(第三十三話)皮を剥かれし我らが主
「うひひぃぃ……このままあいつら死んでくれるかなぁ~?」
テクピンは眼前に広がる凄惨な光景を眺めながら、腹を抱えて笑い転げていた。だがその拍子に、足元がぐらりと揺れた。
「グウォォォォ!!!」
「ひぎゃっ!!?」
どこからともなく凄まじい咆哮が轟いた。空気そのものが震え、地面が唸った。調子に乗っていたテクピンは、その衝撃に呑まれ、成す術もなく地面に落ちてしまった。
「テパ!シン!目を覚ませ!!」
「!?」
咆哮は、続けざまに二人を叱咤する。互いを食料と錯覚し、血を流しながら噛み合っていたシンとテパは、はっとして動きを止めた。
「テパ……」
「シン……」
互いの目は、血だらけになった腕が映る。そして、互いの口の中には血の味が広がっている。ここに至ってようやく、二人は自分たちが凶行に走っていたことを悟った。だが、立ち尽くしている余裕はない。
「魔獣は……あの茂みの中だ!」
謎の声がそう告げると同時に、どこからか風が吹き抜けた。畑の雑草という雑草が、一斉に同じ方向へと靡く。まるで、「あそこだ」と指し示すかのように。
「行くぞ!」
「うん!」
魔獣の姿は見えない。それでも二人は、迷わず駆け出した。この時点では二人とも、声の正体に気づいていなかった。
◆
「……ぁっ、あぁ……」
テクピンはひっくり返って地面に落ちたまま藻掻いていた。足を必死に動かして態勢を整えようとするが、体勢を立て直そうとするが、足は虚空を掻くだけで、地を踏む感触がない。
「くっ、くそぉ……早くしないと……」
テクピンは焦った。それもその筈、先ほどから、地面を通して奇妙な振動が伝わってくる。
「このままじゃ俺は……や………やら……」
テクピンの鼓動が早まる中、振動はどんどん大きくなる。誰かが確実に、こちらへ迫っている。
「……!」
◆
(ここだ……でも見えない)
(どこ……?)
テクピンの、ない筈の耳にはっきり聞こえる声。そして視界の端に映る、二つの黒い影――。
「ああぁぁぁ、まずいぃぃぃ……」
テクピンの心臓は、壁を突き破りそうな勢いで脈打っている。その間にも影は近づき、そして大きくなっている――。
「来るな、来るな、来るな……ぁ……」
――次の瞬間。
(ガッ)
◆
「ん……?」テパが、ふと足を止める。
「どうした?」
「何か……踏んだかも」
「まさか。見せろ」
テパは足を上げる。一見、何も変わったところはなかった。だがシンは、肉眼で捉えられるかどうかというほどの微かな光を見逃さなかった。
「この光……魔獣だ」
「えっ?」
「どうも見えないと思ったら、こんな小さかったんだな」
「えぇ……?」テパは戸惑いを隠せない。
「魔獣が、まさか踏まれるくらい小さいなんてことあるの?贄子は本当にいるの?」
「ある。贄子も確かにいる。何も大きいだけが魔獣じゃない」
「……そうなんだ……」
「今から、僕の言うことが本当だってわかる。見ろ」
シンは、人差し指の先にそっと光を乗せる。力をほぼ失っているのか、テクピンは一切抵抗しなかった。
「観念しろ。潔く出てこい」
宙にふわりと浮いた光を、シンは血を染みこませた小刀で一息に薙ぐ。すると光は膨れ上がり、中からシンやテパより二回りほど年上の青年が現れた。神が求めることを示す紋章に包まれた、その身を晒して――。
◆
その頃。
「……ん……?」
「あら……?私ここで何してたの……?」
「あ……あぁ、それにしても腹減ったなぁ」
村人たちは正気を取り戻していた。戸惑いながらも歩けていることに気づき、次第に空腹を訴え始める。
「ありゃ!?」
「どうした!」
「食い物が……ねぇ!」
倉庫の食料が跡形もなく消えていたのを、ある村人が発見した。周囲は騒然とし、中にはまだ食料がないかと必死に探し回る者もいた。だが、まやかしの食料は、テクピンが力を失った今ではどこにもない。
「どうするのよ……このままじゃ私たち、飢え死にしちゃうわ!」
