

「は、はい。お好きなように」と純の声は上ずっている。

 弥恵は何食わぬ顔でするすると純の部屋に入っていった。

どうやら吊られる心配はないようである。純は弥恵に悟られないようにそっと息を吐いた。

「チャベスここにいたんだ。少し心配しちゃった」

 弥恵はそういって先ほどまで純が座っていた椅子に腰掛け、チャベスの頭を撫でている。しかし一向に純の部屋を出て行く気配が無い。どうやら単にチャベスを探しに来たわけではないようである。

 それなら、一体何の用があって……。

 純は万年床の上に胡坐をかいてチャベスとじゃれる弥恵を見つめた。弥恵のかわいさを再認識する。まるで天使である。死んだように寝ていたチャベスがコロッと起きているというちょっとした苛立ちは弥恵のパジャマ姿、もとい天使の微笑みに免じて許してやろう。なにせタオル地だぜ、タオル地。

そして純は弥恵を見つめているうちになんだかふわふわと変な気分になってきた。眼前には純の部屋に弥恵がいるという事実がある。純はカラコムル山脈でユキヒョウに遭遇したような希少性にえもいわれぬ感慨を人知れず抱いていた。

断っておくが感慨だぞ。興奮を抱くなんてことは決してない。感慨だ。感慨。

そんな風に純は豆乳鍋のようなぬるい理性を堅固に維持すべく、誰に届けたいのか言い訳を繰返していた。

「あのね」

 弥恵はチャベスを胸元に抱くとやっと口を開いた。純にいらぬ妄想を掻き立てさせるほどに甘いロリボイスが部屋に響いた。

「は、はい」

 純は上ずった声を上げ、なぜだか正座で次の言葉に備えて待機する。

「あ、謝ろうと思って」

 弥恵は湿り気を残した前髪を触りながらそういった。

「ごめんね」

 その言葉で純の心に掛かった一個連隊で形成され飛行機雲が戦闘機ごと吹き飛んでしまった。

そして純のなけなしのお兄ちゃんパワーが水を得た恐竜の玩具のようにむくむくと膨らみ出し、ここぞとばかりに発動する。

「謝るって何をだい? 弥恵は俺に何かしたかい?」

「もう、言わせないで。……さっきのシュミテクトのことに決まってるでしょ」

 きゃっと恥らうように言った。

「ああ、そんなことか」

 お兄ちゃんパワーがフルスロットルで輪転中の純にはシュミテクト事件など「ああ、そんなことか」という言葉で片付けられる程度のことである。純は悩んでいた過去の自分のことなどささっと忘れ、自慢のストレートヘアをゆっくりとわざわざ両手を使って掻き揚げ、こう言った。

「全く気にしてないよっ」

 歯周病気味の歯茎を覗かせ、語尾にわざわざ促音を付けてまで余韻を残した。もし市原悦子がドアの隙間からみていたら途端に駄目だしを入れるところであるが、あいにく高野家には家政婦を雇う財産も必要性もなかった。

 しかし、普段であればそんな兄の安いオーデコロン並みの色香にやすやすと騙される弥恵ではないが、

「なんだか今日の私ちょっと変なんだぁ」

との自覚症状もあるようで、兄の雑な演技にころっと騙されしまう。弥恵はおでこに手の甲を乗せ、熱っぽい視線を純に向けた。変なのは無論精霊の力のせいである。

今日の弥恵は、「急にお兄ちゃんのことが恋しくなったり」と悩ましげな視線を弥恵は送ったりする。純は精霊の力を使ったことなどおくびにも出さず、普通に照れていた。

そしてその一方で、「急に兄貴を殺したくなるほど憎くなったり」と弥恵は拳を作って机を叩き、ぎろっと純の方を睨みつけたりする。ぞわっと純の背筋が凍りつく。

「本当にごめんね」

 弥恵は手を合わせて、舌をぺろっと出した。片目でウインクするのも忘れない。これで本人にロリの自覚がないのだから大したものである。

「それに、お兄ちゃんにお願いがあって。……ご飯食べながら話そうと思ったんだけど、」

 弥恵は恥ずかしそうに俯いて、

「こんなこと頼めるの、お兄ちゃんしかいないから」と続けた。

純は弥恵を思わず抱きしめてしまいたくなる衝動に駆られた。

いつもの純であれば部屋の中であろうが、家の外であろうが、渋谷のまるきゅう前だろうが躊躇いなく飛びついていたに違いない。しかし只今の高校一年生高野純はお兄ちゃんパワー発動中である。純は脳内で腹筋を始め、欲望に満ちたトゥルーハートを筋肉に変えた。まあ、腹部に力を入れて我慢したということだ。

