3.雨降ってなんとか(2)
――姉さんが、戻ってこないの。
アリヤの言葉の意味が、最初コウイチにはわからなかった。
一度狩りに出たら数日は戻ってこなくても当たり前というのは、ほんの数日前に聞いた話だ。
レナファが狩りに出たのは今日。なら、あと数日は戻ってこなくても不思議はない。
「違うの」
コウイチの訝しげな表情と見て、アリヤが小さく頭を振る。
持ち上げて見せたのは、コウイチも使ったことのある水を入れて持ち運ぶための革袋だった。
「……これは」
「姉さんがいつも使っている水袋。狩りに出かける時は、いつも持っていったのに……」
広い森の中、水分補給なら手段はいくらでもあるだろうが、それでもわざわざ置いていったりするものではない。
アリヤの話では、今までも何度か忘れ物をしたことはあったらしい。そして、今までは気づいたらすぐに戻ってきていたことも。
もうすでに太陽は空高く昇っている。
いくら節約して飲まずにいたとしても、すでにレナファも気づいているはず。なら戻ってきていてもおかしくはないのだが。
気になったのは、別のことだった。
「その……レナファ、さんのことなのだが。何かいつもと変わったところとかは、なかっただろうか」
「変わったこと? ……そういえば、いつもだったら狩りに出るときは前日までに言っていくのに、今回はいきなり今日になって行くって言い出したのが気になったけど……」
眉をひそめてのアリヤの問いに、コウイチは顔をひきつらせる。
原因は、ほぼ間違いなく昨日の一件だろう。
自分と一緒にいるのがそれほどイヤだったのか、それとも他の理由があるのか――
「もしかして、何か知ってる?」
「……いや」
昨日のことは、あまり話したいことではない。教えてどうなるものでもない。問題は、これからどうするか、ということなのだが。
「本当に行く気?」
アリヤの問いに、ただ頷く。
レナファを探しに行くと言ったのは、責任を感じたからではなく。
ただ、昨日のことを黙ったままアリヤと二人でいることに重圧を感じたからだ。
「ならあたしも――」
詰め寄るアリヤに、首を振ってみせる。
「行き違いになったら、いけない」
「でも……」
「もしかしたら、もう少しすれば戻ってくるかもしれない。その時、誰もいなかったら彼女も心配する。……だから、ここで待っていてほしい」
「……ん。わかった」
渋々と、それでも自身を納得させるようにアリヤが頷く。
そしてちょっと待って、と言い残し、家の中から二つの皮袋を取ってきた。
「……これは?」
「水と干し肉。必要でしょ?」
ん、と不愛想に押しつけてくる。
お礼を言いかけ、アリヤの目に隠しきれない不安の色が混ざっていることに気づいた。発作的に、自分のことしか考えていない自分自身を殴りたくなった。
その反動だろうか。
「っ……姉さんは、僕が連れて帰る」
気付けばそんな言葉が、口から飛び出していた。
驚いて目を丸くしているアリヤに、おどおどと付け加える。
「あ、いや、必ず、とは言えないけど、できれば……」
「兄さん兄さん、そこは必ず、って言い切るところッスよ」
カセドラの突っ込みは無視するとして。
慣れないことを言ったせいか、顔が熱い。落ち着かずに目を泳がせた。
そんなはたから見れば滑稽な様子に、ずっと強ばらせていた表情を崩してアリヤが笑う。
「そんなに気負わなくていいわよ。それよりもあんただって迷っちゃうかもしれないんだから。危ないと思ったらすぐに戻ってきなさいよ」
「いや、だが」
「……コウイチ」
言い聞かすような言葉の中に、わずかに心細さを感じたのは錯覚だと言い聞かせた。人から頼られるような、そんな立派な人間になった覚えはなかったから。
すでに見飽きた感のある森の中。といっても、いつも立ち入るのは外周部だけで、奥深くに入ったのはこの場所で目を覚ました時だけだ。
同じような風景が続く森の中は、焦燥感をひたすら煽りたてる。
「……」
早く。
「兄さん」
早く。
「ちょっと、兄さん?」
何が起こったと決まったわけでもないのに、焦りばかりがつのっていく。
――レナファは、無事だろうか?
