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8.脇役の終幕(3)

 コウイチとリゼが二人がかりで男を運び込んだのは、前にコウイチが治療をしてもらった兵舎近くの診療所だった。

 男の治療が終わるのを待ちながら、コウイチは複雑な心境で首を傾げる。

(……まさか)

 自分を怪我させた相手をここに連れてくることになるとは、夢にも思っていなかった。

 皮肉というかなんというか――

 男を運び込んだ部屋の扉が開く。血に汚れた手を拭きながら出てきたのは、老医師のガークスだ。

「とりあえず傷口は塞いでおいた。肩と背中の二ヶ所だな」

 コウイチたちの顔を見渡し、渋い顔で説明する。

「大丈夫なんですか?」

「血の出すぎだ。内臓が傷ついとらんのが幸いだった。そうだったら手のほどこしようがなかった」

 とりあえず、命にかかわるというほどでもないらしい。コウイチは胸をなで下ろした。たとえ自分を傷つけた相手でも、関わった人間が死ぬところに立ち会いたいなどとは思わない。

「それでおまえたち……いったい何をしとる?」

 ガークスが眉をひそめ、とがめるような表情を三人に向けた。

「あの男の傷は前のとは違う。もう少し深ければ、死んでいてもおかしくない傷だ。しかもあれは……刃でつけられたものだろう?」

 コウイチがリゼとフェリナと目を合わせる。事情がわからないのは自分たちも同じだ。

 どう説明したらいいか悩んでいると、先に口を開いたのはフェリナだった。

「あの方については、通りすがりで倒れているところを見かけただけです」

「そのわりには、前から知っているように見えたが」

「ええ。以前に会ったことがありますので」

「ほう。見るからに物騒そうな、あの男とか?」

「知り合いというわけではありません。名前も知りませんし、顔を合わせた程度です」

 ややこしくなると思ったのか、以前にコウイチの怪我を負わせたのがこの男だということは隠すつもりらしい。

「では、なぜあのような怪我を負っているかは知らんということか?」

「はい」

 フェリナの言葉を噛みしめるようにガークスが目を細めた。やがて、

「……ふむ。それはわかったが、問題はアレをした人間がこの街にいるということだ」

「それだったら――」

 リゼが口を挟む。

「あたしたちのほうで調べてみます」

「おまえたちがか?」

「放っておくわけにはいきませんから」

 リゼもコウイチもそれが本業だ。ガークスは思案するようにうなり、問題はないと判断したらしい。

「……わかった」

 納得したように頷いた。そしてフェリナに向き直り、

「この二人はいいとして、おまえさんはこの件には関わらないようにしなさい。危険だからな」

 年長者の良識と、孫のような年齢の少女に対する心配をにじませた声でそうさとした。

「わかっています」

「あまり父上を心配させないようにな」

「はい。……それで、このことを父には」

わしから話すような真似はしない。気苦労をかけたくないからな。だが、聞かれたら隠すこともせんぞ」

 ガークスが妥協案を示したその時、部屋の中から物音がした。

「もう目を覚ましたか」

 ガークスが扉に目を向け、

「顔見知りなら安静にするように伝えてくれ」

 そう言ってから診察室しんさつしつへと戻っていく。前に来たときと違って開業時間なので、まだ他にも患者はいるのだ。コウイチたちにとって幸いなのは、たまたまベッドを使うほどの患者が自分たちが連れてきた男だけだったことか。

 ノックをしてから部屋に入ると、上半身を起こした男が肩に巻かれた包帯に手を当てて痛そうに顔をしかめていた。

「寝ていたほうがいいよ」

 リゼの声に反応して、男が顔を上げる。

 意識がはっきりとしていないのか、ぼうっとした様子で、三人を順番に見つめた。

「……ああ、そうか」

 何かを思い出したのか、小声でそうつぶやいた後、リゼに目を向けた。そして納得がいかないような微妙な表情で、

「なあ、嬢ちゃん。ひょっとして……おまえか? あの時、俺に石投げたの」

 男と初めて会った時のことだろう。リゼの背後からの投石で、からくもこの男から逃げられたのだ。確かあの時は男にまともに顔を見せなかったので、リゼの仕業とはわからなかったはずなのだが……。

