9.へたれ改め(3)
急な用でもない限り、子供が夜の街を出歩くことはほとんどない。
それは治安が悪いということもあるが、もっと単純でわかりやすい理由もあった。
夜の街は、暗いのだ。街中でも街を照らす光源と言えば、月の光と建物の中からこぼれる明かりだけ。何も見えないとまではいかないが、闇に慣れた目でも少々歩きづらい。
結果として夜の街で出歩くのは、酒場などの盛り場の客か、闇にまぎれて悪事を企てる犯罪者、そして見回りの兵士くらいだった。
そんな夜の街に、フェリナはたった一人で出歩いていた。
約束の時間外であり、ましてや単独行動など許されるはずもなく、密かに抜け出してきたのだ。
その理由を彼女は説明できない。というよりする気がなかった。それがたとえ、最愛の父親であるセナードであっても。
そうした意味での彼女の理解者は、ほんの一握りの人間だけだ。
夜の街はすでに慣れたものだ。危うげない足どりで彼女は歩き続ける。
そうして出かけた先で何があるのか。何が起こるかは、後で知らされるだろう。また、知らされるまでもなくすでに知っていた。
だが、どうしても自分の目で確かめたかったのだ。何が起ころうとしているのかを。どうして、そうなるのかを。
唐突に彼女は立ち止まった。目的の場所に着いたとわかったからだ。
フェリナが息を呑んだ。
リゼとレグラス、もう一人血塗れの男が戦っている。だがフェリナの意識は、三人の戦いに向けられていない。そこから離れたところで立っている、一人の青年の姿に目を奪われていた。
一見してこの国の生まれでないとわかる、黒髪と黒い瞳。剛胆さとかけ離れたその言動は、初めて会った人間の目には頼りなく映るかもしれない。
だが、フェリナが気を取られているのはそうしたいつもの青年の様子ではない。その身に起こっているのは、明らかな異常だった。
黒い燐光、とでも言うのだろうか。暗闇の中でもわかるような、闇のきらめきがその体から放たれていた。
フェリナにカセドラの姿は見えない。
もし見えたとしたら、コウイチの黒い燐光が、頭の上に乗っているカセドラの紫色のそれと共鳴していることに気付いただろう。
見開かれていたフェリナの目が、歓喜の色の染まっていく。その様子は理解不能なものを見るものではない。色こそ違うが、その燐光はフェリナにとっても馴染みのあるものだった。
唇から熱い吐息がこぼれる。眸が潤み、頬が火照ったように赤く染まっていく。官能的にも見えるその表情は、フェリナを知るコウイチからは想像もできないものだった。
それとは対照的に、フェリナの視線の先では、コウイチの表情が苦しげに歪んでいた。
◆
コウイチの視点がどんどん前へと進んでいき、グレンの体と重なった瞬間――視界は一変した。
何もない、まっさらな暗闇。気付いた時に立っていたのはそうした場所だった。
いや、立っているかどうかすらも定かではない。足下の感覚がないのだ。
方向感覚がなくなったように、上下の判断がつかない。光もないので、視覚的に理解することもできなかった。音もなく、ただ粘つくような嫌な感覚だけはあった。
“ここ……は?”
声に出したつもりだが、それも明確な音とはならなかった。他人が聞いて理解できるのかもわからないような、ひどくくぐもった感じだ。
“うへぇ……イヤなところッスね”
カセドラの声が、壁一枚隔てたように聞こえてきた。
“カセドラ……!”
“ういッス”
はっきりとした返事に、ほっと胸をなで下ろす。
“いったいなんで、こんな……。いや、それよりも、ここは……?”
“言っても意味がないッス。それに、すぐにわかるッスよ”
意味がわからない。それよりも、一秒でも早くこんなところからは出たかった。
“それなんスけど、オイラには無理っぽいッス”
……ハァっ!?
“オイラにできるのは兄さんを見ることと、こうやって声をかけることぐらいッス。……ここにきて初めてわかったんスけど”
“ちょっ……こんなところに連れてきた張本人が何を……!”
