(第二十話)朝の静寂に捧げる贄
歩いてきたのは神官だった。してその背後では、青年に倒されて気を失っていた市民たちが、ぞろぞろと意識を取り戻していた。壁が崩れた競技場を目にし、誰もが言葉を失っている。
「神官様、こいつが贄です」シンが淡々と告げる。
「え、えぇ……?」
「早くショロトルに捧げてください。時間がありません」
「で、でも……確かに祭りは近いが、さすがに今日するのは……」
「放せ!!!!!」
青年は激しく暴れ、縄をちぎろうとしている。このままでは拘束が持たない。
「……うむ。神殿まで引き上げる余裕はないな。やむを得ん。この場で儀式を行う」
市民の間にざわめきが走る。本来なら神殿の頂で行われるはずの儀式を、よりにもよって地べたで行うというのだ。前代未聞の事態に、誰もが耳を疑った。
「陛下」
神官が振り返ると、王は無言で頷いた。
「では、これより始めるとする」
神官の周りで、数人の屈強な男が集まり、青年をがっちり押さえる。青年もついに観念したのか、抵抗は次第に弱まっていった。
「おいお前……!」
青年は顔を横に向け、憎悪で瞼を目一杯に開けてシンを睨む。その目は酷く血走っていて、先程までの姿――セワリの赤い目宛らだった。
「これでいい気になるな!お前の血がいつか、必ず……!」
(グサッ)
朝の静けさに、小刀が肉を断つ音だけが長く響いた。
◆
町はしめやかな雰囲気に包まれる。
「ショロトルが我々の魂を導かんことを……」
神官は祈りを捧げた後、礼を言おうとシンを探す。だが彼はどこにもいない。風に紛れるように、跡形もなく姿を消してしまっていた。
「……」
◆
村外れの湖のほとりで、シンとテパ、そしてチャアクが足を休めている。
「これであの町もしばらく安泰だろう。競技場も多少は壊れたが、すぐ修復されるはずだ」
「……シン……」
「ん?」
「あの人……最後に何か言いたそうだったよね……?」
「それがどうした」
「……聞かなくてよかったの?」
「そんな余裕なかっただろ」
「で、でも……」
「い い ん だ!!」
突然の剣幕に、テパはびくりと肩を揺らした。恐ろしかったのは、声よりも――その目だ。
『これでいい気になるな!お前の血がいつか、必ず……!』
(どうして……?シンの目、あの時のセワリに、すごく似てる……)
「これ以上僕のやり方に口出しするなら……」
「まあ、まあ……」チャアクが慌てて割って入る。
「テパは驚いただけだ。なぁ、テパ?」
「……お父様……」
「そろそろお暇させてもらおう。呼びたくなったらまた呼んでくれ」
どこか遠くを見るような眼差しを残して、チャアクは姿を消した。それから程なく、シンとテパも湖を去った。
◆
夕暮れ。シンとテパが去った湖に、一つの影が腰を下ろしている。――ショロトルだ。
「はぁ……」
溜息と共に揺れる水面。そこには自分の贄となった青年の影が浮かんでいる。
「この命は、大事にするね」
かすかな罪悪感を抱えながら、ショロトルはそっと呟き、水面をじっと見つめる。
「!」
ぽつりと黄色い光が落ちていた。ふとショロトルが見上げた空には、宵の明星が孤高の輝きを放っている。
「ふう……さーて、そろそろ行くか!」
ショロトルは茶褐色の犬の姿に変身し、どこかへと軽やかに去った。




