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一章


 登場人物紹介


ラージュ……魔界に来た男。十九歳。シェイリによって命名された。

シェイリ……シャリアンの魔王。十八歳の少女。 

ミスレイ……シェイリに仕える宰相。中年の男。

ツギール……シェイリの部下の将軍。若い男。 

センダ……シェイリの部下。中年の男。ラージュに魔法を教える。

ミミラ……ミスレイの元で働く女性の文官。

ガーコ……シャリアンの魔王。シェイリを恨む男。 

ジャーズ……シャリアンの魔王。老いた男。

グルーヌ……シャリアンの魔王。顔に染みがある中年の男。

ゴーマ……シャリアンの魔王。好戦的な男。

ガトマー……シャリアンの魔王。紳士的な男。



 



   一章


 シェイリは、明らかに不快そうだった。街道の途中なのに傍らの車に乗ろうともしない。黒い瞳に苛立ちが込められているのは、誰が見ても分かるだろう。

 立ち並ぶ木々に挟まれた街道には、木製の車が二台放置されていた。車をひいて走る役目の剛毛獣(ごうもうじゅう)は、二頭ともシェイリを見ている。剛毛獣の感情は、当然ながらその眼を見ても分からない。それでもラージュは、剛毛獣が抱く不安を感じ取ることが出来た。

 これも当然のこと。剛毛獣の全身を覆う真っ黒な毛が、荒れ狂うようにうごめいて己の体を叩き続けているのだから。

 剛毛獣と違って、車に座るラージュはのんきに見惚れていた。白いドレスを身にまとい、長い銀髪を振り乱して不機嫌さをあらわにする少女の魔王を。

 苛立つシェイリも魅力的だ。

シェイリの前にひざまずくツギールに向けた視線には、怒気がこもっているように見える。いや、見えるのではない。実際に怒っているのだ。その眼はつりあがっている。

「おい、ツギール。私の命令に従えないと、そう言うのだな」

 はい、とはっきりと答えるツギール。

「申し訳ございませんが、従えません」

「何故だ!」

 シェイリは怒鳴りつけた。

「私は、そんなに恥ずかしい物を、さらしものにしておきたくないのだ!」

「そのお気持ちは分かります」

「ならば!」

「しかし、あれは消せません」

 魔王であるシェイリに従う者の中で、最強の将軍と言われるツギール。シェイリに対する絶対的な忠誠心を持つと聞いていた。ツギールの忠誠心の強さを、今も残るラージュの後頭部の痛みが思い出させてくれる。

 そのツギールがこんなに堂々とシェイリの命令に逆らうのは初めて見た。

 ラージュは口を挟まずにいた。異界から魔界に来た自分が口出しすべきではないだろう。

「いいか。あれは伝言板だぞ。しかも、魔王街(まおうがい)の門前に設置された伝言板だ。それをよりにもよって、あんなもので汚すなんて!」

「しかし、書いていいとおっしゃったのはシェイリ様です」

「違う!」

 シェイリの怒声が響いた。

「私は、不満があれば文章を書いていいと民に伝えたのだ。それに、消さないと言った覚えもない」

「お気持ちはお察しいたします。しかし」

 ツギールは決定的な一言を口にした。

「あれを消せとシェイリ様が命令すれば、シェイリ様の魔力が落ちますよ」

 シェイリの顔が引きつった。二の句が継げないようだ。

「私があれを描いたら、民は心から喜んでくれました。今も、あれを見るたびにうれしくなると、多くの人から言われました」

 ツギールは穏やかに問いかけた。

「その民の心を、踏みにじるおつもりですか?」

「……分かった。我慢する」

 不快そうに吐き捨てて、シェイリは車に乗り込んできた。その顔を見つめながら、魔王も大変だなと思った。

 異界の王と違い、魔界の魔王は民の意志を無視できない。どれだけ多くの民から愛されたかで、魔力の大きさが決まるからだ。

 剛毛獣が走り出した、並ぶ木々に挟まれた街道を。行き先は、シェイリの居城なのだろう。

 ツギールは、後方の車に乗って後をついてくる。こちらの剛毛獣と比べて、ほんの少しだけ大きかった。

「シェイリ様」

「なんだ、ラージュ」

 シェイリはそっぽを向いたままだ。

「どんな風に恥ずかしいのですか?」

「見れば分かる」

 やはり、シェイリはこちらを見ない。

 いったい、なにが書かれているのか。

 ラージュとシェイリを乗せた車は、どんどん進んでいく。街道の外には、寝袋のような物の中で眠っている人もちらほらいた。

 街道を進んでいくと、途中で道端の人から笑顔を向けられたり、大声で「シェイリ様」と叫ばれたりした。

 そういう時のシェイリは、笑顔で手を振る|(どこか、引きつった笑顔に見えるけど)。

 よっぽど不愉快なことなのだろう。

 車が薄紫色の葉をつけた木々の間を通る。すぐさまシェイリが舌打ちをした。

「ちっ、見えてきた」

 ラージュの視線はそれに釘付けになった。

 白い板が見えた。普通の民家の壁の倍の面積はあるだろう。

 あれが伝言板。

 そこに、シェイリの顔が描いているのだ。ここから見えるという事は、かなり大きな顔だ。

 こちらをじっと見つめる顔だ。そう思ったら、壁の顔は笑顔に変わった。

「すごい。動いている」

「くだらぬことに感心するな。落書きに使った黒水(くろみず)が動いているに過ぎん。全く、ツギールの奴め。私が人質にされていた時に、あんなものを描いていたとはな」

「きっと、シェイリ様がいないのが寂しかったんだと思いますよ。ツギール様も民も」

「まあ、そうであろうがな」

 黒水は壁の上を巧みに動き続ける。こんな魔法もあるのか、とラージュは思う。黒い水は、笑いをこらえるシェイリを描いた。

 自分もシェイリの領地に住む者として、あの動く絵は残しておいて欲しい。

 絵のシェイリが笑い転げる。本物のシェイリはますます不機嫌な顔をした。

「腹が立つな」

「まあ、そう怒らずに」

「なら、お前ならどうだ?」

 急にラージュの方を向いてきた。

「誰もが見る屋外の板に己の顔が描いてあったら。不愉快ではないのか?」

「そりゃあ、うれしくはありませんね」

「そうであろう? なのに、ツギールの奴と言ったら――」

「仕返しがしたいなら、ツギール様の絵も描けと、そう命令したらどうでしょう? シェイリ様と同じ苦しみを味わわせるのです」

「……同じ苦しみ、か」

 シェイリはしばし沈黙した。

 その間、ラージュは落書きを見ていた。戦いの前のような、ひきしまった顔つきのシェイリだ。

「やめておく。あいつは、なんだか喜びそうだ」

 思わずラージュは声を上げて笑ってしまった。

 壁に描かれたシェイリの顔は、眠そうに見える。色々な表情を持っているのだ。

「さあ、さっさとあんなものが眼に入らない場所に移るぞ。城の表門へ向けて」

 剛毛獣が速くなった。伝言板の脇を通り過ぎて、落書きが見えなくなる。

 ちょっと残念だが、態度に出しはしなかった。シェイリにこれ以上、不機嫌になって欲しくない。ましてや、自分が嫌われることなど絶対に避けなければ。

「よし、ラージュ。さっきの絵のことは忘れろ」

「はい、忘れます」

 近づいて見ることはできそうにないな。

 剛毛獣は走り続ける。

「ようやく見えてきたな」

 シェイリがつぶやいた。

 曲面の多いカラフルな壁で囲まれた街。これが魔王街か。思ったよりも広くない。家屋の数はむしろ、普通の町より少ない気がした。

 魔王街の北端には、美しい城がそびえていた。

 白い城だ。

 両側のねじれて曲がりくねった塔は、異界の建築には見られない。その塔も白い。

 言うまでもなく、門扉も城壁も白かった。

「あれが、シェイリ様の居城なのですね」

「ああ、我が領土を攻めてくる魔王を撃退する最前線だ」

 最前線。と言うことは。

「だから、民家が少ないのですね」

「ほう、気づいたか。民を争いから護らねばならんからな」

 全くないわけではないだろう。必要最低限の家屋しかないと推測できる。

 ラージュは改めて城を眺めた。

 青葉をつけたかなり大きな樹木が城のすぐ近くにあるようだ。

 今は青葉の月。それを思い出す。

「どう見えた?」

 シェイリはこちらに視線を向けてきた。

「率直な感想を聞かせてくれ」

 嘘やお世辞をシェイリは求めていない。

「白さが美しい城ですね」

「白く塗っている。それだけだ」

「あんなに綺麗に塗るには手間がかかるのでは?」

「そんなことはない。ペンキを操る魔法を使える者なら十五分で塗れる。後は、ペンキが落ちないように魔法をかけ続ければいいだけだ」

「なるほど」

「他になにか気になることはあるか?」

 ラージュは城とその周りをじっと見る。

「なんだか、城よりも背後に生えている木の方が目立ちますね」

「おっ、そう思うのか? それはいいことだ」

「自分が言ったことは、間違っていないようですね」

「いや、間違っている」

 ちょっとびっくりしてシェイリを見つめた。意外にも表情は穏やかだ。

「まあ、仕方ないな。お前は魔界に来たばかりで、シャリアンのことをなにも知らないのだから」

 ラージュとシェイリを乗せた車を引く剛毛獣は、魔王街の入り口の門から距離を置いて止まった。

 長い銀髪をなびかせながら車を降りるシェイリ。ラージュも続いて降りて、城に向かう。

 魔王街の入り口に続く道の上で、シェイリは地に膝をついた。

「え?」

「ラージュは私の右で、私と同じことをしろ」

 はい、と答えて膝をつく。土のひんやりとした感触。

 シェイリは両手を地面につき、深々と頭を下げる。

「ただいま戻りました」

 ちょっと驚いた。

 シェイリは魔王で、ここは自分の城だ。なのに、頭を下げなければならない存在がいるということになる。

 親か? いや、違う。シェイリの両親は、すでに死んでいる。

 混乱しつつも、ラージュは両手を地面について、頭を地につける。

「ただいま戻りました」

「いや、違う。お前は『お初にお目にかかります』と言ってくれ」

「あ、そうですか」

 考えてみれば、初めて来たのだから「戻りました」はおかしい。

 言われた通りのセリフを口にしながら、待ち受けているのが誰かを考える。

 シェイリより偉い存在。シャリアンにはシェイリ以外の魔王は十一人いる。その内の誰かだろうか?

