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15.餓狼と群狼(1)

 顔を背けたくなるような獣臭い息が顔に降りかかってきた。

 胸が痛い。体重をかけて前脚が乗せられているからであり、爪が肌に食い込んでいるからでもある。

 剣をくわえている牙がガチガチと音を鳴らし、その隙間から唾液がぽたぽたと垂れては服を汚した。

 だがまるで気にならない。気にしている余裕がない。なにせ命の危機だ。多少の汚れを気にして力を抜いたら、そのまま首に食いつかれる。

「ガルル――」

 いらだったように目の前の獣が喉を鳴らせた。

 向こうもいい加減じれてきているのかも知れないが、こっちはこっちでそろそろ限界だった。膠着こうちゃく状態を支えていた腕が悲鳴をあげている。

 どうしてこうなったどうしてこうなったどうしてこうなった――

 後悔と恐怖に思考が塗りつぶされ、理不尽な現状にコウイチは声にならない悲鳴だけを思い浮かべる。

 コウイチの脳裏を、こうなるまでの経緯が走馬燈そうまとうのように駆けめぐった。


「コウ!」

 元気のいい声をあげて、ティオが駆け寄ってくる。出会った頃には想像もできなかった機嫌のよさそうに笑みを浮かべていた。ここ数日ですっかり当たり前になった光景だ。

(……なぜ)

 どうにも慣れない違和感を覚えながら出迎える。

 以前ほど理不尽な言動に緊張しないでもよくはなったが、これはこれで異なる緊張を強いられる状況だった。

 まとわりついて話しかけてくるティオに相づちを打ちながら、コウイチはティオの態度の変化に首を傾げていた。

 なぜか、ここ数日ですっかりなつかれていた。

 理由はわからない。それだけに、コウイチはどういう態度をとっていいのかわからないでいる。なので前と同じように、距離をとりつつ怒らせないような受け答えをしていたのだが。

「なあコウ、オマエ好きな食べ物とかあるか?」

「暇な時とか何してるんだ?」

「オマエとバズ、本気でやったらどっちが強いかな? 今度戦ってみせてくれよ!」

 などと話しかけてきてはティオの方から距離を詰めてくるので、なんともやりにくかった。

 そしてもう一つ。

アタシ・・・の好物? 鹿の肝臓の塩焼きだな! あとあまり食べれないけど、リンゴの蜂蜜がけも好きだぞ」

 アタシ――前までオレだったのが、今ではそう呼んでいた。コウイチにはそれがどういった心境の変化なのかはわからない。本人も意識して変えたわけではなさそうだし、藪蛇やびへびになりそうなので聞いていない。少なくとも前よりは気を許してくれているのだろうと思うが。

 そしてそれらを含めて、コウイチはなんとも言えない居心地の悪さを感じていた。

“? なんでッスか? ”

 カセドラが理解できないといった感じで聞いてくる。

(いや、まあ……)

 嫌われるとか無視されるならともかく、なつかれるとか経験がないので。

(……あ、へこむ……)

 自分で思い返して死にたくなった。

“……なに自爆してんスか”

 あーもうしょうがないッスねー、という感じのカセドラの声に現実に引き戻される。

 ティオがこうなってからこっち、あまり機嫌がよくないのがカセドラだった。ティオと顔を会わせるのがイヤなのか、彼女がいる前では姿を現さないでいる。たまにこうやってネガティブ思考にはまりそうになった時に引き戻してくれるくらいだった。

 ティオが不思議そうな顔で見上げていたので、慌ててなんでもないと言いながら首を振る。

 そうか、と頷くと、何がうれしいのか、ティオは笑顔になってコウイチの手を握った。

「え」

「ちょっとこっち来い」

 そのまま人目のつかない場所へと連れていかれるコウイチ。

(……何か、怒らせるようなことでもしただろうか?)

