(第二十六話)深い森に住む女
シンとテパは町の外れの空き家で雨宿りをしていた。
「……ねぇ、シン」テパが気まずそうに尋ねる。
「ん?」
聞きたいことがあった。喉まで言葉はせり上がっていた。だが――。
「……いや、何でもない」
「そうか」
外では雨脚が強まり、屋根や壁を叩く音がばらばらと響いている。二人の会話は、その音に紛れて途切れた。
◆
翌朝、雨はようやく上がった。
「行くぞ」
「ねぇシン……」
「何だ」
「……お父様を、呼んでいい?」
「後でやれ」
「……はーい……」
雲の切れ間から、かすかに陽が差す。曇天の下、二人は町を後にした。ぬかるんだ道を踏みしめるたび、泥水が跳ねて足元が汚れる。
◆
暫く歩いた時――。
(ゴロゴロゴロ……)
晴れかかっていた空が再び曇ったかと思うと、遠くから雷鳴が轟いた。そして間もなく雨が降った。
「うわー降ってきた!」
「まずいな……よりによってここで降るとは……」
シンとテパがいるのは、山を登って少し進んだところにある開けた場所だった。慌てて森の中へ駆け込むが、雨脚は瞬く間に強まり、木の下の二人を容赦なく打つ。
「これ、まさかトラロックの仕業じゃ……」
「こら、失礼なことを言うな。この雨がなけりゃ、川は干上がったままなんだぞ」
二人は木の下や岩陰に隠れては雨を凌ごうとするが、雨はそんな二人を揶揄うかのように打ちつけた。
◆
夕方になり、雨は止んだ。木々の隙間から覗く空が、澄んだ紅色に染まっている。
「さあ、行くぞ」
「行くって、どこ……?」
「泊まれる場所だ。森を抜ければ村がある」
「でももう夕方だよ……ここで休もうよ……」
「屋根すらない、こんなにぬかるんだ場所で一晩過ごしたら本当に風邪をひくぞ」
「わかったよぅ……」
ここで夜を明かす危険性は、テパにもわかっていた。それでも、これ以上泥道を歩くのは正直つらい。だが、シンに言われた以上、従うしかなかった。
◆
夜になった。だいぶ森の中を歩いたが、出口は一向に見えない。
「シン……もしかして、テパたち迷子になっちゃったの……?」
「そんなはずはない。どこかに出口がある」
「でも……もうずいぶん歩いたんだよ?これ以上歩いたら……」
「行くしかないだろ」
「……はぁ……」
◆
月と星の淡い光を頼りに、シンとテパが歩いていくと――。
「!」
「どうしたの?」
「あれを見ろ」
「……あ、明かりがある!」
「村かもしれない。行ってみよう」
「うん!」
疲労も不安も忘れ、二人は走り出した。
◆
木々を抜け、シンとテパは明かりの元へ辿り着いた。
「……あれ?」
二人は呆然とした。そこにあったのは村ではなく、ぽつんと佇む簡素な小屋が一軒だけだった。
「シン……」
「わかってる。今晩はここに泊めさせて貰おう」
そう言ってシンが一歩踏み出した瞬間、中から人が現れた。自分の背丈と同じくらい伸びた髪を束ねた、長身の女だった。
「……あ、あの!」
隠れることも考えず、シンは女に声をかける。すると彼女は、驚く様子もなくゆっくりと顔をシンの方に向けた。
「……あら、どうしたの?」
(うっ……)
シンは訝しんだ。否、それ以上に、得体の知れなさを感じていた。こんな深い森の中で、たった一人で暮らしている。そのうえ、見知らぬ人間を前にして、この落ち着きようだ。
(何だこいつは……只者じゃないな……)
シンが警戒を強めた、その時だった。
「泊めてください!!」
シンの背後で、突然大きな声がした。――テパだった。
「おい、お前……」
「泊めてください!!」テパは一層声を張り上げる。
「……ふふ」
女はテパ、そしてシンを優しい眼差しで見つめて微笑んだ。
「いいわよ」
女は二人の宿泊を許した。あまりにもあっさりしていて、シンは拍子抜けした。
「やったぁ!ありがとうございます!」
「……助かる」
「ご飯を用意するわ。ちょっと待ってね」
女は二人に背を向けて去る。やっと休める場所を見つけ、テパは目を輝かせていた。一方、シンの胸中には疑念が渦巻いていた。
(あいつ、何か隠しているかもしれない……)
シンは女が小屋に隠れて何かしないか、様子を窺う。だが女は小屋に入らず、入り口の前で何かを煮始めた。
「シン、あれ見て!美味しそう」
「ん……」
「シン?」
◆
「ご飯できたわよ。いらっしゃい」女はシンとテパを呼んだ。
「わーい!」
「……」
テパは弾むように駆け寄り、シンは慎重に後に続いた。
「これ何ですか?」
「ポソレ【※1】よ」
(……ポソレ……?)
テパが興味深げに覗き込む横で、シンの警戒心はさらに強まる。
(これって普通、王様や神官様が食べるものだよな……)
「いただきまーす!」
「あぁテパ!」
止める間もなく、テパは食べ始めていた。よほど空腹だったのか、夢中で平らげ、さらにはお代わりまでした。
(僕らのような庶民が食べていいものじゃない。なのにどうして……)
シンは女に裏があるように思えて仕方なかった。だがテパがあまりに幸せそうに頬張るので、手を伸ばせずにいた。
(この顔……久しぶりに見たな)
今のところ、テパに異常は見られない。こっそり毒が盛られているかと疑っていたシンも、ポソレを静かに口に運んだ。
「……美味しい」
テパの表情に嘘偽りはなかった。肉や野菜の出汁が出ていて、疲れた体に染み渡る美味しさだった。シンはまさに”一杯食わされた”。
「ちょっと待ってて!」
テパはお代わり10杯分食べ終えると、急に椀を置いて立ち上がり、外へ出て行った。
「おいどこ行くんだ――」
シンが呼び止めようとした時には、テパの姿はなかった。様子を見ようと、シンが外へ出ようとすると――。
「もっとポソレくださーい!」
「あ……す、すみません……」
意気揚々と戻ってきたテパに続いて、チャアクが気まずそうに入ってきた。テパの手をよくよく見ると、ほんのり血が滲んでいる。
(おい何やってんだ……)
シンは頭を抱えるが、女はチャアクを前にしても全く動じず、微笑んで挨拶した。
「そのオセロトルも欲しいの?」
「はい!」
「熱いから気をつけてね」
女は平たい器にポソレを盛り、チャアクの口元に運ぶ。チャアクはふーふーと息をかけ、冷ましながら味わった。
「なかなか美味しいな。ポソレなんて滅多に食べられない。テパ、よかったな」
「はい!」
「シンだってポソレなんて食べたことないんじゃないか?」
「……ずっと昔に、一度だけな」
「そうか、ハハ」
「……ふん」
和やかな雰囲気に包まれる二人と一頭。女はその様子を嬉しそうに見ていた。
【※1】ポソレ…古代メソアメリカから続くメキシコの料理。トウモロコシと人肉を煮込んだスープで、高貴な身分の者だけが食べられる特別な料理だった。今日のメキシコでは、人肉の代わりに豚肉や鶏肉が使われている。