ここで自然と純の人差し指が静かに顎に当てられた。そして薬を煎ずるようにゆっくりと人差し指が動き始める。


 純の脳内ではなんだかロミオとジュリエットのような雰囲気の中、二人は演劇部の倉庫から盗んできたようなところどころほつれた衣装を身にまとっていた。純の性格上ディティールには拘らないようである。

「これは、一体どうしたというのだろう。なんでも一人で出来てしまう弥恵が僕に頼み事だって? 今夜は雪でも降るんじゃなかろうか」

「もうお兄様ったら嫌だわ。弥恵を涼宮ハルヒか何かと勘違いしていらっしゃるんじゃありませんこと。弥恵は普通の中学生一年生です。私に出来ないことは世の中にたくさんありますわ」

「ははっ、そうムキになるな。しかし、弥恵がわざわざ頼むということは余程大変なことなんじゃないか?」

「いいえ、簡単なことですわ」

「……簡単なことなら、なぜ僕に頼むんだい?」

「お兄様。私がいくら頑張っても出来ないことがあるんです? 何だか分かりますか?」

「……降参だ。意地悪しないで教えてくれよ」

「それではお教えします。それは、」

「それは?」

「お兄様の心の中を知ることです」

「……弥恵?」

「お兄様は弥恵のことをどう思っているのです?」

 弥恵はスカートの裾を摘んでカツカツと純に歩み寄る。

「どうって……目の中に入れても痛くない大事な妹だよ」

 あからさまに困惑の表情を見せる純。

「……それだけ? お兄様は今までただの大事な妹としか見てくれていなかったんですね?」

「弥恵は大事な妹だ。それ以上に何があるんだい?」

「分かっているくせに……お兄様は罪作りな人よ。私のこのお兄様に向けられた愛を分かっているくせに……いつだって分かっていない振りをして私を苦しめるんだわ」

「や、弥恵ッ!」

「触らないでッ、お兄様なんて大嫌いだわ」

「ごめんよ。やっと目が覚めたよ。僕も自分の気持ちに正直になろう」

「……お兄様」

「弥恵、僕は君のことが好きだ」

「お兄様。私もお兄様のことが大好き。あっ……」


「兄貴? 顎から血ぃ出てるよ」

 弥恵のその一言でシャイクスピアも苦笑の全く捻りのないシナリオから現実に引き戻された。

純は慌てて「ムチュー」の形に変形した緩みきった唇を真一文字に戻し、こういった。

「照れるじゃないか」

 純は未だ妄想の中に片足に突っ込んでいるらしい。

「はあ? 何で兄貴が照れるの? 恥ずかしいのは私のほうでしょッ!」

「……スルーしてくれ」

 スルーするも何も弥恵には純が妄想をしているなんてことは分からないし、あまつさえ純が何を妄想していたのかなんて、純が口を割らない限り知れることはない。弥恵には純の一連の挙動が意味不明に移り、憎悪の方に気持ちが傾き始めた。

 しかし、なぜ弥恵が自分の方に恥ずかしがる権利があると主張するのか。妄想の世界にしばしばご優待されていた純には見当がつかない。が、たまらず口走ってしまった。

「……まさか今付けてないのか」

 純の視線が弥恵の胸元を集中攻撃し、鼻血がいとも容易く決壊した。純の手が弥恵の胸元に伸びる。

 ……まさか……タオル地の向こう側には。

 弥恵は顔を少し赤らめ、わなわなと胸元を隠しながら、

「喧嘩売ってんのッ!」

 そう言うが早いか、弥恵はすらりと伸びる長い足で純の顔面めがけて、回し蹴りを放った。最後の一瞬まで畳まれた右足は、一切余計な軌道を描くことなく正座で待機中の純の頬骨にまで達した。弥恵の右足の甲は少し赤く染まっていたが、弥恵は気にせずにまた椅子に座りなおした。弥恵は去年まで空手道場に出入りしていたのである。