“それより兄さん、呑まれないように気をつけるッスよ”
……呑ま、れる?
カセドラの言っていることがわからず、首を傾げ、
それは来た。
何の予兆もなく、どす黒く、ねじれ曲がった何かがコウイチの全身を呑み込む。それは黒い奔流だった。
(なっ……!)
むき出しの体を襲う衝撃。小石や木の破片が紛れ込んだ濁流に落ちたらこんな感じなのだろうか。全身に叩きつけられるような痛みを感じていた。それも肉体的な痛みではなく、心に直接訴えかけてくるような痛みだ。
“あ……が……っ!”
こんな状態が続いたら、気が狂ってしまう。そう思うのに体は動かず、痛みから身を守るために小さく丸まるのがせいぜいだった。
いったいなぜこんな状況に陥っているのか。わけがわからなかったが、漠然と確信していた。理由も理屈もわからなかったが、はっきりと理解できた。
――自分はいま、グレンの心の中にいる。
コウイチの全身を襲う奔流は、怒りや憎しみといった負の感情を越えた、グレンの圧倒的な狂気だった。
なんで自分がこんな目に、などという思いすら抱く余裕もない。もし地面があったら、体を抱いたままその上でのたうち回っていただろう。
ただ体を丸めて痛みが通り過ぎるのを待つだけの時間は果てしなく長く。
意識が少しづつ遠くなっていくのが、はっきりと感じられた。この状態で、気を失ったらどうなるのか。いっそ、それでもいいのかもしれないとすら思えて――
バカかっ!
“っぐ……う……!”
爪を、自分の腕に突き立てる。異なる種類の痛みが、遠ざかりかけた意識を引き戻した。気を失うのを寸前でこらえる。
とりかえしのつかないことになる、という予感もあったし、それ以上に安易で楽な道を選ぶとどうなるか、嫌というほど知っていたから。
知っていた。そんなことをしても、一時的な逃避にはなっても得られるモノは何もなかった。ここが元の世界だったら、それでも別にいいと思ったかもしれない。
だが……今は違う。今は、違う。
交わした約束がある。自分を信頼してくれた人がいる。本当の肉体の痛みに耐えながら戦っている、少女がいる。
それらすべてに目を背けて、楽な方へと身を委ねるほど最低な人間にはなりたく……ないっ!
突き立てた爪を、さらに深く、えぐるように。そうして何度も気を失うのをこらえて。
そうこうしているうちに、体を襲う痛みが薄れているのに気付いた。奔流はまだ続いている。感覚が麻痺してきたのか? なぜか、どうでもいいとすら思い始めていた。
ただ、手応えのある誰かと戦えれば――
……いま、何を?
自分だったら思いつくはずもないことを考えた気がする。なんで、そんなことを。
思考する。そうする余裕すらできていたが、答えを見つけだしたのは感覚だった。理屈ではなく、感覚。いつもだったら戸惑うところが、ここではそうするのが自然な気がした。
そして、愕然とする。感覚が麻痺してきた? そうではない。体が、心がこの異常な負の奔流を少しずつ受け入れているのだ。
いくら体に叩きつけられる流れが激しくても、自分もその流れと同化すれば痛みなど感じない。そういうことだった。呑まれるなという、カセドラの言葉の意味が理解できた。
ただ、そうした果てにはどうなってしまうのか――さっきまでの意識を失うことに対するよりも、はるかに強い危機感が恐怖を駆り立てる。
だが同時に――
変化はグレンの心にも起こっていた。
痛みが薄れたのは、同化だけが原因ではない。黒い奔流の勢いは、確かに弱まっていた。
自身の危機に気をとられて、コウイチはそのことに気づかない。
影響を受けるということは、影響を与えるということもである。コウイチの正気に、グレンの狂気は薄れていた。
コウイチが狂気に染め上げられていくように、グレンの心も正気を取り戻しつつあった。
“っ……!”