「さあ、車に戻れ。居城の、玉座の間まで行かねばならん」

「はい」

 車に飛び乗った。剛毛獣が動き出す。魔王街の中に剛毛獣が引く車が入っていく。

 民家から出てきた人々が、魔王の帰還を喜んでいる。はしゃいでいる人よりも、涙を流す人の方が多かった。

 シェイリは手を振りながら、無言で通り過ぎた。

 もしかすると、民と直接会話するのが不得手なのかもしれない。

 そうだったらいい。自分とシェイリにも、共通点があることになる。

 城の壁は、魔王街を囲む壁と同じく曲面が多かった。近づくと、意外なことが分かってきた。この白い城は石造りではない。

「石でなくて木材でつくられているのですね」

「城が木造でない、というのはありえんな。このシャリアンでは」

 城門の前まで来た。門扉も白いが、これは木材ではない。金属で構成されている。

 シェイリが車から降りた。ツギールもそれに続く。

 ラージュも同じように、車から出て門扉に近づいていく。

 不意に門扉が光を放った。ゆっくりとした津波のように迫って来る。

 シェイリと背後に立つツギールには、そんなことはない。自分だけを狙っている。

 別に怖くはない。身の安全を確信しているというより、ここで死んでもまあいいか、と考えている。異界には好きな人などいなかったのに、魔界にはシェイリとミスレイがいるのだ。

 ここで死ぬのなら、悔いはない。

 光が自分を包んでいる時間は、長く感じた。

 別に痛くはない。苦しくもない。あるのは眩しさだけだ。

「あと少しで終わりだからな」

 シェイリが声をかけてくれた。はい、と返した直後。

 光が一瞬で消えて、門扉が音を立てて開いた。

「これで、お前も門を通れるようになった」

「ああ、なるほど。おれを試していたのですね」

「ん?」

 シェイリが首を傾げる。

「いや、試していたのではなく、記憶していたのだ。光がお前の体を隅々まで。これで、お前の偽者がここに入ろうとしても弾き飛ばされることになった」

「すごい魔法ですね」

「そんなことはないぞ。ありふれた光魔法に過ぎん。さて」

 シェイリの視線はツギールに向けられた。

「お前はここで待て。あの尊い方を、ラージュと会わせねばならん」

 かしこまりました、とツギールは頭を下げる。

「その方は、おれと会っても不機嫌にならないのでしょうか?」

 シェイリは声を上げて笑った。ツギールは、懸命に笑うのをこらえているようだ。

「一目見れば分かる。そんなことはあり得ない」

 散々笑った後で、シェイリは歩き出した。

「さあ、行くぞ」

 開かれた門扉を通って、庭を進むシェイリ。後に続くラージュは、否応なしに緊張する。

 この道が、敬道(けいどう)と呼ばれているはずだ。そして正面に見えるのが、正殿(せいでん)。シェイリが統治を行う場所。

「あの方とお会いするのは名誉なことだぞ。お前も、どんな方か知りたいだろう」

「はい、お会いできるとは身に余る光栄ですね」

 なんだか、会いたくないなあ。

 と思っていることはバレないはずだ。シェイリ自身が、心を読む魔法はないと教えてくれた。

 シェイリより偉い奴に会え、だなんて考えただけで気が重くなる。

「正殿の裏に内殿(ないでん)があるはずですよね。確か」

「お前は立ち入ることができんがな。私とミスレイの私室しかないのだから」

 もちろん、立ち入りたいとは思わない。命を捧げて仕える主君の私室に足を踏み入れるとは、非礼が過ぎる。

 庭には彫像もなければ、噴水もない。ただ、地面がえぐれていた。庭の大地が傷を負っているようにも見える。

 しばし考えて、光弾を放った跡だと推測がついた。この庭で、シェイリが攻撃の鍛練をしたのだろう。

 数えきれない傷ついた地面を見ながら、敬道を進む。城の巨大な扉が迫ってきた。扉に描かれている紋様は、白い花と赤い血に濡れた剣だった。なんだか、奇妙な取り合わせだ。

 両開きの扉に、シェイリは同時に両手をつける。

 バタン、という音と共に左の扉は内側に開かれた。触れただけで、驚くほど速く反応したのだ。描かれた剣が、一閃したかのように。

 それに比べて、右の扉はゆっくりと開いていく。白い花が描かれた扉は亀のように遅い。

 城の中に入ろうとして、シェイリが足を止めていることに気づいた。

「右の扉が完全に開くまで待つのですか?」

「ああ」

「それも、この中にいる方への礼儀でしょうか?」

「いや、違う。私が己の魔力を知りたいからだ」

 動きの遅い扉を食い入るように見つめている。

「魔力、と言いますと?」

「左の扉は、開くのが速ければ速いほど魔力の瞬発力があるのを示している」

「なるほど、さすがはシェイリ様の魔力ですね。速かった」

「いや、この程度では駄目だ。開くのが遅すぎる。もっと、強くならなければ」

 シェイリは扉を見つめたままだ。

「更に課題があるのは、右の扉だな」

「確かに遅いですね。もっと速くてもいいのに」

「違う、これは遅い方が望ましい」

 え、と声を上げたラージュをちらりと見たシェイリ。

「右の扉は、開くのにかかった時間が魔力の持久力を意味する」

「この遅さでは、不満ですか」

「できれば、かたつむり程の遅さが欲しいところだ」

 扉が完全に開ききるまで、シェイリは直立不動で待っていた。ラージュも同じ姿勢で待つ。さほど苦痛ではなかった。

「さあ、行くぞ」

 城の内部は、意外と簡素だった。靴を室内用に履き替えて、板敷の床を歩く。

「城内に人はいないのですか?」

「普段はいるのだがな。今日は、お前が来たことを知らせなければならないから、出払っている」

 どんな人に会うことになるのか。ラージュには分からない。緊張したまま進む。

 壁に飾られているのは剣と杖。杖の方が多い。絵画のようなものはなかった。

 シェイリはすたすたと歩いていく。緑色の細長い絨毯へと向かっているようだ。

 絨毯までたどり着くと、その真ん中でなく右端をシェイリは進みだした。ラージュも同じく右端を歩く。

 絨毯の先には、茶色と緑が入り乱れた紋様が描かれた扉があった。その扉を叩いて、こちらを見る。

「この先が、玉座の間だ」

「早いですね」

 意外と小さい城なのか。

「姿勢を正せ。私などより、はるかに尊い存在がおられる」

「は、はいっ!」

 ラージュは硬直した。心臓の鼓動が速い。

 シェイリは紋様の描かれた扉に触れる。今度はすぐに開いた。

 現れた光景に、息を飲む。

 大木が目に飛び込んできたのだ。巨大な樹木が開いた扉の奥に生えている。

「さあ、参るぞ」

 緑の絨毯は、樹木へと続いていた。

 開いた扉を通り、ラージュは樹木を見上げた。

 大きい。こんな巨木は異界では見たことがない。いや、魔界に来てからもこれほどの樹木は目にしなかった。

「念のために言うが、絨毯の真ん中を歩くな」

「はい」

 シェイリは大木に向けて進んでいく。

 ごつごつとした木の根元。その太さは、手をつないだ大人が二十人はいなければ一周に及ばないだろう。

 木の根はうねりながら、地中へと続いていた。光を浴びた木肌は、何故かさわってはならぬ物のように思わせる。

 絨毯のないところは、床が無くて地面だ。所々に、草と薄紅色の花が生えていた。

 あれ?

