(第四十五話)蜘蛛の魔獣・ザワリ
「……ふう」
敵を打ち砕いた安堵と共に、シンはテパに絡みつく糸を一つひとつ解いていく。
「テパ、もう大丈夫だ……ん?」
――返事がない。
「テパ! おい、テパ!」
――やはり、返事がない。
「テ――」
その時、糸を解く手に、ふと人肌の温もりが触れた。
「……シ……ン……」
ゆっくりとテパが振り向いた。その目はぼんやりしている。
それでもその口元は、確かに微笑んでいた。
「……やった、ね」
テパは目を細める。その表情は口元だけでなく、確かに“生きて”いた。
「……ああ」
シンは、胸の奥に灯る温かさを感じながら、テパの手を強く握り返した。
◆
テパが糸を外されて地上に降りると、すぐさまピルトが肩に乗った。
「きゅう」
「ピルト、心配かけたね。もう大丈夫だよ」
テパがピルトを優しく撫でると、ピルトは嬉しそうに尻尾を振った。
シンもそれを見て、改めてテパの無事を喜び、作戦がうまくいったことを実感した。
安堵が、ようやく形を持ち始めた、その瞬間――。
(カタカタカタ……)
「?」
異様な音がして、シンとテパは振り向いた。
そこにあったのは、先程倒した“犬”の残骸。
だが、その一部――指先ほどの欠片が、小刻みに震えている。
「あれ……動いてる?」
テパがそう言った直後、欠片は残骸の山を飛び出して、どこかへぴょんぴょんと飛び跳ねていった。
「何かあるかもしれない。行こうよ」
「ああ。魔獣はおそらくこの”犬”じゃない。あの欠片の先にいるかもしれない」
欠片は、兎にも似て軽やかに跳ねていく。見失わないよう、二人は視点を逸らさず追いかけた。
◆
シンとテパが暫く追跡を続けた後、欠片はぴたりと動きを止めた。
「……?」
欠片の先に、一軒の家がある。
中の様子は見えない。だが、戸口の隙間から、仄かに香の匂いが流れ出ている。
「この香り……まさか!?」二人は驚いて顔を見合わせる。
「あれ、テパたちが最初に来た家だよね? お嫁さんもいた」
「ああ、間違いない」
二人は欠片を追っているうちに、円を描くように戻ってきてしまったのだ。
「まずい、このままじゃ危ない。行くぞ、テパ!」
「うん!」
◆
家に入った瞬間、シンとテパの足が僅かに止まった。
そこには、女がただ一人、落ち着いた様子で座っている。
(……?……)
お嫁さんを助けなければ――。
シンもテパも、家に入る前はそう思っていた。
だが女の姿を見た途端、胸の内にあった衝動が、すっと冷めていった。
(……??……)
女は、あまりにも落ち着きすぎている。
二人ははっきりと覚えていた。森の中で見た、夥しい数の死体を。
シンは思った。
(ずっと家にいて、外で何が起きたか知らないのかもしれない。いやそれでも、この佇まいはおかしい……)
婿のティルマが、死んだように裾について離れない花嫁。
独り残された彼女が、まるで何も失っていないかのように、そこにいる。
「……!」
シンの手が懐へと伸びる。そこにあるのは、愛用の小刀だった。
「お前……何か隠してるな?」
切っ先を女の喉元に突きつけ、鋭い眼差しで問うシン。
テパはその姿を見て動揺している。
「シン、何するの!?」
「おかしいだろ。欠片がここで止まった。村の者が攫われたのに、全く動じていない。これは――」
『……フフッ』
刃を向けられても眉一つ動かさなかった女の口が、ゆっくりと歪んだ。
『さっきも思ったけど、あなた、本当に勘がいいわね』
「!?」
シンは驚いた。だがそれは、女が突然喋り始めたからではない。
(口が……動いてない……?)
