第1話:灰色の巡礼者
北へ向かう街道は、死んでいた。
かつてここは『白銀の回廊』と呼ばれ、冬には美しい雪景色が広がっていたという。
だが今、降り積もっているのは雪ではない。
灰だ。
世界樹の燃えカスが、膝まで埋まるほど積もっている。
風が吹くたびに、灰色の粒子が舞い上がり、視界を遮る。
俺は布で口元を覆いながら、一歩一歩、灰の中を進んでいた。
『現在位置:王都エルディアより北北東180km』
『外気温:-12℃』
『灰堆積深度:平均42cm』
『周辺マナ濃度:0.2MP/㎥(通常値の10%)』
『最寄りの集落まで:推定8km』
「カイさん……寒い、です……」
後ろから、震える声が聞こえた。
振り返ると、エルが両腕を抱えて歯を鳴らしている。
銀色の髪に灰が積もり、エメラルドの瞳は寒さで潤んでいる。
彼女のローブは、旅を始めた頃から同じものだ。薄汚れ、ほつれ、あちこちに穴が空いている。
『エル・アルシェラ:体温35.8℃(低体温症の初期段階)』
『推奨:暖房魔法の使用』
『必要マナ:最適化済みで0.3MP/時』
「エル、暖房魔法を使え」
「で、でも……マナがもったいない……」
「凍死する方がもったいない。0.3MPで済む。使え」
エルが、おずおずと魔法を展開した。
『暖房魔法:消費0.3MP/時』
『効率:89.2%』
『灰排出:0.03kg/時』
一週間前の彼女なら、同じ効果を得るのに3,000MPは使っていた。
今は0.3MP。
10,000分の1だ。
「……温かい」
エルの顔に、少しだけ血色が戻る。
「ベルは大丈夫か?」
俺は、もう一人の仲間を見た。
ベルは、俺の隣を平然と歩いている。
真っ黒なドレスに灰が積もっているが、寒さを感じている様子はない。
「平気だよ。私、寒いの感じないから」
「魔王の体か」
「うん。便利でしょ?」
ベルが、にこりと笑う。
1,247歳の大魔王は、-12℃の極寒でも半袖のドレスで平気らしい。
「でもね、カイ」
ベルが、俺の手を握った。
冷たい。
いや——ベルの手が冷たいのではない。俺の手が、冷えているのだ。
「カイ、寒いでしょ」
「……問題ない」
「嘘。手、震えてる」
俺は、自分の手を見た。
確かに、微かに震えている。
マナ・レジャーが、俺の状態を表示する。
『カイ・ヴェルナー:体温36.1℃』
『状態:軽度の低体温』
『推奨:暖房魔法の使用』
『必要マナ:0.2MP/時』
「……仕方ない」
俺は、最小限の暖房魔法を展開した。
『消費MP:0.2/時』
『効率:98.4%』
『灰排出:0.003kg/時』
体の芯に、ゆっくりと温もりが戻ってくる。
「カイ、ちゃんと自分のことも大事にしなきゃダメだよ」
「分かっている」
「分かってない。カイはいつも、自分のことは後回しにする」
ベルが、俺の手をぎゅっと握った。
「昔から、そう」
——昔から。
また、その言葉だ。
俺は、ベルを見た。
紅い瞳が、俺を見上げている。
その奥に、何かが——揺れている。
「ベル。俺たちは、昔、どこかで——」
「あ、カイさん! 見えてきました!」
エルの声が、俺の言葉を遮った。
前方に、灰色の輪郭が見える。
建物だ。
いくつもの建物が、灰の中に沈んでいる。
『検出:集落「フローズン・ホロウ」』
『人口:推定120名(5年前の記録では340名)』
『年間マナ配給:2,400MP(一人当たり20MP)』
『王国平均の12%』
12%。
王都の貴族が一晩で使う照明マナで、この村は一年暮らせる。
「行くぞ」
俺たちは、灰の中を進み、村の入り口にたどり着いた。
*
村は、死にかけていた。
家々の屋根は灰の重みで歪み、壁には亀裂が走っている。
道には灰が膝まで積もり、足跡一つない。
人の気配がない。
「……誰もいないんですか?」
エルが、不安そうに周囲を見回す。
「いる」
俺は、一軒の家を指差した。
窓から、微かに光が漏れている。
煙突からは、細い煙が上がっている。
「あそこだ」
俺たちは、その家に向かった。
扉を叩く。