 あるはずの玉座がない。

「玉座はどこにあるのですか?」

「あそこだ」

 シェイリが指差したのは、古びた木材で出来た椅子だった。かなり貧相に見えるそれは、この場の隅に追いやられていた。

「何故ですか? 玉座があんな場所に」

「神への畏敬の念のためだ」

 シェイリは重々しい口調で言った。

「この樹木こそ、神宿りの樹」

「……神宿りの樹」

「またの名を神樹(しんじゅ)とも言う」

 ラージュは神樹を見上げた。確かに荘厳さを感じさせる佇まいをしている樹木だ。

「我らが崇めたてまつる神が、この樹木に宿っておられる」

「シェイリ様より尊い存在とは、この樹木のことなのですか?」

 そうだ、と返したシェイリは絨毯に膝をついて両手もつき、ぬかずいた。

 ラージュも慌てて膝をつく。絨毯は思ったより薄かった。

「さあ、ぬかずいて神に誓え。絶対の禁忌を守ると」

「はい!」

 ラージュは両手を額も絨毯につけて、心臓が十二回脈打つのを待った。数えるのはむずかしくない。心臓の鼓動ははっきりと感じ取れる。

 終わったところで、誓いの言葉を口にする。一言一句間違ってはならない言葉を。

「自分は神に誓います。新たな命を呼び出す行為を、決して冒涜せぬことを。魔界の絶対にして究極の掟を尊重いたします。永遠の歳月において」

 女性に性行為を強制した者が、魔界の八千年の歴史上一人もいない。

 強姦は、死をもってしても許されぬ罪なのだ。

 もちろんラージュは、その掟を守り抜く決意を固めていた。

 ツギールの言葉を思い出す。

『もし、お前が絶対の禁忌を破れば、お前がなぶり殺しされるだけでは済まない。シェイリ様とミスレイ様は自害なさる。そうせねばならぬ』

 声音から、嘘でないのは分かった。

 そんな事態は、絶対に招いてはならないんだ。

 頭を下げたままじっと待った。

「よし。もう顔を上げていい」

 ラージュはゆっくりと額を絨毯から離す。

「立ってもいいのですか?」

「うむ」

 ラージュは立ち上がって、改めて樹木を見上げた。

 緑の葉をつけた枝の隙間から、木漏れ日が射している。神の威光を現わすかのように。

 天井に大きな穴が開いていた。樹木はその穴から突き出ている。

 先ほど言われた、自分の口にした言葉の中の間違い。

「樹木は、城の背後に生えているのではなかったのですね」

 城の中にあったのだ。

「魔界では、樹木が神なのですか」

「いや、それは違う」

 シェイリの落ち着いた声。

「樹木を崇拝するのは、東方全域の中でシャリアンだけだ。あくまでこの島国での信仰なのだ。

例えばギュリガヌス帝国の人々は、巨大な人の形をした像を造り、それを神として崇めている。大陸ではそのような国も多いと聞く。信仰は、国によって異なるがな」

 厳粛な声に聞こえた。

「魔王の住む居城は、多くは高い建物だ。だが、シャリアンならではの掟がある。居城の高さは、決して神宿りの樹の高さを越えてはならぬ」

 シェイリがこちらを見る。

「理由は分かるな?」

「神への畏敬の念を込めて、ですか」

「そうだ。人の謙虚な思いを示し、神を恐れ敬う心をあらわす風習だ。今から百三十五年前、ある魔王の居城に生えていた神宿りの樹に雷が落ち、樹が焼けてしまった。新たな神樹を山から用意することになったのだ」

