5.へたれ長じて兵士(見習い)となる(1)
とある裏路地の行き止まりにある、小汚い見た目の建物。それが、男の行きつけの酒場だった。
美味い酒や料理が出されるというわけではない。ましてや居心地の良さからは縁遠い。それでも男が無愛想な主人のいるこの店に足を運ぶのは、ここがどれほど騒いでもどこからも文句を言われない店だからだった。
「オヤジィ……酒だ」
すぐに空になったグラスに酒が注がれる。安いだけの売りの悪酒だが、酔ってしまえば味などわからない。今日は徹底的に飲んで、嫌なことをさっぱり忘れるつもりだった。
「なんだァ、また負けたのか?」
「……うるせェ」
常連の客からからかいの言葉を投げかけられ、男が憮然とする。男が大の博打好きで、日銭を稼いではそれを賭事に費やしているというのはすでに知られたことだった。
「くそっ……あと、もうちょっとだったんだ……」
グチグチとこぼす男の頭が、早くもふらふらと揺れている。このまま限界まで酒を飲み続け、酔いつぶれる寸前に叩き出される――それがいつものパターンだが、今日に限ってそうはならなかった。
男の視界の端に、この安酒場には似合わないものが飛び込んできたからだ。
「……?」
帽子を目深にかぶった娘が、中を窺うように入り口に立っていた。恐る恐るといった様子で足を踏み入れ、いかにも慣れていない様子で店内のあちこちを見ている。とても飲みにきたようには見えない。
「あの――」
「……あ?」
働かない頭でぼんやりと眺めていた男に、娘が近づいて声をかけてきた。
「このお店の主は、どちらに?」
「あぁ……? 店主ならアソコに――」
カウンターを指さしかけ、そこに誰もいないことに気付く。店の奥にでも引っ込んでいるのだろう。
「チッ……」
「あの?」
面倒くさそうに振り返り、男は娘が思ったよりも若く顔立ちも整っていることに気づいた。その顔を間近で直視しているうちに、ふと暗い考えが頭をよぎる。
「そうだな……」
唇を舌で濡らす。
言葉づかいからして良い家の育ちなのだろうか、高そうな服を着ている。振る舞いや喋り方も上品そうだ。……少しつつけば、美味い目が見れるかもしれない。
「教えてやってもいいが、かわりにちょいと付き合ってくれねぇか?」
酒の入ったグラスを掲げて揺らす。中に入った琥珀色の液体が波打った。
「申し訳ありません。お酒は飲めないので……」
娘が申し訳なさそうに頭を下げた。傍から見れば誠実な態度だったが、酒で濁った男の目にはそれが自分を小馬鹿にしているように映った。
「ちょっとくらいにはいいだろうが」
腕をつかもうと伸ばした手が空を切る。単純に酔いのせいで目測を誤ったからなのだが、男には娘が飛びのいてよけたように見えた。
「んだァ……?」
その些細なこと、たったそれだけで、男の思考は黒く塗りつぶされる。元の性格からして短気だが、酔いと博打で負けた腹立たしさがそれを増長させていた。
ゆらりと立ち上がり、娘を突き飛ばす。小さな悲鳴を上げて、娘は尻をついた。
「チッ……どいつもこいつも……バカにしやがって」
おぼつかない足取り男は娘に近づいた。
険悪な雰囲気に店中の視線が集まる。さすがに男の行動に顔をしかめる客もいたが、止めようとする者はいない。男の酒癖を知っている彼らにとって、こんなことで巻き込まれるのはバカバカしいことだった。
「てめえも……オレをバカにしてんだろォ……?」
娘の細い腕を掴んで引き起こす。娘の顔が痛みに歪み、苦しそうな声をあげた。男の口端が、弱い者をいたぶる時の快楽に歪む。
「何を……なさるのですか?」
困惑の混じった、素朴な問いかけだった。
「あぁ……?」
男が気に入らなかったのは、娘が怯えていないことだった。怯え、救いを求めるような目を期待していたのだ。
拳を握り、振り上げたときも娘は怯える素振りを見せない。それで男は拳を下ろすタイミングを失った。脅しをかけるつもりで振り上げた拳が、振りおろされる。
最後まで、娘は目を閉じなかった。
バシィッ――
男の拳が途中で止まった。男が止めたわけではない。
腕を誰かにつかまれたのだ。
「そこまでに、したほうがいいかと」
ボソボソとした抑揚のない声。振り返ってみれば、そこにいたのは黒髪の青年だった。この酒場の常連ではない。一瞬いぶかしんだが、その疑問はすぐに投げ捨てられた。
「てめえも……バカにすんのか?」
「は? ……っ!」
ふりほどきながら振るった拳を、青年はとっさに飛び退いてかわした。
「っ……!」
「邪魔すんじゃねぇよ!」
力任せに拳を振り回す。当たれば骨が折れてもおかしくないほど力のこもった打撃だ。それでも、青年には当たらない。すべてを危うげない動作でかわされていた。
「ヤロウ……!」
男にはなんで当てられないのかわからなかった。
酔っているとはいえ、喧嘩慣れはしている。肉体系の日雇い仕事で鍛えた体は、そこらの男より力があるはずだ。
「だらァ!」
業を煮やして、男は肩から突っ込んだ。床に倒して蹴りつけるつもりだった。
――ズダァッ!
