4.嵐の中の選択(2)
――姉妹の住んでいる小屋からほど近い森の中。
そこになんとか逃げ込んだ、コウイチを含めた十人ほどの村人たちは、皆そろって力のない眼差しを何もない虚空に向けていた。
重苦しい雰囲気の中、暗い顔で座り込む村人の心にあるのは、先の見えない不安。
これからどうすればいい? こんなところに隠れていても、いつか見つかるでのは――
それを口に出せば現実になるのではという思いが、彼らから言葉を奪う。このままここにいても何もならないとわかっていても、誰も動きだそうとしなかった。突然襲ってきた理不尽な現実に、誰もが気力を失っていた。
「……コウイチ? 大丈夫?」
知らない間にぼうっとしていたのだろう。心配そうなアリヤに声をかけられた。いつもは活発なその声も、今ばかりは沈んでいる。
「いや……」
首を振って、上を見上げる。ほとんど空は見えず、生い茂った枝葉が視界のほとんどを占めていた。
まるで、とてもリアルな夢を見ているようだった。
今まであったことが、本当に夢なのではという気さえしてくる。
こんな、わけのわからないところにいるのも。
カセドラや姉妹との出会いも、その後の彼女たちとの交流も。
……盗賊とかいう現実では耳慣れない連中の、突然の襲撃も。
今頃は現実の自分は、家のベッドで寝ているのかもしれない……なんとなく、そうだったらいいと思った。
――ドサ。
何かが倒れる音。直後、耳にしたのは悲痛な悲鳴だった。
驚いて振り向き、コウイチは息を呑んだ。
村人の一人がうつ伏せに倒れ、そのすぐそばで身内らしい女性が半狂乱で泣き叫んでいる。
恐る恐る近寄って覗いてみる。たしか、元から深い傷を負っていた村人だった。
「死んでる……」
呆然と呟かれた声が呼び水になって、悲鳴は一気に広がった。
いきなり騒がしくなった周囲をよそに、コウイチは呆然と立ち尽くした。
霞がかっていた意識を浸食するように、黒い染みが広がっていく。その正体が恐怖という感情だとわかるまでにそれほど時間はわからなかった。
人が死んだ――レナファがした時にはテレビの中で作りものにしか思えなかった、覆しようのない現実。それを間近で目にして、コウイチの思考が容赦なく現実に引き戻される。
胸を締めつけるような恐怖が全身から力を奪い、コウイチはその場に膝をついた。
(死……んだ……?)
夢だったらいいと。
そんな呑気なことを考えてる間に、人が……死んだ?
「ッ……はッ……」
悲鳴をあげようにも、喉がひきつったように声が出ない。もし正常だったら、他の村人たちと同じように悲鳴をあげていただろう。
視界がぐにゃりと歪み、ハッハッと荒い息づかいが聞こえた。左右に視線を投げて、すぐにそれが自分のものだと気づいた。
胸が苦しい。耳鳴りもする。自分の息づかいが、うるさいほどに耳についた。
バクッ、バクッと、心臓の鳴る音も耳障りだ。胸も締め付けられるように痛む。
周囲の叫びがはるか遠くからのものと錯覚してしまうほど、体の内側からの音がうるさかった。
(……帰り、たい……)
そう思ったのが引き金になったように。
トサ、と、また、誰かの倒れる音がした。
――もう、いやだ。
これ以上はもうごめんだ。帰らせてくれ。退屈だが平穏で、人がすぐそばで殺したり殺されたりすることのないあの場所へ。
今度は目を向けなかった。視界に入れて、誰かの死を見せつけられるのが怖かったから。
――次の一言を、聞くまでは。
「姉さん!」
聞き慣れた声。
(……ねえ、さん?)
