9.へたれ改め(1)
その夜、クレイファレルの街では住民たちの誰もが予想していなかった大きな事件が起こっていた。
この街に本拠を構える、タバスタル商会。その商店、倉庫、そして商会の長が住む大きな屋敷、それらすべてを武装した集団が取り囲み、あるいは中に踏み込んでいた。
その商会は領地に存在する大農園と関わりが深く、そしてその大農園も同じような状況だった。事情を知っている者がそれらを知れば、納得の色を浮かべたことだろう。
ほとんどのところは抵抗もなく、その場を制圧されただけで終わったが、屋敷と農園では今でも激しい抵抗が続けられていた。
――どうする?
窓辺に立ちながら、グレンは考えを巡らせていた。
階下では絶えず激しい戦いの音が聞こえてくる。いきなりの事態に、門は破られ襲撃者たちは早くも屋敷の中にまで入り込んでいた。
いや、不意を打たれたことも大きかっただろうが、襲撃があると予想していてもこうなっていただろう。この仕事で組んだのは、仲間ともいえない利用しているだけの傭兵たちだったが、それでも腕だけはそれなりにあったはずだ。それが、ろくな抵抗もできないまま片端から倒されていく。それほど襲撃者たちは手練れぞろいだった。
窓から見下ろすと、松明の明かりに照らされて中庭に陣取る襲撃者たちの姿が目に入った。揃いの甲冑に身を固めているところから、自分たちのような傭兵ではない。
あの装具には、見覚えがあった。
「何を突っ立っておる!」
怒鳴り声にグレンが振り向くと、雇い主のレイモンが睨んでいた。口元をわななかせながら、
「事態がわかっているのか!? あの連中は……この街にいる騎士団だぞ!」
「……ああ」
なるほど。道理で鍛えられた動きをしているわけだ。
「きさ、貴様が勝手な真似をするから! こ、こんな事態にっ、どうしてくれるのだ!?」
レイモンの言う“勝手な真似”が何を指しているのかわからず、グレンは無表情でレイモンを見返した。ただそれだけで、雇い主のこの男は怯えたような表情になる。
――あのことか。
ようやく思いついた心当たりに、クク、と含み笑いをこぼすと、レイモンがさらにいきりたった。
「何がおかしい!」
「レグラス、だったか? あの男はあんたから逃げだそうとして、その前にこの屋敷に忍び込んできた。それを斬って何が悪い?」
「だ、だからといって……そんなことは命令していない! それにあの男の部下たちのこともだ! 囲んで襲ったあげく、取り逃がしただと!? そこからタムヒカのことが漏れたのではあるまいか!」
能なしが――
レイモンのわめき声を聞きながら、グレンはあざけった。
レグラスとその仲間への襲撃は確かにレイモンから命令されたことではなく、グレンの独断だ。
だがその日の昼間会った時に、レグラスが逃げ出すのを確信して起こした行動だった。事実、あの男は仲間と逃げようとしていたから、その判断は間違いではなかったと思っている。
だが――
グレンは自分がある種の狂人であることを理解しているが、それでも考える頭は持っていると思っている。
たしかに自分がやったことがきっかけになったかもしれないが、それでいきなりこんな襲撃が起こるわけがない。レイモンの言うとおり、レグラスやその他の取り逃がした連中から話が漏れたとしても、動きが早すぎる。
つまり、前から計画されていたことなのだ。
――そんなことにも気づかないのか。
侮蔑を込めた眼差しで見ると、レイモンは憤怒に顔を赤く染め、詰め寄って胸ぐらをつかもうとしてきた。
「これまでのようですな」
部屋にいた最後の一人が、状況にそぐわない落ち着いた声をあげた。
「なに……?」
最後の一人、屋敷の主でありタバスタル商会の長の地位にある老年の男は、立ち上がるなり扉に足を向けた。
「ま、待て! 貴様、どこへ行く?」
「私はこれから投降します」
「なっ…………恩を忘れたか!?」
叫ぶレイモンに、老人は冷めた眼差しを向けた。
「勘違いしてはおりませんか? あなたとの関係は持ちつ持たれつだったはずです。たしかにあなたからはタムヒカの独占的な取り扱いを任されましたが、私だけが一方的な利益を得ていたわけではありません」
「なにを……!」
「この屋敷に専用の部屋を用意しましたし、疑われるのを覚悟であなたの都合にも手を貸してきました。ですが、こうなった以上はここまでにさせてもらいます。罪を自白すれば、少しは減刑も望めるでしょう」
言い放ち、呆然としたレイモンに背を向けて扉に手をかける。
ザシュ――
その手が扉の表面を滑った。斜めに斬られた背中が血が溢れ出る。
「グレン! 貴様、何を――」