直後、男は天井を仰ぎ見ていた。
「あ……?」
何が起こったのかすらわからない。
「今の、うちに」
「ですが――」
「大丈夫、ですから」
青年が娘に声をかけていた。ためらう様子を見せながらも、娘は一礼して店から出ていく。
「てめえ……」
男がのそりと立ち上がった。痛みはあったが、それを怒りが帳消しにしている。近くにあった酒瓶を叩き割り、それを青年へ向けた。
明らかに度を過ぎた男の凶行に、戻ってきた店主が止めようとする。
他の客の怒声やはやし立てるような声で店内は騒然としたが、頭に血が上った男の耳には入らない。
「おおっ!」
酒瓶とはいえ、割られた部分は鋭く尖っている。思い切り人に刺されば命に関わるような怪我を負わせてもおかしくはない。そうした後先のことなど考えない、腰だめに構えての突進だった。
青年が一歩後ずさる。同時にその手が酒瓶にそえられた。そして――
バシィ!
男の視界が、ぐらりと揺れた。足から力が抜けて、そのまま床に崩れ落ちる。
「な……にが……」
――何が起こった?
実際には青年が酒瓶がそらした直後、逆の拳が男の顎を打ち抜いただけなのだが、死角からの一撃を男の目はとらえられなかった。
わけがわからないまま混乱しているうちに腕をとられ、そのままひねりあげられる。
「イ――イダダダダダ! な、何しやがるテメエ!」
「いえ、あの……どうやっても、大人しくしてくれそうに、なかったので」
「ふっざけんなゴラ! いいから離せブチ殺すぞ!」
はあ、と嘆息。首のあたりに衝撃を感じて意識を手放したのはその後のことだった。
そして次の日――
「……んだぁ?」
男が目を覚ましたのは、裏路地の片隅。記憶をきれいさっぱりなくし、なんで自分がこんなところにいるのかもわからない。
首をひねりつつも、それは男にとってそれほど珍しくもないこと。どうせいつものように意識が飛ぶほど飲んだだけと思い直し、日が暮れるころにはそれを疑問に思うこともなくなっていた。
◆
クレイファレルの街は二つの隣国との国境近くに位置し、かつて要衝の街として発展した歴史がある。
現在では平和も長く、多くの外国人を受け入れる玄関口となっているが、かつての要衝都市としての名残は街のそこかしこにあった。
街全体を覆う分厚い外壁、その上に設けられた物見の塔、出入りを制限するための鉄製の大きな門。町中に引かれた水路と、そこにかけられたいくつもの跳ね橋。
そしてそのうちの一つ、現在の兵の数の割には広大すぎる練兵場の一角で、一組の男女が向かい合っていた。
「――で?」
喉元に突きつけされた鋼鉄の剣よりも、さらに冷たく硬質な声。
喉がごくりと鳴り、汗がこめかみを伝う。油断も気の緩みも感じさせない目の前の相手に、コウイチは立ち尽くすことしかできない。
背後の地面には、ついさっき弾き飛ばされたばかりの剣が突き刺さっている。ようするに、今は武器もなく、この劣勢を挽回する手段も思いつかない。
「参り……ました」
切っ先がはずされ、同時に体から力が抜ける。そのままへたりこみたいところだが、前にそれをやってひどい目にあったのでなんとかこらえた。
そうして気を抜いた直後。
ベシィッ!