 確かに、そういうこともあり得る。

「するとその魔王は、城外の地面に置かれた寝袋で眠り、食事も屋外でとったという」

「……それが常識なのですか?」

「常識と言うより、民の支持を意識してのことだ。賢明な行為だと語り継がれている」

 魔界の人々が、ここまで信心深いとは。

「魔界には、魔界の神がおられるのですね」

 ラージュがつぶやくと、シェイリは怪訝そうな顔をした。

「なんだ、その言い方は」

「え?」

「まるで、異界にも神がいるかのようではないか」

「はい。異界でも神と呼ばれる存在はあって、信仰されています」

「なんだと!」

 シェイリがあげた声に、ラージュも驚く。尋常な様子ではない。

「真のことか⁉ ラージュ!」

「はい、本当ですけど」

「知らなかった。異界は神に見捨てられた世界だから、神はいないと教わってきた」

「…………」

 思い出す。

 魔界に住む魔王とその手下は神の敵だ。

 そんな言葉を異界では幾度も聞いた。

 自分たちは神に愛されていると思い、己の敵は神の敵だと信じる。

 異界でも魔界でも、人はそうなのかもしれない。

「しかし、異界の神は絶対の禁忌を定めておらぬのだな」

「はい」

「ならば、真の神とは言えぬ。ラージュ」

 シェイリが近寄り、ラージュの手を握った。どきっとする。

「誓いを守り抜く覚悟はあるな」

「もちろんです」

「そうか」

 シェイリは爽やかに笑った。

「良かった。これで安心だ。では、城を出るぞ」

「え?」

 ラージュはこの場所の隅の玉座を見る。

「玉座に座らないのですか?」

「その必要はない」

 神への誓いをさせるため。それだけのために、ここに来たのか。

「すぐに向かうぞ。現魔球(げんまきゅう)の塔へ」

 城を出るとツギールと一際大きな剛毛獣がいた。手綱は後方の車とつながっている。魔界に来て、白い車は初めて見た。

「おお、コクロクを連れて来てくれたか」

「はい」

 笑顔で剛毛獣に駆け寄るシェイリ。

 シェイリはもう、機嫌を直しているように見えた。ツギールに対する態度が変わっている。

「懐かしいな、コクロク」

 シェイリが大きな剛毛獣に触れる。

 まるで家族に向けるような視線だ。

 ツギールはじっとシェイリを見ている。

「シェイリ様、リーギ殿……ではなくラージュ殿は、誓われましたか」

「当り前だ」

「信頼できますか?」

 シェイリが視線をコクロクという名の剛毛獣から外す。ツギールを見つめる。

「なにが言いたい」

「絶対の禁忌が破られる可能性が、あるのではないかと」

「私が断言する。ない」

 ツギールはひきしまった顔をして、頭を下げた。

「承知いたしました」

「ではツギール。ラージュにあれを授けてやれ」

 ツギールは、小さな容器を取り出した。太さは親指三本分くらい。長さは中指ほどだ。

 そこには、黒い液体が入っている。

「これを使え」

「はい、ツギール様」

 黒い液体の入った容器を差し出されたので、受け取る。さほど重くない。ガラスの容器だが、蓋は木製だ。中にあるのは、容器に限界まで入る量の八割くらいか。

「なんですか、これは」

「黒水だ」

「あの落書きに使った物ですね」

 真面目な顔でうなずくツギール。

「おれもなにかを描けということですか?」

「違うぞ、ラージュ。お前が、シェイリ様の元で働きたいなら、絶対にこれが必要だ」

 大した量もない黒い水。

「これがないと、戦えないと」

「いや、そういう次元の問題ではない。日常生活さえ、おぼつかないようになる」

 特別な水なのか。

「どう使えばいいのですか?」

「まず、左眼を閉じろ。それから、右眼に黒水の容器を近づけろ」

 ラージュが容器を持ち上げると、いや、とツギールは言った。

「眼と同じ高さにする必要はない。容器は眼より下でいいから、蓋が右眼の近くに来るようにしろ」

 はい、と返して左眼を閉じて右眼で蓋を見る。

「蓋を開けろ」

 言う通りにすると、容器の口から黒水が飛び出した。

 出てきたのは一滴だ。眼に向かってきたので、とっさに避ける。

「おい、なんで体を動かした?」

「いや、急に出てきたから」

 はあ、とため息をついてから、ツギールは鋭く言った。

「今の黒水を瞳で受けろ。もう一度、蓋をしてから視線を合わせて開けるんだ」

「はい」

 深呼吸をしてから、蓋を閉めてすぐに開けた。

 黒水が出てきた。眼球にぶつかってくる。一瞬、視界が黒くなった。

 視界を覆う黒は、だんだん薄くなっていく。数秒の内に、視野は元に戻った。

「同じことを左眼でもやればいいんですね」

 うなずくツギールを見て、右眼を閉じて蓋を閉めてから開ける。黒水が飛んできて、眼球にぶつかる。

「これでいいのですか?」

「うむ。問題ない」

 眼に当たってきた黒い水。

「いったい、どのような力を持つ水なのですか? この黒水は」

「いや、単なる黒い水だ。特別な力などない」

「は?」

 間抜けな声を出したラージュにも、ツギールは厳しい顔を崩さない。

「お前に質問する。光の魔法を行使して、わずかな魔力で致命的なダメージを与える方法が一つある。なんだか分かるな」

 それは、考えてみるまでもない。

「強い光で失明させることですか?」

 うなずいたツギールの顔は厳しいままだ。

「それを防ぐのに、今の行為は必要なのだ。黒水が、強い光から眼を護る効果を持つ」

「分かりました」

「効果は一日だ。つまり、お前はこれを毎日使わねばならない。足りなくなったら、私の元へもらいに来い」

「なるほど。シェイリ様もツギール様も使っておられるのですね」

 違うぞ、とシェイリの声。

「私は強い光を遮断することで、己が眼を守っている」

「光を操れるシェイリ様だから、これが必要ないのだ。お前には、恐らく必要だろう」

「恐らく?」

「そうだ。お前もシェイリ様と同じく光を操れるなら、それは返してもらう」

「操れるのでしょうか?」

「それを知るために行かねばならぬのが、現魔球の塔なのだ」

 いつの間にかシェイリが、剛毛獣に乗っていることに気づいた。

 剛毛獣の黒い毛が、シェイリの白いドレスにしっかりと巻き付いている。

「こんな乗り方もできるのですね」

「コクロクだけだな。よほど世話を焼いて、熱心に育てなければまたがって移動することはできぬ」

 シェイリの顔はどこか誇らしげだった。

「コクロクの引く車に乗れ。行くぞ、現魔球の塔へ」

 ラージュとツギールが乗ると車が走り出した。驚いたのは、車の速さが増していることだった。てっきり、三人いるから遅くなると思ったのに。

 ラージュは隣に座っているツギールに視線を送る。

「速くする魔法をお持ちなのでしょうか? シェイリ様は」

「いや、違う。コクロクの持つ力を、引き出しているのだ。速くしていると言うより、より力強く駆けていると言うべきだ」

 コクロクの引く車は街道を通っていく。時おり荷物を運ぶ人が、コクロクに乗ったシェイリを見て声を上げた。

 その声音だけで、シェイリが民から愛されているのが分かる。

 通り過ぎていく風景を眺める。店先に、生きている魚がたくさん泳いでいる水槽があった。魚を売っているのだろうが、食料としてなのかペットとしてなのかが分からない。

 剣や槍を並べている店もあった。一目見て武器屋だと分かる店があることには、なんだか安堵した。

 しばしして、奇妙な塔が見えてきた。色が様々なのだ。黒や赤や青の太い線が、ぐるぐると塔を回りながら上がっていく。そんな外観の塔だ。

「よく見ておけ。あれが、現魔球の塔だ」

 はい、とシェイリに返答する。

 あそこで、自分の魔法の属性とやらが分かるのだろうか。

 シェイリは力強く進んでいく、コクロクに乗って。

 十五分くらいで、塔の前にたどり着いた。塔の前には、座り込んでいる人と、立っている人がいるのが見えた。二人とも、中年男性だ。

 一人は宰相のミスレイだ。布を敷いた地面に座り込み、分厚く重ねられた文書を持っている。書かれている文章を急いで読んでいるようだ。

 統治に必要なものだろう。民からの要望書かもしれない。

 もう一人は、知らない男だった。突っ立ってボケっとしている。

 コクロクに乗ったまま、シェイリは二人に近づいていく。

「おお、センダ。帰ってきたか。嫌な役目だったろうな。ご苦労だ」

 あっ、ともう一人の男が声を上げた。次の瞬間には、こちらに向けて駆け始めていた。すごい速さで近づいてくる。

 がっしりとした体格だった。背は高いし横幅も大きいが、脂肪はついていない。鍛え上げられた体だ。

 縮れた髪とひげは黒い。眼は灰色の男だ。年齢は、四十代だろうか。

 センダはシェイリに向けて、人懐っこい笑顔を見せた。

「そのねぎらいの言葉で、不快な気持ちが吹き飛びましたよ。いやあ、シェイリ様こそ閉じ込められて大変だったでしょう」

「まあ、否定はできんな」

「おや、その男が噂のラージュですか? 確か、髪も眼も黒いはず」

 センダがこちらを見つめてくる。

「はい、おれがシェイリ様に名付けられた者です」

 センダが駆け寄ってくるので、車を降りた。握手か、と思ったら抱きついてきた。

「いやあ、助かった。異界は飯が不味いし、変な虫がいるし、うんざりしてたんだ」

 ああ、おれが生まれた異界に行っていた人か。

「お前がシェイリ様を助け出したから、おれも帰ってこれた。涙が出たな、うれしくて」

 ラージュはぎこちなく微笑んだ。あまり、スキンシップに慣れてない。

「よし! ラージュ、現魔球の塔に入れ! お前の魔法の属性がなんなのか、楽しみだ!」

 センダが勝手に自分の腕をひいて行く。

 現魔球の塔の後ろへ回り込むと、壁に半円の形をした箇所があった。色は灰色だ。

「ここが入口だ」

「え? 扉に見えませんが」

「扉? そんなものは現魔球の塔にはないのだ。知らなかったか?」

 やけに明るいオッサンだ。

「おれに続け!」

 センダは灰色の壁に近づく。壁にぶつかるか、と思ったがそんなことはなかった。まるで灰色の半円など幻であったかのように、センダの体は素通りして中に消えていった。

 ラージュはちらりとシェイリを見る。もうすでに、コクロクから降りていた。

「さあ、行け。私たちはここで待つ」

「分かりました」

 ラージュが灰色の壁に見える物にぶつかると、もわっとしたなにかを感じた。

 無視して、そのまま足を進める。

 視界には様々な色が入り乱れている。不思議だが、不快ではなかった。

 迷わず進むと突然、視界がまともに戻った。塔の中だ。内壁の色は灰色だった。

 視線を左右に動かす。センダ以外の人はいない。塔の中は広かったが、周囲に物は置いていない。あのシェイリの居城よりも殺風景だ。

 ただ、小さな球体がいくつかある。小指の先ほどのそれは、宙に固定されているように見えた。

 手前にあるのが黄色の球体。

 右の球体が青で左が赤。

 上は白くて下は黒かった。

「五つの球体がありますね」

「違う。きちんと数えろ」

 注意して探すと、透明な球体が奥の方に見つかった。

「ここにある球体は六つだ。さあ、ラージュ。この現魔球に近づけ」

 うなずいて、歩いていくと体がなにかにぶつかった。

「えっ」

 がははと、センダは笑う。

「そこには見えない壁がある」

「透明なのですか?」

「違う。透明なら見えるだろう、奥にある現魔球のように。透明なのではなく、見えないのだ」

 確かにそうだ。

 手は硬い物にふれているのに、なにもないように思えてしまう。

 視界にはとらえられない壁か。

「さあ、両手を見えない壁につけろ」

 よく分からないが、言われた通りにする。

 音がした。

 耳鳴りのようでもあり、虫の鳴き声みたいな気もする。

「手を離すな。そのままの姿勢で待て」

 なにやら、手が痺れてきたような、そんな気がした。

「よし、結果は出たな。現魔球をよく見てみろ」

 あの小さな球が現魔球なのだろう。

「気のせいかもしれませんが、黄色い球体が大きくなったように思えます」