コウイチの思考が黒い奔流に呑み込まれる直前――グレンの狂気がほんのわずかに途絶えた。
◆
戦いは膠着状態にまで陥っていた。
噛み合いつつも静止する三本の剣。一本は両足を踏ん張り、顔に血管と壮絶な笑みを浮かべながら押し込むグレンの長剣。
そして残りの二本は、ぎりぎりのところでそれを押しとどめるレグラスとリゼの剣だった。
リゼの脇腹からの出血はすでに足首にまで達していた。レグラスの持つ剣も一本だけになっている。弾き飛ばされたわけではなく、二本の剣を操る余力がないと判断してのことだった。当然二人とも、コウイチの身に起こっている異変に気づく余裕もない。
グレンの剣は、レグラスの正面に向けられている。一瞬でも気を抜けば、その無慈悲な刃はレグラスの体を縦に切り裂くだろう。それを防ぐため、リゼも横から助力する形だ。
「ぐ、う……おい……このままだと……ジリ貧だぞ」
「わかってる、よ……けど……あたしが抜けたら……一瞬も保たないよね」
二人がかりでようやく互角なのだ。リゼが抜けたらすぐにレグラスは長剣の餌食になるだろう。グレンの力は圧倒的で、受け流す余裕もない。
「はっ……見捨てるってやり方も……あるんだがな」
皮肉めいたレグラスの言葉に、リゼはちらりと視線をよこしただけ。その気はないと、一瞬向けられた目が語っていた。
(ちっ……)
歯を食いしばったままなので、内心で舌打ちする。結果として共闘する形になったが、本音を言えば不本意だった。自分の年齢の半分ほどの小娘に助けられている現状も含めて、だ。
とはいえ万全とはとても言えない今の状態のまま、一人で立ち向かっても勝ち目はない。
というか、今だったら二人でも厳しい。現に体力も剣を支える腕の力も限界だった。
「くそ……がっ……!」
一瞬でいい。ほんの一息つける時間があれば、この窮地から逃れられる。
その願いが通じたようなタイミングで、全身にかかっていた圧力がふっと弱まった。
「小娘……!」
「ハァッ!」
噛み合わせていた剣を外し、リゼがグレンの肩から胸を切り裂く。苦し紛れの反撃では成し得なかった深手だ。
「がぁ……!」
今までとは違う。明らかに痛みに衝撃を受けた反応をグレンが見せる。胸を押さえてよろめくその表情からは、さっきまであった狂気がなくなっていた。
(何があった?)
そうした疑問を思い浮かべると同時、体はすでに次の行動に移っていた。
グレンが剣をうち振るう。それをかい潜り、リゼは左から、レグラス右から。二本の剣が、それぞれ異なる軌道を描く。
リゼの剣はグレンの右腕を斬り飛ばし。レグラスの剣は、左足を深々と貫いた。
一瞬の硬直のあと、距離をとって油断なくグレンを見据える二人。さっきまでのグレンなら、ここまでしておいてもまだ油断できない。だが、
「ク……」
グレンは笑みを浮かべていた。狂気の笑みではない。他の感情の混ざる余地のない澄んだ笑みだった。
「クク……ありがとよ」
すでに、グレンは正気を取り戻していた。そして口にした礼の言葉は、紛れもない本心からのもので。
「……良い、終わり方だ……」
空を見上げる。かふっ、と吐血した。自分で吐き出した血で顔面を赤く染め上げる。その血が残った最後の命のかけらであったかのように、その瞬間、戦いに狂った一人の傭兵は死んだ。その人生に、一片の後悔も残さず。
「なんだってんだ……?」
「さあ……?」
釈然としない表情で、その死顔を見つめるリゼとレグラス。落ち着いて考えられる今になってみれば、わけがわからなかった。
血まみれで正気を失ったグレンがいきなり襲いかかってきた理由も、突然正気を取り戻したわけも。
傷を押さえながら息を整える二人の背後で、ドサッと音がした。
リゼが振り返った先に、意識を失ったコウイチが倒れていた。体を包んでいた黒い燐光はすでに消え去っていた。