視界一面に火花が散り、コウイチはその一瞬だけ気を失った。
「な、なにを……」
剣の平で殴られた頭を抱えてうずくまる。訓練用の剣は刃が潰されているが、そんなことなどまるで関係のない一撃だった。
「気を抜いたよね? それじゃへたりこんだのと同じ。敵と向かい合ってる時に油断するな」
「だが、あの状態ではもう負けなのでは」
「実戦の時もそうやって諦めるつもり?」
声の温度がますます下がった気がした。
「最後の最後まで諦めないで逆転ってこともあるんだ。その逆もね。訓練だからって舐めてかかったら本番で死ぬよ?」
そう言われると返す言葉もない。
「……はい」
うん、と頷いて、女は剣を鞘に納める。
「じゃ、これで終わり。いつも通りしっかりと筋肉をほぐしとくことね」
さっきまでとはまるで別人のようなさばさばした口調だった。いつもこんな感じならいいのに、と自分と同じくらいの年齢の女を見上げる。
訓練時は淡々として、まるで容赦のない彼女だったが、それ以外の時はさっぱりした性格だった。本人いわく、あまり考え込むことはないそうだが、その性格に合わせたように浅黄色の髪を肩のあたりですっぱり切りそろえている。
「ありがとう、ございました」
一礼すると、ん、と小さく頷き返された。
ここではたった一人、他でもあまり見かけない女の兵士だそうだが、実力はこの街の兵士たちの間でも上位に入る。
それじゃ、と手を振ってすたすた去ってしまう女を見送って、
(……疲れた)
その姿が見えなくなったところで、コウイチは大の字に倒れた。投げ出した手がじんじんと痺れている。
「ドーン!」
「へぶ」
そうして気を抜いた油断した瞬間、腹に重い衝撃を感じてコウイチは潰れた悲鳴を上げた。
「な、何を……」
「油断するべからず、ッスよ、兄さん」
そうしてニヤリと笑ったかと思えば、腹の上にいるそれはどこか投げやりに聞こえる声でこう続けた。
「で、これで何敗目ッスか?」
丸い胴体に細長いしっぽ。コウモリのような皮膜場の翼。そのすべてが紫色で、人の言葉を喋るがなぜか自分以外の人間には見えない。一言で言えば、謎生物。……本人が言うには精霊で、カセドラという名前らしい。
「さあ……」
五十を越えたあたりから数えるのをやめている。
「つーかもういい加減、負けたのをからかうのは飽き飽きなんスけど。いつになったら勝てるんスか?」
うっさい。これでも一応は成長している。
今の模擬線にしたって剣を一回合わせただけで弾き飛ばされることがなくなったし、訓練中に気絶することもなくなった――などと反論すると、カセドラに白い目を向けられた。
「……言ってて情けなくならないッスか」
「……いや、まあ」
気まずげに目をそらす。相手が自分よりもはるかに長く訓練を受けているとはいえ、こうも負けが続くと情けないと思う気持ちすらなくなってくる。
(がんばっては、いるんだが……)
訓練を受け始めた頃に比べると、かなりマシにはなったと思う。
始めの頃は本当に地獄だった。
肉体的にも、精神的にも、ぎりぎりまで追いつめられ、いじめぬかれた。朝から昼まで半日中走らされたかと思えば、そのまま倒れ込んでもおかしくない状態で午後は全身の筋肉トレーニング。
ある程度、筋力と体力がついてきたかと思えば、今度は素手や木製の剣を使っての模擬戦。体から痣が消える日がないほど打ち合った。
その間、自分の弱さを徹底的に、嫌と言うほど思い知らされた。他の募集者のように逃げ出さなかったのは、単純にそれだけの体力が残っていなかったからにすぎない。
それでも一ヶ月経つ頃には、吐き気を覚えずに食事をすることができるようになったのだが。
(……まあ)
こんなふうに鍛えていれば、それこそタチの悪い酔っぱらいの一人くらいあしらえるようになる。というか、ならなければさすがに泣ける。
(気がついたら異世界でした、か……)
ファンタジーもののストーリーでは定番中の定番という展開なのだろうが、普通それに巻き込まれるのは、英雄になるような人間なんではないだろうかと思う。元々そういった素質があるとか、なにか特別な能力を与えられるとか。そういうのが当然の流れではないだろうか。日常生活では持て余す特殊なスキルを持っていて、異世界ではそれを十分に発揮して群がる悪をバッタバッタとなぎ倒し、助けたヒロインにはモテモテで寛容な女性陣に囲まれてハーレム完成とか。あるいは先祖代々勇者の血筋で異世界に呼び出されたのも運命のいたずらとかそんな感じで、なぜかピンチの時には予定調和的に助けがきたり、自分が助けに入るときは土壇場のギリギリ、それこそオマエ出待ちしてたんじゃネーカ? ってタイミングだったりとか。
「兄さん兄さん、負のオーラが滲み出てるッスよ」