 そんな心配をよそに、ティオが口から出た言葉は単なる質問だった。

「いま暇か?」

「……まあ」

 今日やるべきことはすべて終わっている。これからどうしようか、などと考えていたくらいだ。

「じゃあ、アタシにつきあえ!」

「……つきあう、とは」

「砦の周りに、岩狼がんろうが出るようになったんだ。放っておくと危ないから、狩りに行くぞ!」

「……は?」

(そんな、意気揚々に言われても)

 唐突すぎて意味が分からず、コウイチはしばらく思考を停止した。できれば最初から説明してほしいところだが、ティオは笑顔のまま答えを待っている。

「いや……ちょっと、待ってほしい」

「なんだ?」

「それは……自分も一緒に、と?」

「だから声かけたんだろ」

 そんなこともわからないのかと、呆れた反応が返ってきた。

 言っていることはわかる。問題は、なぜそれを自分たちが、ということなのだが。

「そんなの別に誰がやってもいいだろ?」

「……」

 こともなげに言うティオ。

 この子、いま話している相手がどういった立場なのかとか自分の役目はなんなのかとか忘れているんじゃないですかね?

「えっと……それは、誰かに言われて……?」

 でなければ捕虜の自分にそんなことをさせるわけないだろうと思ったのだが、

「え? アタシが一人で決めたことだぞ」

 ようするに独断だった。

「いや、だが……狩りとかいっても。……弓は、使えないし……」

「弓はアタシが使える。オマエは剣を持ってけばいい」

「だが……」

 自分の剣は取りあげられたままなので、持っていくもなにもないのだが。

「それならアタシが持ってくるから心配するな!」

 任せておけと胸を張るティオ。まあ確かに彼女なら持ち出せるだろうが。そんなことして問題にならないのだろうか。

「鎧はかさばるし目立つから無理だけど、剣ぐらいならこっそり持ち出せるぞ」

 こっそりとか言っているあたり確信犯である。

「……イヤか?」

 さすがにこちらの内心に気づいたらしい。表情を曇らせて、ためらいがちに聞いてくる。

「……」

 こっちの内心をくみ取ってくれるようになったのは大きな進歩だと思うが、そんな顔をするのは反則だと思う。

 別にフェミニストというわけではないが、そんなふうに頼まれて断れるほど神経は太くなかった。

「……イ・ヤ・な・の・か?」

 ……なんて言うのは建前で、実際はだんだん険しくなっていくティオの表情に屈したわけなのだが。

 こんなんでいいのだろうかと思わないでもないが、今さらなのでティオが持ってきた剣はありがたく受け取っておく。

 砦を抜け出し、山の中へ。さすがに当てずっぽうに探すわけではなく、だいたいの縄張なわばりはわかっているという。

 歩きながらコウイチは、自分が肝心かんじんなことを聞いていないことに気づいた。

「その、岩狼がんろうとは……?」

 砦に連れてこられてすぐに名前を聞いた覚えがある程度だ。話の流れから、猛獣もうじゅうなのだろうと想像はつくが。

「知らないのか?」

「……まあ」

 元いた世界にいない生物だということは間違いないだろう。

 ティオはあたりを警戒しながら言った。

「岩狼はな、岩みたいに硬い狼だ」

「……」

 字面どうりの特徴だけ口にすると、どうだと言わんばかりの顔をするティオ。

(え……それ、だけ?)

 どうも説明はあまり得意なほうではないらしい。というかそもそも説明する気があるのだろうか。

 さすがにそれだけでは安心できなかったので、質問を重ねながら聞き出したところによると――

 岩狼とは、体が岩のように硬い外殻がいかくで覆われた狼のような生物らしい。狼といっても遠目に似ている程度で、体も倍ほどに大きく見間違えることはないという。

 性質は獰猛どうもうで凶暴。言うまでもなく肉食。群れはつくらず、一体で行動するのが普通なのだとか。

(獰猛で、凶暴……)

 どうやってそんな猛獣を狩ろうというのだろうか。

(まあ……見つからない可能性も、あるし)

 相手は野生の動物。そう都合良く遭遇したりしないだろう。さすがに夜になる前にはティオも諦めると思うし。


 などという淡い期待をしてノコノコついていった自分を、今は呪い殺したい気分だった。

「ぐ……」

 いい加減に休ませろとうったえて腕が震え始めていた。

 両手で剣を支えているというのに、岩狼の牙はさっきよりも近づいている。

 襲ってきた岩狼は片目が潰れていた。間近で見ると、それがかえって恐怖を感じさせる。むき出しの一対の牙は、口に収まりきらないほどに大きい。首に突き立てられたら一瞬で喉を食い破られそうだった。

