静かな部屋
日曜日。午後三時。
あの日と同じカフェに、私はいた。
壁際のアンティーク調の席。かすかに流れるジャズ。深煎りのホットミルク。
けれど、今日は、奈緒がいない。
もう、何度目になるだろう。
この席で、彼女が原稿の束を差し出すのを待ち続けている。
「……来ない、か」
つぶやいても、返事はなかった。
彼女が最後に姿を見せたのは、ちょうどひと月前だった。
「これが、新作。読んでみて」
そう言って、差し出された紙束の一番上に、こう書かれていた。
『これは、静かな部屋の話』
私はその夜、読み終えて、眠れなかった。
物語の中に現れた私にそっくりの女性。彼女が語るアパートの話。
音だけが残る部屋、順番に呼ばれる人々。
そして、最後に姿を消した主人公、加賀見悠。
けれど読み終わったとき、私はふと、あることに気づいた。
この原稿には、奈緒の名前が、どこにもなかったのだ。
作中のどの登場人物も、彼女と呼べる確信がない。
加賀見が訪れたアパートも、彼が話した「下の階の女」も、全てが輪郭のない誰かで、奈緒そのものではなかった。
でも、それなのに、私は確かに思った。
これは彼女の話だ、と。
なぜなら、あの原稿には、奈緒の息づかいがあった。
彼女が紅茶を飲みながら微笑むときの、あの不思議な距離感。
「何が本当かなんて、誰も知らないじゃん」
と言っていたあの声。
すべてが、紙の上に焼きついていた。
それから数日後、彼女は連絡に応じなくなった。
SNSの更新も止まり、家にもいなかった。
そして、彼女が最後に投稿した短いブログが、私の記憶に刺さっている。
これは、静かな部屋の話。
もしも続きを読んでしまったら、ごめんなさい。
あなたは、私の代わりかもしれないから。
(私が、代わり?)
私は自分のノートを開き、あの日のことを書き始めた。
彼女の笑顔、カフェの匂い、手書きの原稿、そして「今回のこの話、実はうちのアパートの話なの」と笑ったあの瞬間。
けれど、書きながら、私はあることに気づいた。
奈緒と話していた時間の細部が、思い出せないのだ。
彼女が座っていた椅子の音、彼女が飲んでいた紅茶の匂い、ページをめくる指先、声の高さ。
それらが、まるで誰か他人の記憶のように、滲んで曖昧になっていく。
(私は、ほんとうに彼女に会っていたんだろうか)
ふと、カフェの天井から、「コツン」と何かが落ちる音がした。
私は天井を見上げる。二階など、あるはずがないのに。
そのとき、目の前の席に、誰かが座ったような気配がした。
見なくても分かる。
白いブラウス。長い髪。少し悪戯っぽい笑み。
奈緒が、そこにいる気がした。
「ねえ、『静かな部屋』って、怖かった?」
私は答えられなかった。
なぜなら今、自分が話している相手が、誰なのか分からなくなっていたから。
ページの上に、文字が浮かび上がっていた。
『これは、静かな部屋の話』
私はゆっくりと、その原稿に目を落とした。
確かに、それは奈緒の筆跡だった。
けれど、筆跡の中に、自分の字が混ざっていた。
もしかしたら、私はずっと前から、彼女の代わりだったのかもしれない。
ずっと誰かの原稿の中で、話を読んで、繰り返して、その終わりを、誰かに伝える係だったのかもしれない。
だから、今もここで読んでいる。
『これは、静かな部屋の話』
音がする。天井の上。誰もいないはずの、あの空間から。
奈緒の声がする。
私の声でもある。
「次は、誰?」