「気のせいではないぞ。うむ。親指の先ほどになったな。これは、お前の魔法が土の属性を持つことを示している」

 詳しくは分からないが、自分が使える魔法は土なのか。

「分かりました」

「待て。もう一つ、大きくなった球体があるぞ」

「え? そうですか?」

「がはは、自分で分からぬとはな。教えてやろう。下を見てみろ」

 黒い球体。それも少しだけ大きくなっていた。

「黒は闇の属性だ。お前の魔法は土と闇を操れるのだ」

 ラージュよりもセンダの声の方が弾んでいる。

「他の色はなにを示すのでしょう?」

「適当に思いついた物を言ってみろ」

「赤は炎ですか?」

「そうだ。火の属性だ」

「青は水」

「おお、物分かりがいいな」

 上の白い球体を見る。

「あれは、シェイリ様の属性ですね」

「そうだとも。光だ」

 残る一つは、透明な球体。

「あれが分かりません」

「透明なのは風だ」

「ああ、なるほど」

「土、風、火、水、光、闇。魔法の属性はこの六つだけだ。全ての魔法は、この六つのどれかに属している」

 センダの手がラージュの腕をつかんだ。なんだか、スキンシップが過剰なオッサンだ。

「さあ、出るぞ。シェイリ様が待ちわびている」

 灰色の半円を通って、現魔球の塔の外へ出ると、生まれ変わったような気がした。

「こいつは、土と闇の属性でした」

「やはり、闇か」

 シェイリが納得したようにうなずいた。

「おれの魔法を、予想されていたのですか?」

「ああ、ベザンとの戦いで、お前は闇の魔法を使っていた」

 断定してきた。

「いや、確か魔法を使うと体が動かせないほど疲れ果ててしまうと、そう聞きましたが」

「よく覚えていますね。ラージュさん」

 ミスレイが座ったまま、穏やかな口調で言った。手元に文書を持っているが、視線はラージュに向けられている。

「その言葉は本当です。しかし、例外があるのです。六つの属性には基本魔法というものがあり、その魔法は無意識のうちに使えて疲労はないのです」

「基本魔法ですか」

「まず土は、硬くすること。物であったり自分であったりします」

「はい」

「風は速くすることです」

 ミスレイの穏やかな声にじっと聞き入る。

「火は、魔力の瞬発力を上げること。一時的に、強い魔法が使えます。そして、水は魔力の持久力を上げます」

「なるほど」

「光は、周りを察知することです。では、闇の基本魔法はなんだと思いますか?」

 投げかけられた問い。

 自分がベザンとの戦いで使った魔法。

 無意識のうちに使っていた魔法は。

「自分のことを隠すことですか?」

 ミスレイはにっこりと笑った。

「鋭いですね。その通りです」

 六つの属性と、基本魔法。

「私の魔法も闇です。だから、私のことを闇の宰相と呼ぶ方もいますね」

 ミスレイの言い方からして、持っている属性はそれだけのようだ。

「私は光だ」

 シェイリの言葉。

「やはりそうですか。それ以外はないのですね」

「ああ。ツギールの属性はなんだと思う?」

「闇と水ですか? それを駆使して、黒水をつくっている」

「そうだ」

 やはりか。

「そしてセンダは、闇と土と火だ」

 へえ、とラージュはオッサンを見る。

「三つもあるとはすごいですね」

「おお、褒められるのは珍しいな。がはは、まあそうだ。大して強くないが、属性は三つある」

 異界では闇と言うと悪のイメージがあったが、魔界ではそんなことはなさそうだ。

 ここにいる四人の男が、いずれも闇の魔法を使う。それを恥じている様子もない。

「ではラージュ」

「はい、シェイリ様」

「お前はセンダに学べ。魔法の使い方を」

「分かりました」

「これからしばらくは、お前はセンダと同居することになる」

 む、そうなのか。

「かしこまりました」

 ミスレイとの同居が望ましかったが、贅沢は言えない。ツギールと同居するよりは、ましな気がするし。

「お前が魔法を学んでいる内に、私はガーコを倒す」

 シェイリはさらりと言った。外を散歩してくる、と言う時のような口調で。

「さあ、ミスレイとツギールは車に乗れ。すぐに玉座の間で戦闘準備のための会議だ」

「はい!」

 ツギールは声を張り上げた。

「分かりました」

 ミスレイの声は相変わらず穏やかだ。

 シェイリがコクロクにまたがった。

 ラージュはシェイリを見ていたが、こちらに視線を向けることはなかった。

 車は走り出し、すぐに遠くなっていく。

「さあ、ラージュ」

 肩にごつい手が置かれる。

 センダの手だ。

「魔法の修行を始めるぞ」


 ■■■


「申し出に対してグルーヌはどんな返答をしたのだ?」

 シェイリは玉座の前に立って、ミスレイを見つめた。返ってきた言葉次第では、自分は戦略を練り直さなければならない。

「水面に映った顔しか知らない相手ですが、悪い返答ではありませんでした」

 ミスレイの顔は、木漏れ日を浴びて所々に影が出来ている。

 神宿りの樹がつくる影だ。

 椅子に座り、机に置かれた紙にペンを走らせているのはミスレイの手助けをする女官のミミラだ。シェイリとミスレイとツギールの会話の内容が、眼鏡をかけたミミラによって書かれている。緑の髪のミミラがどういう性格なのかは、魔王であるシェイリも知らない。

 ただ、ミスレイが『眼鏡をかけなければ何も見えないことを除けば、大きな欠点はありません』と言ったので、それを信じている。

 では、とシェイリは言う。

「同盟成立か」

「はい。グルーヌも、単独ではジャーズに敵いません。我らの申し出に乗る価値はあると、そう考えたのでしょう」

「やはりか。上手く行けば、私とグルーヌで、ガーコとジャーズを挟み撃ちにできるな」

 シェイリは壁に貼られた地図を見た。

 シャリアンの南方には、四人の魔王がいる。

 南東にいるのがシェイリ。

 そこから西に向かえばガーコ。

 更に西に行けば、あのジャーズがいる。得体の知れない魔法を使う、謎めいた魔王だ。

 そして南西にいるのが、毒液を操る魔王グルーヌ。

「いい知らせですね」

 ツギールは興奮している。そういう時は必ず眼が血走るのだ。

「心強い味方が出来た」

「なにを能天気なことを言っている」

 シェイリは冷たく返した。

「私がグルーヌを一対一で倒したわけではない。強い結びつきとは言えん」

「あ」

 ツギールがうつむいた。

「すみません。考えが及びませんでした」

「一方、ガーコはジャーズに敗れている。だからジャーズには逆らえないのだ、ガーコは」

 シェイリ様、とミスレイが重々しい声を出した。

「ジャーズはどう動くでしょう?」

「ガーコの救援に行くか、グルーヌを倒しに行くか。二つに一つだ」

「その、どちらが有利とお考えで?」

「どちらも、リスクはある」

 先ほど叱られたことが応えたのか、ツギールは言葉を発しない。

「ガーコとジャーズの双方を同時に相手にするのは不利だ。まずい展開だな。だが」

「だが?」

「ジャーズがグルーヌを攻めた時の方が、最悪の結果になる公算が大きい。おい、ツギール」

「は、はいっ!」

 うつむいていた顔を上げて、姿勢を正したツギール。

「最悪の結果を述べてみろ」

「グルーヌがジャーズに負けることによって、忠実な手下になること……でしょうか?」

 委縮しすぎだな、こいつは。

「その通りだ」

「やはり」

「ジャーズとグルーヌの戦いになれば、我が領民には、私ではなくグルーヌを応援するよう呼びかける。最善は、グルーヌが首尾よくジャーズを倒してくれることだ。だが」

 シェイリの声に力が入った。

「そう上手く行くと思わぬ方がいいな。甘い見通しは持つべきではない」

「確かにそうですね」

 ツギールの口調は、相変わらず緊張している。

「では、すぐさまガーコを攻めるぞ。ツギール、お前はついてこい」

 はい、とツギールは答えた。

「ミミラはいつも通りミスレイの指示に従え。兵糧、武器、光癒丸(こうゆがん)の補給に務めろ」

 分かりました、と返したミミラは、落ちそうになった眼鏡を押さえていた。


 ■■■


「修行はどこでやるのですか?」

「焦るな。おれについて来い」

 センダは歩き始めた。草をかき分けて進む。ラージュはついて行った。逆らうことは無意味だ。

 草花が生い茂る草原を抜けると、まばらに石が転がっている場所についた。

 センダは振り返る。

「ここにするぞ」

「はい。センダ様」

 おい、とセンダは眉をひそめた。

「おれは先生でお前は生徒だ」

「ええ」

「ならば、おれの命令に従わねばならん。分かるな」

「はい。なんでも命令してください」

「センダ様、などと呼ぶな。センダさん、と呼べ」

「え? それが命令ですか?」

「なんだ? 不服か?」

 ミスレイと似た要求だ。違うところは、命令の形をとっている点か。

「そんなことはありませんよ。センダさん」

 センダはにこっと笑った。どこか、警戒心を解いてしまう笑顔だ。

「ではお前に質問だ。どうしておれは、ここを修行の場所に選んだと思う?」

「え?」

 突然の質問。答えはなんなのか。 

「ちょっと待ってください」

 地面を見渡す。小石が転がっていること以外に特徴はない。

「石と関係があるのですか?」

「おっ、いい視点だ」

 のんびりとした口調だ。

「いい視点だが、外れだな。石なら、もってくればいいのだから」

「はあ」

「分からぬようだな。大事なことを教えてやる。ここに、草や花や木が生えてないからだ」

「重要なのですか、それが」

「当り前だ」

 センダは野太い声を出した。

「草も花も木も、根を張るであろう。お前は魔法を初めて習うのだぞ。根を張られた土を動かせ、と言われてもできるはずがない」

「ああ、なるほど」

「まずは簡単な魔法を見せる。ジャグという魔法をな」

 センダが立ったまま、地面に向けて手をかざす。一つの石が震えだした。イチゴくらいの小さな石が。

「これがジャグだ」

 地面が動いていることに気づく。石の下の土が外へ向けて流れていくのだ。下の土が減っていき、石は沈んでいく。

 そして石の周りに、円の形をした土の壁ができた。土は石に覆いかぶさる。

 もう石は見えなかった。地面の中に消えたのだ。

「見ていたな」

「はい」

「では、同じくらいの大きさの石でやってみろ」

「…………」

 急にやれと言われてもなあ。

 とりあえず近くの石を選び、ラージュは手をかざしてみた。

「あの、ジャグと言った方がいいんでしょうか?」

「はあ? なんと言った、お前」

「だから、ジャグと唱えると土を動かせるとか、魔法が発動するとか」

 センダは、変な味がするものを食べたような奇妙な顔をした。

「なんだそりゃあ。魔法を使う時にわざわざ名称を唱える? そんな馬鹿なことをする奴なんて、いるわけないぞ。あれ? お前は知恵者だと聞いたがな」

「あ、ちょっと……いやかなり、非常識な人間でして」

「うむ、思い切り非常識だ」

 センダは力強く断言した。

「ジャグと唱えたら、敵にこれからジャグを使うのだとばれてしまうではないか。そんな愚かなことは、魔界の人間なら誰もしない」

「では、敵を攻撃する時には、なんと唱えたらいいんでしょう」

「口にした方がいい言葉か。そうだなあ。『ええい!』とか『やれえ!』とかかな。『くらいやがれ!』もいいし『とどめだ。死ぬがいい!』なんかもお勧めだ」

「はあ」

「ま、一番いいのは無言で攻撃することだがな。そもそも、今のお前は敵を攻撃しているわけではなく、小石を動かそうとしているだけだ。

 もしお前が小石に対して『動け、動くのだ!』とかいうセリフを口にしてたら、まず間違いなく笑いものになるな」

「わ、笑いものに?」

「まあ、よっぽど人のいいご婦人なら『あの人は小石くらいしか話しかける相手がいない、友達がいなくて彼女もいなくて、おまけにペットにすら相手にされない可哀想な人なんだわ。ああ、見ているだけで胸が痛い』と同情してくれるかもしれん」 

