10.へたれ長じて従士(候補)となる(1)
夜の帳が下りた後に広がる、満天の星空――
人の灯した光がまったくない自然の中で、少女は一人それを見上げていた。
星空は広く、果てがない。それは少女が生まれてから――いや、それよりはるか、それこそ気が遠くなるほど昔から変わらない事実だ。だからこそ実感せずにはいられない。その下に広がる、世界の広大さを。
「世界、か……」
異国、海外、外の世界――
少女に限らず、生まれた村や町から一歩も出ないまま一生を終える者も珍しくない。だからというわけではないが、今の生活に不満があるわけではなかった。生きていくのに厳しい環境ではないし、気心の知れた仲間もいる。
ほんの少し前までここで一生を終えることに、少女はなんら疑問を覚えたことはなかった。
それが、自分の意志でそうしたわけではなく、そうせざるを得なかったという少々複雑な事情があったとしても、だ。
夜風が肌を撫でた。草葉の擦れ合うザワザワとした音を耳にしながら、そっと目を閉じる。
前に行商人から聞いた、様々な土地の話を思い出した。
遮るものがなく、一面に広がる緑の草原。
塩辛い水で満たされた、海という大きな水たまり。
木々も生えず、生物もほとんどいない過酷な砂の大地。
そこに住む肌や髪の色が違う人々。生き抜くために形を変え生態を変え順応した動物たち。実る木々や草花も、その土地でしか見られないものがあるという。
「……ダメだ」
その光景を思い浮かべようとして、少女は頭を振った。一度聞いたぐらいでは、漠然とした光景しか浮かべられなかったのだ。
この世に生まれついて十数年、その間をすべて、このごく狭い世界で生きてきた少女にとって、見たこともない土地というのは想像するのも難しいものだった。
ため息をついてから寝床につこうと、少女は身を翻す。
小さな背中は、世界に呑まれるようにすぐに夜の闇の中にとけ込んで見えなくなった。
少女にとって、世界とは自分の住処のあるこの自然のごく一部だけのことだった。
外の世界に思いを馳せながらも、それはこれからも変わらない。少女はそう思っていた。
しかし――
時の流れによって季節は移ろい、人は成長してやがては老いる。物もいつかは壊れ、その形を失う。
土地の環境によって生物が姿を変えるように、時代もまた変化を強要する。
変わらないものなどどこにもない。星々の瞬きすらも永久に近い時の中でその数を減らし、時には増やしてきた。
そのことを少女が実感するのは、もう少しだけ先のことである。
◆
突き出された剣の切っ先が、鼻先のほんのわずか先を通り過ぎていった。光を鈍く反射する鋼の匂いに意識を奪われるのも一瞬、身をかがませながら構えた剣を横に振りぬく。
相手は舌打ちをして大きく飛び退き、お返しとばかりに剣を振りかぶる。そこから繰り出されるのは、反撃を許さないような刃の猛攻だ。
それらはかわし、あるいは受けながら少しずつ下がっていく。余裕でとまではいかないが、ぎりぎりのところをなんとか凌いでいるというほどでもない。
いつも剣を交わしている相手と比べれば、合間に途切れを感じさせるような剣撃だった。なので体勢が崩されることもなければ受けが間に合わなくなることもない。
縦横に繰り出される斬撃を受け続けるうちに、相手の表情に焦りが見え始めた。体を動かし続けて辛くなってきたのか、息もあがり始めている。防御に徹しているこちら側と違い、重い鉄の塊を振り回していれば当然体力の消費も激しい。
一際大きく息を吸う音が聞こえた。間を置かずに剣を振るっていた相手が、それまでより深く腰を落とす。
来る――
大振りの一撃を予感すると同時に体は動いていた。剣を振りかぶるでもなく、ただ一歩、前へと。
無造作に間合いを詰められた相手が、驚きながら後ろに下がろうとした。その表情が硬直する。
前に出ながら突き出した剣の切っ先がその肩へと直撃したのは、その直後のことだった。
「っ……いっっってええぇっ!!」
聞く者の同情を誘うような絶叫が、練兵場の一角であがった。
肩を押さえて転がり回っている若い兵士に、さっきまで相手をしていた青年が慌てて駆け寄る。
「ランディ……!」
ランディと呼ばれた兵士は痛みに顔をしかめながら、自分の肩を見おろした。そこに着けられた革製の肩当ては、一部が大きく凹んでいる。
