(第三十八話)ゾノトの奇跡
光と闇。
本来は刃を交えるはずのそれらが、ゾノトの奥では、まるで古くからの友のように寄り添っていた。
ひんやりとした水は、骨の奥まで沁みる冷たさを持ちながら、不思議と仄かな温もりも宿している。
その水の中を、シンとテパは並んで泳いでいた。
当てはない。目的もない。
けれど二人の胸の奥には、「泳ぎ続ければ、きっと何か素敵なことが起こる」という、根拠のない予感だけが灯っていた。
◆
水が続くかぎり、どこまでも。
どこまでも――。
気づけば、入り口の光は遠く、淡く、微かな記憶のようになっていた。
「ねぇ、シン……」
水に溶けるような声で、テパが呼ぶ。
「ん?」
「テパたち、今どこにいるのかなぁ……」
光は減り、闇が濃くなる。
白かった鍾乳石は煤けた色へと変わり、岩は獣の背のようにせり出し、天井からは逆さの剣が幾本も垂れ下がる。
水の底に沈む静寂は、牢獄のそれに似ていた。
「わからない。でもここで留まるべきじゃない」
「……」
テパは黙って後をついていく。
二人は長いこと水中にいて、息継ぎ一つしていない。なのに何故か苦しくない。
肺も、胸も、ただ静かだった。
まるでこの水そのものが、二人を生かしているかのようだった。
◆
さらに奥へ進んでいくと、辺りはさらに暗くなった。どこからか墨を流されたように。
「……テパ?」
シンは振り返る。周りがあまりにも暗い。姿を見失えば、永遠に迷子になってしまう気がした。
(!?)
突然、背中から何かが巻き付いた。
鍾乳石にしては柔らかすぎる。泳いでいる間に見つけたサク・カイ【※1】とも明らかに違う。
何だろう、この感覚は――と、シンが思ったその時。
「……いて」
微かな声が、水を伝い、シンの耳を震わせる。
「ここに、いて。離れないで」
「おいお前……」
力を一層強める、巻き付く何か。
漆黒の中で、聞き慣れた声がプクプクと湧き出る泡に乗って水を揺らす。
それに応えるシンの声は、聞こえた声の数倍大きな泡となって水面へ消えていった。
「独りになりたくない。こんなところで離れたら、本当に迷子になっちゃうよぉ……」
(……ぁ……)
声にならない声が、シンの喉で解ける。
泡はない。だが水は大きく揺れた。
岩陰に潜んでいたサク・カイも、驚いて尾を翻し、闇へと逃げていった。
(この感触は、この声は……)
◆
シンの脳裏に突然、姉との記憶が蘇る。
「う……うわぁぁぁん……」
「シン、どうしたの?」
「悔しいよぉ……」
「こんな傷だらけで……また喧嘩したの?」
「隣村の奴が言ったんだ。僕らが奴隷だって。姉さんが……姉さんが……」
「何ですって?」
「……体売ってるんだろ、って……」
言いたくなかった。恥ずかしかった。姉が、そんな目で見られているなんて。
「……」
(姉さん黙ってる……やっぱり言わない方がよかったかなぁ……)
「……まあ」アウィアは困ったように笑った。
「時々言われるのよ、こんな体だから」
ウィピル【※2】から覗ける谷間を、シンは思わずじろじろ見てしまった。
(姉さんは悪くないのに……)
彼女が娼婦でないことは、誰よりも自分が知っている。
疚しいことなど、何ひとつない。
どうせ自分たちが余所者の奴隷だからと、見下しているのだろう。シンはそう思っていた。
「こういう身の上の宿命かもね。でも大丈夫。ただの噂よ。私はあなたがいればそれでいいの」
「姉さん、ずっと一緒にいてくれる?僕、姉さんがいないと、すごく不安だよ……」
「ふふ、勿論よ」
アウィアはシンを抱きしめた。シンはただただ身を委ねる。悪い噂の象徴である大きな胸は、今や温かく、柔らかく、心が落ち着くものだと思えた。
◆
「……シン?」
現実に引き戻す声。いつの間にかシンは体をくるりと半回転させて、腕をテパの背中に回していた。
「○○○○○」
シンは何か喋っているが、口から出るのは小さな泡だけだ。
「○○○○○、○○○○○、○○○○○……」
シンは虚ろな目で唇を動かしている。だが生まれるのは、小さな泡だけだ。
「シン、大丈夫?」
テパはそっと腕を解き、シンの両手を包むように握り、目の前へ持ち上げる。
「……はっ!!」
体に纏わりついていた温かさがすっと消えて、シンは正気に戻った。そして驚いた。
暗い筈の水の中で、目の前にいる者――テパの顔が、光に照らされ、はっきり見えている。
「シン、腕輪が……」
「……!?」
シンが恐る恐る視線を落とすと、腕輪に嵌められたケツァリツリピョリトリが、かつてない程に力強く輝いていた。
この暗く冷たい水の中に、二人の為の太陽が落ちてきたかのようだった。
「これ、何なの……?」
「わからない。でも――」
言葉は続かない。代わりに、シンはテパの背へ腕を回し、強く引き寄せた。
「これはきっと、奇跡だ。そうだ、奇跡だ……」
二人を取り巻く水が、ゆらりと揺れた。
◆
静かな水の中で、静かに時が過ぎていく。
岩陰ではサク・カイが、抱き合う少年たちを窺いながら、水底を掠めるように泳いでいる。
光はわからない。でも彼らは近づかない。
微かに揺れる水で感じている。今、二人をそっとしておくべきなのだと――。
シンとテパは勿論、水底を泳ぐサク・カイさえも、知らなかった。
ここからそう遠くないところで、無数の骸骨が、カタカタと、動き始めていることを―。
【※1】サク・カイ……メキシコの固有種の魚。「サク・カイ」とはマヤ語での呼称であり、英語ではメキシカン・ブラインド・ブロトゥラ或いはブラインド・フィッシュと呼ばれる。うっすら桃色がかった白い体で、その名の通り目が退化し盲目である。現在ではユカタン半島のゾノト(セノーテ)に生息している。
尚、観賞魚としても人気のブラインドケーブ・カラシンとは全くの別種である。
【※2】ウィピル……古代メソアメリカの女性が着ていた貫頭衣。




