生命の水
◇一
いやはや、これはまことに奇怪千万な話でありまして、私がこの眼で見、この耳で聞いた出来事でなければ、到底信じることのできない摩訶不思議な体験なのであります。
事の起こりは昨年の夏、私が故郷の信州へ帰省した折のことでございました。生家は山間の小さな集落にありまして、清冽な湧水で知られた土地柄でございます。その水は古来より「生命の水」と呼ばれ、飲めば百歳まで生きられるという言い伝えがございました。
ところが、私が幼少の頃より親しんだその湧水が、この度の帰省で様子の一変しているのに気がついたのであります。水の色こそ変わらぬものの、どことなく濁ったような、重いような感じがいたします。そして何より奇妙なことには、その水を見つめておりますと、まるで水面の下から何かが私を見返しているような、そんな不気味な感覚に襲われるのでございました。
◇二
村の古老に尋ねてみますと、実に興味深い話を聞かせてくれました。
「その湧水はのう、昔から不思議な力を持っておった。ただし、それは良い力ばかりではなかったのじゃ」
古老の話によりますと、江戸の昔、この村に一人の美しい娘がおりました。名を「みずき」と申します。この娘、生まれついての霊感の持ち主で、水を見つめるだけで人の心の奥底を読み取ることができたといいます。
「みずきは毎日その湧水のほとりで、村人たちの悩みを聞いてやっておった。水に映る人の心を読み、的確な助言を与えてくれたのじゃ」
みずきには許婚がおりました。幼馴染の「たけし」という男で、江戸へ出稼ぎに出ておりました。みずきは彼の帰りを心待ちにしており、二人の仲は村でも評判の美しいものでございました。
ところが、ある日のこと。みずきがいつものように湧水を覗き込んでいると、遠く江戸にいるはずの たけし の心が水面に映ったのです。そこに映し出されたのは...他の女と戯れる たけし の姿でした。しかも、その女に「故郷の娘など忘れた」と囁いている場面まで見えてしまったのです。
「みずきは三日三晩泣き続けた。そして『この忌まわしい能力さえなければ』と嘆いておった」
そんな折、一人の旅の商人がやって来て、みずきの能力に目をつけました。心を読み尽くして絶望している みずき に、商人は甘い言葉をかけて都へ連れて行こうと企んだのであります。
「みずきは断ったが、商人は『どうせ男に裏切られた身ではないか』と執拗に迫った。その時じゃ...」
◇ 三
古老の顔が急に青ざめました。
「みずきは湧水の中に身を投げたのじゃ。『私は水と共に生き、水と共に死ぬ』と言い残してな。それ以来、この水には みずきの魂が宿っておると言われておる」
私は背筋に寒いものを感じました。そして、その夜のことでございます。
月明かりに誘われて、ふらりと湧水のほとりへ足を向けました。静寂に包まれた水面を覗き込んだその時、私は息を呑みました。水面に映っているのは私の顔ではなく、美しい女性の顔だったのです。
「あなたは...何をお求めですか」
水の中から声が聞こえてきました。いえ、聞こえたというより、直接心に響いてきたと言った方が正確でしょう。
「私は何も...」と答えかけた時、その女性の顔が悲しそうに歪みました。
「嘘です。あなたの心に秘められた欲望が見えます。お金、地位、名声...そして、愛する人への執着。水は全てを映し出すのです」
◇ 四
私は慄然といたしました。確かに、その時の私は仕事の行き詰まりに悩み、恋人との関係にも不安を抱いていたのです。まさに、その通りのことを抱えておりました。
「でも...」女性の声が続きます。「それらの欲望が、あなたを真に幸せにするでしょうか」
不思議なことに、水面の女性は私の心の奥底を見透かしているだけでなく、私自身も気づかなかった本当の想いを教えてくれるのです。金銭欲も、出世欲も、実は心の空虚さを埋めようとする代償行為に過ぎないこと。本当に求めているのは、ただ静かに生きることのできる平安な心だったということを。
「水になりなさい」
女性の声が囁きます。
「水のように、全てを受け入れ、全てを流し、全てと一つになるのです」
その瞬間、私は自分が水の中に引き込まれていくような感覚に襲われました。いえ、物理的にではありません。精神が、意識が、まるで水に溶け込んでいくような...
◇ 五
気がつくと、私は湧水のほとりで倒れておりました。夜が明けかけており、村人たちが心配そうに覗き込んでおります。
「大丈夫ですか?夜中に大きな声を出しておられたようですが」
私は慌てて起き上がりました。覚えているのは、水面の美しい女性と話をしていたことだけ。しかし、妙なことに、心は不思議なほど軽やかでした。昨日まで悩んでいた諸々のことが、まるで夢の中の出来事のように思えるのです。
帰京してからも、その感覚は続きました。仕事への執着、恋人への束縛的な愛情、将来への不安...それらが水に流されたように消え去っていたのです。
ところが、です。
それから一週間ほど経った頃から、奇妙なことが起こり始めました。蛇口をひねるたびに、あの女性の声が聞こえてくるのです。風呂に入れば湯船から、雨の日には窓ガラスを流れる雨粒から...
「まだ足りません」
その声は言います。
「まだ、あなたの心は濁っている。もっと、もっと水になりなさい」
◇ 六
私は恐ろしくなりました。しかし、同時に不思議な魅力を感じてもいたのです。水の声に従えば従うほど、心は軽やかになり、世俗の悩みから解放されていく。それは確かに心地よいものでした。
けれども、ある日、鏡に映った自分の顔を見て愕然といたしました。顔色が異様に青白く、瞳が水のように透明になっているではありませんか。そして、じっと見つめていると、自分の顔の中に、あの美しい女性の顔が重なって見えるのです。
「そうです」
鏡から声が聞こえました。
「あなたはもうすぐ私と同じになる。水となって、永遠にこの世界の苦しみから解放される」
私は震え上がりました。そして、ようやく理解したのです。あの湧水の みずき は、自分と同じように苦しんでいる人間を水の世界へ誘い込み、同じ運命を辿らせようとしているのだと。
それは慈悲なのか、それとも呪いなのか。
今でも、私にはわかりません。ただ、確かなことは一つ。この話をここまで書き記している間にも、原稿用紙の上に一滴、また一滴と、涙とも汗ともつかぬ透明な水滴が落ちているということなのであります。
そして、その水滴の中に、微かに美しい女性の顔が映っているような気がしてならないのです...
【完】
読者諸賢には、この奇怪なる物語を最後までお読みいただき、心より御礼申し上げます。
水は生命の源であると同時に、全てを洗い流す浄化の象徴でもございます。
しかしながら、果たして みずき は本当に浄化を求めていたのか。もしかすると、水に宿った彼女の魂は、いまだ男の愛を求めて彷徨っているのかもしれません。
この駄作が読者諸賢の心に何がしかの波紋を投じれば、作者としてこれに過ぎる幸せはございません。
なお、この物語をお読みになった後、水面を覗き込まれる際には、くれぐれもご注意のほどを...
令和6年8月17日 作者