 純はしばらく万年床の上で気持ちよさそうに伸びていたが、意識を取り戻すと何事もなかったように正座して弥恵に向き直った。

「で? 何の話だっけ?」

 段々と弥恵の家庭内暴力にも抗体が出来始めてきているようだ。

一方の弥恵も何事もなかったように話し始める。

「だから、見たでしょ……私が百合本読んで……」

 語尾がごにょごにょとしていて聞き取れないが、弥恵はどうも百合本を読んでいたところを秘密にしておいてほしいらしい。それならば砂浜から帰ったときに吊られた状態で約束させられた。純は妹との約束は必ず守る。部屋への不法侵入については「約束はしていない」との純の苦しい言い訳があるのでここではスルーしておく。

「誰にも言わないって、安心しろ。大船に乗った気持ちでいてくれ」

 歪んだポリシーを背に純は胸を張った。この決意を褒めてくれといわんばかりの張りようである。が、

「そんなの当たり前でしょッ! この際だから言っておくけど、私、兄貴の緩みきった口なんてこれっぽちも信用してないんだから。その自信に満ちた表情、腹立つのよッ!」

 弥恵は純の自信に満ち溢れたポリシーを一蹴した。とたんに純はしょぼくれ、指をくわえんばかりの慄き具合である。ロリボイスであったことが不幸中の幸いであった。

「って、そんなことはどうでもいいんだよっ!」

 なら言わないで欲しかったと思う純。

 弥恵は腕を組み、落ち込む純に構わずに話を続けた。

「……私」

 次第に弥恵の顔が深刻になっていく。深呼吸しているからだろうか。

弥恵は堪らずといった感じに純の机の引き出しを開け、壊れたシャーペンを取り出しペン回しを始めた。手の方を見ずに高度な技を次々に披露する。シャーペンが弥恵の指の先で生きているようにするすると動いている。

純の視線は自然とそちらに移る。いつの間にか近所のお兄ちゃん達のミニ四駆レースを見るように純は弥恵のペン回しに夢中になっていた。

「……実はね……」

 うん、うん。実話ね。

「……比呂巳のことが……」

 うん、うん。比呂巳の琴がどうしたって。

 純は繰り出される技ひとつひとつに見入り、観客のお手本のようにいちいち歓声と拍手を送っていた。

「……好き、なの……」

 ん? 今なんて言った? 好き? 誰を? まあ俺じゃないことが分かってる。

 純がはっとペン回しの熱狂から冷めると、弥恵が顔を真っ赤にさせて部屋から出ていこうとしていた。

 そうはさせるかッ!

 なぜ純がそう行動したのかは純にも分からない。ただ、ここで逃がしてしまっては互いに不幸になる、とかなんとか思ったわけである。

 純は立ち上がり弥恵の肩を捕まえようとした。

 しかし、純の膝から下は血流が滞り、中枢神経・末梢神経に障害が発生し、力が入らない、電気ウナギに絡みつかれているといったような異常事態に陥っていた。

 そのような異常事態で息せき切って人間を追いかけるとどうなるか。

 純が伸ばした手の平は壮大に弥恵の肩を空振りした。しかし、差し出された手の平は何かを捕まえずに入られない。それが宇宙の真理である。誰が純を責められようか。責めて差し支えないのは純白のおパンツ様を披露してくれた弥恵以外にいないだろう。

「いいやああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」

 例によって純はボコボコにされたということは言うまでもない。


「ごめんね。お兄ちゃん」

 弥恵はしゅんとしていた。

しゅんでるという言葉はこういうときのために使うんだったっけ?