 百キロはありそうな体躯にのしかかられた状態では、脱出するのも難しい。幸いなのは、爪がそう鋭くないことか。でなければ今ごろ胸を切り裂かれて死んでいたかもしれない。

 こんな巨躯きょくなのに、あんな動きをするのだから反則だと思う。気づいたら倒されて上に乗られていた。とっさに間に剣を入れたのは幸いだったと思う。

 だがそれ以前に、狩りに行くのに剣だけ持たされた理由を考えるべきだった。


おとり……?」

 先に行くように言われて理由を聞いたところ、返ってきた答えがそれだった。

「そうだ。岩みたいに硬いって言っても、全部がそうじゃないからな」

 いわく、岩狼の体をおおっている外殻も全身を守れているわけではないらしい。

 関節部と腹部、そこだけは柔らかい肌が露出しているのだそうだ。

 とはいえ相手は動かない的ではない。人間よりもはるかに俊敏しゅんびんな生き物だ。ふつうに狙うのは難しい。

「だから、オマエが先に行って岩狼と戦う。アタシは隠れながら隙を見つけて弓矢で狙う。わかったか?」

「……」

 信頼されているのか、微妙な扱いだと思う。

(まあ……もしかしたら、何もないかもしれないし)


 そのときはまだそんな楽観的なことを考えていたのだが、それはすぐに覆された。

 先を歩き始めてそれほど経たずに、茂みからそれは現れた。

「……は?」

 最初、コウイチはそれが熊なのかと思った。すぐに違いに気づいた。熊と狼では、体型も歩き方もまるで違う。

 それでもすぐに信じられなかった。なにしろそれは、頭の位置がコウイチの胸ほどにある大きさだったから。

 ゆっくりと様子を見るように、岩狼は近づいてきた。呆然としていたコウイチは慌てて剣を抜いた。

 周囲の地形と、目の前の驚異を観察する。体は文字通り岩のような硬そうな外殻で覆われていた。あれなら確かに刃も通りそうにない。

 のそりのそりと歩いているわりには空腹なのか、涎を垂らして明らかに物欲しそうな眼をしていた。

 負ければ食われる――単純に殺される以上の恐怖と、見た目の迫力に足がすくみそうになった。

 深呼吸して気持ちを落ち着かせ、剣を構える。いつ来られてもいいように、油断なく――

「ガアァ!」

 油断はしていなかったつもりだった。ただ岩狼がえながら地を蹴り、横にあった木の幹を足場にして飛びかかってきたときには目を疑った。

「な……!」

 いわゆる三角跳びである。高所からの勢いをつけての突進に、反応が遅れた。身をよじったコウイチの体を爪がかすり、服が切り裂かれる。バランスを崩し、立て直す前にのしかかられていた。

 があっ、と咆哮ほうこうしながら岩狼があごを開く。とっさに剣を眼前にかざした。岩狼の牙がガキリとそれを挟みこんだ。


 その状態が何分続いているのかわからない。わかっているのは、このままだったら自分は間違いなく食われるということだ。

(ティオは……!?)

 どこかで隠れて弓に矢をつがえている少女を目で捜す。見てわかる場所にいるのか見あたらない。


 ――ヒュッ。


 風を裂き、音が鳴る。待ち望み、飛来した矢は正確に岩狼の後ろ脚へと突き刺さった。

「ガァッ!?」

 岩狼が驚きと痛みに叫び、体を浮かせる。軽くなった重みを振り払うようにコウイチは剣を一閃させた。

 腹を切り裂かれ、岩狼が悲鳴をあげて横に転がる。

(……浅い)