「……はっ」
おっといけない。危うく負のスパイラルにはまるところだった。
――とにかく、そのどちらでもない自分としては、生きていくために鍛えるのは必然なのかもしれないが。約半年前まで、何一つ波乱のない平凡な人生を送ってきた身としては正直つらい。
「ならそろそろ逃げるッスか? 今ならその余裕もあるんじゃ?」
「……いや」
自分の我慢強さが理由でないとはいえ、なんとかこれまでやってこれたのだ。今逃げ出すのは……なんというか、もったいない気がする。
それに――
三ヶ月前に再会を約束し、別れた姉妹のことを思い出す。最低でも、あの約束を果たすまで逃げ出すわけにはいかない。
「……律儀ッスねー」
「当然の、ことかと」
「けどそのためにはまず、あの子に勝たないといけないんスよね」
う、とコウイチの顔が苦虫を噛んだように歪む。
それはそうなのだが、未だに一本とるどころか、惜しいと思えたことすらない。
「……はあ」
手の平をじっと見る。最初はマメが出来ては潰れての繰り返しで血だらけだったが、今ではだいぶ硬くなってきていた。
それなりに鍛えられているとは思うが、一度も勝てないとそれすらも疑いたくなる。
さすがにカセドラが同情的な言葉をかけてきた。
「まあ相手が悪いッスよね。なんせ、あの人の娘なんスから」
「……まあ」
カセドラの言葉に脳裏にある人物を思い浮かべかけ、近づく足音に気づいた。
「リゼ、さん……」
さっきまで模擬戦で剣を交えていた女兵士だった。
(聞かれた……?)
聞かれてまずい内容を話していたつもりはないが、傍目には独り言をぶつぶつ言っているように見えるので、少し気まずい。
「気にしないでいいよ。コウイチが独り言が多いっていうのは、もうみんな知ってるから」
「……はあ」
それもどうだかなー、と微妙な心境でいると、
「忘れてたんだけど、セナード様が呼んでたよ。自分のところに来てほしいって」
そう言われた。
「え……それはいつ聞いた話で?」
「訓練を始める前、かな?」
(……え゛)
って、もうかなり経っているのでは?
視線で問うと、リゼが小さく頷いた。
「うん。だから急いだほうがいいかもね」
え……えぇー。
脱力しそうになるが、そうなると急がないわけにもいかない。慌てて立ち上がって駆け出すその背に、
「そうそう。アドバイスってわけじゃないけど」
リゼが声をかけてきた。
「強くなってきてるよ、確実に。期待してるから」
思わぬ不意打ちに転びかけて振り返ると、彼女はすでに一人で素振りをしていた。
訓練に使っていた練兵場からほど近い場所に、一件の大きな家がある。
(というより……屋敷?)
この街では珍しい三階建ての建物に、広々とした敷地。門構えも立派で、見上げるだけで気後れしてしまいそうな雰囲気がある。
急いで訪ねたコウイチが名前を告げると、すぐに中へと通された。
(……本物の執事と、メイド)
パット見は地味だが実用的な衣装を見ると、本物なんだなーと思う。
階段を上がり、二階の中ほどにある部屋の前で案内役のメイドが止まった。
「旦那様。コウイチ様をお連れしました」
「どうぞ」
声はすぐに返ってきた。怒っているような声でないことにほっとしつつ、メイドの開けた入り口を恐る恐るくぐる。
執務机の椅子から、中年の男性が立ち上がるところだった。一礼すると、メイドは部屋から出ていく。
「すまんね。わざわざ呼び出して」
「いえ、あの……すいません。お待たせしたみたいで」
「ああ気にしないでいい。訓練をしていたのだろう?」
こうして面と向かい合うのは二回目だった。一回目は兵士になる直前のことだ。
セナード・アレル・クレイファレル。
クレイファレルの街と、その一帯を統べる領主――つまり、ここらへんで一番偉い人……らしい。
領主と言っても、政治家みたいな印象はなく、上品な家庭の良いお父さんといったところだ。ちなみに、今の雇い主でもある。
「とりあえず座ってほしい」
向かい合わせに置かれたソファに腰掛け、対面のソファを勧めてきた。立っている方が気が楽なのだが、そう言われては断るわけにもいかない。
座るとすぐにドアがノックされ、案内してくれたメイドがお茶を運んてきた。目の前にそれを置かれ、普通の客相手のような対応に戸惑う。そのメイドに、セナードさんが一言二言言いつけている間に、とりあえずお茶を口に運ぶ。
「……」
たぶん、上質なものなのだろうが。なんだか上品そうな感じはするが、ぶっちゃけおいしいかどうかはよくわからない。
味の感想を聞かれたらどうしよう、と思ってドキドキしたが、幸いにも質問は別のことだった。
「ここでの生活は慣れたかね」
「ええ、まあ」
「キミの話は聞いている」
「え……」
どんな内容だろうか?