便宜上は関西地方に分類される和歌山県であるが、実際は紀州地方といったほうがいい程に生活様式その他諸々がザ・紀州であるために本場大阪の言葉遣いは良く分からない。

しかし曖昧さを由とする現在高校一年生の高野純である。

しゅんでる、しゅんでる、しゅんでると脳内で何回か繰返しているうちに、その意味は「かわいいロリっ娘がしゅんとする様子を表す動詞」ということになった。用例は以下のようになる。大阪人の方には申し訳ない。

「弥恵がそんなにしゅんでしまったらとお兄ちゃんもしゅんでしまうな」

「……」

 純はかわいいロリっ娘ではないのだが、その辺曖昧さを由とする純である。全く抜かりはない。アクセントの位置すら前と後ろでバラバラで、全く統一感がない。

まあ細緻な議論は言語学で生計を立てている人間に任せるとして。

潤んだ弥恵の瞳に映った純の顔にはカーゼがモザイク壁画のようにペタペタと敷き詰められていた。カーゼの奥からは茄子漬のようなきれいな群青色が覗いている。見るものが見れば恣意的に生み出されたその前衛的な造形美に感慨を抱くかもしれない。

純の顔がこんな風に美しさか醜さのどちらかを極端に演出している要因は、ずばり怒り狂った昇り竜のような弥恵の拳なわけだが、当の本人は純によればしゅんでしまっている。弥恵はサナトリウム文学に出てくるヒロインのように青白い、自身の手の甲をゆっくりと擦っていた。だからといって弥恵の拳は傷ついていることもなく、去年まで道場で巻き藁を叩いていたこともあり、もう五、六時間は純をぼこぼこに出来そうなくらいの耐久性を人知れず誇っていた。  

その耐久性を試すことなく済んだのは純と弥恵を生んだ実の人、弥恵に良く似たロリ顔と巨乳の持ち主であるママさんのお陰であった。ママさんが仕事から帰ってきたのは丁度向こう両隣まで弥恵の金切り声が轟いた頃合。通常シフトで週四回は繰り広げられる兄妹喧嘩には散々慣れていたママさんだったが、今晩の弥恵の金切り声には心底驚いたようである。驚きすぎて新入社員の可愛い女の子が絶賛残業中の仕事場に引き返し、「飲みに行こう」と誘おうかなと思案したほどである。しかし、そこは二児のママさん。その根性の座り方には昨今の日本人力士が見習うべきものがある。

ママさんはたすきを掛けるようにブラウスの袖をぐっと持上げ、二階へと通ずる階段の前に立った。二階からは泣きじゃくりながら平謝りしている純の声と悪魔に取り付かれたような、信じたくはないが実の娘の罵声がくっきりはっきり聞こえる。

「弥恵、それ以上は駄目……。それ以上は遺産相続のときにまで残ってしまう遺恨を生むわ」

ママさんはそう呟くと一気に階段を駆け上った。純と比べ物にならない程の忍者走りである。いや、正しくはくノ一走りというべきか。さすが雑賀衆の末裔と噂されることだけはある。

ママさんは弥恵の部屋に転がりながら華麗に飛び込んだ。

「おやめなさいっ……ってあれ?」

しかし兄妹の抗争が繰り広げられているのは純の部屋であった。

「ちぃいっ! ぬかった」

ママさんも弥恵が純の部屋に入りたがらないことを知っていた。だから真っ先に兄妹喧嘩の多発地帯である弥恵の部屋に飛び込んだのである。ママさんは己の俗世に歪み、衰えた野生の感を悔やみ、唇を噛んだ。

ママさんは純の部屋に向かう。純の部屋のドアノブを引っ張る。

「あ、開かない」

 なんと純の部屋には鍵が掛けられていた。

と、そこで嫌な妄想がママさんの脳裏を過ぎった。

まさか、純が弥恵を部屋に無理やり連れ込んで……。

「SMプレイを……」

 日常の兄妹喧嘩が一見するとSMプレイのようなのでママさんの脳裏には「おーほっほっほ」と言いながら鞭を振りかざす女王様の弥恵と縄で縛られ恍惚の表情を浮かべる純の姿が容易に想像できた。

「あ、開けなさいっ! 純ッ! 弥恵ッ! 何してるのッ!」

 ママさんはドンドンとドアを叩くが一向に開く気配がない。弥恵の罵声は次第に大きくなっている。ドアの向こう側ではプレイ(?)が更にエスカレートしているようだ。

「ああん。ら、らめぇ」

 純の喘ぎ声が漏れる。

「声上げんじゃねぇ。このクソ野郎ッ!」

 弥恵の罵声がすかさず飛んで、純の喘ぎ声すら黙らせる。

 ママさんは絶句した。

 ……なんてこと……惚れ惚れするほどの女王っぷりじゃないッ!