 いかん。

 めちゃくちゃ話がそれてる。

「では、ジャグという言葉はなんなのですか?」

「人名だ。古代の魔王の息子だな。大して強い男ではなかった。恐らく、人望がなかったんだろう。ただ単に、この魔法を思いついたことで歴史に名を残した男だ」

「名誉なことなのでしょうか?」

「自分の名前がついた魔法ができることか? 名誉とも言えるし、不名誉とも言えるな」

「どういう意味ですか?」

「それは……あっ! お前、なにもしていないではないか! こら! 修行しろ!」

「す、すみません! でも、どうすれば土は動くのですか?」

「動く土をイメージして、念じてみろ」

 ラージュは手をかざして、土に動けと念じてみる。

 ぴくりとも動かない。

「地面から遠すぎるな。さっきの現魔球から見て、もっと手を近づけねばならん」

 はい、と返して腰を曲げる。念じるが、石は動かない。

「もっと石に手を近くしろ。ただし、ふれるなよ」

「分かりました」

 小さな石に限界まで手を近づける。

「そこで手を止めろ。イメージするんだ。これから、石の下の土は周囲に向かって、動いていく。少しずつだが、確実に動いていく。そう思い込め」

「はい」

 そのまま、じっと念じ続ける。自分には魔法を使える力があるんだ。心の中でそう言い聞かせる。

「おっ、ついに動いた!」

「へ? 動きましたか?」

 ラージュの眼には、動いていないように思えるのだが。

「動いているぞ。よく見ていろ」

 集中すると、かすかに石が埋まっていくように見える。

 ラージュの手に力がこもる。やる気がわいてきた。

「あっ!」

 小石の周りに、土の壁ができていく。少しずつだが確実に、円を描いた土壁が形成されていく。

 そして小石は、土の中に埋まった。

「よくやった! ラージュ!」

「はい、ありがとうございます!」

 ラージュは両手から力を抜いて、ほっと息をついた。

 次の瞬間。

 体のあちこちが痛み始める。骨がきしむように。

「な、なんか痛いんですけど」

「ああ、初魔法の痛みだな。お前がまともな人間だってことだ。普通の人なら、誰もが経験する」

「センダさんも?」

「もちろん。シェイリ様もミスレイ様も経験されただろう、子供の頃に」

 会話の最中にも、痛みは強くなっていく。

 更に、すさまじい疲労が全身を襲ってくる。

「おい、無理しなくていいぞ。横になれ」

 はい、とか細く声を出してラージュは仰向けに倒れた。空の青さの中に、白い雲がいくつもある。雲は、元の世界とあまり変わらなかった。

 荒い呼吸を繰り返す。

 次第に痛みは、弱いものになっていく。

 風が心地いい。

 今も痛みや疲労はあるが、それより充足感の方が大きい。

「これ、いつまで休めばいいんでしょうか?」

「あと三十分くらいだな。個人差はあるが。お前の魔力からして、あの程度の魔法ならさほど負担にはなるまい」

「そうですか」

「あ、だからと言って無理をするなよ。魔法の初心者にとって、無理が一番危険なんだ。魔法を覚えたての子供が、夢中になって魔法を使うのに専念して魔力と体の限界を越えてしまい、一生寝たきりになる。などという悲惨なことも起きるんだ」

「へえ。そんなことが」

 センダはラージュの顔を覗き込んで、笑みを見せた。

「今のお前の役目は、しっかりと休むことだ。あ、そうだ。おれとしたことが忘れていた」

 センダは筒のような物を取り出して、木造りの器に青色の液体をそそいだ。

「これを飲め。疲れが癒えるはずだ」

 上半身を起こして、器を受け取る。いかにも不味そうな飲み物だ。

 一口飲んでみる。

「甘いですね」

 そして美味しい。

「当然だ。蜂蜜が入っているのだから」

「へえ」

「蜂蜜は体の疲労を、青茶は魔力の消耗を、それぞれ回復させる効果がある」

 蜂蜜入りの青茶を飲みほした。力が湧いてくる気がする。

「ああ、もう立てそうな気がします」

 センダは手をラージュの頭に置いた。

「まだだ。横たわれ。まずは待つんだ。完全に回復するまで」

 言われるがままに仰向けになったラージュ。

 雲が風を受けて動いていく。

 茶色の鳥が、群れをなして飛翔していく。

 そんな光景を、ぼんやりと見ている。

「あの、センダさん」

「なんだ?」

「シェイリ様は光の剣を使っていました」

「光剣(こうけん)のことか」

 シェイリの持つ杖から伸びていた光を思い浮かべる。

「あれって、普通の剣とどう違うんですか?」

「普通の剣って、鉄とかで造られた剣のことか?」

「はい」

「鉄の剣が、敵の鎧に当たったらどうなる?」

「音を立てて止まりますね」

「光剣は、そんなことはない。光は物体に妨げられず、素通りする。そして肉体に、ダメージを与える。

普通の剣が体の中を通ったら、肉は切り裂かれて血が吹き出す。だが、光剣は違う。基本的に、何度も何度も切りつけて肉体を破壊する武器だ」

 普通の剣に比べて攻撃しやすい半面で、威力が劣る面もあるということか。いや、待てよ。

「ならば、敵の武器による攻撃を光剣で防ぐことは不可能なのですね」

「そうとは限らない。鉄の剣は、光を反射する。光沢を放つ金属なら、光剣である程度動きを制御できるんだ。だから、シェイリ様にとっては剣より木刀の使い手の方が手強い。以前、木刀使いの敵に苦戦したことがある」

 シェイリが苦戦する。そんな事態があるのは、当然のことだ。その時、自分は役に立てるのか。敬愛の念を捧げる人を、守り抜くことができるのか。

 もっと強くならなければ。

「光剣で、物を破壊することもできる。できるのだがその光剣は、人にダメージを与えることはできない」

「難しいですね」

「だがいずれ、シェイリ様はシャリアンを統一して、この島国の大魔王になる。その時になったら、物も人も壊せる光剣を持てるようになるはずだ」

「なるほど」

「これからシェイリ様は、どんどん強くなるんだ」

「センダさん。おれが自分の魔力の強さを知りたい時は、どうすればいいのでしょうか?」

「簡単だ。現魔球の塔へ行けばいい」

「え? あそこで分かるのは、魔法の属性ですよね」

「それだけではない。魔力の大きさも分かる。あの時、お前の魔力は大して強くなかった。だから、あの程度の大きさにしかならなかったのだ」

 という事は。

「現魔球が大きくなればなるほど、魔力が強いのですか?」

「もちろんだ。おれなら、黄色い現魔球は拳より大きくなる」

「それはすごい」

「すごくないぞ。シェイリ様なら、七、八歳の子供がうずくまったほどの大きさとなる」

「おお、さすがはシェイリ様」

 魔帝はどれほどなのだろう。

 シャリアン全土の十倍を超える人口を誇る、ギュリガヌス帝国の支配者。

いずれシャリアンに、貢物を差し出すよう要求してくる相手。

シェイリが敵視する存在。

「…………」

 想像を絶する大きさになるのかもしれない。

 いつの日か、自分は魔帝と出会うのだろうか? 

 戦うのだろうか?

「当然だが、今の修行でお前の現魔球が大きくなる、ということはない」

「分かります。人望が増えたわけではないですからね」

 多くの人に愛されれば愛されるほど魔力は強くなる。

 センダの魔力が大きいのは、なんとなく分かった。

 人に好かれる性格をしている。

「あの、自分の名がついた魔法が残ることが、何故不名誉なのですか?」

「名前がついているという事は、一つしか新たな魔法をつくりだせなかったということでもある」

「数の問題ですか」

「それから、その魔法に合ういい名称を思いつけなかったということでもあるのだ」

「分かりやすいし、優しい先生ですね。センダさんは」

 にかっと笑ったセンダ。

「お、おれの良さが分かったか。物分かりのいい奴だ。お前もおれほどの人望があれば」

 突然、全身が地中に沈み始めた。声を上げそうになる。

 横たわった体ごと、地面が下がっていく。どんどん下がる。自分の身長の倍ほど深くなったところで。

 土が落ちてきた、次々に。体に重量を持って乗っかってくる。土埃に思わずむせる。

 ようやく土埃が収まった頃には、頭以外が土中に完全に埋まっていた。

「これくらいのことは余裕でできるぞ」

 声は、かなり上から降ってきた。

 頭だけ出して埋まっているラージュは、とっさに声を返せなかった。

「さあ、休息は充分だ。次の修行を始めるぞ。そこから抜け出して、地上にあがって来い」


 ■■■


「ジャーズからの返答はまだか!」

 ガーコは金切り声を上げた。

「まだ……来てないようですね」

 侍女はうつむいている。

 本来であれば、この侍女とベッドで二人きりになるはずだった。

「シェイリの奴、まさかグルーヌと手を組むとはな……おのれ!」

 ガーコは椅子から立ち上がって、自室に大声を響かせた。

「殺してやる! 絶対に殺してやるからな!」

 侍女はうつむいたままだ。

 豪奢なベッドと精緻な紋様が描かれたタンスがある。ベッドとタンスをぶち壊したい、という衝動を抑えながら、美しい絨毯の上をさっきからずっと歩き続けている。三十人は入れるこの居室には、この侍女と自分しかいない。

 ジャーズめ、なにをしている。

 さっさと助けに来い!

