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血汐の群れる朝が来る前に  作者: Masa plus


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(第二十五話)偽りの贄

 川から遠く離れた町が、重くしんみりとした空気に包まれている。雨神トラロックに贄を捧げ、乾いた大地を潤してもらう為の祭りが執り行われようとしていたのだ。


「ぁぁぁ……」


全身に贄子の紋章を刻まれたテパが、怯えきった表情で神殿の前に立っている。


「さあ、行きなさい」


「……」


鉛を流し込まれたように重い足を、テパはどうにか前へ出した。


「早く」


女は片方の腕にティルマを持ち、背にはマクアウィトルを負っている。抵抗を防ぐ為、妖術でテパの体を硬直させてそれらを奪ったのだ。


(お父様……シン……)


心は必死に助けを求めているのに、足は一歩、また一歩と階段を上ってしまう。何をしたいのか、自分でもわからない。


「……ふう」


一方女は、これでようやく肩の荷が下りたとばかりに安堵した。


「これで……これであの子が助かるんだわ……」 


 

「おいお前、テパはどこに――」


ミチンを問い詰めようとした瞬間、シンは竜巻のような巨大な渦に呑み込まれた。


「っ!」


異様な速さの水流に翻弄され、上下も前後もわからなくなる。凄まじい水圧が全身を締めつけ、身体が押し潰されそうだった。


「あっ……!」


シンの手から小刀が滑り落ちた。そして激流に攫われ、遠くに広がる深淵へと消えていった。


(まずい……)


愕然としたその時、周囲の水が青から闇へと変わっていく。影は次第に濃さを増し、やがて水そのものを覆い尽くした。


「!?」


振り向いた先にそびえていたのは、水よりもなお黒い巨大な存在だった。逃げる間もなく、シンはその中へ呑み込まれていく。


「!!」


完全に視界が閉ざされる直前、シンは見た。自分の顔よりも大きく、ぎょろりと光る禍々しい二つの眼を――。


「ミチ……ン……」


 

 シンは漆黒の闇の中にいた。足元には妙な柔らかさがあり、生臭い匂いが空間を満たしていた。

 

「うっ……」


シンは思わず鼻と口を塞いだ。外気が入る場所はなく、こうでもしなければ匂いだけで気が遠くなりそうだった。


(あいつ……見た目だけじゃなくて、中までしっかり本物の魚とはな……)


シンが地面と思っていたのは舌、壁だと思っていたのは口腔だった。水が暗くなったのではなく、振り向いた瞬間に吸い込まれたのだ。


(どうにか口の中に留まったが……これでは外に出られない……)


どうしようかと、シンは咽ながら歩く。その内にいつのまにか、喉奥まで来てしまった。


(カン)


硬い音がシンの耳に入った。この柔らかい空間に不釣り合いなその音に、シンははっと息を呑む。


「……!」


小刀があった。失ったと思っていたが、運のいいことに、どうやらミチンが一緒に呑み込んでしまったようだ。


「神々よ、感謝いたします」


シンはそっと手を合わせ、静かに祈りを捧げる。そして――。


(ガッ、ガッ、ガッ、ガッ!!!)


匂いも感触も、雑念も全て忘れて、ただただ無心に周囲を刺した。


(ガッ、ガッ、ガッ、ガッ!!!)

 

シンの全身は、あっという間に血塗れになった。



(ぐわぁぁいだあぁぁぁいいい!!!)


あまりの激痛に、ミチンはのたうち回った。鰭がバシャバシャと水を叩き、岩が濡れ、水棲生物たちが驚いて跳ね上がった。


(わ、わっ、わっ!!)


痛くて痛くて堪らず、遂にミチンは口を開けた。シンはすかさず外に出た。


「食らえ!」

 

シンは小刀を握り、ミチンの体を一気に貫く。巨大な魚の姿は霧散し、水面は次第に静まっていった。その中から現れたのは、体中に紋章が浮かんだ、テパと同い年くらいの少年だった。


「観念しろ」


力尽きて顔も上げられない少年を、シンは淡々と手に封じ込める。その直後。


(……ボー……)


遠くから低い音が響き、シンの耳を震わせる。シンは悟った。もう時間がない。


「テパ……!」



 町の上空では雲が少し薄れ、恰も神が見下ろすかのような空模様になった。祭りは、まさにその状況下で行われていようとしていた。


(あ……あぁぁぁ……)


神殿の頂には、トラロックそっくりの姿になったテパが横たえられていた。言葉にならない恐怖に襲われる彼は、神官がまだ小刀を掲げていない今の瞬間さえ安心できない。


(これまで色々、一生懸命頑張ったのに、こんな形で終わるの?テパはやっぱり、何もできないの……?)