 ママさんは思わずひたっとドアに耳を当て雑音の多いAMラジオを聞き取るみたいに、真剣に弥恵の罵声を耳で拾い始める。

 ママさんは娘の罵声を聞きながら自分の人差し指を甘噛むと恍惚の表情を浮かべた。ママさんは地震計のように山あり谷ありの激しい紆余曲折を経て現在ドM真っ盛りであった。

「……仕方ないわね」

 このままでは純の命が危ないのだ。

べ、別に弥恵に罵ってもらいたいわけじゃないんだからねっ!

ママさんはドアから半歩離れ、助走を付け、

「どうりゃあああああああああああああああっ!」

ドアを蹴破った。

「弥恵ッ! 罵るなら私を罵りなさいッ」

 思わず本心が出てしまった。

「っじゃなくて、」

二人の子供の手前これは恥ずかしい。ママさんはその場で一回転、仕切り直しである。

「二人とも、もう止めなさいッ!」

 ママさんの目の前では想像通り過酷なSMプレイが繰り広げられていた。予想外だったのは弥恵がズボンをはかずに純白のパンツをばっちりお披露目しながら、マウントポジションでぼこぼこにしていたということだ。

「まあ、弥恵も乗り気じゃないの」

 娘の成長にママさんは頬をぽっとさせ、思わず悦に入ってしまった。

 純はママさんに気付き、無人島から石油タンカーにSOSのサインを送るようにヘルプの視線を目一杯瞬かせる。

 一方弥恵は怒りに心身ともに乗っ取られてしまっているためにドアを蹴破ったのにもかかわらず、一向にママさんに気付かないでいる。

「仕方ないわね」

 ママさんはコキコキと肩を回し、ぐっと伸びをした

「弥恵ッ!」

 ママさんは弥恵の頬をがしっと掴むとぐいっと顔を引き寄せる。そして間髪いれず、ママさんは唇で罵声を次々と作り出す弥恵の唇を塞いだ。

「むちゅう」

ママさんの両手は弥恵の首筋をつたい、腰に回り、弥恵はがっちりとロックされてしまった。

「んーんーんー」

弥恵はジタバタとママさんの腕の中で暴れていたがママさんの舌が弥恵の中に入っていくにつれて、弥恵は気持ちよさそうに瞳を閉じて、ブレーカーが落ちたように完全に沈黙した。

 純は隙をついて母と娘の濃厚なキスシーンをなるべく視界に入れないようにしながらせこせこと脱出した。実の母と実の妹のキスシーンほど実の兄にとって眼の毒になるようなものはない。

「ママ?」

 弥恵の唇とママさんの唇が糸を引きながらそっと離れ、弥恵が甘えた声でママさんを呼んだ。

「どう落ち着いた?」

 ママさんはあっけらかんとしている。ママさんの包容力は遺憾なく発揮され、

「ふぅん」

 と弥恵は力なくこっくりと頷いた。

「よし。弥恵はいい子だぞ」

 ママさんは弥恵と額を合わせて笑いかけた。弥恵もつられて笑った。

「……ねぇえ?」

「何?」

「もっと……ダメ?」

「もう、弥恵は甘えんぼさんなんだから」

 こんどは弥恵の唇がママさんの唇を塞いだ。

 純は母と娘の仲むつまじいワンシーンを出来るだけ邪魔しないように怪我の治療のため階下に降りた。

以上のような純にとってはなんとも後味の悪い寸劇がなかったとかあったとかで、現在、弥恵と純は向かい合って座っていた。

純は思う。

今日という日、何度話の腰が折られたであろうか。

兄妹の幸せのためには上下関係、SMの区別なく、対等に話が進められるべきである。

ということで急遽部屋を移動することになった。純と弥恵に遺伝子を分け与えた実のパパさんの書斎である。

書斎にはどこぞの探偵事務所のように中央に灰皿の置かれた長方形のテーブルを挟んで、二つのソファーが設置されている。これによって女王と名のない平民の身分の差を埋めることが出来るだろうとのママさんの考えである。

女王と名のない平民の代表こと弥恵と純はそれに浅く腰をかけるようにして長年連れ添った熟年夫婦が離婚届を目の前に塞ぎ込むように向き合っていた。チャベスは弥恵の膝の上にもれなくついて来ている。