 立ちながらコウイチは剣を見た。切っ先だけが赤くれている。致命傷ではないだろう。

「コウ、大丈夫か!」

 駆け寄ってきたティオに頷いて返す。胸が痛むが、耐えられないほどではない。

 ティオは心配そうな表情を見せた後、悔しそうに首を横に振った。

「失敗した」

「……? だが」

「獣は半端に傷つけたらダメなんだ」

 頭を振って岩狼に視線を向ける。

 立ち上がって怒りをあらわにこちらを見ていた。

「立てなくさせるつもりだったのに……」

 近づいてくる。矢の刺さった脚の動きがぎこちないが、腹の傷は気にした様子もない。

 ティオが弓を捨てて構える。その両手には前に見た鉤爪のような武器を装備していた。

「来るぞ」

 岩狼が吠えた。

 地面を蹴り、まっすぐこちらに向かってくる。そのまま突っ込んでくるように見えた岩狼が、身構えるコウイチとティオの前でその巨躯が跳ねさせた。二人を飛び越え、今度は横にある木を駆け上って跳躍ちょうやく。地面に脚をつけることなく襲いかかる。

 狙いはティオだった。

 さすがに飛びかかってくる岩狼の牙は受けられないと思ったのか、横に飛んでその牙をかわす。だが直後にくり出された爪がその体を弾き飛ばした。

「っ、この!」

 ぎりぎりで鉤爪で防いだらしい。怪我もなく悪態をついていたが、大きく体勢を崩していた。

 そこに反転した岩狼が襲いかかる。コウイチが間に割り込むように剣を振るった。首筋の外殻に当たって傷は与えられなかったが、狙いを変えることには成功したらしい。至近距離でくり出された爪の攻撃をコウイチは剣で受け流す。

「く……」

 腕に痛みが走った。流しきれず、裂傷が刻まれている。爪自体がそれほど鋭くないだけに、痛みが大きくコウイチは顔をしかめた。

「くらえっ!」

 ティオが尻を向けている岩狼に切りかかった。矢の刺さったのとは逆の脚の関節を切り裂くが、浅い。怒りの反撃は、ティオの小さな体をはね飛ばし茂みの中へ叩き込んだ。

 岩狼がぎょろりとコウイチを睨みつける。その怒りに染まった双眸そうぼうと目があった瞬間、手負いの獣という言葉が思い浮かび、絶望感がわき上がる。

(……どう、したら)

“兄さん兄さん”

 状況にそぐわない陽気な声は、内側から聞こえた。

(カセドラ?)

“オイラのこと、忘れてないッスか?”

「いったい、何を……っ!」

 言いかけ、ずいぶん昔のように思える光景をコウイチは思い出した。 突進する角猪。紫の燐光。動物相手だけ使える幻覚。

「……カセドラ!」

「ういッス!」

 カセドラが姿を現す。その体はすでに紫の光を放っていた。

「とどめは任せるッスよー!」

 言った瞬間、コウイチにはカセドラの見せる幻覚とその意図がはっきりと理解できていた。成功するイメージすら思い浮かぶ。そのイメージ通り、剣を腰のあたりに構えて岩狼に突進する。

 脚を曲げて待ちかまえる岩狼のその口めがけて全力で剣を突き出した。岩狼は軽々と飛び越えて切っ先をかわし、隙だらけになったコウイチの喉に牙を突き立てる。

 肉に食い込み、噴き出す血が牙を濡らす――ことはなかった。牙を濡らした血は、岩狼自身のものだったからだ。その腹には、剣が突き刺さっていた。

 剣を構えて突進していったところまではコウイチも幻覚と同じの動きをしていた。ただし、剣を突き出してはいない。

 直前で止まり、膝を立てて剣に斜め上に構えたのだ。岩狼が飛び上がってかわしたのはカセドラが見せていた幻の剣であり、本物は落ちてくる岩狼の腹に突き刺さっていた。刃は岩狼自体の体重によって肉に食い込み、内臓を傷つけ、背中側の外殻にまで達していた。

 肉を貫く独特の感触にコウイチは顔をしかめるが、すぐに重さに耐えきれずに剣を下ろした。剣が傷口を広げながら、ずぶりと抜ける。

 顔に降りかかった血を拭いながら、コウイチは岩狼を見下ろした。

 何が起こったのか理解できていないのだろう。呆然とした様子で全身を痙攣けいれんさせていたが、すぐにそれも止まった。目から光が消え、体からは熱が失われていく。

「……はあ」

 岩狼が動かなくなってしばらく過ぎてから、コウイチは深々と息を吐いてその場にへたれ込んだ。急に疲労がおそってきたのだ。戦いの疲れだけではない。カセドラが幻覚を使った影響だろう。初めてのときは使った直後に気絶したからそれよりはマシだが、この疲労もカセドラとつながっていることの影響なのかもしれない。