しばらく待つと、ゆっくりと扉が開いた。
中から現れたのは——老婆だった。
痩せこけた体。灰色の肌。目の下には深い隈。
彼女は、俺たちを見て驚いた。
「旅人……? この村に……?」
「道中で立ち寄っただけだ。一晩、泊めてもらえないか」
老婆は、しばらく俺たちを見つめていた。
そして——
「……入りなさい。ただし、マナはない。温かい食事も、出せない」
「構わない」
俺たちは、老婆の家に入った。
*
家の中は、外より少しだけ温かかった。
だが、暖炉には火がない。
代わりに、小さな魔法灯が一つだけ、弱々しく光っている。
『魔法灯:消費0.01MP/時』
『残りマナ:推定3日分』
『備考:暖房は使用されていない』
「すまないね。暖房を使う余裕がないんだ」
老婆が、申し訳なさそうに言った。
「配給が、また減らされてね。今月は、照明を維持するだけで精一杯なんだよ」
「配給が減らされた?」
「ああ。『マナ浪費禁止令』とやらで、辺境の村への配給は『優先度が低い』と判断されたそうだ」
老婆が、苦笑する。
「私たちは、マナを浪費するほど使っていないのにね」
俺は、マナ・レジャーで老婆をスキャンした。
『マルタ(78歳):年間マナ消費 18MP』
『内訳:照明 12MP、調理 5MP、その他 1MP』
『効率:推定40%(独学の民間魔法)』
『健康状態:慢性的なマナ欠乏症、灰塵肺の初期段階』
『推定余命:2〜3年』
年間18MP。
王都の貴族が一回のパーティで使う装飾魔法の、100分の1以下だ。
「この村の人たちは、どこに?」
「ほとんどは、家に閉じこもっているよ。外に出る体力がないんだ」
老婆が、窓の外を見た。
「去年の冬は、23人が死んだ。凍死と、灰塵肺でね」
「23人……」
「今年は、もっと増えるだろうね。配給が減ったから」
老婆の声には、悲しみも怒りもなかった。
ただ、諦めだけがあった。
「……おばあさん」
エルが、小さな声で言った。
「私、少しだけ——」
「エル」
俺は、エルを止めた。
「だが——」
「分かっている。だが、今は待て」
俺は、老婆に向き直った。
「この村の年間配給は、2,400MPだと聞いた」
「ああ、そうだよ」
「だが、実際に届いているのは、その半分以下だろう」
老婆の目が、わずかに見開かれた。
「……どうして、それを」
「俺は元監査官だ。マナの流れは、見れば分かる」
俺は、マナ・レジャーのデータを呼び出した。
『フローズン・ホロウ村:公式配給記録 2,400MP/年』
『実際の流入量:推定1,100MP/年』
『差分:1,300MP(54%が中抜きされている)』
『中抜きの推定実行者:地方配給官、または中継ステーションの管理者』
「配給の半分以上が、途中で抜かれている。お前たちは、最初から騙されていたんだ」
老婆の顔から、血の気が引いた。
「そんな……」
「これが、マナ運用局の実態だ。貴族は浪費し、役人は盗み、庶民は死ぬ」
俺は、立ち上がった。
「明日、この村のマナ消費を監査する。全ての魔法陣を最適化し、効率を上げる」
「最適化……?」
「今のお前たちの魔法効率は、平均40%程度だろう。俺がそれを80%に上げれば、同じ配給でも実質的に倍のマナが使える」
老婆の目に、かすかな光が灯った。
「本当に……そんなことが、できるのかい?」
「できる」
俺は、エルを見た。
「この子は、一週間前まで効率0.004%だった。今は60%を超えている」
「0.004%から……60%……?」
老婆が、エルを見つめた。
エルは、少し照れくさそうに頷いた。
「はい……カイさんに、教えてもらいました」
「……」
老婆の目から、涙が溢れた。
「ありがとう……ありがとう、旅人さん……」
「礼はまだ早い。結果を出してからだ」
俺は、窓の外を見た。
灰が、降っている。
この村を埋め尽くすように。
だが——俺たちが来たことで、何かが変わるかもしれない。
0.003%の希望を、少しずつ積み上げていく。
それが、俺にできる唯一のことだ。