そして前例を無視して横暴に振舞う裁判官のようなニタニタとした表情で、ママさんが机に深く座っていた。

ママさんの手にしたグラスの中でコロンと氷が音を立てた。注がれているのはパックから取った安いウーロン茶であるが大正モダ二ズムを意識した静謐を気取った書斎のお陰か、本棚に飾られたウイスキーの中身と見間違えないこともない。だから純はママさんが酔っ払って頬を紅くしていると思っていた。しかし、ママさんが頬を昂揚させている理由は娘と息子のどろどろとした恋愛活劇に対してだった。そしてママさんは少女マンガを読む小学生のように瞳をわくわくと輝かせていた。

しかし闘争の理由がたかが純白のパンツ一枚の出来事だと知ると、ママさんは一気に冷めてしまったようで、机に年齢に不相応なグラマーな両足を乗せてつまらなそうに「会社の女の子たち全員連れて豪遊したい気分だわ」と純を睨みながら文句を言った。

 一方で純は顔面に全治一日とも一週間とでも解釈の可能な激痛を人知れず我慢しながら、弥恵の発した一言を考えていた。純白のパンツによって危うく記憶から失せてしまうところだったが、弥恵は勇気を振り絞って兄貴に一世一代の告白を行ったわけだ。

 しかし、なんとも純の心の内は複雑すぎてニューロンがぶちぶちとショートしている。

取り合えず、驚いてみることから始めよう。話はそれからだ。

「な、なにぃっ! 比呂巳のことが好きだってぇえっ!」

 お膳立てもなし、純がいきなり話を切り出したものだから、弥恵のこめかみには細い血管が十字型に浮かんだ。弥恵は純への敵意をママさんのキスによって一時的に沈められたが、精神バランスが不安定であることに変わりはないようだ。チャベスが危険を察知して弥恵の膝からふらりと降りた。

 弥恵の手がすばやくテーブル上のウーロン茶が注がれたコップに伸び、パシャリと純の顔目掛けて液体が浴びせかけられた。

「こらっ! 弥恵、そういうことするのは上司にセクハラを受けたときまで取っておきなさい!」

 ママさんにそういわれ、弥恵ははっと一瞬で片方の羽根を失ってしまった天使のような儚げな表情に戻った。

「お兄ちゃん、ごめんね。……やっぱり今日の私何だか変だわ」

 弥恵は頭痛持ちの女子高生のように額を押さえる。

 一方水を浴びた純は濡れた顔を拭かず、「気にしてないよ」という微笑を見せた。ポタポタと雫が垂れている。既に純は弥恵の暴力に対してかなりの免疫を身に付けつつあった。「気にしてないよ」の微笑も強がりではなく、本心から出ているようである。いつになく真面目な表情にウーロン茶が垂れている。

「弥恵ッ! 俺は真剣なんだッ! お兄ちゃんに正直に話してくれないか?」

 純の他を圧巻する情熱に弥恵はドキッと心打たれたようである。

「……お兄ちゃん。う、うん」

 弥恵はぐっと拳を握り締め、コホンと小さく息を吐いた。

「私、比呂巳のことがね」

 どっくん、どっくんと純の心臓の音。

「大好き、キャッ」

 純は真面目な顔面のまま、心の中でがっくりと項垂れた。やはり、恋愛対象は比呂巳であったのだ。そして百合本とどうでもいい第四話と純に向けられた尋常でない怒りを手がかりに考えてみよう。って、考えるまでもない。

弥恵は女の子が好きなのだ。

 そう純の回転の遅い頭でも断定口調の確信が得られてしまった。しかし往生際が悪いのが純の良くも悪くも特性である。純はふっと涼しげな表情を作ると質問を矢継ぎ早に発した。