「そうだけど」

 あっさりと認めたリゼの一言で驚いたのは、コウイチだけではなかった。

 男は頭を抱え、

「なんてこった……」

 信じがたい現実を突きつけられたような声を絞り出した。

「こんな胸も色気もねェような、ひょろひょろした小娘に不意打ち喰らうなんて……」

 ひょろひょろした小娘、と男が口にした瞬間、リゼの肩がピクリと揺れた。さらにぶつぶつ言う男の喉元に、剣の切っ先が突きつけられる。

「リ、リゼ……その、落ち着いて」

 抜く動作も見えなかったコウイチが慌てて止めた。

「落ち着いてるけど?」

(……とても、そうは見えないのですが)

 いつもどおり、感情表現に乏しい彼女が、今に限ってなんか怖かった。

「けど、ね。怪我してるから後回しにしておこうって思ったけど、これだけ喋れる余裕があるなら、今ここで初めてもいいかなって」

 何を? とは、さすがにおそれ多くて聞けず。

 男が両手をあげ、

「降参だ降参。こんな馬鹿げた死に方はいくらなんでもごめんだからな」

 そう言った後、切っ先が外されるまでの時間が、コウイチにはやけに長く感じられたわけで。


「とりあえず……まず、名前を聞きたいんですが」

 今のリゼに頼むにはまずい気がして、まさかフェリナにやらせるわけにもいかず、男にあれこれ聞くのはコウイチの役目になっていた。

 少し前まで平穏に生きてきた自分とはまるで違う男を相手に、自然と卑屈ひくつな態度をとってしまう。

 男がうっとおしげな目でコウイチを見て、

「……レグラスだ」

「……えーと、ご職業、は?」

「傭兵だよ。なんなんだおまえ」

 うんざりした様子ではあるが、一応は答えてはくれる。わけなのだが。

「……えー……」

 早速つまった。

 いや、聞くことはあるのだが、下手な質問して怒らせたらと思うと、色々考えてしまうわけで。そうして考えれば考えるほど思考はネガティブな方向に進み、それでまた口を開くのが億劫おっくうになる。

 黙り込んだコウイチに業を煮やしてか、リゼが割って入った。

「それで、なんであんなところで倒れてたの?」

「あー……」

 男――レグラスが決まり悪そうに頭を掻く。

「まあ、いいか……」

 そうして口にした言葉は、

「依頼主のやましい部分を知りすぎちまってな。その口封じに殺されそうになったんだよ。逃げようとしたんだが、それも向こうは予想済みだったらしくってな。なんとか殺される前に逃げたんだが、その時に斬られたせいで途中で動けなくなっちまったわけだ」

 さらっと。よくあることのように。内容の重さの割には、男の口調はまるで重くなかった。

 それとも、よくあることなのだろうか、と。あまりにも考え方が違いすぎて、コウイチはクラクラする頭を抱えこんだ。

「その依頼主は誰? それとやましい部分っていうのは具体的に何かな?」

 その瞬間――

 軽薄だったレグラスの表情、その目が、すっと刃のように細まった。場の空気がそれだけでがらりと剣呑けんのんなものへ変わる。

「それを教えたらどうする気だ?」

「どうって?」

「そこのボウズ、この街の兵士なんだろ? なら嬢ちゃんも同じか? とにかくそれを知ったら、おまえらでどうにかしようとするだろ?」

 口調は軽かったが、目は笑っていない。思わず後ずさりしたコウイチとは対照的に、リゼの態度はいつも通りの淡々としたものだった。

「そうだとしたら? 何か問題でもあるの?」

「あるに決まってんだろうが。そうなったら俺の出る幕がなくなっちまう」

「……復讐するつもり?」

 レグラスが肩をすくめる。

「ただ働きはしたくねェが、そうも言ってられねェ事情がある。俺だけじゃなく仲間たちのこともあるんでな」

「仲間?」

 そう言えば、最初に会ったとき一緒にいた男たちがいた。彼らがそうなのだろうか。

 険しい顔をして口元を結ぶレグラスを見て、コウイチの背筋に悪寒が走った。口封じに殺されそうになったと言っていた。

 ――まさか、同じような目に?

