その部屋にいるもの
押し入れに飛び込んだ加賀見悠の視界は、一瞬にして深く、厚く、静かな闇に覆われた。
どこにも光はなかった。閉じたはずの戸の隙間からも、光の筋ひとつ差し込まない。それはまるで、目を閉じているのではなく、「目を閉じたという感覚すら消えてしまった」ような暗闇だった。
そして、耳元に、ざわっと、小さな、けれど無数の声が、膜の裏側で震えているような気配がした。
耳鳴り? 違う。これは囁きだ。はっきりとは聞き取れないが、確かに人の声。いや、人と言えるのかどうかもわからない。
(ここは……どこだ?)
加賀見は膝を抱えるようにうずくまった。壁に手をついて位置を確かめようとしたが、そこにあるはずの壁板は、濡れていた。
(なんだ、これ……?)
手のひらに伝わるのは、水分と……ぬるりとした何かの感触。木ではなかった。土? いや、皮膚だ。人の肌のように柔らかく、呼吸を含んでいるような、生きたものの感触。
恐怖が、静かに、だが確実に肺を締めつけてくる。
そのとき、
「……見つけた」
耳元で、誰かの声が囁いた。
加賀見は咄嗟に身を起こしたが、どちらが上で下かもわからない。暗闇が視界を奪い、音が方向感覚を狂わせる。
遠くで、何かが歩く音がする。
それは床を踏みしめる音ではなかった。重さがない。まるで空気を這いずるような、気配だけが歩いていた。
それでも、確かに「こちらに近づいてくる」と感じた。
(やばい……ここにいては……)
だが、身体が動かなかった。何かに足首を掴まれていた。
いや、違う。掴まれていたのではない。
足首から、何かが身体の中に入り込もうとしていた。
骨の隙間、血管の奥、神経の網目のようなところに、ぬめるものが、するすると滑り込み、感覚を支配し始める。冷たい。重い。そして、懐かしい。
(懐かしい?)
その瞬間、闇の中に映像が浮かび上がった。
小さな子どもだった頃の自分。
雨の日に、母親の背中を見ていた記憶。
誰にも言えなかった、ある罪。
ずっと忘れたつもりでいた、ある名前。
「ようこそ」
声がした。
次の瞬間、暗闇が破れ、景色が現れた。
それは、畳敷きの六畳間だった。
天井が低く、窓もない。壁には無数の手形が付いていた。赤黒く、時には深く爪で削られた跡すら見える。それが、床から天井まで幾層にも重なり、まるで生き物の皮膚のように蠢いていた。
部屋の中央には、一枚の扉があった。
プレートには「201」と書かれている。
(……ここが、あの部屋?)
加賀見は恐る恐る近づいた。だが、扉に手をかけようとした瞬間、背後に、誰かが立っていた。
振り返る。
そこには、奈緒がいた。
カフェで見たときと同じ服装。優しげな顔。けれど、その目は空っぽだった。
「奈緒……?」
彼女は何も言わない。ただ、じっと加賀見を見つめている。
その視線が、重い。
感情がなく、光もなく、ただそこにいるという事実だけが、見る者の精神を削っていくようだった。
「どうしてここに?」
加賀見が問うと、奈緒はゆっくりと口を開いた。
「書いたんだよ、この部屋のこと。私が。ずっと前に」
「……小説の……あれは、フィクションだっただろ?」
「違う。あれは、最初の記録だったの。書いた瞬間から、誰かが読んだ瞬間から、静かな部屋は広がっていく。読んだ人の中に、書かれた人の中に。形を変えて。順番に」
彼女の背後で、壁の手形がひとつ、ゆっくりと動いた。
まるで、こちらを見ているようだった。
加賀見の足元から、黒い影がゆっくりと這い出してくる。それは人の形をしていた。だが、顔がない。
いや、あった。
だが、それは自分の顔だった。
鏡のように。ゆがみ、溶け、そして笑っていた。
「……順番だよね?」
加賀見の口から、その声が発された。
目の前の影と、自分の声が一致していた。
「……やめろ……やめろ……俺は、まだ……!」
「もう、帰れないんだよ。あなたは見た。入った。それだけで、ここに残る」
奈緒が静かに言った。
「次の人が来るまで、音を鳴らして、ドアを叩いて、待つの。次の順番が来るまで。あなたの番は、これから」
加賀見は、全身の力が抜けていくのを感じた。
この空間に、意思があった。
いや、「順序」しか存在しない空間。
ここは、静かな部屋。
外の世界とは切り離された、名前もない、出入口もない構造体。
そして今、彼はその一部になる。
(……ならば、せめて)
加賀見は座り込むと、床に落ちていたノートを拾った。
そこには、滲んだインクで誰かの記録が残されていた。
最後のページに、自分の手で、こう書き加える。
2025年7月30日
ノックがする。
壁の中から声がする。
誰かが歩いている。
でも、何も起きていない。だから、大丈夫だ。
これは、静かな部屋の話。
そして彼は、扉の前に座り、壁をノックした。
コン……コン……
「待ってるよ」
自分と同じ顔をした何かが、そっと笑った。
世界は、再び、静けさに満ちていく。