「うえぇん……お腹空いたよぉ……」
村人たちが混乱していた、そこへ――。
「こいつだ」
「!?」
「こいつを贄にしろ。そうすれば豊穣の神、シペ・トテックがお恵みを齎してくださる」
◆
昼下がりの村に、シンとテパは戻ってきた。二人に抱えられた青年、テクピンと共に。
「あれ?お前たちは……」前に出た長老が言った。
「話は後だ。こいつを明日の朝、シペ・トテックに捧げろ」
「そ、そうか……わかった」
村人の間にざわめきが走る。まるで、忘れていた祭りを急に思い出したかのようだった。
「無理ないな。偽りの食料に憑りつかれて、祭りのことなんか忘れていたんだろう」
「シン……明日までにこの人、逃げないよね?」
「力を相当弱めた。ここまで運ぶ間にも、何も抵抗しなかった。明日までは持つだろう」
シンとテパはテクピンを横たえ、その場を去った。
◆
テクピンは村の小さな神殿に運ばれた。
(ピキ、ピキ……)
紋章に沿って、皮膚が少しずつ剝がれていく。
「俺は”皮を剥かれし我らが主”、シペ・トテックの贄……そしてこれが、その証……」
テクピンは皮膚を見つめながら、人知れず呟く。シンとテパ、そして村人を罠にかける狡猾さがあった頃の面影が消えて大人しくなった彼は、自身の運命を受け入れ、その時を静かに待っている。
「何だったんだ……あのガキ共は……」
テクピンの脳裏には、村人の姿は浮かばない。後からやってきて自分の呆気ない最期を齎した、二人の少年ばかりがちらついた。
「それにあの、俺を吹っ飛ばした声……」
『グウォォォォ!!!』
謎の咆哮が、頭の中で何度も響く。少年たちの姿が霞むくらい、意識を捉えて離さない声。やがてテクピンは、虚ろに開いていた目を大きく開いた。
「まさか……まさかあいつ……俺を、裏切ったのか……?」
全身がむずむず動く。どうしても落ち着かない。そんなテクピンが横たわる石の床は、途方もなく冷たい。
「そんな……あいつは確かに言ってた……動植物の皮を被り、襲い来る者を拒めば逃げ切れる。命を延ばせるって……」
テクピンの体は止まっている。血の流れだけが、矢鱈と速くなっていた。
◆
その夜、テパは夢を見た。
「テパ、よくやったな」
「……誰?」
「私だ、チャアクだ」
「……!」
「さあ、おいで」
暗闇の中に、誰かが手を伸ばしてくる。懐かしさに溢れた、優しい声と共に。
「お父様……お父様!」
テパが手を伸ばすと、そこには確かに”お父様”――チャアクの姿があった。
「お父様……」
「テパ……」
「……ごめんなさい!」
「えっ?」
「テパのせいで……お父様のティルマ、取られちゃった……」
「……」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
「テパ……」
泣いて詫びるテパの頭を、チャアクは優しく撫でる。
「謝らなくていい。私も迂闊だった」
「でも……」
「そんなに自分を責めるな。お前はシンと一緒に、これからも魔獣を倒すんだ」
チャアクの言葉に、テパは埋めていた顔を上げる。
「あの、お父様」
「何だい?」
「お父様、ずっとそばにいてくれる?ティルマがなくなっちゃったけど……」
少し考えて、チャアクは答えた。
「ずっとは無理だ。でも今まで通り、呼べばすぐに来る」
「本当ですか?」
「ああ、本当だ」
「血も……必要ですか?」
「いや、いらない。お前が私を思う心さえあればいい」
「テパが……お父様を思う、心……?」
◆
「はっ!?」
暗闇の中で、テパは目を覚ました。
「あっ……あれ……あれ……?」
テパは目を凝らして周囲を見るが、何も見えない。微かに、隣で寝るシンの息が聞こえるだけだ。
「お父様……?」
呆然としていたテパの脳裏に、テクピンと戦っていた時に聞こえた、あの声が響いた。
『テパ!シン!目を覚ませ!!』
テパはやっと気づいて息を呑んだ。
「もしかして、あの時の声って……」