「……おまえなあ。もうちょっと手加減しろよ。肩当てがなけりゃ骨がイってたぞ、これ」
「いや、あの……つい。……すまない」
片手を後頭部に当てながら、青年は頭を下げた。
申し訳なさそうな表情がよく似合う青年だった。黒髪で、気の弱そうな顔立ちをしている。体格も細身で、片手に下げている模擬戦用の剣が似合わないことこの上なかった。
名を、コウイチという。
「つい、って……ああ、ったく。そんな目で見んな。稽古なんだから」
地面に両手両足を投げ出し、ランディは大きく息を吐きながら、
「あーあ、くそっ。とうとう負けちまった」
悔しさがにじみ出たような声をあげる。
この同年代の気のいい兵士とコウイチが試合をするのは初めてではない。兵士になったころは手も足も出なかった。初めて試合をした時には片手であしらわれた。
それが――
(そう、か……)
勝ったんだ。
ランディの悔しがる様子を見て、やっと実感できた気がした。
成長できている――その確かな手応えに、コウイチは自分の手をまじまじと見つめた。タコが出来た指の付け根は硬く、数ヶ月前までとは別人のようだ。
じわじわと、胸が満たされたような感覚がわき起こ――
「これで通算戦績三十七勝一敗かよ。無敗記録更新ならずか、チキショー」
「……」
いちいち数えてたらしい。
(と、いうか……)
ようやく勝てたんだから、少しは余韻に浸らせてくれたっていいと思う。
おかげでさっきまであったはずの勝利の実感がきれいさっぱり消し飛んでしまった。
「にしてもおまえ、防御がうまくなったよなあ」
「そう……だろうか」
「そうだって。あんなに粘られるなんて思わなかったぞ」
言われてみれば、ランディの攻撃にもしっかり落ち着いて対応できた気がする。どんな順序にどんなふうに剣を振ってきたのか、今でも思い出せるくらいだ。
リゼとの特訓の成果もあるだろうが、それ以外にも色々あったからか、特に目は鍛えられたのかもしれない。ランディには悪いが、ここ最近、彼以上に強い相手と接する機会が多かった。
「でも反撃しようとすると隙ができるけどな」
悔しそうな顔から一転、ランディがニヤリと笑って言い放つ。
今日も四戦してようやく一勝できただけに、返す言葉もない。最後に勝った試合以外はすべて反撃しようとして出来た隙をつかれて負けていた。
「けどよ、おまえが“従士”とはなあ」
独り言のようにぼそりとこぼした言葉に、コウイチは一瞬言葉を失った。
従士――意味すら知らなかったその言葉を初めて聞いたのは、ほんの数日前のことである。
◆
「君には不思議な力があるようだな」
グレイセンに呼び出され、簡単な挨拶を交わした後に投げかけられた言葉がそれだった。
「は……?」
呼び出された用件は、先日巻き込まれたある事件のことだと思っていたのだ。だから不意打ちのように投げかけられた言葉にコウイチは唖然とし、次に表情を強ばらせた。
グレイセンの言っていることに、確信はないまでも自覚があったからだ。
(でも、なぜ……?)
グレイセンにそのことを話した覚えはない。その疑問に、グレイセンは聞くまでもなく答えた。
「君が以前生活していた村の住人の一人からそう聞いた。……なんでも、森の“悪霊”を自在に操ることができるとか」
(……あく……りょう?)
聞き慣れない単語を、心の中で反芻する。なんのことかさっぱりわからず、コウイチは首を傾げた。
「どうも彼は、その“悪霊”に何かひどい目にあわされたようだ。以前、村が襲われる手引きを君がしたと疑われている――そう話したことがあるだろう? 彼が言うには、村を襲撃した盗賊たちを招いたのもその悪霊の仕業らしいが……」
子供が思いつきで言い出したホラ話を語るような口調で、グレイセンは苦笑した。
「……っ」
思い当たることがあった。
まだ自分が違う世界にいるなんてこともわからず、村で生活していたころのことだ。
恩人の姉妹――アリヤとレナファ以外の村人と、一度だけ話したことがあった。
名前は忘れたが、あの村の村長という男性と、その息子だ。あまり良い印象はなかったし、もう顔も思い出せない。つまり憶えていたくもない相手ということだが、カセドラの手を借りて追い払ったことがある。
その時にたしかハッタリで、森の精霊うんぬんとか言ったような覚えがある。だが――
(……“悪霊”?)