 扉を叩く音がした。

「なんだ!」

「ジャーズ様からの手紙です」

 ガーコは走って扉を開けた。使用人の手から、それをひったくる。

 封を開けて中の文章を読み始めた。

『ガーコよ。実はあの魔王、グルーヌが攻めてきた。こいつを返り討ちにする。いや、返り討ちと書くと殺すという意味に誤解されるかもしれんな。

 わしはグルーヌに勝って手下にして、お前と三人がかりでシェイリを倒すつもりなのじゃ。まあ、お前が生きていればの話だが。諦めながらせいぜい頑張れ。では健闘を祈るぞ。 

 お前よりはるかに強いジャーズより』

 読み終えたガーコの両手は、ぶるぶると震える。

「あの野郎、おれを見捨てやがったあ!」

「やはり、そうでしたか」

 声がした。

 いつの間にか、自室に戦士がそろっている。数は九人か。

 将軍はいない。四人とも、敗北したからだ。

「なんだ? いいアイデアでも浮かんだのか?」

「はい。とっておきの素晴らしい考えが浮かびました」

 一人が真面目な顔で言ってきた。

「おお!」

 希望はあるのか!

「なんだ、聞かせてくれ!」

「シェイリに降伏することです」

 硬直したガーコの前で、残りの八人もうなずいた。右手から、ジャーズの薄情な手紙が床に落ちていく。

「勝てませんよ、どう考えても」

「…………」

「ジャーズ殿が助けに来てくれるのが唯一の勝機でした。それが絶望的になった今、降伏するしかないと」

「ふざけるなあ!」

 ガーコは叫んだ。

「降伏はしない! 断じてするものか! このガーコが、あんなちびの小娘に服従するだと⁉ そんな馬鹿な話がどこにある!」

「そうですか」

「我が民のためなら、おれは死をもいとわない。どこまでも、民のためにおれは戦うのだ。分かったな。殺されたくなかったら、そんなことは言うな」

「はい。分かりました」

 先頭の戦士は剣を構えた。

「あなたを殺して、その首をシェイリに献上いたします」

「……え?」

 残りの八人も剣を構える。剣先は自分に向けられている。

 愛人でもあった侍女は、邪魔にならないように部屋の隅にどいてしまう。

「さあ、構えてください」

 ど、どうしよう。

 今は、自分の魔力は最低レベルだ。こいつらに勝てても、シェイリに勝てるとは思えない。

 いや、こいつらにさえ負けるかもしれない。

「構えないなら、このまま殺しますぞ」

「ま、待て!」

 ガーコは両手を前に出して、叫んだ。

「待つんだ。分かった! そうだな……」

 眼が泳ぐ。

「か、考えてみれば、おれが戦えば罪もない民が犠牲になるかもしれん。ううむ。やむを得ないな! おれは潔く、シェイリ殿に降伏しよう。民のために!」

「あ、そうですか」

 あっさりと返ってきた言葉。

 どうせ、そう言うと思った。そんな思いが込められている様に感じるのは、自分だけだろうか。

「では、降伏の使者を送りますね」

「ああ、待っていろ。直筆の文書を書く。今すぐに!」

 屈辱感など、感じている余裕はない。

 ガーコは慌てて机に向かった。

 先頭の戦士がぼそっと、やれやれとつぶやいた。


 ■■■


 ラージュはずっと長方形に切り取られた空を見ている。

 空が見たいわけではない。

 埋まった体が動かないのだ。

「ははは、全然進展しないな」

 センダの声が聞こえる。少し、聞き取りづらかった。

 たぶん、なにかを食べているのだろう。

 なんとか出なくては。力を込めると声が降ってきた。

「おい、それは駄目だぞ。腕力で抜け出すのは、反則だ。あくまで、魔力を駆使して魔法で土を動かせ」

「はい、分かりました」

 体を取り囲む土が動くイメージをしてみるが、びくともしない。

「おれの魔力では、不可能なのでは?」

「ん? なんて言った?」

「これ、無理なんじゃないですかあ!」

 大声を張り上げると、細長い食べ物をくわえたセンダの顔が覗いた。

「いや、できるぞ。少なくとも、土から抜け出すのは余裕でできる」

 本当かあ?

「仕方ねえな。教えてやろう。お前は、全身を取り囲む土が一気に動くことをイメージしている。それが駄目なんだ」

 言われてみれば、そう念じてた。

「つまり、おれを取り囲む土のかけらが、少しずつ動いていくように念じろと?」

「そういうことだ。さあ、やってみろ」

 鎖骨の上にある土のかけらに向けて念じる。

 動け!

「あ、センダさん!」

「どうだ? 上手く行っただろう」

 はい、と弾んだ声を返した。ほんの少しだけ土は動き、鎖骨への重みが変わった。

 これを何千回か、ひたすら続ければいいんだ。

 念じ続ける。自分が身につけている灰色のシャツが見えてきた。土まみれだが、すごくうれしい。

「おっと、少し休め」

「え、またですか?」

「今度は五分ほどでいい。なんと言っても今日は、初めて魔法を使う日だからな。慎重になりすぎるということはない」

「はい、分かりました」

 体から力を抜く。

「じゃあ、休んでいる内に勉強だ。質問はないか?」

「戦いについて知りたいです」

「ふむ」

「一対一の戦いでも、そうでなくても。どうすれば勝ちと言えるのでしょうか?」

「ああ、勝利条件か。それは、二つある。二つとも、お前の知識で分かるはずだ」

 おれの知識で分かる。ならば。

「相手を殺したら、勝ち」

「ああ、それが一つだ。あと一つは?」

「相手が負けを認めたら勝ち」

「ほう。何故、そう思った?」

「シェイリ様の戦いがそうでした」

 ガムザもキーゼルも、負けを認めて戦いは終わっていた。

「ああ、そうか。お前が誤解するのは無理もないが、それは勝利条件ではない」

 あっさりと吐かれた意外な言葉。

「え? どうして?」

「魔界の歴史上では『おれの負けだ』と地面に手をついて、油断したところで地面を動かして勝った奴もいるからだ。汚いやり方だよな」

「汚いですね、確かに」

 卑劣なやり方だ。だからこそ、自分に向いているのかもしれない。覚えておこう。

「勝利条件は分からないか? これをすれば、相手はどうしようもない。そういう状況に持っていくんだ」

「……そんな方法をおれは知っているんですね」

「ああ」

 しばらく考えるが、見当がつかない。

「分かりません」

「簡単だ。相手の首に魔封環(まふうかん)をつければいいんだ」

 声が出なかった。驚きと納得で。

 シェイリに初めて出会った時に、首にはまっていた灰色の環。

「そうすれば、敵は魔法を一切使えなくなる。すなわち勝ちが決まる」

「じゃあ、今のおれを負かすのはセンダさんなら簡単にできますね。魔封環を落として、土を動かしてはめればいい」

「へえ、そんなやり方を思いつくとは。さすがは異界人だな。馬鹿だ」

「……へ? 馬鹿?」

「魔封環は、必ず二つの半円を左右の手で持ってつけねばならん。そうでなければ、はめることはできん」

「そうなんですか」

 これは、覚えておこう。

「古代には魔封環がなかった。今から約六千年前にあれが出来たことで、決闘による死者は随分と減ったな」

「殺さずに相手を倒すためにつくられた道具なのですね」

「あ、馬鹿な発言がまただ。いや、馬鹿ではないか。魔界の歴史を知らなければ、そう思い込んでしまうのも無理はないな。魔封環がつくられたのは、火の魔法を使う者を救うためだ」

「火の魔法?」

「ああ、おれも火を使える。あれがなければ、おれはすでに死んでいるかもしれん。おれの家族も、無事ですまないかもな」

「死んでいる? 誰の魔法で?」

「もちろん、おれの魔法で」

 一瞬、言葉につまる。

「そんな、自分の魔法で死ぬなんてことが」

「信じられんか? だが本当の事だ。古代にはそういう笑うに笑えない死人が大勢いたんだ。魔法が成長して喜んでいたら、その魔法で家族も住む家も失ってしまう。そんな可哀想な人がたくさんいた」

「どうして?」

 センダの答えは即座に返ってきた。

「悪夢だ」

「……ああ、夢の中で思わず火をつけてしまうと?」

「そういうことだ。無理もないだろ。戦いの前日とかに戦闘の夢を見て、眠っているのについ火をつけてしまう連中はいるさ。起きた時には、周りは火の海だ。本人も家族も可哀想だ。そいつらは悪くない。いや、誰かが悪いわけではない。しいて言えば、運が悪いんだ」

