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五條、夏の終わり  作者: こうた


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第6話「揺れる距離」

朝霧が村を包んでいた。

山の稜線はまだぼやけ、空と地面の境目が曖昧になる時間。

その中で、彼はいつものように一人で歩いていた。

手には簡単な道具。

目的もなく歩いているようでいて、実際にはいつも同じ場所へ足が向く。

あの人がいる場所。

理由は自分でもはっきりしない。

ただ、気づけばそこに来ている。

(……また来てしまった)

そう思いながら、足を止める。

視線の先には、いつものようにその姿があった。

村の作業を手伝っている。

静かに、淡々と。

――だが、今日は少し違った。

手の動きがわずかに乱れている。

普段よりも、どこか落ち着きがない。

「……」

彼は声をかけるべきか迷う。

そのまま様子を見ていると、相手の動きが一瞬止まった。

次の瞬間。

風が吹いた。

布が揺れ、音が鳴る。

その音に反応するように、相手の身体が強く震えた。

「っ……」

小さな声。

しかし確かに、恐怖の色が混じっている。

(今の……)

彼の胸がざわつく。

その震えは、ただの風に対するものではない。

もっと別の何か――

戦争の記憶に近い、何か。

気づいた瞬間、彼の中にも嫌な感覚が広がった。

(……あれは)

自分もまた、同じものを知っている。

遠くで響いた爆音。

煙の匂い。

崩れる音。

一瞬、視界が揺れた。

――戻ってくるな。

頭の奥で警告が鳴る。

彼は強く目を閉じた。

「……大丈夫か」

ようやく声を絞り出す。

相手はゆっくりと振り向いた。

「……大丈夫、です」

その言葉は、少しだけ震えていた。

嘘ではない。

だが、強がりでもある。

沈黙が落ちる。

朝霧の中、互いの距離は近いのに、まだどこか遠い。

(何か言わなければ)

そう思うが、言葉が出ない。

その時だった。

相手が、少しだけ視線を外しながら口を開いた。

「さっきの音……少し、苦手で」

小さな告白。

それは、これまでよりも少し踏み込んだ言葉だった。

彼の胸が、わずかに強く跳ねる。

(……言っていいのか)

自分も、同じだと。

けれど――

口を開きかけた瞬間、喉が詰まる。

恥ずかしさ。

情けなさ。

そして、言ってしまうことへの怖さ。

「……」

言葉は出ない。

代わりに、彼はゆっくりと視線をそらした。

それでも。

その場に留まることだけは、やめなかった。

朝霧の中、二人は並ぶように立っていた。

距離はまだ、ほんの少し遠い。

それでも――

昨日よりは、確かに近くにいる。

朝霧が少しずつ薄れていく。

空の色が淡く変わり、村の輪郭がはっきりし始める時間。

二人は、しばらく何も言わずにその場にいた。

沈黙は重くない。

だが、簡単でもない。

どちらも、何かを言おうとして、やめている。

(……今だ)

彼は心の中で呟いた。

このまま何も言わなければ、いつもと同じだ。

少し距離が縮まりかけて、また戻る。

それは嫌だった。

(……怖い)

だが、それ以上に。

このまま離れてしまう方が、怖い。

彼はゆっくりと口を開いた。

「……俺も、だ」

自分の声が、少しだけ震えているのが分かる。

相手が、視線を上げた。

彼は続ける。

「さっきの音……俺も、少し苦手だ」

それは、とても短い言葉だった。

ほんの一行にも満たない。

だが、それを言うまでに、どれほどの抵抗があったか。

言い終えた瞬間、胸の奥が少し軽くなる。

しかし同時に――

恥ずかしさが一気に押し寄せてきた。

(何を言ってるんだ、俺は……)

視線を逸らす。

だが、相手の反応は違った。

驚いたように、少しだけ目を見開いている。

そして――

ほんのわずかに、笑った。

「……そうなんですね」

その声は、さっきよりも柔らかかった。

彼は顔を上げる。

相手は続ける。

「少しだけ……安心しました」

その言葉に、彼の胸がゆっくりと温かくなる。

安心。

その一言が、思っていた以上に重い意味を持っていた。

(……そうか)

自分は、誰かに安心を与えられるのか。

その事実に、少しだけ救われる。

風が吹いた。

今度は、穏やかな風だった。

相手はその風を受けながら、少しだけ前に進む。

距離が、ほんの少し縮まる。

彼も、それに気づく。

だが、まだ完全には踏み込まない。

それでも――

確かに一歩、近づいている。

「……名前」

ふいに、相手が口を開いた。

「呼んでも、いいですか?」

その言葉に、彼の心が跳ねる。

名前。

それは距離の象徴だ。

呼ばれることも、呼ぶことも。

どちらも、関係を変える一歩になる。

彼は少しだけ間を置いてから、うなずいた。

「……ああ」

相手は、小さく息を吸う。

そして――

初めて、その名を呼んだ。

その瞬間。

彼の中で、何かが確かに変わった。

それは大きな変化ではない。

だが、戻れないほどの小さな一歩。

沈黙が続く。

だが今度の沈黙は、さっきまでとは違う。

遠さではなく、近さを含んでいる。

朝霧はすでに消えかけていた。

村の音が、少しずつ戻ってくる。

日常へと、時間が動き出す。

それでも――

二人の間に残った空気だけは、

少しだけ、変わったままだった。


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