振り返ると、血の気を失った顔で、レナファが倒れていた。
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
すぐに思ったのは、彼女の服にあった赤い染み。それがさっきまでよりも広がってないかという疑問。
呆然としている間にも、しゃがみこんだアリヤがレナファの服をまくりあげていた。
脇腹に走る痛々しい裂傷。獲物の捌き方を教わっていなかったら、ここで気を失っていたかもしれない。それほどの傷だった。
「っ……」
目の前が暗くなりかけ、反射的に唇を噛む。走った痛みに呻き声が漏れる。
(どう、すれば)
正直、コウイチにはレナファの傷が命に関わるほどのものかどうかはわからない。それでも放っておいていい傷でないことぐらいは想像がついた。
アリヤが自分の服を破いて、未だ血の止まらないレナファの傷口を押さえた。苦しそうな呻き声がレナファの口からこぼれる。
「おい、あれ……」
「ああ、あのままだとまずいかも……」
そんな声が、周囲から漏れ聞こえた。
「姉さんっ、姉さん!」
すでに意識を失っているらしいレナファはもとより、彼女にすがりつくアリヤもそれらの声を耳に入れる余裕はなさそうだった。
だがコウイチには、不思議なほどはっきりと――嫌でも耳に入ってきた。
「どうするの……? 助けを求めに行くにしても、街まで三日はかかるわよ」
「急いでも二日だ。それまで保つかどうか……」
「でも、街道には待ち伏せがいるかもしれないんじゃ……」
恐々といった会話。それら全てが、コウイチには言い訳を連ねているようにしか聞こえなかった。なぜなら――
アリヤが、彼らを見上げる。視線が合った誰もが、気まずそうに目をそらした。
消極的にだが、選んだのだ。自分の命を危険にさらして助けを求めに行くことよりも、自分の身を惜しんでここに隠れ続けることを。
唇を噛み、アリヤはうつむいた。
コウイチの足が、二歩三歩とアリヤたちから離れるように動いた。
コウイチにとっては今まで言葉を交わしたこともない村人たちだが、彼らの選択を責めることはできなかった。なぜなら、自分もそうだから。心の内で言い訳を重ねて、進んで危ない道に踏みいるような勇気もない。
危険を承知で、街まで行くか――
危険が通り過ぎるのを、身をすくめてただ待ち続けるか――
どっちが誉められた行いかはわかりきっている。なのに死の恐怖を前に、どうしても足がすくんでしまう。
――誰かのために働くことが?
自然と、口端がひきつるような笑みが浮かんだ。鏡を見なくてもわかった。それが自分をあざける、歪んだ笑みだと。
本当にギリギリまで追いつめられたら、誰だって自分のことしか考えられない。恩返しなどどうでもよくなるに決まっているじゃないか。
……いや、他の人はともかく、自分はそういう人間だ。目の前が恩人が苦しんでいるのに、助けようともしない。そのために危険をおかす必要があると知っただけで、足がすくんで動けなくなってしまうような卑怯な臆病者だ。
それすら言い訳と知りつつも、頭の中で自分を蔑む言葉を延々とひねり出す。
それでいてなぜか、苦しんでいるレナファと、唇を引き結んでいるアリヤから目を離せなかった。
拒むのなら、そこに後ろめたさを感じるなら他の連中と同じように、目をそらせばいいというのに。
気づけば、こっちをじっと見ているアリヤと目があった。
「コウイチ、お願い」
「っ……」
やめてくれ。そう思わずにはいられなかった。すぐ後に向けられるはずの、アリヤの自分に向けられた失望の表情を見たくなかったから。
そして――
アリヤの次の言葉は、予想だにしていなかったものだった。
「あたしが街に行くから……その間、姉さんのそばにいてあげて」
耳を、疑った。
周囲もざわめき、それで聞き違いでないことがわかった。
「アリヤ、無茶よっ」
村人の一人が、アリヤの無謀な意思を慌てたように諌める。
子供のアリヤでは、もし盗賊に見つかったらその場で終わりだ。走って逃げきることもできない。
アリヤが顔を上げ、キッと止めに入った女を睨んだ。レナファとコウイチ以外の前では見せることのなかった、彼女本来の気の強さを感じさせる眼差し。
「それでも姉さんを……!」
苦しむレナファに視線を落とし、
「姉さんを、死なせたく、ないの……」
呟くような、小さな声をもらす。。
……怖くないはずがない。怯えも多分に含まれた声は、かすかに震えていた。
育った環境のせいで、大人と年相応の幼さを兼ね備えたアリヤ。
本心を隠し、姉以外にほとんど心を許すことがなかったその少女が。
初めて、自分から誰かに助けを求めた。
しかも本人は、生きるか死ぬかの窮地に飛び込もうとしている。レナファの、ただ一人の家族のために。
――その瞬間、自分でも驚くほどあっさりと頭の中が切り替わった。いつもの、追いつめられた際の現実逃避ではなく。
理屈ではなく、感覚だった。すっと頭の中がクリアになり、唇が反射のように動いた。
「――僕が」
その言葉は、まるで他人事のように。何の抵抗もなくさらりと、コウイチの口からこぼれ出る。
「コウイチ?」
「僕が、行く」
「え……?」
「僕が、街まで行って、助けを呼んでくる」
大言を吐いた直後の、いつもならあるはずの後悔が、今回ばかりは不思議となかった。
驚いたように目を見開いていたアリヤが、ゆっくりと頭を振る。
「コウイチ……だめ。させられないわよ。そんな、危ないこと」
「危ないのは、ここにいても変わらない。それに……アリヤじゃ、たぶん間に合わない」
運良く途中で盗賊に出くわさなくても、少女の足では、それだけ着くのが遅くなる。
「それは……」
アリヤもわかっているのだろう。悔しそうに目を伏せた。
「……なんで? なんで、コウイチがそんなこと――」
なんで。
……なんで?