微かに動く雲、人の影、そして話し声。視界に映る全てが曖昧に揺れ、それらの区別がつかない。


「……」


目の前が急に暗くなり、人の影が視界を遮る。その手には、この曇天の下とは思えぬ程輝く、小刀の切っ先が――。


「!!!」


テパが死を覚悟した、その時だった。



「やめろー!!!!!」


重い空気を突如切り裂いた声に、観衆が、神官が、そして横たえられていたテパまでもが、一斉に目を向ける。手に小刀を携え、粗末な白無地の上に高貴さを漂わせる鮮やかな色彩のティルマを重ねて纏い、背に大きなマクアウィトルを背負う少年が現れたのだ。


「どけ!!」


少年は唖然とする大衆の間を抜け、ほぼ直角に立つ階段を一気に駆け上がる。


「シン!!」


テパは押さえつけられたまま、首だけ階段の方へ向けて叫んだ。このまま来ないのかと疑っていた仲間の名前を――。


「シン!シン!!」


テパが繰り返し名を呼ぶ頃には、シンは既に頂へ上っていた。テパが横たわっていてもわかるくらい力強く響いていた足音は、風のように消えた。


「神官様、その贄は偽物です」シンは息を切らしながらも、落ち着き払って言った。


「……何……?」


「本物はこちらです」


シンが手を翳すと、封じられていた少年が姿を現した。全身はテパよりもさらに複雑な紋章に覆われ、より神らしい雰囲気を醸し出している。


「……!」


横目でテパを見た神官が気づいた。テパの体から一切の紋章が消えていた。自分たちが横たえていたのは――最早ただの少年だ。


「これでおわかりになりましたね?」


「あ、あぁ……」


神官たちは何が起きているのかわからなかった。だがシンの冷たく鋭い眼差しに、自分たちが真に捧げるべきは、彼が連れてきた少年であることを悟った。


「……行きなさい」


神官はテパを解放し、代わりにシンが連れてきた少年を横たえた。


「では失礼します」


シンはテパの手を引き、階段をゆっくり降りていった。そのまま下に行って、儀式を見届けるつもりでいた――。


「……ううううぇぇぇぇぇんんん!!!」



「!?」


テパは思わず振り向いた。階段の中程まで降りてきたはずなのに、自分の真後ろで張り上げたのかと思うくらい、大きな声がした。


「……構うな」


シンが重い声で、目も合わせずに引き留める。テパは後ろ髪を引かれる思いで前に向き直った。


(……!!)


テパが下界に目を向けた時、ある人影を見てしまった。目を丸くする群衆の中に、たった一人、張り詰めた表情で静かに涙を流す者がいた。


(あの人……あの子のお母さんだ……)


テパの脚が止まる。シンが下りるよう促しても、彼は動かない。


(……)


言葉を失い立ち尽くすテパ。その時――。


「ううぇえええぇぇぇん!!!」突然、少年の目から大雨の如き涙が溢れた。 


「いつか……いつかトラロックを食い殺してやろうと思ったのにぃ……う、ぐぅっ、うぅえぇぇぇん!!!!!」 


テパの耳――否、天地を震わせる声が、広場一帯に轟いた。それはただの子どもの声ではなかった。神に最も近い者の、どこか畏怖を感じさせる不思議な声だった。


「な、何と無礼な……!」


神官は怒り、勢いでそのまま少年の胸を貫いた。鈍い雨雲の下、温い空気の中で、少年の声が途切れた。



 一連の流れを、密かに来ていたトラロックは興味深く見つめていた。


「変なの、偽物の贄なんて。しかもあんなこと最期に言っちゃってさ。でも本物が見つかったからいいや!」


少年の泣き声、捧げられた心臓、そして血が滴る少年の体。それらを見つめる程に、トラロックの体に力が漲る。


「これはお礼だよっ!」


トラロックが手を挙げると、掌に水が満ちる。それと共に、雲が一層厚くなった。


(ゴロゴロゴロ……)


遠くから雷鳴が轟いたかと思うと、瞬く間に雨が降った。



 テパは雨が降っても尚、下界を見つめたまま動かなかった。


(……)


下界の様子は何とも言えない異様なものだった。雨音に混じって歓喜の声も聞こえるが、そこはかとなく嗚咽も聞こえる。それは、贄となった少年の最期の声の残骸のようだった。


(……!)


テパは目を見開く。またしても、あの女の姿が目に入ったのだ。


「○▲◇――!!!」


女は膝をつき、声なき叫びをあげて泣き崩れた。その様子は誰の目にも入らなかった――ただ一人、テパを除いて。


(……)


ずぶ濡れになりながら、テパは尚も呆然と立っている。


「おい」シンがテパの手を引く。


「もう行くぞ。このままじゃ風邪ひく」


「……」


テパは無言でシンについて行く。暗い空の下、雨に濡れる群衆の中を、二人は誰にも気づかれずに通り過ぎた。


『○▲◇――!!!』


テパの脳裏に、女の姿が焼き付いて離れない。シンに手を引かれながらも、その心は上の空だった。

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