「……そう。じゃ、それはとりあえず置いておこうか」

「あァ?」

 どうやら聞き出すのは無理と思ったらしい。リゼはあっさりと話題を変えた。

「なら、コウイチとフェリナ――そこの二人を狙った理由は? 襲われた当事者がいるんだ。これまで黙りを認めるつもりはないよ」

 切り口を変えての問いかけに、レグラスはリゼから目をそらしてコウイチたちを見つめた後、舌打ちをしてため息をついた。

「……おまえら、知り合いの女を捜してるだろ。依頼主に言われたんだよ。それを脅してでも止めさせろってな」

 渋々と口にした内容は、コウイチが以前推測した通りのものだった。

「では、アイーシャさんのこともあなたが?」

「アイーシャ? 女の名前か? 知らねェ。会ったこともねェよ」

 さばさばした口調で話す様子からは、嘘をついているようには見えない。

「彼女は、聖封教会の司祭で、この街の教会の責任者です。何か話を聞いたことは?」

 身を乗り出してそう聞いたのはフェリナだった。レグラスが頭をひねる。

「……いや、やっぱり聞いたこともねェな」

「なら、彼女を探しているのはあなたたちではないんですか?」

「そんなことを言われた覚えはねェよ」

 うんざりした様子でレグラスは首を振る。

 まったくの無関係というわけではないだろう。彼が直接何かした、というわけでもなさそうだった。

 まだ疑いの目で見るリゼとは違い、フェリナは信じたようであっさりと頷くと、

「では、最初に会ったあの夜、私に『どっちでもいい』と言いましたけれど、あれはどういう意味ですか?」

 とたんに、レグラスが顔をしかめた。苦虫を噛みつぶしたような表情になり、ためらうように口を開いた。

「そこのボウズを痛めつけた後、殺さない範囲であんたを好きにしていいって言われたんだよ」

 それだけ言うと、これ以上話す気はないとばかりに顔を背ける。早々に意味を理解したリゼの顔から、表情が消えた。

「……聞いておくけど、あなたは彼女に“何か”する気だったのかな?」

 傍で聞いているコウイチがぞっとするほど、氷のように冷たい声音だった。

「ハッ、バカ言え。そんなくだらねェ真似するかよ」

 レグラスが吐き捨てた。言われてみればと、コウイチはあの時のことを思い出す。フェリナに関心がなさそうだったし、実際に何かする様子でもなかった。

(……悪い人じゃない?)

 見直した内心が顔に出ていたのだろうか。

「おい、ボウズ」

 気づいたら、レグラスが呆れた顔をしていた。

「おまえ……バカだろ」

「……」

 一瞬ムッとしたのは、そう言われたからなわけで。

 自分に大けがをさせた相手なのに、不思議と怒りや憎しみといった感情は覚えなかった。

 何かにつけて自分が悪いのでは、と思う自虐的な性格のせいなのかもしれないし、そういった感情を沸き立たせる気力がないだけかもしれない。そこらへんは自分でもはっきりとわからない。

 しばらくコウイチを見ていたレグラスだが、すぐに興味をなくしたように目をそらせた。

「さて……世話になったな」

 言うなり無造作に寝台から降り、立てかけてあった二振りの剣を引き寄せた。

 リゼが一歩前に出る。

「どうするつもり……かは聞くまでもないか。けどその前に、さっきの質問に答えてもらうよ。依頼主は誰で、あなたが知ってしまったことは何?」

「だから話さねェって言ってんだろが」

「それで納得するとでも? あくまで話さないって言うなら、話す気になってもらうよ」

 リゼが腰を落とし、剣の柄頭に手をかけた。苛立ちを表に出していたレグラスの表情から感情が抜け落ち、リゼをまじまじと見つめる。嫌な予感に、コウイチはフェリナを背後に後ずさった。

