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血汐の群れる朝が来る前に  作者: Masa plus


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(第三十八話)ゾノトの奇跡

 光と闇。

 本来は刃を交えるはずのそれらが、ゾノトの奥では、まるで古くからの友のように寄り添っていた。

 

 ひんやりとした水は、骨の奥まで沁みる冷たさを持ちながら、不思議と仄かな温もりも宿している。

 その水の中を、シンとテパは並んで泳いでいた。

 当てはない。目的もない。

 けれど二人の胸の奥には、「泳ぎ続ければ、きっと何か素敵なことが起こる」という、根拠のない予感だけが灯っていた。


 

 水が続くかぎり、どこまでも。

 どこまでも――。

 気づけば、入り口の光は遠く、淡く、微かな記憶のようになっていた。

 


「ねぇ、シン……」


水に溶けるような声で、テパが呼ぶ。

 

「ん?」


「テパたち、今どこにいるのかなぁ……」


 

 光は減り、闇が濃くなる。

 白かった鍾乳石は煤けた色へと変わり、岩は獣の背のようにせり出し、天井からは逆さの剣が幾本も垂れ下がる。

 水の底に沈む静寂は、牢獄のそれに似ていた。


「わからない。でもここで留まるべきじゃない」

 

「……」


 テパは黙って後をついていく。

 二人は長いこと水中にいて、息継ぎ一つしていない。なのに何故か苦しくない。

 肺も、胸も、ただ静かだった。


 まるでこの水そのものが、二人を生かしているかのようだった。



 さらに奥へ進んでいくと、辺りはさらに暗くなった。どこからか墨を流されたように。


「……テパ?」


シンは振り返る。周りがあまりにも暗い。姿を見失えば、永遠に迷子になってしまう気がした。


(!?)


 突然、背中から何かが巻き付いた。

 鍾乳石にしては柔らかすぎる。泳いでいる間に見つけたサク・カイ【※1】とも明らかに違う。

 何だろう、この感覚は――と、シンが思ったその時。


「……いて」


微かな声が、水を伝い、シンの耳を震わせる。


「ここに、いて。離れないで」


「おいお前……」


 力を一層強める、巻き付く何か。

 漆黒の中で、聞き慣れた声がプクプクと湧き出る泡に乗って水を揺らす。

 それに応えるシンの声は、聞こえた声の数倍大きな泡となって水面へ消えていった。


「独りになりたくない。こんなところで離れたら、本当に迷子になっちゃうよぉ……」


(……ぁ……)


 声にならない声が、シンの喉で解ける。

 泡はない。だが水は大きく揺れた。

 岩陰に潜んでいたサク・カイも、驚いて尾を翻し、闇へと逃げていった。


(この感触は、この声は……)



 シンの脳裏に突然、姉との記憶が蘇る。


「う……うわぁぁぁん……」


「シン、どうしたの?」


「悔しいよぉ……」


「こんな傷だらけで……また喧嘩したの?」


「隣村の奴が言ったんだ。僕らが奴隷だって。姉さんが……姉さんが……」


「何ですって?」


「……体売ってるんだろ、って……」


言いたくなかった。恥ずかしかった。姉が、そんな目で見られているなんて。


「……」


(姉さん黙ってる……やっぱり言わない方がよかったかなぁ……)


「……まあ」アウィアは困ったように笑った。


「時々言われるのよ、こんな体だから」


ウィピル【※2】から覗ける谷間を、シンは思わずじろじろ見てしまった。


(姉さんは悪くないのに……)


 彼女が娼婦でないことは、誰よりも自分が知っている。

 疚しいことなど、何ひとつない。

 どうせ自分たちが余所者の奴隷だからと、見下しているのだろう。シンはそう思っていた。


「こういう身の上の宿命かもね。でも大丈夫。ただの噂よ。私はあなたがいればそれでいいの」


「姉さん、ずっと一緒にいてくれる?僕、姉さんがいないと、すごく不安だよ……」


「ふふ、勿論よ」


アウィアはシンを抱きしめた。シンはただただ身を委ねる。悪い噂の象徴である大きな胸は、今や温かく、柔らかく、心が落ち着くものだと思えた。



「……シン?」


現実に引き戻す声。いつの間にかシンは体をくるりと半回転させて、腕をテパの背中に回していた。


「○○○○○」


シンは何か喋っているが、口から出るのは小さな泡だけだ。


「○○○○○、○○○○○、○○○○○……」


シンは虚ろな目で唇を動かしている。だが生まれるのは、小さな泡だけだ。


「シン、大丈夫?」


テパはそっと腕を解き、シンの両手を包むように握り、目の前へ持ち上げる。


「……はっ!!」


 体に纏わりついていた温かさがすっと消えて、シンは正気に戻った。そして驚いた。

 暗い筈の水の中で、目の前にいる者――テパの顔が、光に照らされ、はっきり見えている。


「シン、腕輪が……」


「……!?」


 シンが恐る恐る視線を落とすと、腕輪に嵌められたケツァリツリピョリトリが、かつてない程に力強く輝いていた。

 この暗く冷たい水の中に、二人の為の太陽が落ちてきたかのようだった。


「これ、何なの……?」


「わからない。でも――」


言葉は続かない。代わりに、シンはテパの背へ腕を回し、強く引き寄せた。



「これはきっと、奇跡だ。そうだ、奇跡だ……」



二人を取り巻く水が、ゆらりと揺れた。



 静かな水の中で、静かに時が過ぎていく。

 岩陰ではサク・カイが、抱き合う少年たちを窺いながら、水底を掠めるように泳いでいる。

 光はわからない。でも彼らは近づかない。

 微かに揺れる水で感じている。今、二人をそっとしておくべきなのだと――。



 シンとテパは勿論、水底を泳ぐサク・カイさえも、知らなかった。

 ここからそう遠くないところで、無数の骸骨が、カタカタと、動き始めていることを―。

【※1】サク・カイ……メキシコの固有種の魚。「サク・カイ」とはマヤ語での呼称であり、英語ではメキシカン・ブラインド・ブロトゥラ或いはブラインド・フィッシュと呼ばれる。うっすら桃色がかった白い体で、その名の通り目が退化し盲目である。現在ではユカタン半島のゾノト(セノーテ)に生息している。

尚、観賞魚としても人気のブラインドケーブ・カラシンとは全くの別種である。


【※2】ウィピル……古代メソアメリカの女性が着ていた貫頭衣。

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