(第二十一話)冥界の陽気な案内役
金星が独り浮かぶ空の下。地底へ通じる円形の彫刻の前に、死者たちの霊魂が立ち尽くしていた。
「……」
冥界へ至る道は、どこにも見当たらない。どう進めばよいのか分からず、死者たちは途方に暮れていた。そこへ――。
「はーい、死者のみなさーん!」
「!?」
明るい声に一斉に振り向く死者。そこにいたのは、黄昏の闇をそのまま写し取ったような、茶褐色の犬だった。
「こいつ……喋ってる!?」
ざわめく死者たちをよそに、犬は至って落ち着いた様子で尻尾を振る。
(ゴゴゴゴゴ……)
低く、岩が擦れ合う音が響いた。死者たちが彫刻に目を向けると――。
「……嘘だろ!?」
いつの間にか彫刻の位置がずれ、その下に真っ暗な裂け目が口を開けていた。
「こっちだよ!ちゃんとついて来てね!」
犬は迷いなく闇へと足を踏み入れる。死者たちは恐怖を覚えながらも、その背を追った。
◆
「僕はショロトル。君たちを冥界ミクトランへ案内するよ!よろしくー!」
そう名乗るや否や、ショロトルは頭上に小さな火を灯した。闇に閉ざされていた空間が淡く照らされ、足元や岩肌の輪郭が浮かび上がる。
「おぉ……」死者たちは驚きつつも安堵する。
「さあ気を取り直して……わっ!?」
突然、一人の女の子がショロトルに抱きついた。
「ワンちゃん可愛いー!」
まるで自分の飼い犬に再会したかのように頬擦りする女の子。ショロトルは少し照れつつも、抵抗せずに受け入れた。
◆
ショロトルという心強い案内役が現れたと思った死者たち。だが冥界への道のりは想像以上に過酷だった。
「ひぃ……」
足を滑らせれば致命傷になりかねない岩だらけの道。遥か上方には、氷柱のように尖った天井が連なり、耳を塞いでも遠くから梟や蝙蝠の鳴き声が響いてくる。
「おい……何なんだよここは……」
ある男が不安を漏らす。他の者も気が気でないらしく、一様に顔を強張らせている。それでも、彼らは前に進まなければならなかった。
◆
しばらく進んだところで、ショロトルが足を止めた。
「待って!」
そこには怒涛の勢いで流れる濁流があった。流れが速いだけでなく、川幅も広い。会話さえ遮る轟音が、死者たちの鼓膜のみならず体まで震え上がらせる。
「これどうやって渡るんだよ……」死者たちは心配そうに顔を見合わせる。
「大丈夫!ちゃんと足場があるんだ。よーく見てね」
ショロトルはそう言って、濁流の中をひょいっ、ひょいっと、足取り軽く渡っていく。死者たちが目を凝らすと、濁流の中にほんの少し、岩が顔を出していた。
「ほらね、渡れるでしょ?」
向こう岸に渡っていたはずのショロトルが、いつの間にか戻ってきていた。
「ゆっくりでいいから、僕の後について来て!足元に気をつけてね!」
「あ、うん……」
死者たちは慎重に、その足取りをなぞる。全員が渡り切ろうとした、その瞬間――。
「きゃぁー!」
ショロトルがぎょっとして振り向くと、先程自分を抱いた女の子が足を取られ、濁流に吞み込まれていた。
◆
「わっ!」
ショロトルは濁流に飛び込み、女の子の方へ泳いでいく。犬搔きで、流れに翻弄されまいと必死だった。
「つかまって!」
伸ばした前足が、辛うじて女の子に届いた。そのまま身体で支え、歯を食いしばって流れを横切る。
「……あった!」
奇跡的に岩に辿り着いた。ショロトルはそこから一気に岸へ跳んだ。
「大丈夫?」
「大丈夫……ありがとう」
女の子の手は震えている。体力を消耗しているのが明らかだったが、意識はあり、歩けるようだ。周囲からはショロトルへの称賛の声が上がった。
◆
濁流を渡っても、冥界への険しい道はまだまだ続く。得体の知れない植物に覆われた道、頭上すれすれを飛ぶ梟――。暗闇が不安を掻き立て、死者たちを容赦なく追い詰める。
「うわぁ!」
「待ってて!」
遅れた者が一人でもいれば、ショロトルがすぐさま駆けつけて救った。ようやく青白い光が点々とし始めた頃、死者たちの悲鳴が聞こえた。
「痛い!痛い!」
どこからか大量の蝙蝠が現れ、死者に噛み付いていたのだ。ショロトルは心で舌を打つ。
(これ、また……)
蝙蝠を追い払った後、ショロトルは暗い天井に向けて叫んだ。
「おーい、隠れてないで出て来いよー!ツィナカン!」
◆
次の瞬間、凄まじい風圧が一行を襲った。
「よう、禿犬!」
暗黒の中から現れた、大きな膜の広がる翼を持つ男。彼こそが、ミクトランへの道中に棲む蝙蝠たちの王・ツィナカンだった。
「ここまで来たってことは、覚悟はできてるな?」
「はいはい、どうせまたあれでしょ?」
「わかってるじゃないか」
「わかってるも何も……毎回そっちから仕掛けてくるくせに……」
ショロトルとツィナカンの睨み合いを、死者たちは唖然としながら見つめている。
「よし、勝負だ!」
ツィナカンとショロトルの、一対一の戦いが始まった。
◆
当初は互角に戦っていたショロトルとツィナカン。だが途中で突然、ツィナカンが姿を消した。
(……来るな)
ショロトルがそう呟いた時だった。暗闇の中から、ツィナカンが急降下して突進してきた。
「ほいっ、と!」
ショロトルは身を翻し、ツィナカンの腰に噛みついた。
「ぎゃあああ覚えてろー!」
耳を劈く悲鳴をあげて、ツィナカンは手下と共に退却した。ショロトルは死者たちの無事を確認した後、溜息をついた。
「あいつ本当に懲りないな。これで何回目なんだよ……」
◆
一行が再び進んでいくと、道沿いに黄色い花が現れた。それも、一帯を照らす光のようにたくさん咲いている。
「これ……センポワルショチトル【※1】じゃないか」
「本当だ。何でここに?」
死者たちが不思議に思っていると、ショロトルが再び足を止めた。
「!」
「これは……」
「すっげぇ……」
死者たちは目に映る景色に圧倒された。青白い光に包まれた、禍々しくも荘厳な門。だが心なしか、自分たちを快く受け入れてくれるようにも見える。
「この先にミクトランがあるよ」
「通れるの?誰もいないけど……」
「扉を叩けばミクトランテクートリの使いが出るから、後はそいつに従って」
「……わかった」
「僕が案内できるのはここまで。じゃあね!」
ショロトルはひょいと跳んで、闇の中に消えていった。
◆
明けの明星が昇り、続いて太陽が昇った。その頃、シンとテパは森の中を歩いていた。
「シン……」テパが何かを気にして、左右をきょろきょろと見ている。
「何だか……水が少なくない?」
テパが見ていたのは、森に点在する池や川だった。これまで見てきたものに比べ、明らかに水位が下がっている。
「いつの間にこんなに減っちゃったの……?」
その言葉にシンは足を止め、空を仰いで呟いた。
「水を……雨を授け給う神が、贄を求めている――」
【※1】センポワルショチトル……ナワトル語でマリーゴールドを意味する。現代のメキシコでは死者の日を象徴する花として知られる。