「リ、リゼ……ここは、穏便に話し合いで――」

「……ほぉ? それは力尽くで、ってことだよな?」

 コウイチなど存在しないように、二人はお互いから目を離さない。

「言っておくけど、今のあなただったら簡単に抑えられると思う」

 血の気の失せたレグラスの顔を真っ直ぐに見て、リゼがはっきりと言い放つ。

「……く、くくく。……そうかよ。そういやおまえにも借りがあったんだよなァ」

 レグラスの表情がくしゃりと歪んだ。激烈な怒りが込められた犬歯がむき出しの表情に、コウイチは思わず息を呑んだ。

 にらみ合う二人はまだ剣を抜いてこそいないものの、一秒後にはそうなっていてもおかしくない。

(ど、どうすれば……)

 呼吸をするのも苦労するような殺伐とした状況で、コウイチは思考を巡らせた。どうすれば二人を止められるのか、という答えを求めて。

「放っておけばいいんじゃないスか?」

(そういう、わけには)

 カセドラの声に、コウイチは頭を振った。

 レグラスは明らかに弱っているし、リゼが言っているとおり簡単に取り押さえられるかもしれないが。それでも、今のレグラスからは……手負いの獣といった感じの、楽観できない何かがあった。

 ……まあ。それも折り込み済みで、リゼは簡単だと言っているのかもしれないが。これから起こることをただ見ているだけということに、抵抗があった。悔しさもあったかもしれない。

(カセドラ、なんとか二人を止められないだろうか?)

「どうやってッスか?」

(……殴りつけて、気絶させるとか)

「いやッスよ。あいつ妙に勘がいいんスから」

 たしかに。前にも見えないはずのカセドラの不意打ちをかわしていた。だがそのすぐ後の、リゼの投石は直撃していたのだ。見えないはずのカセドラの存在に気を取られていたからだ。

(それなら、隙を作れば。なんとか、なるのでは?)

「コウイチさん?」

 怪訝そうなフェリナの声は、緊張のあまりかうっすらとしか聞こえず。衝動的に動いたのは、これ以上考えてもなんだかんだと嫌な想像ばかりが浮かんで動けなくなると思ったからだと思う。

「一つ、聞きたいことが」

 ただ話すだけだったら見向きもされなかったに違いない。リゼとレグラスがコウイチに目を向けたのは、コウイチが二人の間に割り込むように動いたから。

 眼差しを鋭くしたリゼとは対照的に、レグラスはきょを突かれたような表情を見せる。

 その表情も、次にコウイチが言葉を発するまでだった。

「依頼主は……レイモン、という名では?」

 確証があってのことではないし、推理と呼べるものでもない。その名を出したのは、以前に態度と人相がいかにも悪役そうだから、という理由にもならない理由で疑わしいと思ったからだった。あくまで隙を作るための、適当な言葉だったわけで。

 だから、何言ってんだコイツ? みたいな反応を予想していたのだが。

 レグラスが目を見開いた表情で固まった。

(……あれ?)

 なに、この反応?

 まるで、図星をつかれたような――

「……当たりなんじゃないッスか?」

 呆れ半分、驚き半分のカセドラの声。驚きから解かれて、悔しさと諦めの入り交じった、しくじったなと言いたげなレグラスの表情。

「……チッ」

 舌打ちと同時、強い力で腕の掴まれ、コウイチの体は引き寄せられていた。

「コウイチ!」

「コウイチさんッ」

 抵抗する間もなく、コウイチは後ろ手に拘束されていた。喉元には、冷たく硬質な刃の感触。

「どきな。コイツを目の前で死なせたくはねェだろ?」

 突きつけられた脅迫にリゼの表情が険しくなる。思わぬ誤算に、コウイチの頭の中は真っ白になった。

「ちょ……まっ」

 抵抗は力尽くで押さえつけられ、喉に刃が浅く食い込んだ。

 ちょっといい人かも……なんで思った自分に説教してありたい気分だった。

「安心しな。おとなしくするならすぐに離してやるよ」

 と、言われても。ここで言われるがままにするわけにはいかない。

 こんなことで逃がしたら、ただの足手まといでしかなく、後で相当気まずいことになる。

(カセドラ……頼むっ)

「んー。……兄さんに気をとられてるから、今なら大丈夫だと思うッスけど……」

(なら……っ!)