(……っ、まさか)
コウイチの脳裏に、クビ、の二文字が浮かんだ。
「きっとそれッスよそれ」
なぜかうれしそうに口を挟んでくるカセドラ。
(いや、まさか、そんな)
クビにされるような失敗をしたつもりはないが、ここは異世界。雇用保障などない。ましてや見習いの身だ。普通の職業に例えれば、研修期間のようなもの。
(いや、だからこそ、その逆という可能性も)
「条件もクリアしてないのにッスか?」
カセドラのツッコミに、見習い卒業という前向きな予想もあっさりと潰される。
「……どうしたのかね?」
なぜか気遣うような声をかけられた。壁にかけられた鏡を見れば、蒼白になって虚ろな笑みを浮かべている自分がいて。慌ててなんでもないふうを装う。
「具合が悪いようなら、また日を改めるが」
「いえ、なんでも。大丈夫、です」
「そうか」
とりあえずは納得してくれたらしい。
「で、話の続きだが……ずいぶんと励んでくれているようだな。その様子ならすぐに一人前の兵士になれるだろう」
「へ……」
「これからも修練を重ねてくれ」
と、いうことは。
(まだ、雇ってもらえる……?)
「チッ」
なぜか舌打ちが聞こえた気がしたが、それすらも気にならなかった。……とりあえず、謎生物は後でどついておこうと思ったが。
心の中の誓いなど聞こえるわけもないセナードが、それと、と言って身を乗り出す。
「何か困ったことがあったら、誰でもいい。相談しなさい。それを無下にするような者はいないはずだ」
「あ、はい。それは……」
領主の人柄だろうか。先輩の兵士たちは、親切でかなり助けられていた。
……まあ職業柄、荒っぽいところもあるが。
それはさておき――
自分はいったいなんで呼ばれたのだろうか。まさか近況を聞かれるためだけとは思えない。
「さて、君を呼んだ理由だが」
そう言いおくと、セナードは探るような眼差しを向けてきた。
「違っていたら申し訳ないのだが……昨晩、君は何かトラブルに巻き込まれなかったかね?」
「は?」
思わずぎくりとする。昨日のことはまだ誰にも言っていない。店主から、大事にしたくないとそう頼まれていたからだ。大した被害はなかったし、巻き込まれた女の子は逃がしてしまったのでコウイチもその提案に乗ることにしていた。……直後に差し出された口止め料は、さすがに断ったが。
その反応を見て、セナードが小さく頷いた。
「ふむ……心当たりがあるようだね。当ててみせようか。君は昨夜、酒場で一人の娘を助けた。……違うかな?」
「……!」
なんでそのことを――思わず目を見張るコウイチの背後で、ノックの音がした。
「おや、もう来たか。どうぞ」
「失礼します」
若い女の声に振り向くと、一人の少女が見とれるような動作で部屋に入ってくるところだった。
(あれ……?)
どこかで見た覚えがある気がしたが、思いつかない。ドレスを着ているところを見ると、領主の家族かなにかだろうか。それなら見かけていても不思議はない。
上品な服装ときれいな姿勢、整った顔立ちよりも先に目についたのは、背中の半ばまで伸びた金髪だった。
よほど手入れされているようで、なめらかというか思わず触ってみたい衝動にかられる。というか、こんな立派な髪の持ち主ならすぐに思い出しそうなものだが。
娘はコウイチと目が合うと、楚々と微笑んだ。その笑顔によそ行きのものではない何かを感じて、コウイチの胸が高鳴る。
すぐそばに来た娘に、セナードが声をかけた。
「彼で間違いないかね?」
「はい、お父様」
(……おとう、さま?)
ということは――
セナードが立ち上がって、彼女を手で示す。
「紹介しよう。私の娘で――」
「フェリナ・リース・クレイファレルと申します。昨晩はお礼も言わず、大変失礼をいたしました」