 漠然ばくぜんと考えながら、コウイチは赤く汚れた手を見た。

(……殺して、しまった)

 夢中だったので考える暇もなかった。だがいま胸の内にあるのは、一つの命を奪ったことに対する嫌悪感だけだ。そうしなければ殺されていたとはいえ、もっと他にやりようがあったんじゃないか――

「てい」

 うつ気味になっているところでペシッと頭が軽く叩かれた。

 驚いて見上げると、体を反らせて何か言いたそうにこちらを見下ろしているカセドラがいた。

「カセドラ……おかげで、助かった」

 ここは素直に礼を言っておく。

「ま? 兄さんに死なれたら困るのはオイラも同じッスからね。礼を言われることでもないッスけど~」

 ふっふーんと得意そうに鼻を鳴らすカセドラ。軽くイラッときたが、何か言う前に、

「うわっ!」

 茂みから抜け出してきたティオが驚いた声を上げた。

「わっ」

 カセドラが慌てて姿を消す。

「ティオ。怪我は……?」

「大したことない。少し気絶してたみたいだけど。……これ、オマエがやったのか?」

 ティオは驚きの眼差しで岩狼の死体を見つめていた。

「……まあ」

 どうやって倒したかまでは見られていなかったらしい。本当のことを説明するのは面倒だったし、したらしたで新たな説明を求められるのは目に見えていたので運がよかった。なにより疲れていたということで、コウイチはとりあえず頷いておいた。

 カセドラの不満げな感情が伝わってくるが、ここは心の中で平謝りして勘弁してもらう。

「すごいんだな、オマエ……」

 感心したような目で見られ、コウイチは後ろめたさのあまり顔を伏せるしかなかった。


 死体をまるごと持って行くのは無理なので、岩狼をしとめた証拠として牙を切り取ってコウイチたちは砦へ戻っていった。

 さすがにこっそり戻れるなどという都合のいい話はなく、そこで待ちかまえていたのはゴルドーだった。

「げっ、父ちゃん」

「よおティオ。ずいぶん汚れてるな。どこ行ってた?」

「どこへって」

 自慢する気満々だったが、さすがに独断行動に気まずさを感じているらしい。親を前にしてティオは緊張した様子で岩狼の牙を取り出した。

「アタシとコウの二人で岩狼を狩ってきたんだ。ほら、みんな困ってたから」

「ほお。そりゃすげえ。――で、なんでそれを誰にも言っていかなかった」

「それは……」

 ティオが言葉をにごした。どこかおびえているようにも見えるのは、ゴルドーのにやけた表情の中で目だけが笑っていないことに気づいたからかもしれない。

「ちょっと来い」

 強い口調で言われると、肩を落としてついていく。なんとも言えずにそれを眺めていたコウイチの背中が叩かれた。

「大変だったな」

 そう言って肩に腕を回してきたのはバズだった。コウイチが何か言うよりも早く、気の毒そうな目を向けてくる。

「わかってるって。ティオに無理やり誘われたんだろ。だけどな」

 言葉を区切ると、バズは顔を寄せて耳打ちしてきた。

「あんたが断りにくいのはわかるが、もうちょっと、な。大人しくしていてくれよ」

 さすがに今回の行為はいきすぎたものだったらしい。自分でもそう思うのだけにコウイチは素直に頷いておいた。バズはニヤリと笑ってから体を離し、今度は呆れた顔をした。

「しかしあんたもお人好しだな。逃げ出す絶好の機会だったろうに」

「あ」

「なんだその『あ』ってのは」

「いや……別に」

 不思議そうに聞いてくるバズから顔をそらす。思いつきもしなかったとは、間抜けすぎてさすがに言えなかった。

「ともかく岩狼を狩ってくれたことには礼を言うぜ。ありがとよ」

 コウイチから剣を受け取ると、バスは休むように勧めてきた。

 疲れは自覚していたので、言われるままにコウイチは小屋に入り横になった。少し休むだけのつもりだったが、体はよほど疲労していたらしい。コウイチは眠気を意識する間もなく、すぐに眠りについていた。