 そういう可哀想な人々をなくすために、つくられたのが魔封環か。

「よし! 勉強はここまでだ。上がってこい」

「分かりました」

 時間さえかければ、体の上の土をどかすのは簡単だ。土のかけらを移動させる。それを延々と繰り返す。ラージュの体は少しずつ、土の重しから解放されて自由になっていく。

 ようやく立つと、拍手が上から聞こえてきた。

「よくやった、ラージュ」

「早かったんですか?」

「いや、遅い方だ。ただ、これには根気がいる。お前が途中で『いつになったら終わるんだよ!』とか言ってやめると思っていた。愚痴一つこぼさなかったのは予想外だ。偉い」  

 根気は、暗殺部隊にいた頃にきたえられている。

 それを言おうかと思ったが、やめた。シェイリと二人だけの秘密にしておこう。

「別に大して根気なんていりませんでしたよ」

「ほう。ならば助言をしてやろう。土だけでなく、闇も意識して地面を動かせ」

「闇も?」

「ああ。土と闇は相性がいいんだ。土の中は闇だからな。土中の闇も動かせれば、格段に魔法の行使が速くなる。そして、強くなる。

 土と闇の力で上がってこい。ただし、上がりながら話せ。おれと会話をしつつ、魔法を使ってみろ」

「時間がないんですか」

「いや、時間はたっぷりある。ただ、魔法に集中して会話もできないような奴は、シェイリ様のお役に立つことはできん」

「分かりました」

 上には長方形の空が見える。

 四方は絶壁だ。垂直の壁に囲まれているのだ。

「ここから、上に登ればいいんですよね。穴の深さはおれの身長の二倍くらい」

「ああ、そうだ。土には、さわってもいいぞ」

 ラージュは土に手を押し当てる。中の闇も意識して。

「センダさん。土の魔法を使う者がすごく強くなれば」

「強くなれば?」

 言われた通りだ。闇を意識すると、土はより簡単に動かせる。

「地震を起こすこともできるのですか?」

「はあ?」

 呆れたような声。

「地震なんて、起こせるわけねえだろ。全く、非常識な奴だな」

「非常識なんですか?」

 手を当てた部分の土を、自分に向けて動かしてみた。

「地震はどうやっても起こせない、と」

「ああ、地震を起こせる人なんてシャリアンに一人も……いや、一人いたか。しかし、あの方が地震を起こすなんて愚かなことをするわけがない。地震には、三つの問題点があるからだ」

 土が、ラージュに向けて動く。視界の上の地面が崩れて、足元に落ちてきた。また、周囲が土に埋まりそうだ。

「なんだ? 失敗したか?」

「いいえ。地震の問題点とは?」

「まず、地震は微弱なものでも、とてつもない魔力を消費するんだ。だから、百戦錬磨の魔法の達人で、人望による魔力がすごい人でも、疲れ果ててしまう」

「ああ、あと二つの問題点は分かりましたよ」

 ラージュは下半身を埋まった土から引き抜いて、更にこちらに向けて土を傾ける。

「地震は、一人の標的だけを狙うことができない」

「その通りだ」

 考えてみれば、当然のことだった。

「そして、大地震を起こすと、民に迷惑がかかる」

「うむ。その結果、魔力が激減してしまうんだ。だから、魔界の歴史上において地震を起こした奴なんて、いるわけがない。いや、未来永劫現れないだろう。これは確実に断言できる。ところでラージュ」

「なんですか?」

「さっきから、なにをやっているんだ。さっさと上がってこい、と言っているだろう」

「ええ。だからおれに向けて土を崩しているんです」

「はあ?」

「まあ、見ていてください。それよりセンダさん」

 シェイリの姿を思い浮かべる。

「シェイリ様って、ドレスを身にまとって戦いますよね」

 この暑さの中、長袖の白いドレスを。

「ああ、そうだが?」

「よっぽどお気に入りの衣装なんですか? あまり、戦いに向いてない気がするんですけど」

 どうしてズボンをはいて戦わないのか。それが前から気になっていたのだ。

「ふむ。もっともな疑問だな。あれは、特殊な糸でつくられたドレスなんだ。着ている者の光魔法を増幅して、敵の光の攻撃を跳ね返す力があるんだ」

「シェイリ様が特別につくらせたドレスなのですね」

「いや、違う。とてつもなく貴重な糸だから、今つくらせることはまず無理だ。民に重税を強いて、やっとあれに次ぐ服がつくれる。あれは、いにしえの魔王が身にまとったドレスで、ミスレイ様が数々の助言と引き換えに魔王サールスから譲られた貴重品なんだ」

「助言?」

「統治に関してのアドバイスだ。ミスレイ様はお優しい。その上、シャリアンの全ての人のことを愛しておられるから、他の魔王にも積極的に助言するんだ」

「なるほど」

「ミスレイ様と仲がいいのがサールスという男でな。月に三度は文通していて……はあ?」 

 上の土が大きく動いた。ラージュの両脇に落ちてくる。道は狭くなり、頭上は開けた。

 垂直にそりたつ壁が、斜めの坂へと変わった。視界が広い。ラージュが自分に向けて土を動かしていたのが、成功したようだ。

 坂を駆け上る。地上に出た。汗をかいた顔に風が心地よい。

 センダを見つめた。

「ついに、穴から出てこれました」

「え? いや、期待していたのと違うな……」

 センダは頭をかいた。

「おれは、穴の底のお前が自分の足の下の土を高くして、真上へ向かって垂直に出ると思っていたんだ。まさか、壁を坂に変えてしまうとは」

「ああ、方法を間違えてましたか。じゃあ、もう一回やりますか?」

「いや、いい。説明しなかったおれも悪いし、またやらされたらうんざりするだろう」

 センダは笑顔を見せた。

「なにより、おれの発想にない脱出の仕方を編み出したのは偉い。よくやった、ラージュ」

「ありがとうございます」

 褒めてもらえると、やはりうれしい。

「ほれ。紫鳥の煮込み鍋でも食え。腹が減っているだろ」

 気づけば鍋に食材らしき物が入って、ぐつぐつと煮えている。渡された木製のフォークをもらい、食事の前の言葉を口にする。

「今日も食べ物に恵まれて、自分は幸運です」

 食事の前はとにかくこれを言え、とツギールに教えられていた。

 鍋の中の紫色の肉をフォークで突き刺して、口に運ぶ。熱々の肉を噛むと、中の汁があふれ出してきた。たれの甘辛さの中に塩味があって、驚くほど美味い。

「あ、センダさんは火の魔法も使えるんですよね。一つ、見せてもらえますか?」

「おお、いいぞ」

 センダは背を向けた。なにをしているのか、よく分からない。

こちらを向いて立ったセンダは、何故か野菜の切れ端を持っていた。右手につかんだ野菜の切れ端の先に、火がともった。

「見たな」

 火はすぐに消えて、か細い煙が上がっていく。黒焦げになった野菜を放り投げて、センダは腰を下ろした。

「じゃあ、魔法の勉強は終わりだ。食え」

「え? センダさんは、手から炎を出したりしないんですか?」

「なに? 今、お前なんと言った⁉」

「い、いや、だから手から火を出して攻撃するとか……」

「そうか。お前は異界から来たからな。いいか、よく聞け。異界ではどうか知らんが魔界ではな」

 センダの目つきは、真剣だった。

「手に火をつけると火傷するんだ」

「……はあ」

「いや、しかし驚いたな。まさか、手に火をつけるのが異界の常識とは。とんでもない世界だな、異界と言うのは」

「え、いや、その……」

 どうしよう。

 言えない。

異界でも手に火をつければ火傷するなんて、そんなこと言えるわけがない。

「どんな修行をすれば、手に火をつけられるんだ?」

「いや、一部の変人がやっていることで、門外不出の秘技のため、おれにも分かりません」

 適当なでたらめを口にして、話をそらす。これしかない!

「火をつける時に、なにかを持っていましたよね」

「うむ。お前は手に火をつけるようなめちゃくちゃな所から来たからピンとこないかもしれんが、火を扱う時に必要なのは燃料なんだ」

「燃料……」

「特定の樹木であったり、草だったり、燃えるものはたくさんある」

 言われてみればベザンも、燃える棍棒を持って戦っていた。

「たいていの火の魔法の使い手は、なにを燃やすか決めている」

できるだけ得意な炎で戦いたいからだろうか。

 なら、とラージュは問いかけた。

「火をつける時に持っていたのは、なんですか?」

「ああ、あれはカブの葉だ。おれが火をつけられるのは、カブだけなんだ」

「か、カブだけ?」

「だから戦場におもむく時は、必ず大量のカブを持っていく。カブを持ちながらの戦闘。それがおれの戦い方だ」

 野菜を、しかもカブを持ちながら戦うなんて! 

 すごくダサい。とてつもなくダサい戦い方だ。

 魔界はやはり、とんでもない世界だ。

「どうした? 変な顔をして」

「い、いえ。センダさんらしいな、と思って」

「お、そんなに褒めなくていいさ」

 少し胸が痛くなった。

「か、カブって格好いいですよね」

「そうだ。なによりも、食ったら美味いしな。生でも、焼いても、煮ても食えて美味いんだから、いいことづくしだ。おれがつくるカブ料理は絶品で、戦友からもよく急かされたもんだ。カブを使って美味い飯をつくってくれ、と」

「へえ、そんなに美味しいんですか」

「お前も、シェイリ様のお役に立てるくらい強くなったら、おれのカブ料理を食わせてやるぞ。おれの自慢の料理だからな」

「それは楽しみです」

 センダはにっこりと微笑んだ。

 

 



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