返す刃が、抗議しようとしたレイモンの太い首を断ち切った。噴き出した血が絨毯を赤く染めた。
「……ふん」
転がった首をつまらないものを見る目で見下し、部屋を出る。
つまらない仕事だった――
思うことはそれだけだった。自分が殺した依頼主のことも、一時とはいえ組んだ傭兵たちのことも頭にない。頭の中は、すでに脱出の方法を考えている。
ここに居座るという選択肢はなかった。生と死の境界線を綱渡りのように渡る状況ならともかく、ここに残れば確実に殺されるか捕まる。
最初から死ぬとわかって死ぬのはつまらないし、捕らえられるのはもっとつまらない。牢獄に入れられたあげく、縛り首などもってのほかだ。
廊下へ出ると、急いで目星をつけておいた場所へ走る。窓を近くにあった花瓶を投げつけて叩き割り、そこから飛び降りた。飛び降りたのは裏庭だ。ここから塀を越えれば、あとは細い路地が連なる区画になる。そこまで行けば逃げきれる自信があった。
「待て」
凛とした、それでいて冷ややかな声が、グレンの足を止めた。
「一人で逃げるつもりか? 卑怯者め」
人影が立ちふさがった。月の明かりを背負い、わかるのは体の輪郭くらいだが、鎧の上からでもそうとわかる細身の体つきだった。
女? それも……一人だけか?
疑問に思ったが口に出すことはしない。問答無用で踏み込み、長剣を振るう。長剣は首を断ち切る軌道を描きながら、
シャル――
軽い擦過音を立てただけだった。
勢いを全く減らされないまま狙いを外れた剣の重さは、使い手の体勢を大きく崩す。
――閃。
見えたのは一筋の閃き。首をよじったのは、本能以外のなにものでない。
パッと肩口から血が噴き出した。遅れて痛みがやってくる。何が起こったのか、すぐにはわからなかった。
「卑怯者の太刀筋など通じぬ」
女が冷徹な声が立ち尽くすグレンに浴びせた。
舐められた――そう思った瞬間、思考が白熱化する。
「ガァアッ!!」
平穏に暮らしてきた者なら気を失うほどの殺意を噴き出し、それに駆られるまま長剣を縦横無尽に操った。
数分後――
全身につけられた傷から血を流し、グレンは荒い息を吐いていた。
「ッ……! ア、グァ……!」
痛みを切り捨て、傷をないものとして大きく踏み込み、全体重をかけて長剣を振り下ろした。それに剣の重さと速さが加わり、まともに受ければ剣ごと断ち切られるほどの一撃だった、にもかかわらず。
シャリ……ィ……と。渾身の力を込めた一撃も、むなしく土をえぐるだけ。胸元に一閃、グレンの体から血花が咲いた。
「グッ……!」
胸を押さえ、女を驚愕の眼差しで見る。
信じられなかった。
女の言葉通り、一太刀も浴びせられていない。すべての斬撃を流されていた。それどころか、女の細く反りかえった片刃の剣にはほんの少ししか血がついていなかった。恐ろしいまでの剣速のなせる技だ。
経験に裏打ちされた直感が勝てないと、逃げるべきだと警鐘を鳴らしている。
「バカ……な……」
今まで数え切れないほど戦ってきた。無力な者や弱者だけをいたぶってきたわけではない。同等か上の実力者とも戦ったし、グレンの狂気に危機感を抱いた味方に戦場で背中から斬りつけられることもあった。それらすべてを斬り伏せ、ねじ伏せ、屈服させてきた。
その、俺が――
「女ァ……ごときにだとォ……」
「これまでだな」
女が剣を下ろす。
「生かして捕らえるよう命じられている。剣を捨てよ」
この時、初めてグレンは気づいた。怜悧な目で見ながら、女の目には戦意がない。今そうなったのではなく、最初からそうだったのだ。まるで、戦う価値すらないというような……グレンとの戦いが目の前を飛び回る虫を追い払うような、その程度の行為だったと言うような。
「ク……」
――もう。どうでもいい。
「ククク……」
――生きるのは諦めた。なら、最後は。
いぶかしげに見る女騎士の前で、グレンは懐に手を差し入れ、何かを取り出した。紙に包まれた粉状のそれを、ためらいなく口に流し込む。
――好きにやらせてもらう。
「何のつもりだ?」
「ヒ……ヒヒャ……」
変化はすぐに訪れた。ドクン、と胸が大きく鳴り、グレンの目に映っていた女の姿がぐにゃりと歪む。視界が血で染めたように赤くなった。
思考が鈍化する。感覚が鋭敏になっていく。
「ヒャ……ハァッ!!」
土塊が飛んだ。グレンが地面を抉るほど強く蹴ったからだ。その体が、体勢を低くしたまま急加速した。
「ぬっ!」
二人の体が交錯する直前、女が下げていた剣を跳ね上げる。
キュィ……ン――
初めて、二人の剣が接触する瞬間わずかに高い音が生じた。
流しきれなかったか――だが!