そんなこと、一言も口にしなかった。それに、あの盗賊たちを招いたって……。
(まさか、あの時のことを恨まれて……?)
あまり考えたくないが、そうだとしたらとんだ言いがかりだと思う。
確か、あの盗賊騒ぎで村長の方は死んでしまったはずだ。自分たちの村が盗賊に襲われ、父親まで殺されたのは同情するが、それを別件で恨みを抱いた相手のせいにする意味がわからなかった。あるいは、本気でそう思っているのだろうか。
呆然と立ち尽くすコウイチに、グレイセンが慰めるように声をかけた。
「もちろん、そんなはずもないだろう。もし君があの盗賊たちと関わりを持っているなら、奴らに殺されかけるはずがないからな」
コウイチの動揺を気遣ってか、グレイセンはあくまで穏やかな口調だった。
「が、その“悪霊”とやらの正体には興味がある」
不意に――
コウイチには、グレイセンの様子が変わったように思えた。何が、というほど具体的な変化ではないので、それほど気にはしなかったのだが。
「そのことについて、君と話したいという者がいる」
グレイセンの視線が、コウイチからわずかに外れた。
「ふぅん……あの時とはだいぶ見違えたね」
声は、背後からだった。
コウイチが驚いて振り向くと、入り口の扉の横に女が立っていた。
(いつの間に?)
扉は閉まっていたというのに、入ってくる音がまるでしなかった。
いや、それより――
(……あの時?)
どこかで会ったような女の言い方だが、咄嗟には思い出せない。
記憶をたぐりながら、コウイチは女を控えめに見つめた。
年齢は二十代前半ほどに思えた。
浅黒い肌に、灰色の髪。目が合えば思わずそらしてしまいそうな意志の強い顔立ちをしている。
美人……ではあるのだが、なんとなく声をかけづらそうな感じはする。人を寄せ付けない雰囲気を持っているわけではないのだが、近づきづらいような印象があった。
肌や髪の色もそうだが、服もこの街ではあまり見かけない砂色の服を身につけている。頭から足首まで体全体を覆い隠すようなゆったりとしたものだ。
女もコウイチに値踏みするような眼差しを向けていた。視線でコウイチに居心地の悪さを味わわせた後、女は感心したような顔をしてみせた。
「久しぶりだね。見ない間に、ずいぶんと鍛えられたみたいじゃない」
「あの……?」
どこで会ったのか、未だに思い出せない。一度でも会って話していれば、忘れなさそうな容姿をしているのだが。
コウイチが困惑しているのを見て、女はやれやれというように首を振った。
「薄情だね、こっちは命の恩人だってのに」
「あまり無理を言うな。あの時の彼の状況を考えれば、記憶にないのも当然だろう」
「わかってるって。冗談だよ」
たしなめるようなグレイセンの言葉を、女があっさりと流した。どうやら本気で責められたわけではないらしい。
(命の、恩人……?)
二人の会話からすると、どうもとんでもない状況で会っているらしいのだが。
言われてみれば……どこかで聞き覚えのあるような声だった。声を頼りに記憶を掘り起こし、
「あ……」
記憶は光景とともによみがえった。
諦めかけた心。振り上げられ、今にも自分の命を奪おうとしている冷たい刃。
なんで聞いてすぐにわからなかったのか。この世界で初めて殺されかけ、意識が朦朧としていた時――
自分が聞いたのは、確かにこの声だった。
「あの、時の」
「思い出した?」
女は微笑を浮かべ、
「名乗ったことはなかったね。私の名前はラヴィス。騎士じゃあないけど、そこのグレイセンの協力者さ」
よく通る声でそう自己紹介をしてみせた。