(第二十九話)シン、悲しみを重ねて
「テパ……」
「えっ?」
「……すまない」
「えっ?」
「僕があいつの思惑を見抜けなかったせいだ。僕が不甲斐なかったから……お前の大切な家族が、いなくなってしまった……」
俯いていたシンが、ゆっくりと顔を上げる。それを見た瞬間、テパは息を呑んだ。
――泣いている。
「……シン……?」
テパは、シンが涙を流すのを初めて見た。いつも冷たい眼差しを向ける彼が泣くなど、想像すらしていなかった。
「シン……泣かないで」テパはそっと布切れを差し出す。
「……ぅっ、ぅぅぅ……」
拭っても拭っても、シンの涙は止まらなかった。それでも、しばらくしてシンはようやく呼吸を整えた。
「……情けないな。ちょっと思い出したくらいでこんなに泣くなんて」
「何を……思い出してたの?」
その問いかけに、シンの涙が止まった。
「ちょっと長くなるが……聞いてくれないか。お前に会う前の僕の話」
「うん、いいよ」
◆
「変な話だと思うだろうが……僕は、初めからこの世界にいたんじゃない」
「どういうこと?」
「”ここに来る前に、別の世界にいたような気がする”んだ」
「えっ?」
「今となっては記憶も曖昧だが……ここよりもずっと暗い、ジメッとしたところで生まれたんだ」
冷静なシンの口から語られる、あまりにも現実離れした話。テパは混乱しながらも、込み上げる疑問を押し殺し、黙って耳を傾けた。
「僕には姉さんがいた。アウィアって名前の。僕が生まれた時から、ずっと一緒にいたんだ」
「……」
「ある日、目の前に大きな光が現れた。目を瞑りたくなるくらい眩しい光だった。僕と姉さんは……気がついたらこの世界にいたんだ」
◆
「この世界に来て……それからどうしたの?」
そう問われると、シンは自分のティルマの裾を摘まみ、テパに示した。
「この通りだ。チャアクみたいに高い地位を与えられたわけじゃないのはわかるな?」
「……うん」
「僕と姉さんは、ある男の使用人になった。買い物、料理、機織り……雑用は何でもやった」
(シン……)
テパは言葉をかけかけて、思いとどまる。
「決して華やかな暮らしじゃなかった。でも、王様や神官様を羨んだことはない。姉さんさえいれば、それでよかった。どんなに辛くても、生きていけると思っていた……」
シンの声色が沈む。テパは悟った。その“幸せ”が、長く続かなかったことを――。
◆
「――えっ」
昼下がりの集会所。物陰から、姉が主の男や大人たちと話しているのを見て、シンは愕然とした。
「姉さん!」シンは思わず中に駆け込んだ。
「本当なの?次の祭りで生贄になるって……」
「……ごめんなさい。もう、決まったことなの」
「約束したじゃないか!ずっと一緒にいるって……」
「シン……」アウィアはそっと、シンの肩に手を置く。
「次の贄は、私かあなたか、どちらかだったの。断ったところで運命は同じ。もう、どうすることもできないわ」
「姉さん……!」
シンは何とかして姉を引き留めようとした。だが、その目に映る姿を見て言葉を失った。
(何だ……これ……?)
アウィアの全身を、青白い紋章のような光が覆っている。
「これよ。これが、神のお告げ。神が贄を求めているの。もう……仕方がないの」
「嫌だ……嫌だよ……」
シンは肩を震わせる。瞼までも小刻みに震えている。
「シン」
背後から低い声がした。主の男だ。
「気の毒だが仕方あるまい。生贄を捧げなければ、我々は神の恩恵に肖れないのだ。さあ、帰ろう」
「うっ……」
男は、涙を堪えるアウィアと、泣き崩れるシンを連れてその場を去った。
◆
翌日の夜明け前。悲しみで眠れずにいたシンの枕元に、アウィアが座る。
「シン」
「……何?」
「これを受け取って」
アウィアの手には、赤々と輝くケツァリツリピョリトリがあしらわれた腕輪があった。彼女がいつも身につけていたものだ。
「私の分まで、しっかり生きて」
アウィアはそれだけ言って、付き人と共に神殿へ向かってしまった。シンは後を追うが、すぐに見失ってしまった。
◆
「日が昇った頃、姉さんは神殿の頂に現れた。頭に艶やかな緑色の羽飾りをつけて、ティルマも華やかなものだった。それに青白い紋章が浮かぶ姉さんは……美しいを通り越して……どこか異様に見えた」
「……」
「いてもたってもいられなくて……せめて最後に手を繋ぎたかった。それで思わず頂へ行こうとして、神官様たちに止められた」
「……」
「姉さんは心臓を捥ぎ取られた。その後、姉さんの体はどこかへ運ばれてしまった。僕はただ、それを見ることしかできなかった」