切っ先が弧を描いて翻る。刃はグレンのわき腹を深く斬り裂いた。普通なら止まる傷だ。
「なっ!?」
グレンの体はわずかに失速しただけで、止まらなかった。
飛び退いたその場を、女には目もくれずグレンが駆け抜けていく。
――なに?
女が虚をつかれて、グレンが駆けていくのを見ていると、どこからか飛んできたナイフがその肩と背中に突き刺さった。グレンが体勢を崩す。そのまま倒れると思いきや、すぐに持ち直して走り出した。勢いをゆるめず、獣のような動きで塀を駆け上り、敷地の外へと飛び出していく。
「しまっ――」
「タガが外れてるなあれ。痛みも感じてなさそうだ。何があった、姉さん?」
物陰から音もなく若い男が現れた。指で何本ものナイフを弄んでいる。
「知らぬっ。あの男がいきなり何かを飲んだと思ったら、ああなったのだ!」
「何か……? ひょっとして、タムヒカ関連か?」
「いま冷静に考えている場合か! あんな奴を放っておくわけにはいかん、追うぞ!」
「やれやれ……ああいう壊れた相手とはやり合いたくないんだけどな」
「言っている場合か!」
言い合っている間にも二人は駆けだしていた。トン、と重力を感じさせない動きで男が塀の上に飛び乗り、塀に足をかけた女を引き上げる。二人は同時に塀を飛び降りた。
そこに立ちふさがる人影があった。二人は咄嗟に剣を構えかけ、
「待て」
その声は、彼らのよく知っているものだった。二人は構えを解き、声の主の元へ歩み寄っていく。
「なぜここに……? いえ、今はそんなことを言っている場合ではなく――」
「状況は把握している。その上で言う。追う必要は、ない」
「……は?」
「な……!? どういうことなのですか!?」
◆
コウイチが診療所に戻る頃には、すでに空は暗くなっていた。レグラスはというと、すでに目を覚ましていて青ざめた顔で不機嫌そうに黙り込んでいた。
「えっと……それで、これから?」
さりげなく距離をとりながら、レグラスから目をはなさないリゼに小声で聞いてみた。
「本音を言えばこのまま牢屋に入れたいところだけど、それで知っていることを話すわけでもなさそうだし」
「わかってるじゃねェか」
レグラスが小馬鹿にしたように笑う。
それに自分が襲われたことは隠したままにするなら、牢屋に入れることもできない。とはいえ、このまま解放するわけにいかなかった。
「その傷じゃ、すぐに何かをするのは無理だってこともわかってほしいんだけどね」
へっ、と笑い、口を閉ざしたレグラスから視線を外すと、リゼが肩をすくめて、
「とりあえず、このままここに預けておくわけにもいかないし、あたしの家にでも連れていくよ」
「それは……」
そんなことをして大丈夫なのだろうか、と心配になる。
「父さんは気にしないと思う。母さんは……なんて言って納得させようかな」
首を傾げながら、リゼはレグラスの剣を拾い上げた。
「先生に挨拶に行ってくるから、その間その人を見張ってて。……今度は人質になんてされないようにね」
彼女にしてはわかりやすい皮肉を口にして、リゼは部屋から出ていっていった。
「なあ、ボウズ」
レグラスが不機嫌そうに声をかけてきた。思わず身構えたコウイチをフンと鼻で笑ったが、さすがに後ろ手に縛られて襲ってくるつもりはないらしい。リゼが出て行った扉を顎でしゃくりながら、
「なんなんだあいつ。あの年齢であれだけ強い女……他に知らねェぞ」
なんとも答えようがなかった。強いて言えば……やっぱり家庭環境、なのだろうか?