「でもいいんスか?」

 なぜかためらうよう反応が、今はもどかしいだけで。

「わかったッスよ。……せーの」

 パタパタという羽音は、後ろからだった。

 直後――

「がっ!」

 苦悶くもんの声をあげて、雷に打たれたようにレグラスが体を反らす。拘束こうそくがゆるみ、コウイチはよろめくようにレグラスから離れる。

「っ!」

 床を蹴ったリゼが一瞬で距離を詰めて、

「びょっ!」

 なんかおもしろい悲鳴に振り向くと、リゼの足がレグラスの股間にめり込んでいた。

「……うわ」

 白目をいたレグラスは、そのまま床に崩れ落ちた。

 同姓として、多分に憐憫れんびんの眼差しを向けざるをえない。それにしても、

(……カセドラ。いったい、何を)

「べっつに大したことはしてないッスよ~。背中の傷を、こうぐりぐり~っと」

 翼の先をねじるように動かす。ピクピクと痙攣けいれんしているレグラスの背中の包帯から、血が滲んでいた。

(……うわぁ)

 レグラスの受けた二重の痛みを想像し、コウイチは思わず顔をしかめた。……悲惨すぎる。

「それより兄さん、血が出てるッスよ」

(……血?)

 カセドラの視線にうながされるように首をぬぐう。鋭い痛みが走り、手が真っ赤に汚れた。

「な……なに、が?」

 思わず口に出し、はっと思い当たる。

 自分は喉に剣を押しつけられていたわけで。レグラスは痛みに思わずけ反ったわけで。下手をすればそのまま首が斬れていたかもしれないわけで。

 さーっと。

 血の気の引く音が聞こえるような勢いで、顔が真っ青になった。

「だから『いいんスか?』って言ったじゃないッスか」

 ……できれば、もうちょっとわかりやすく言ってほしかった。

「……それで君は、何を考えてるのかな?」

 背筋が凍りついた。声の先には能面のような無表情。それでもはっきりとわかるほど、怒りが透けていて。

 怖すぎて目をそらすこともできず、視界の端にはカセドラの両翼の先を合わせて合掌しているような姿が映った。


 結局のところ、リゼにはなんであんな無謀むぼうなことをしたのかと冷たく怒られることになったわけで。目の前の状況に混乱してしまったからあんなふうに考えてしまったものの、冷静になった今ではあんな大怪我をした相手にリゼが負けるはずもなく、そうでなければ自分が人質にとられるはずもないし……手負いの獣とか、振り返れば赤面ものだった。

 そしてそんな相手の急所を容赦ようしゃなく狙ったリゼはある意味恐ろしく……そのリゼを怒らせたという事実に、しばらく目を合わせられそうになかった。

 フェリナはフェリナで、レグラスがなんでいきなり仰け反ったのか疑問を抱き、いきなり動いて背中の傷が開いたのではと、それらしいことを言って誤魔化すのに苦労したわけで。

 レグラスの手を縛り上げてようやく一息ついた頃には、心身ともにヘトヘトになっていた。


 その後、時間も遅いということで、さすがに二度も門限を破らせるわけにはいかず、コウイチはフェリナを送っていくことにした。レグラスはいつ目を覚ますかわからないので、リゼに任せている。

 帰路は二人とも無言だった。フェリナは何かを考えるように黙り込んだまま。

 何を考えているかは想像がつく。レイモン、という名を口にした時の、レグラスの反応だろう。

 コウイチからは、フェリナの身内が一連の事件の黒幕として浮かび上がってきたことから気が引けて話しかけづらかった。

 結局、館の門前まで一言も言葉を交わすことなく。

「わかっています」

 唐突とうとつに言い出したフェリナに驚き、コウイチは別れを告げかけた口を開いたまま固まった。

「気をつかっていただいたのですよね? レイモン様のことで」

「……いえ、あの……同じ名前の、別人という可能性も……」

「ええ、そうでしょうけれど。ですが、やはりこのことは父に伝えるつもりです」

「……いいんですか?」

「ここまできたら、黙っているわけにもいきません」

「それは……」

 ハッキリと言いきるフェリナを呆然と見つめる。もしかしたら、それほど気にしていないのだろうか。あまり仲は良さそうに見えなかったし。

 などという考えは、次の瞬間吹き飛んだ。

「もちろん、別人であればいいと思っています。ですが、本当にあの方が何か罪を犯していたとしたら、この地を治める家に生まれた者として、見過ごすわけにはいきません。……たとえそれが、同じ名を持つ者であっても」