最初はそれほど深刻に考えてもいなかったが、歩き始めてから芽生えた不安は変わらない風景に圧迫感を感じているせいだろうか、少しずつ大きくなっていった。
単に森の中で迷子になっているならまだいいが、レナファにとっては知り尽くした場所だろう。それは考えにくい。なら、彼女の身に何かが起こったと考えるべきだった。
「兄さーん、無視するなんてひどいッスよー」
「っ……!」
ぴたりと足を止め、コウイチはさっきから周りを飛び回っていたカセドラに険しい眼差しを向けた。
「うわ、ガラの悪い目つきッスねー」
「言いたいことが、あるなら」
「焦ってもいいことなんかないッスよ」
あっさりとした物言いがなんだか苛立たしくて、奥歯を噛みしめた。直接的な行動に移さないように、顔を伏せて拳を握る。
そんなことは、わかっているのだ。だが、それでも。自分のせいではないと思いながらも。自分が来なければ。そういった思いが、さっきから脳裏をかけ巡っている。
「なに考えているかだいたいわかるッスけどねー、それをいま考えても意味ないッスよ?」
「っ……!」
だから、そんなことはわかっていると――
頭の中が真っ白になるような激情に突き動かされて、コウイチは勢いよく顔を上げた。
直後、目を丸くした。
「……あへ? おほひほふはひっふは?」
「……いや。いったい何を」
逆さになったカセドラは、口を横に引っ張っていた翼を離すと、くるりと体を反転させる。
「兄さんが変に焦っていたみたいなんで、落ち着いてもらおうと。で、おもしろくなかったすか?」
あっけらかんとカセドラが言う。
ガス抜きをされたように頭が冷え、がっくりと項垂れた。自分のしようとしていたことが、たんなる八つ当たりだったと気づかされたからだ。
「じゃあさくさく行くッスよ~。案内はオイラに任せるっす!」
(案内……? ……っ!)
言葉の意味が一瞬わからなかったのは、自分自身に嫌気がさしていたから。気づいた時にはカセドラに詰め寄っていた。
「レナファがどこにいるか、わかるのか!?」
「この森でのことだったら、だいたいのことならお見通しッス」
ふんぞり返るカセドラ。
(……そういえば)
最初に会ったときは、外まで案内してもらった。カセドラが自分よりもこの森に詳しいのは間違いない。最初から頼ればよかったのだ。
そんなことも思いつかなかった。それほど自分は、焦っていたのか。
あまりの馬鹿馬鹿しさに笑いたくなったが、その衝動はなんとかこらえた。
「なら、カセドラ。案内を……頼む」
「ういッス。じゃ急ぎで行くッスから、遅れないようについてくるッスよ」
言いつつもすでに先を行くカセドラ。
コウイチは一度脚を張ると、気合いを入れてその後を追った。
◆
枝葉が色濃く茂り、昼間だというのに日の明かりの多くを妨げている。
むせかえるような木々の匂い。いつもだったら落ち着くはずのそれらは、今の彼女にとって知覚する余裕もなかった。
「っ……!」
右の足首が痛む。軽く捻っただけのはずが、その後の無理がたたってひどく悪化していた。
それでも、と老木の幹に体を預けながら思う。
それでも、死なずにすんでよかった――
いつもだったら、見つけても身を潜めてやり過ごす角猪を獲物と見定めたのは単なる気まぐれではない。
それはコウイチと村に運んだ角猪に比べれば、たいぶ体も小さかった。まだ成長途中の子供だったのかもしれない。
はらんでいる雌と子は狩ってはならない――それは父から受け継いだ教えだったが、今ではすっかり自分にも根付いているはずだった。
それを破ってまで行った狩りは――言い訳のしようもなく失敗した。
放った矢は初めて狩りをした時のように、無駄に力み、急所を外した。
