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血汐の群れる朝が来る前に  作者: Masa plus


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(第二十六話)深い森に住む女

 シンとテパは町の外れの空き家で雨宿りをしていた。


「……ねぇ、シン」テパが気まずそうに尋ねる。


「ん?」


聞きたいことがあった。喉まで言葉はせり上がっていた。だが――。


「……いや、何でもない」


「そうか」


外では雨脚が強まり、屋根や壁を叩く音がばらばらと響いている。二人の会話は、その音に紛れて途切れた。



 翌朝、雨はようやく上がった。


「行くぞ」


「ねぇシン……」


「何だ」


「……お父様を、呼んでいい?」


「後でやれ」


「……はーい……」


雲の切れ間から、かすかに陽が差す。曇天の下、二人は町を後にした。ぬかるんだ道を踏みしめるたび、泥水が跳ねて足元が汚れる。



 暫く歩いた時――。


(ゴロゴロゴロ……)


晴れかかっていた空が再び曇ったかと思うと、遠くから雷鳴が轟いた。そして間もなく雨が降った。


「うわー降ってきた!」


「まずいな……よりによってここで降るとは……」


シンとテパがいるのは、山を登って少し進んだところにある開けた場所だった。慌てて森の中へ駆け込むが、雨脚は瞬く間に強まり、木の下の二人を容赦なく打つ。


「これ、まさかトラロックの仕業じゃ……」


「こら、失礼なことを言うな。この雨がなけりゃ、川は干上がったままなんだぞ」


二人は木の下や岩陰に隠れては雨を凌ごうとするが、雨はそんな二人を揶揄うかのように打ちつけた。



 夕方になり、雨は止んだ。木々の隙間から覗く空が、澄んだ紅色に染まっている。


「さあ、行くぞ」


「行くって、どこ……?」


「泊まれる場所だ。森を抜ければ村がある」


「でももう夕方だよ……ここで休もうよ……」


「屋根すらない、こんなにぬかるんだ場所で一晩過ごしたら本当に風邪をひくぞ」


「わかったよぅ……」


ここで夜を明かす危険性は、テパにもわかっていた。それでも、これ以上泥道を歩くのは正直つらい。だが、シンに言われた以上、従うしかなかった。



 夜になった。だいぶ森の中を歩いたが、出口は一向に見えない。


「シン……もしかして、テパたち迷子になっちゃったの……?」


「そんなはずはない。どこかに出口がある」


「でも……もうずいぶん歩いたんだよ?これ以上歩いたら……」


「行くしかないだろ」


「……はぁ……」



 月と星の淡い光を頼りに、シンとテパが歩いていくと――。


「!」


「どうしたの?」


「あれを見ろ」


「……あ、明かりがある!」


「村かもしれない。行ってみよう」


「うん!」


疲労も不安も忘れ、二人は走り出した。



 木々を抜け、シンとテパは明かりの元へ辿り着いた。


「……あれ?」


二人は呆然とした。そこにあったのは村ではなく、ぽつんと佇む簡素な小屋が一軒だけだった。


「シン……」


「わかってる。今晩はここに泊めさせて貰おう」


そう言ってシンが一歩踏み出した瞬間、中から人が現れた。自分の背丈と同じくらい伸びた髪を束ねた、長身の女だった。


「……あ、あの!」


隠れることも考えず、シンは女に声をかける。すると彼女は、驚く様子もなくゆっくりと顔をシンの方に向けた。


「……あら、どうしたの?」


(うっ……)


シンは訝しんだ。否、それ以上に、得体の知れなさを感じていた。こんな深い森の中で、たった一人で暮らしている。そのうえ、見知らぬ人間を前にして、この落ち着きようだ。


(何だこいつは……只者じゃないな……)


シンが警戒を強めた、その時だった。


「泊めてください!!」


シンの背後で、突然大きな声がした。――テパだった。


「おい、お前……」


「泊めてください!!」テパは一層声を張り上げる。


「……ふふ」


女はテパ、そしてシンを優しい眼差しで見つめて微笑んだ。


「いいわよ」


女は二人の宿泊を許した。あまりにもあっさりしていて、シンは拍子抜けした。


「やったぁ!ありがとうございます!」


「……助かる」


「ご飯を用意するわ。ちょっと待ってね」


女は二人に背を向けて去る。やっと休める場所を見つけ、テパは目を輝かせていた。一方、シンの胸中には疑念が渦巻いていた。


(あいつ、何か隠しているかもしれない……)


シンは女が小屋に隠れて何かしないか、様子を窺う。だが女は小屋に入らず、入り口の前で何かを煮始めた。


「シン、あれ見て!美味しそう」


「ん……」


「シン?」



「ご飯できたわよ。いらっしゃい」女はシンとテパを呼んだ。


「わーい!」


「……」


テパは弾むように駆け寄り、シンは慎重に後に続いた。


「これ何ですか?」


「ポソレ【※1】よ」


(……ポソレ……?)


テパが興味深げに覗き込む横で、シンの警戒心はさらに強まる。


(これって普通、王様や神官様が食べるものだよな……)


「いただきまーす!」


「あぁテパ!」


止める間もなく、テパは食べ始めていた。よほど空腹だったのか、夢中で平らげ、さらにはお代わりまでした。


(僕らのような庶民が食べていいものじゃない。なのにどうして……)


シンは女に裏があるように思えて仕方なかった。だがテパがあまりに幸せそうに頬張るので、手を伸ばせずにいた。


(この顔……久しぶりに見たな)


今のところ、テパに異常は見られない。こっそり毒が盛られているかと疑っていたシンも、ポソレを静かに口に運んだ。


「……美味しい」


テパの表情に嘘偽りはなかった。肉や野菜の出汁が出ていて、疲れた体に染み渡る美味しさだった。シンはまさに”一杯食わされた”。


「ちょっと待ってて!」


テパはお代わり10杯分食べ終えると、急に椀を置いて立ち上がり、外へ出て行った。


「おいどこ行くんだ――」


シンが呼び止めようとした時には、テパの姿はなかった。様子を見ようと、シンが外へ出ようとすると――。


「もっとポソレくださーい!」


「あ……す、すみません……」


意気揚々と戻ってきたテパに続いて、チャアクが気まずそうに入ってきた。テパの手をよくよく見ると、ほんのり血が滲んでいる。


(おい何やってんだ……)


シンは頭を抱えるが、女はチャアクを前にしても全く動じず、微笑んで挨拶した。


「そのオセロトルも欲しいの?」


「はい!」


「熱いから気をつけてね」


女は平たい器にポソレを盛り、チャアクの口元に運ぶ。チャアクはふーふーと息をかけ、冷ましながら味わった。


「なかなか美味しいな。ポソレなんて滅多に食べられない。テパ、よかったな」


「はい!」


「シンだってポソレなんて食べたことないんじゃないか?」


「……ずっと昔に、一度だけな」


「そうか、ハハ」


「……ふん」


和やかな雰囲気に包まれる二人と一頭。女はその様子を嬉しそうに見ていた。

【※1】ポソレ…古代メソアメリカから続くメキシコの料理。トウモロコシと人肉を煮込んだスープで、高貴な身分の者だけが食べられる特別な料理だった。今日のメキシコでは、人肉の代わりに豚肉や鶏肉が使われている。

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