直感が告げる。
これは、人ではない。
斬らなければ、自分もテパも殺される。
シンがそう思った瞬間。
「!?」
突然、二人の足元が裂けた。
「何だ、これは!?」
割れた地面からは、大量の蜘蛛糸が現れる。
まっすぐ上に勢いよく昇る様は、恰も森に現れた間欠泉のようだ。
「あっ!」
家は一瞬で引き裂かれ、崩れ落ちる。
「ん!?」
「えっ!?」
糸はそのまま、シンとテパの体にも絡みついた。
「!!」
糸は二人を捕らえるだけでは飽き足らず、四肢を引き千切らんとする勢いで容赦なく食い込んでいく。
「うっ……」
「い……っ」
二人が激痛に耐える間に、糸の一部が懐に入った。
「あっ、僕の小刀……!」
「マクアウィトルが!」
糸は、二人から武器を奪うという意志があるかのように払い落した。
「きゅう!」
窮地に陥った二人を救おうと、ピルトが飛び上がる。
だが糸は、彼の姿を見逃さなかった。
「きゅうっ!」
糸に弾かれ、ピルトは地面に叩き落とされた。
「ピルト!!」
「きゅう……」
「ピルトー!!」
テパは痛みも忘れ、必死にピルトを呼ぶ。すると彼を遮るように、何かがぬるりと現れた。
――女だ。
『あなたたちはここでおしまいなのよ』
「……どういう、意味、だ」シンが女を睨みつける。
『みんな私が殺したの。こいつの婿も、村の連中もね』
「お前、やっぱり……」
『勿論、こいつもよ』
女が言うと、どこからともなく糸の塊が現れ、中に人間の顔が覗けた。
それも、シンとテパに見覚えのある顔だ。
「それ……さっきのお爺さん!」
テパの目が恐怖に慄く。
老人は、弱ってはいるが微かに息をしている。
『巨大な蜘蛛を倒す為に、王都でいっちばん強い兵士を連れて来てって頼んだの。でも本当は、邪魔者を減らしたかっただけ』
女の冷酷な視線が、老人へと移る。
『もう役目は終わったわ。ご苦労様』
そう言うと、老人に巻き付いていた糸から刃が生え、一瞬で全身を串刺しにした。
僅かだった老人の息は、これを以て完全に絶えた。
◆
「……」
「あぁ……」
凄惨極まりない光景を目の前で見せられ、シンとテパは言葉を失った。そして恐れた。
このままでは、自分たちは老人の後を追うことになる――。
『安心しなさい。あなたたちはまだ殺さないわ。話したいことがあるの』
女はそう言った後、突然二人の視界から姿を消した。そして――。
「――!!」
女の反対側から、破壊された家をも凌ぐ、途轍もない大きさの蜘蛛が現れた。
「私はザワリ。変化を楽しんで貰えたかしら?」
ザワリは、蜘蛛にしては異様に長い尻尾を誇示するように掲げる。
「そ、それは……!」
尻尾の先端で、息絶えた花嫁が逆さになっていた。
しかも、吊るされているのではない――癒合している。
「結婚を控えてるっていうこいつを殺して、体に取り込んだのよ。こうすれば誰も疑わないから」
「お前……何て卑怯な……」シンが怒りを露わにする。
「お黙り」ザワリの糸が、シンの口をぴしゃりと打ち据える。
「あなたたちには大事な話があるの。もう村のことは忘れなさい。それと、あいつもね」
女が視線を移した先には、倒れて動けないピルトがいる。
遠くから見てもわかるくらい、元気がない。
「……ぅ……」
「ピルトー!!!」
テパの心からの叫びが、虚空へと消える。
ピルトの姿が、シンとテパからみるみる遠ざかる。
「ピル――」
声が消えた。
二人は糸で出来た球体に閉じ込められ、視界を完全に奪われた。
二人の周りにあるのは、白一色の空間と、血に濡れたザワリの気配だけだった。




