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出られない場所

 奈緒の言葉に、加賀見悠は決意した。

 逃げる。

 この部屋に、これ以上いたらいけない。

「冗談じゃない……俺は帰る。俺には、俺の生活がある。仕事も、家族も、友人も……」

 言い聞かせるように言葉を重ねながら、玄関へと駆け出した。

 奈緒は何も言わなかった。まるで、初めから結果を知っている者のように、静かに背中を見送っていた。

 加賀見はドアの鍵を外し、勢いよく開いた。

 外の世界はいつもと変わらずにあった。

 共用廊下。夕暮れの光。アパートの鉄製の階段。

 一見すると、すべては「現実のまま」だった。

(なんだよ、やっぱり……見えない誰かが部屋に入ってくるなんて、ただの妄想だったんじゃないか)

 そう思いながら、彼はエントランスの階段を降りる。

 一段、また一段。コンクリートの感触。コンクリートのにおい。

 違和感はその静けさだった。

 まるで、音だけが抜き取られた世界に迷い込んだように、周囲には風の音も、小鳥のさえずりも、車の通過音すらなかった。

 そして彼が完全にアパートの外に出たとき、それは決定的になる。

 世界が、止まっていた。

 木々は動かない。雲は空に貼り付いたまま。

 電線に留まったカラスが、ピクリとも動かず、時間が流れていないかのようだった。

「……なんだ、これ……」

 加賀見は呟いた。

 そのとき、視界の端に誰かが立っているのが見えた。

 アパートの門のそば。薄暗い夕日を背に、まるで加賀見を待っていたかのように。

(……あれ……)

 近づくにつれて、違和感が増す。

 その男は、自分と同じ服を着ていた。

 黒いジャケット。デニム。スニーカー。髪型も、肩の形も、体格も。

 完全に自分と一致していた。

 「……おい」

 加賀見が声をかける。

 そのもう一人の自分が、ゆっくりと振り向いた。

 その男には顔がなかった。

 目も、鼻も、口もない。皮膚の表面が、のっぺらぼうのように滑らかに覆っている。

 「っ……」

 加賀見は、反射的に一歩下がった。

 その瞬間、それの顔が裂けた。

 口の形が、真横にスッと開かれた。まるで皮膚を無理やり切り裂いたように。

 そして、自分の声で、囁くように言った。

 「……順番、だよね?」

 ――順番。

 その言葉が加賀見の中で何かを貫いた。

 彼は踵を返し、アパートへと駆け戻った。

 さっきまでいた奈緒の部屋の前へ戻ると、必死にドアを叩く。

 あっけなくドアは開いた。奈緒は静かにそこにいた。まるで彼が戻ってくるのを知っていたかのように。

「見たんですね」

 奈緒は淡々と言った。

 加賀見は肩で息をしながら、ドアの奥へと転がり込むように入った。

「なんなんだ……あれは……外にいたのは……俺じゃない……!」

「ええ、そう。あなたじゃないけど、あなたでもある。前のあなたです」

「意味が分からない」

「静かな部屋は、構造なんです。出口のない構造。ここは建物じゃない。順番に人を変えていく場所。音を残しながら、記憶を喰らいながら」

「じゃあ、俺は……」

「あなたはもう、この部屋の一部になりかけてる。外に出て、前の自分を見てしまったから。もう戻れません」

 加賀見は唇を震わせた。

「そんな馬鹿な……だったら、どうすればよかったっていうんだ……?」

 奈緒は静かに答えた。

「誰にも見つからずに、誰にも干渉せずに、静かに暮らせばよかった。それだけです。でも、あなたは知ろうとした。音の意味を、部屋の意味を」

 彼の足元で、何かが軋んだ。

 見ると、床が膨らんでいた。

 畳の下から、何かが這い上がってこようとしている。

 ――ドン、ドン、ドン。

 再び、壁が叩かれる。

 奈緒が押し入れを指差した。

「逃げるなら、今しかありません。私はここで見送ります」

 加賀見は、迷う時間さえ奪われていた。

 音が、壁から、床から、天井から、部屋全体を包んでいく。

 そして、あの音が戻ってくる。

 コン……コン…… 

 ノックの音。

 だが今度は、壁の内側からだった。

「この部屋、上下だけじゃない。内と外の境も、曖昧なんです」

 奈緒の声が遠くなる。

「次は、あなたが音を鳴らす番。次の誰かが来るまで、ここにいてください」

 加賀見は走った。

 押し入れへと、真っ暗な空間へと。


 その瞬間、部屋が反転した。

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