「まあいい。それでこっちが本題なんだがな――さっき俺に何した?」
(……)
「何、とは」
「とぼける気か?」
「とぼけるも、何も。意味がわからない」
凄みが加わった声に後ずさるのをなんとかこらえる。下手に興味でも持たれたらたまったものではない。
「とぼけるってことは……他の奴らにも言っていないってことか?」
何かを隠していることを確信するような口振りに、コウイチの背中をだらだらと冷や汗が流れた。そのまま時間が過ぎれば、決定的なボロを出してしまったかもしれない。
「それじゃ出るよ」
扉が開いて、リゼが戻ってきた。
コウイチに持っていてとレグラスの剣を渡すと、リゼはレグラスの拘束を解きながら、
「これから外に出るけど、騒いだりさっきみたいな真似しようとしたら……蹴るよ」
その視線はレグラスの股間を注視していて、
「わ、わかった……」
内股になりながら後ずさるレグラスの姿には、さすがに同情してしまった。
診療所から出ると、夜風が肌を撫でた。
レグラスには前を行かせ、リゼが見張るようにその後をついて歩く。その後をコウイチが所在なさげについていく。
自分いらないんじゃ……とか思いつつも、口に出したら冷たい目で見られそうだったのでさすがに自重した。
「……」
「どうしたんスか~? いつもにも増して暗いッスよ?」
(いや……なんというか)
リゼにしろ、レグラスにしろ、自分とはかけ離れた実力の持ち主だ。だからか、場違いなものを感じてしまう。
「? 無力感に打ちひしがれてる、とか?」
(……そいういうわけでも、なく)
自分が今はまだ弱いのは自覚している。今さらそれを嘆いてもしょうがない……たまに嘆いてしまうが。
ともかくそれでも、弱いなりに、元無気力人間なりに今回のことでは積極的にやってきたと思う。そして、事態はどんどん進展していく。ただし、それらは自分が何かしたから、というわけではなく。あるいは関係してても、そうなると思ってやったわけではなかった。
「はっは~、役に立ってる実感がないから、いじけてると」
……はっきり言われると否定したくなるが、そうなのかもしれない。引っかかる部分もあるが。
「そりゃそうッスよ」
カセドラの声音は、呆れたものに変わっていた。
「兄さんが何かしたら全部それが“当たり”で、物事が進展するキッカケになる、なんて都合のいい話あるわけないじゃないッスか」
(まあ……それはそうなのだが)
さすがにそこまで自惚れてはいない。それに、そこまでご都合主義の塊のような人間になったらかえって疲れそうだなと思う。そう思える程度に、コウイチは普通の人間だった。
「けどまあ、兄さんは兄さんなりにがんばってると思うッスよ」
慰めとも励ましともつかないカセドラの言葉に、思わず苦笑した。この自称精霊にはよくからかわれているが、それ以上にお世話になっていると思う。
「それより兄さん、遅れてるッスよ」
言われて初めて、前を行く二人との距離が開いているのに気づいた。それすらもわからないほど、考え込んでしまっていたらしい。二人に追いつくため、早足になる。
それほど寂れた通りというわけでもないのだが、その夜はまったくといっていいほど人通りがなかった。
ざわり――不意に、背中を嫌なもので撫でられるような不快感に襲われた。
思わず振り向く。路地から物音がして、何かが飛び出してくる。それは信じられない早さで接近してきた。
「なっ――」
「兄さん!」
「コウイチ!」
カセドラと振り返ったリゼの叫び声が重なった。コウイチの目の前で、白刃が月明かりを反射した。