扉の向こう
音が、止んだ。
玄関の前に立つ森下奈緒の指先が、扉の取っ手にかけられたまま、じっと動かない。
さっきまで続いていた、あの天井からの規則的なノック音も、壁の軋みも、何もかもが唐突に終わっていた。
完全な静寂が部屋を支配していた。
加賀見悠は、息を殺してその場に立ち尽くしていた。耳の奥が痛いほど澄んでいる。自分の心臓の鼓動が、まるで太鼓のように響いている。
「……止まりましたね」
奈緒が、ぽつりと呟く。その声さえ、異物のように聞こえた。
「出ない方がいいんじゃないか?」
加賀見は声を絞り出すように言った。
「止まったってことは、もうそこにはいないってことじゃ……」
奈緒はゆっくりと首を横に振った。静かに、ためらいもなく。
「違います。入ってきたんです」
その言葉の意味を、理解するのに数秒かかった。
加賀見は反射的に背後を振り返った。部屋の中には誰もいない。だが、何かが変わっていた。いや、変わったような気がするだけかもしれない。
しかし、違和感だけは、確実にそこにあった。
「部屋の中に……入ってきたって……」
「そういう時があるんです。外に気配があって、ノックが続いて……ある瞬間に、音が止む。そして……部屋に入ってくる」
「じゃあ、今、ここに……」
奈緒は頷いた。
「気配、感じませんか? ほら、そこ……」
彼女が指差したのは、加賀見のすぐ後ろ、窓際の隅。カーテンの影。
目を向けた瞬間、何かが動いた……ように見えた。
だがそこには、ただ白いカーテンが揺れているだけ。風もないのに、カーテンだけが、ゆっくりと、まるで何かが通り抜けたように膨らんで、戻った。
加賀見は凍りついた。
奈緒の声が、低く、淡々と続けられる。
「上の部屋の人って呼んでるけど、本当は、名前もないんです。形もない。人間じゃない。……ただ、部屋にいるだけ」
「そんなの、いるわけが……」
言いかけた瞬間、ふいに部屋の空気が冷え込んだ。
温度が物理的に下がったような感覚が、皮膚にまとわりつく。
「……感じましたね?」
奈緒が、にっこりと微笑む。
「ここにいるときは、部屋が静かになるんです。誰も声を出せなくなる。何かが音を吸い込んでるみたいに。怖くても、声を出したら、見つかってしまう」
加賀見はごくりと唾を飲み込んだ。舌が張り付き、喉が乾いている。だが、彼女の言葉の意味が、肌でわかる。
今、声を出したら、取り返しのつかないことが起きる。
――ドン。
突然、壁の奥から重い衝撃音が響いた。
まるで何かがそこに落ちたような音。天井でも壁でもなく、部屋の中のどこかで響いたのだ。
奈緒は、無表情のまま、押し入れの襖へと歩み寄る。そして静かにそれを開けた。
中には、畳まれた布団と、古びた毛布、そして奥に、小さな空間があった。
「ここ、逃げ込むなら、ここしかないんです」
加賀見はその空間を見た瞬間、身体が拒否反応を示した。
ただの収納スペース。でも、そこには、何かが吸い込まれていった痕跡のような暗さがあった。
「前の住人がここに逃げて、しばらく無事だったんです。でも……最後は、おかしくなった。あなたも見たでしょ? 昨日階段の下に正座してた彼」
「じゃあ、俺にここに入れって……?」
奈緒はうっすらと首を傾けた。
「選べますよ。逃げるか、見届けるか」
その瞬間、加賀見は選ばされていると直感した。
ここは、逃げ場ではなく、選別の場だ。
天井から、ゆっくりと音が戻ってくる。
ミシ……ミシ……コツ……コツ……
奈緒が言った。
「この音が近づいてきたら、今度はあなたの番です」
加賀見は、部屋の隅に立ち尽くしながら、自身の存在が観察されていることを初めて意識した。
まるで、誰かが、何かが、そこにいて、彼の「選択」を待っている。
そして気づいた。
「上の部屋の人」は、訪れるのではない。
「上の部屋の人」は、選ばせるために来るのだ。
部屋が、また一段と静かになる。
まるで、鼓膜の内側を真空で覆われたような圧迫感。
そして、部屋の中心、何もない床に、うっすらと人の影が浮かび上がった。
それは、誰のものでもなかった。
光源もないのに、そこに影だけがあった。
加賀見の背筋に、氷のような汗が流れた。
奈緒が、押し入れを指差す。
「決めてください。あなたは、まだ、見えていない。でも、もうすぐですから」