「シン……」
沈痛な面持ちのテパ。視線の先にあるシンの腕輪が、どこか寂しげに輝いていた。
◆
『私の分まで、しっかり生きて』――。
脳の中でその言葉が、何度も、何度も響く。それでもシンは、姉の死を受け入れられなかった。
「姉さんなしで生きるくらいなら、姉さんのところに行きたい……」
シンはそう呟き、喉元に短剣を突きつける。だがその手は震えていた。刃がなかなか入らなかった。
「んあぁぁぁ!!!」
シンが苛立って短剣を投げ捨てた、その時だった。
「!?」
シンはある異様なものを見る。青白い光に包まれた何かだ。見覚えがある。姉が贄にされる前に浮かんでいた紋章だ。そしてそれが浮かび上がっているのは――自分の腕だった。
「うわっ……わぁぁぁ!!!」
シンは恐怖に駆られ、家を、そして村を飛び出してしまった。
◆
村から離れ、誰も追いかけて来なくなったところで、シンは足を止める。夜のサクベを照らすのは、月や星の明かりではない。自分の体から放たれる、青白い光だった。
「これは……」
紋章はいつの間にか体全体に広がっていた。しかも、その模様は一層複雑になっていた。
『哀れなる贄よ、早まるな』
「……?……」
シンはぼんやりとした意識のままで耳を傾ける。遠い空から、震えるような声が聞こえたのだ。
『お前とお前の姉は、予め神に捧げると決められた”贄子”なのだ。どう足搔こうとも、心の臓を抜かれる定めからは逃れられない』
「……何……だっ……て……?」
『その紋章が証だ。お前や姉が、生まれた時から神と繋がっていることのな』
「そ、そんな……」
唐突に絶望的なことを言われ、混乱を極めるシン。ここに来て急に、忘れかけていた姉の遺言が蘇った。
『私の分まで、しっかり生きて』
「……姉さんは、僕に死んでほしくなかった。この腕輪だって、姉さんが託したものだ。なのに、その思いが無駄だっていうのか……?」
シンは悲しくて、悔しくて泣いた。涙がとめどなく溢れた。そんな彼に、天の声は告げる。
『生き延びる方法なら、ある』
◆
「どういうこと……だ」
『この世には”魔獣”と呼ばれる者どもがいる。町を破壊し人間を襲う化け物だ』
「……魔獣……?」
『そいつらの中には紋章が刻まれた人間がいる。そいつを祭りで、神の贄として捧げるのだ。そうすれば、お前はその分生きられる。死を先に延ばせるのだ』
「……」
沈黙の後、シンは言った。
「……嫌だ!」
なぜそう思ったのか、自分でもわからなかった。だが、姉を奪った者たちと同じになる気がして――怖かった。
『姉の遺言を守りたいのだろう?なら迷う暇などないはずだ』天の声が続ける。
「嫌だ!嫌だ!!」
シンは泣き叫ぶ。その瞬間、夜空を見上げたシンの目に、黒い煙に包まれた鏡が現れる。しかもそれは、シンの体が丸々入るくらい大きかった。
「……!」
シンは意識を失い、その中に吸い込まれた。
◆
「……」
シンは気づいていなかった。自分の、心の奥底に秘めていたつもりの闇が、みるみる解放されていたことに――。
(僕にとって大切なのは、姉さんの思いを守ることだ。こんな程度で弱音を吐くことじゃない)
『……フッ』
天の声の不敵な笑みが響く。それと同時に、シンは立ち上がる。その目は冷徹で、あらゆる他者を拒絶しているかのようだった。
◆
「そして、あの鏡の中で、僕はあらゆるものと戦った。どんな魔獣をも、必ず倒せるように」
鏡の中から次々に現れる怪異に、シンは小刀を、矢を、そしてマクアウィトルを振るう。どんなに苦しくても、姉が最後に遺した思いを胸に、シンは執念で攻撃を加える。そうすると、どんなに強い敵も、最終的には息絶えるのだった。
「……」
変わり果てた怪異の姿を目にしても、シンの瞳が揺らぐことはなかった。
◆
「……はぁ」話を終えたシンの口から溜息が漏れた。
「シン……」
「ん?」
「テパ、シンはテパと何もかもが正反対だと思ってた。でももう、そんな風に思わない」
「……自分とよく似てる、ってか?」
「……うん」
「そうかもな。使用人だったし、家族もなくしたし……」
「シン……実はね、テパ、シンのことが怖かった。何だか……ついて来ちゃいけないのかなって、思ったりもした」
「……」
「でももう怖くない。テパ、シンとずっと一緒にいるから!」
「テパ……」
「お父様も取り返すよ!」
「……」
「……シン?」
シンは震えながらテパの手を握る。そして、俯いていた顔を上げ、まっすぐにテパの目を見据えた。
「ああ。必ず取り返そう!」
シンは固く手を握る。その手はもう、震えてはいなかった。