「比呂巳って女の子の比呂巳?」

「うん」

「比呂巳ってあの比呂巳か?」

「うん」

「比呂巳って隣に住む広瀬さんちの比呂巳か?」

「うん」

「比呂巳って弥恵と一緒の中学に通う比呂巳か?」

「うん」

「比呂巳って弥恵の幼馴染の比呂巳か?」

「もうッ! 比呂巳って言ったら比呂巳よッ! 兄貴ふざけてんのッ!」

 純はテーブルの向こう側から飛んできたクッションを華麗に避けると最後に一番聞きたいことを聞いた。

「……それは親友という意味ではなくて?」

 この質問で全てがはっきりする。そして希望が費える質問だ。

「違うのッ!」

と即座に否定の言葉が飛んできた。バシッとテーブルに弥恵の手の平が垂直に落下した。この場所でなかったら今頃純は意識を失っていたことだろう。

 純はそんな食い気味に否定せんでもと思いながらも、

「ですよねー」と相槌を打ってしまった。どこぞの不動産屋か。

弥恵はどんどんテンションを上げながら、おそらく純への怒りの興奮と合い重なり、次々と比呂巳への抑えきれない愛情を語りだした。長らく秘めていた想いがここに来て一気に噴出したのだろう。

弥恵はひとしきり語りつくすと、

「私、もう手を握ったり、腕を組んだりするだけじゃ我慢できない」

 弥恵はひしっと自分の体を抱きしめた。

「広巳とあんなことやこんなこともしたいのッ!」

まさか妹からそんな言葉が発っせられるとは。お兄ちゃんちょっぴり悲しいな。と思いながらもしっかり興奮している純であった。性の目覚めとは恐ろしい。

「って何で兄貴にこんなことまで話さなきゃいけないんだよッ!」

 そう言いながら弥恵は悶えるように机の上に無造作に置かれた巨人の応援メガホンを手に取り、ポカポカと純の頭を叩いた。巨人製だけあって当ると痛い。テーブルという両者の安全を保証する境界線は既に運動会の後の校庭の白線のように空気である。

純はクッションを盾にして弥恵のとめどない攻撃から免れようとする。純はこのとき程クッションに感謝しようと思ったときはなかった。MはMでも痛いのは嫌なのである。このようなわがままなどっちつかずの一貫性のなさが純の特性である。天野が純を許せないのもこの当りに原因があるのかもしれない。まあ、そんなことはこの喧騒の中どうでもよろしいだろう。既に今はどっちの弥恵なのか見当がつかなくなっている。

「弥恵ッ!」

 ママさんが止めに入る。今日三度目のキスである。

「ふうん」

 途端に弥恵はとろんとした表情を浮かべて静まる。一体口内ではどんな作法が繰り広げられているのか。

「それにしても以外ね。弥恵がこのことを純に話すなんて」

 どうやらママさんは弥恵が比呂巳のことを好きだということを知っていたらしい。そういえばママさんは純が話を切り出したときも驚いていなかった。

「……私が女の子好きなの兄貴にばれちゃったし……それにお兄ちゃんに比呂巳との中を取り持ってもらおうと思って」

「ええっ!」

「明日の夜、比呂巳をパジャマパーティーに招待してるの。兄貴じゃ頼りないけど、味方はいないよりいた方がいいし。……私、きっと、比呂巳を私のものにしてみせるわ」

「弥恵、よく言ったわ。それでこそ私の娘よ」

「ママッ!」

 ハシッと親子は純を置き去りにしたまま抱き合った。

「もちろん協力してくれるわよね?」

「えっと……」

「とにかく協力してッ!」

「い、いや、でも……」

「お兄ちゃんはリベラルで同性愛にも理解があるんでしょッ!」

そういえば夕方ぐらいにそう口走った気がする。

弥恵の柔らかい手が純の手を掴んだ。

「お願いッ! お兄ちゃん。お兄ちゃんしか頼れる人がいないの」

 うるうると弥恵の瞳が純を見つめる。潤んだ瞳が純を射すくめる。

これは……断れない……。

まあ、断ったところでぼこぼこにされるであろうし、弥恵との関係も悪化するに違いない。それに弥恵の恋愛対象は女の子である。見ず知らずの男子ならまだしも、相手は比呂巳である。思春期の少女によくある気の迷いであろう、なんて純は自身の思春期を棚に挙げ、弥恵の思春期を甘くみた。

「……よしッ! お兄ちゃんがんばっちゃうもんね」

「わーい。お兄ちゃん大好き」

チュッ。

純の頬に弥恵の唇が軽く触れられ純の理性は軽く吹っ飛んだ。途端、誰かとこの喜びを分かち合いたくなる。純はチャベスを抱きかかえ、「ありがとう」とそっと耳に囁いた。




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