 死んだように眠っていたコウイチが起きたのは、すでに空が暗くなってからのことだった。

「つ……」

 節々が痛む体をさすりながら、外へ出る。この時間帯になると、松明たいまつを掲げた見張りがいるだけで辺りは静かなものだった。

 用を足してから小屋に戻ろうとしたコウイチは、椅子代わりの丸太に腰掛けながら空を見上げている人影を発見した。

(……ティオ?)

 月明かりに照らされて見えるその横顔は、すっかり見慣れた赤髪の少女のものだった。

 何かを掲げ、それを月光のささやかな明かりを頼りに見つめている。いつもの溌剌はつらつとした様子はなく、物憂げに何かを考えているように思えた。

「……コウ?」

 見つめているうちにこちらに気づいたらしい。ティオが声をかけてきた。

「……こんばんは」

 言った直後に、これはひどいと思った。気の利いた言葉が思い浮かばなかったからにしても、ずいぶん間の抜けた挨拶である。

 ティオはきょとんとした表情を見せたあと、気まずそうに近寄ってきた。

「怪我は、大丈夫か?」

「……ああ」

 もちろん治ったわけでもないしまだ痛むが、もともと深い傷というわけでもない。砦に戻る前に念入りに水で洗い、ティオに教えてもらった消毒効果のある薬草も擦り込ませてあった。

「そうか」

 ティオはそれだけ言って、口を閉ざした。

 やはり、いつもと違う。いつものティオなら、今みたいなぶつ切りな会話にはならない。

(ゴルドーに叱られたから、……というわけじゃなさそうだし)

 とはいえ理由を聞いていいのかわからず、このまま別れるのもよくない気がしてコウイチはその場にとどまった。

 なんとも言えない気まずい沈黙に落ち着かない様子でいたコウイチは、ティオの手にあるものに気づく。

「……?」

 カセドラのことを秘密にする代わりにとられた、竜をかたどった細工である。ティオはそれに頑丈がんじょうそうな紐を通して手首に巻いていた。

 ティオがコウイチの視線に気づいて、複雑そうな表情をした。踏ん切りをつけるように口を開く。

「なあ」

「……なにか」

「今まで何も聞かなかったけど、ひょっとして……これってオマエにとって、すごく大事なものだったり……するのか?」

 ティオにしては歯切れの悪い口調だった。その様子にコウイチはふと、寂しさを抱えた幼い子供の姿を連想した。

「……いや」

 そう答えたのはその表情を見たから、というわけではなかった。もともと返してほしいなどと言うつもりはコウイチにはなかった。

 ティオが細工を手放したくないと思っていることはわかったし、それに少なくともふところに入れている忘れていた自分が持っているよりも大事にしてくれると思ったのだ。

「ホントか?」

 頷くと、さっきまで暗かった表情に、ぱあっと輝くような笑顔が宿った。

「そうか!」

 満面に喜色を浮かべながら細工を握りしめ、その手を大事そうに胸に当てる。

 そして見ている側まで明るくなるような笑みを浮かべ、

「これのお礼にオマエがここからいなくなっても、すぐに忘れたりしないでやるからな!」

 その言葉に引っかかるものを覚えながらも、コウイチは勢いにつられるように頷いていた。

 昼間だったら、ティオの頬がうっすら赤く染まっていることに気づいたかもしれない。

 手を振って元気よく自分の部屋に戻っていくティオを見送りながら、コウイチはぼんやりと思った。

 人に物をあげて、こんなに喜ばれたのは初めてかもしれない――

(そういえば……)

 ふと、この世界で初めて贈り物をする予定だった相手のことを思い出した。ティオよりは年上で、自分などよりよほど強い浅黄色の髪の少女のことを。

 捕まっている身分で心配するのはおかしな話だが、今ごろリゼはどうしているだろうか?

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