(第十五話)シンの腕輪
「あのようにウィツィロポチトリに強く言われても、私が人間を軽んじているなどと、とても信じられなかった……」
神殿撫でる夕暮れの風に溶ける声。ケツァルコアトルは冷え行く頂に立ち、過ぎ去った日々を思い返す。
「だが、あいつに導かれた人間はその後、我が家族の家を二つも構える巨大都市をつくった。その繁栄ぶりはトゥラ国が遠く及ばぬものだった……」
またも温い風が吹く。
「それを見て私は決めたのだ。人間に国を任せるべきだと――」
その日の夜、トゥラ国は騒然としていた。
「そんな、陛下……」
「いくら我々に国を任せたいからって……」
「其方たちの私を思う気持ちはわかる。だがもう決めたのだ」
「どこへ行くおつもりですか?」
「当てはない」
「では、いつここへ……」
「この世が滅びの危機に陥った時、私は必ず戻ってくる。其方たちを守る為に」
トピルツィンは背を向け、夕闇の中へと消えていった。静まり返るトゥラ国には、王が一歩一歩と進む足音だけが響いていた。
「あの日の、焦燥し切った民の顔が、忘れられない……」
日々地上を見守る中で、滅多に思い返すことのない記憶。ケツァルコアトルの顔は、すっかり日が沈んだ空のように暗くなった。
「あの決断に後悔はない。その後、トゥラの民は自ら国を繁栄させた。あの頃よりはだいぶ落ち着いてはいるが、トゥラは今でも遠くの地で維持されている」
間。
「でも、思い返す度、どこか寂しさを感じるんだ……」
「兄上」
「!」
ケツァルコアトルが振り返ると、そこには彼の双子の弟にして死者を冥界へ導く神・ショロトルが立っていた。その目は明るいが、どこか淡い憂いが宿っている。
「ショロトル……」
暗闇に紛れていた、褐色の肌の青年。明るみに入って見えてきたその姿は、肌色を除けば、顔も服装も兄に瓜二つである。
「もうすぐ、人間がお前に贄を捧げる日が来る」
「ええ」
「贄によって、私や家族の命が続いていることは承知している。でも思うんだ……」
「……」
「贄となる人間も、誰かの大切な家族だったはずだ。それを血に染めて奪うのは、本当に正しいのだろうか」
「兄上……」ショロトルは心配そうに兄の顔を見つめる。
「僕も、贄を取るのが正しいとは思えません。でも、命を繋ぐ術がそれしかないというなら、僕たちは人間に対して責任を取るべきではないでしょうか。少なくとも、贄を食い潰して終わりということだけは、あってはいけないと思います」
「……そうかもな」ケツァルコアトルはほんの少しだけ微笑んだ。
(フウゥ……)
二人の間にそよ風が抜ける。気がつけば太陽は遠くの空に沈み、その後を追うように宵の明星が姿を見せた。
「兄上、そろそろ行ってきます」
「ああ。くれぐれも気をつけるんだよ」
ショロトルはその場を去り、闇へと消えていった。
ケツァルコアトルは再び下界を見つめる。
「……」
暗くなっていく町に、一つ、また一つと明かりが点いていく。
「この明かり……まるで儚い人間の命そのもののようだ……」
明かりがそっと風に揺らめいて、夜に咲くトウモロコシの群れのようだった。
「やがてはこの明かりも消える。そして朝が来る……」ケツァルコアトルは小さく息を吐く。
「いつからだろう。明日が来るということに、そこはかとない不安を覚えるようになったのは……」
ケツァルコアトルはそっと目を閉じた。明星はとうに消え、月が夜空を照らしていた。
翌朝、シンとテパは荒野を歩いていた。
「ねぇ、シン……」
「ん?」
「その腕輪にあるの、一体何なの?ずっと気になってたんだけど……」
「これはケツァリツリピョリトリ【※1】だ」
シンの腕を巻く輪に、赤々と輝く宝石。それはまるで、太陽の光を落としこんだかのような力強さを窺わせる。
「ケツァ……うわぁぁ舌を噛みそう」
「これは大事なものなんだ。お前のティルマみたいな力がある訳じゃないが」
「それって……誰かに貰ったの?」
「……」
シンは黙ってしまった。テパと合わせていた目も急に逸らして、ただただ歩いている。
(聞いちゃいけないこと、だったのかな……)
気まずい思いを抱えながら、テパはシンの後について行った。
【※1】ケツァリツリピョリトリ……ナワトル語で「楽園の鳥の石」を意味する。ファイアオパールのこと。