その後、怒り狂った角猪に追い立てられることになった。
「っ……」
体を抱きすくめる。はっきりとした殺意を感じた体が恐怖から立ち直っておらず、震えていた。
今までは、狙われれば逃げるような獲物ばかりだった。逆上し、殺意を向けてこられたのは初めてだった。
それでも生き延びられたのは、運がよかったからにすぎない。代償も、転んで痛めた足だけ、という安いものだった。
死んでもおかしくなかったのだ。運がよかった――
安堵の溜め息を吐くと、今度はろくに歩けもしない状況で一人でいることへの不安がこみ上げてくる。
(……アリヤ)
自分にはもったいないと思えるほど、しっかり者の妹。抱きしめて、その温もりを感じたい。
「……っ」
ここでは叶えようもない望みに、唇を噛みしめる。
ただ、二人で平穏に暮らせればそれでよかった。
昨日、偶然耳にした会話を振り返る。
村長に嫌われているのは知っていた。それでもまさか、追い出されるほどとまでは思ってもいなかった。
あの話を聞かなければ、角猪を狩ろうなど思いもしなかっただろう。そして、今も一人で動けなくなっていることもなかったはずだ。
「……」
その発端となったある人物のことを思い浮かべると、胸中になんともいえない感情が沸き起こってくるのを感じた。
大人しそうで、どこか幼い感じのある、自分と同じ年代のどこにでもいる男性。
彼がいなければ、村長も自分たちを追い出そうとは思わなかったに違いない。
同時に、昨日の会話の流れでわからないところもあったが、それでも彼が追い出されようとしている自分たちを庇おうとしてくれたことも知っている。
(悪い人じゃ、ない……)
そう思うのだが、いなければよかったのにと思わずにはいられない自分がいる。そして、そんな自分に嫌気がさす。
それでも、いなかればよかったのにと思わずにはいられなかった。
相反する感情がぶつかり合い、心を乱し――それでも狩人として磨かれた感覚は、近づく何かの気配を見逃しはしなかった。
「……いた」
聞き覚えのある、ほっとしたような声。まさかと思って顔を上げると、今もっとも見たくない顔が目に入る。
「なんで……?」
汗みずくで、肩で息をしているコウイチがそこにいた。
◆
ゼーハーゼーハーと、まるでフルマラソンを走りきった後のランナーのように息を荒げながら、コウイチは近くの木に寄りかかった。
驚いた顔のレナファを見て、安堵で表情をゆるめる。自信満々で先を行くカセドラを疑ったわけではなく、先に自分の体力が尽きるかもといった心配が杞憂に終わったからだった。
(ここに来て、いくらか体力がついたかもと思っていたが……)
思っただけで気のせいだったらしい。
それはさておき――
「なんで、ここに……?」
「いえ、その……アリヤから、あなたが水を忘れたと」
言われて、レナファが腰のあたりをまさぐった。
(……もしかして、気付いてなかった?)
だとしたら、よほど何か別のことに気を取られていたのだろうか。
「それで、私を探しに……?」
「ええ――あの……もしかして、足が?」
横向きに座っているレナファの、むき出しの足首がひどく腫れていた。
骨折か、捻挫か。わからないが、自力で歩けるような状態ではないように思えた。
「……とにかく、帰りましょう」
言いながら、肩を貸すつもりで手を差し伸べる。来た時よりもはるかに疲れるだろうが、それ以外に方法は思いつかないので仕方ない。
――が。
「……あなたにだけは、助けられたくありません」
「え……」
脇を向いたレナファの硬質な声に、コウイチはその場に固まった。
アナタニダケハ、タスケラレタクアリマセン?