聞かれて初めてその理由を探した。
――自分自身を好きになったことはない。腕っぷしも自信はないし、無事に街まで辿り着けると楽観してるわけでもない。
そうだ。街まで行って、上手く助けを呼んでこられるだなんて思っていない。そんな英雄的な行為など自分には不釣り合いすぎる。そもそもそんな楽観的な考え方ができるなら、無気力人間などと呼ばれるものか。
そう。自分は呼吸をすることすら面倒くさがり、生きることに退屈さすら感じていたようなダメ人間だったはずだ。ここに来て、姉妹と出会って少しは変わったかもしれないが本質はそのままのはず。
なら、その命の価値もそれ相応だろう。
その程度の価値しかない命、それでももしかしたら、超絶的な幸運に恵まれでもしたら、万が一ぐらいの確率で上手くいくかもしれない。それでレナファを助けることができたなら――
自身を徹底的にこき下ろす思考を巡らせながらも、コウイチの口元に笑みが浮かんでいた。それは、さっきまでの自嘲の笑みとは違う晴れやかな笑み。
なんだ。勝率は低いにしても、得られるものを考えればずいぶんと分のいい賭けじゃないか。
恩人を助けるという理由も、自分程度の人間が命を賭ける動機としては上等だろう。それなら――
(……いや)
頭を振って、思い直す。
やっぱりそんな英雄じみた動機は、自分には似合わない。そんな前向きな理由付けでは、途中で身のほどを思い知らされた時にへこむだろうし、自分のようなダメ人間の動機としては立派すぎてなんだか落ち着かない。
もっと小さい、自分にあった動機はないだろうか。
行き着いた思考がすっきりと胸に収まらず、逆戻りして新たな道筋を探す。答えはすぐに見つかった。
……そうだ。元々うまくいくかどうかもわからない話だ。そんなことに命を賭けようなどと、本来思うはずもない。それでもやろうとしたのは、たぶん、実感がないから。最後の最後、死ぬ直前まで、本当の意味で自分が死ぬということを理解できないだろうから。言うなれば、これも少し形の違う現実逃避であって。
それにここに隠れていても、結局は助からないかもしれない。盗賊たちも探しに来るだろうし、彼らの目から運良く逃れられるとも限らなかった。
それなら、ここで一人動き出したほうがまだ生き延びれる確率は高いかもしれない。もしそれで死んだとしても、死にざまとしては格好いい。……それを、誰も見ていなかったとしても。
(……よし)
これなら、とりあえず自分を納得させ、奮い立たせるための言い訳としては上等だろう。
そう、あくまでも自分のため。そのぐらいのほうが、動機としては身の丈にあっていて、安心できる。
「とことん自虐的ッスねぇ」
すっかり存在を忘れていたカセドラの呆れた声が、頭上から降ってくる。
「知ってるッスか? それって偽悪って言うんスよ?」
(……いや。決して偽っているわけではなく)
「ま、それも兄さんらしくていいんじゃないッスか? ちょっと行き過ぎな気もするッスけどね~」
(……?)
その口調がなぜか、うれしそうに聞こえた気がして。不思議に思って顔を上げると、いつもより多く回っているカセドラの姿が目に入った。
「……コウイチ?」
「ほら。ずっと黙りっぱなしだから変に思われてるッスよ」
言われて視線を戻せば、不安に目を潤ませたアリヤがいて。
コウイチはその肩に手を置こうとして、ちょっとだけ手を上げた後、やっぱり似合わない気がして止めにする。
「安心して、ほしい」
怪訝そうな顔をしたアリヤをごまかすため、そして、これから言う言葉ができるだけ実現可能なものとして聞こえるように、咳払いを一つ。
さらに、自分自身を奮起させるために、言葉の意味をじっくり噛みしめるように。
「レナファを、死なせたくないのは、僕も同じだから――僕が、街まで行って、助けを呼んでくる」
そう、言い切った。