 この時、初めてコウイチはフェリナに近よりがたいものを感じた。

 仲が良いとか悪いとか、そういった次元の問題ではないのだ。

 生まれついての統治者。貴族階級。元の世界ではおそらく接する機会さえなかった存在を前に、声を出すことも忘れて呆然と立ち尽くす。

 だから、フェリナがいつもの微笑を浮かべ、

「それにもし間違っていても、わたしから謝罪すればいいだけですから。では失礼します」

 頭を下げて門をくぐるその背中を、コウイチは黙って見送るしかなかった。


 ◆


 自分で言い出したものの、レイモンのことを父親に伝える気は、フェリナにはなかった。

 ずっと前から、わかっていたことだから。それが伝わるのは、すべてが終わってからでいい。そう決めていた。

 いつものように微笑を浮かべてメイドの出迎えを受けた後、フェリナは自分の部屋へと戻った。

「待ってましたよ」

“声”が聞こえるのは半ば予想していた。

「いよいよ、ですか?」

「いえ、もう始まってます」

 目を瞬かせ、フェリナが首を傾げる。レイモンのことを隠すと決めた以上、彼女にとって都合のいい報告だったが話が急すぎた。

「それは……また急な話ですね」

「さすがにもう悠長ゆうちょうなことを言っていられなくなりましてね」

「どういうことですか?」

「昨日だけで大きな動きが二つありました。一つは、街中での脱走者への殺人。もう一つは、雇っていた傭兵たちの……おそらく、口封じです。一応は隠蔽いんぺいらしいこともしたようですが、監視の目に気づかないようなら意味がありませんね」

 スルトか、その仲間が現場を目撃していたということらしい。

「今までのようにひっそりと悪巧みしているならともかく、あそこまで派手なことをしてくる奴らです。これ以上の犠牲を出ないとも限りません。ですから急な話なんですが、今夜ということに決まったようです」

 目に見えて派手な動きがない以上、今までは様子見と証拠集めのためのもどかしい時間ばかりがすぎていた。そこから一転、過激すぎる動きに、声の主の戸惑った様子が伝わってきた。今までの慎重な態度はなんだったんだ、と思っているのだろうか。

「それとですね。襲われた側の傭兵たちですが、逃げ延びた奴らはこっちで捕まえておきました」

「その……大丈夫だったのですか、彼らは?」

「それなりに腕の立つ連中だったようです。奇襲包囲をされてほとんどが生き残ったんですから」

「そう、ですか……」

 顔を伏せ、フェリナは小声で呟く。端から見れば、襲われた傭兵たちに同情しているようにも見えた。

「では、俺もこのことを伝えたら合流するように言われていますので、失礼しますよ」

「わかりました。ご武運をお祈りします」

 音もなく、声の主はその場から離れた。もしまだ残っていたとしても、フェリナにはわからない。それほど存在感というものが希薄だった。

 ともあれ、彼らが動き出したのならもうこの問題はこれで終わりだ。明日までには、すべてが終わっているだろう。

 後は、なるべく犠牲者が出ないことを祈るだけ――

「……っ」

 立ちくらみにあったように、彼女は椅子の背もたれに手をついた。

 帽子の中に押し込められていたフェリナの金髪。それが突然、うっすらと光を帯び始めた。暗いところで注目しなければわからないほどの微量の燐光が髪からあふれる。

 フェリナの双眸そうぼうから光が失せた。目の前の光景以外の何かを見ているように、その目は何も映しておらず、すぐにまぶたが閉じられた。

 唐突なその変化は十秒にも満たなかった。

 椅子から手を離す。開いた目は部屋の様子を視界に入れていたが、その表情は驚きに満ちていた。思考するように数秒固まり、

「なぜ……?」

 呟いてからはっと我に返ると、時間のロスを後悔するような素早さで動き出す。今の彼女には一刻も早く伝えなければならないことがあった。

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