……ああ、あれか。ようは断られたのか。もしかしたらと思ったが、ここまで嫌われているとは思わなかった。にしてもこんな状況でも断るって。いったいどこまで嫌われているのだろうか僕は。きっと彼女から見たら僕なんて毛虫みたいな存在なんだろうな。ならここは生きていてごめんなさいとでも謝るべきだろうか。いや、彼女からしてみたら僕の声も聞きたくないわけで――
「あー……兄さん。気持ちはわかるッスけど、今はほら、そんな場合じゃ……」
さすがに同情が込もったカセドラの声で、はたと我に返る。
……ああ、そうだった。へこむのは後でもできる。
崩れ落ちそうだった体を奮い立たせ、それでもぎこちない動きでレナファの腕をつかむ。
「何を……!」
抵抗されるが、無視。底辺まで嫌われていると思えば、これ以上嫌われる心配もないわけで。
とりあえず無理矢理にでも引き起こして、連れ帰ろう――そう決意したのだが、ここに来るまでの道のりで溜まった疲労は、思っていた以上のものがあった。
「あ――」
「え――」
踏ん張っていた脚からがくりと力が抜け、コウイチの体が斜めに傾く。必然的に、その影響はレナファにも伝わった。
倒れる――そう思った瞬間、コウイチは体を捻った。
とさ、と軽い音を立てて、コウイチは地面に横倒れになる。直後、胸のあたりに衝撃を感じた。
「ゴ……ホッ……!」
むせかえりながらも視線を下げると、そこには自分を下敷きにして倒れたレナファの姿があった。
とりあえずは、姉妹そろって組み伏せる、という誤解に満ち溢れた状況は避けられたらしい。
「っ……!」
身をよじるレナファ。下手に動くこともできず、コウイチはレナファがどいてくれるのを待っていたのだが、すぐに異変に気づいた。
「い……た……!」
「レナファ……さん……?」
額に脂汗を浮かせて、苦悶の表情になっているレナファを見て、コウイチは慌てて体を起こした。
レナファが体を丸めて、くじいた足を押さえている。倒れた時に、さらに痛めたらしい。
「す、すいません……!」
焦りながら、慌てて頭を下げるコウイチ。助けるつもりが、結局は状況を悪化させてしまった。
ああ、なんでこんな――と自分の要領の悪さに嫌気がさしたのもつかの間――
「ッ……ければ……」
「え……? あの、なんて……」
「あなたが……来なければ……こんなことに……」
「――」
涙をこぼしつつのレナファの言葉に、コウイチは呆然と立ち尽くした。
空気みたいだ、とは言われたことがある。それは、絶対に必要というわけではなく、いてもいなくても関係ない、という意味で。
だから、今みたいにはっきりと存在を拒絶されたことはあまりなかった。
――自己嫌悪にまみれていた感情が、すっと冷めた。頭の中が切り替わるようなこの感覚には覚えがある。
本当にイヤなことが起こった時、どうしようもなく追いつめられた時の自己防衛手段。
――感情の切り離し。
テレビの中の物語を見るのと同じように、目の前の出来事を自分とは関係ないと思いこむ。早い話が現実逃避。そして忘れるまで意識の隅に追いやる。そうして今まで乗り切ってきた。
だが――
黙っていれば、ただそこにいて時間が過ぎるのを待っていれば、今まではどうにかなった。
今は? ……違う。黙っていても、誰も助けてくれない。なら――どうする?
一瞬、本当にこのまま帰ってやろうかと思ったが、そう思った瞬間に脳裏をよぎったのは、アリヤと交わした冗談のような口約束。
「……」
声も出さず、表情も変えないまま、レナファを引き起こす。苦痛にあえぐ声はあえて無視した。そのまま背負う。嫌がられたが、その抵抗はさっきまでと比べてごく儚いものだった。
「……い……やぁ……」
弱々しいその声も、気にならない。気にしない。そう思いこむ。
それでも――
「すぐには……無理、ですが」
口が勝手に言葉を紡いだのは、抑えようのない罪悪感があったからかもしれない。
「できるだけ近いうちに……あの家を……出ていきます、から」
「……え」
抵抗が、止んだ。じっとこちらの言葉に耳を傾けるような息づかい。
「ですから、今は。……アリヤのところに、帰ることだけを、考えてください」
そこから先は、ただ歩くだけ。人一人を背負って帰るのはとても辛く、一度でも足を止めればもう歩けなくと思ったから。
だから途中で、
「しょうがないッスね~」
とかボヤくような声がして急に負荷が軽くなったこととか、
「なんで……」
と、泣きそうな声の呟きが背中から聞こえても、その意味を聞く余裕はまるでなかった。
――なんとか無事に帰り着いてからのことは、あまり憶えていない。
レナファの胸に顔をうずめて肩を震わせるアリヤ、という光景を目にした後、なぜか家の壁に座り込んでいるところまで記憶が飛んでいた。
そのままずるずると横倒れになる。疲れきった体はもう指一本動かせなかった。動かす気にもなれない。
それでも、心は満ち足りたように暖かかった。他人のことでこんな気持ちになるのは久しぶりな気がして。
「本当に……よか……た……」
途切れ途切れに呟きながら、ゆっくりと目を閉じる。
「お疲れさまッス。ま、兄さんにしては、よくやったほうじゃないッスかね」
カセドラのそんなどこかえらそうな声が聞こえた気がした。