不在の住人
そのアパートは、地図に記されているにも関わらず、まるで誰にも記憶されていない場所のように、異様に静かだった。
加賀見悠は、駅からバスで十五分ほどの住宅街を抜けた先にぽつんと立つ木造アパートの前に立っていた。
午後三時すぎ。曇った空から落ちてくる光は、乾いているのに湿っていた。肌にじっとりとまとわりつく空気。耳の奥が詰まるような、閉じられた世界の感触。
「やっぱり、ここか」
低くつぶやきながら、彼はスマホを取り出し、カメラを起動した。
二階の角部屋──201号室。
その部屋のベランダには、白いシャツと無地のワンピースが干されていた。風もないのに、シャツの袖がゆっくりと揺れる。
誰かが、そこに「日常」を装って住んでいるかのように見えた。
だが、加賀見は知っている。
管理会社に問い合わせたとき、はっきりと「現在は空室です」と言われた。
それなのに、なぜ。
彼は、スマホのメモアプリに日付と時刻、洗濯物の種類を打ち込み、アパートのエントランスへと足を踏み入れた。
廊下の床は、踏むたびにわずかに沈む。古びた木材の軋む音が、足音に混ざって響く。空気は澱んでおり、鼻の奥に残るのは、湿気と埃と、どこかで長く放置された水の匂いだった。
ゆっくりと階段を上がり、201号室の前に立つ。
扉は木製で、金属の取っ手がところどころ錆びていた。塗装が剥げた部分から、手のひらほどの白い下地がのぞいている。
コン、コン
軽くノックする。
……沈黙。
耳を当てても、何の物音も返ってこない。
扉の向こうは、空っぽの空間のように、音すら存在しない。
けれど、加賀見の皮膚がほんのわずかにざわついた。
音がないこと自体が、異常なのだと、彼の身体が理解していた。
彼は一歩引き、鞄から小さな書類の束を取り出した。
管理会社からのFAX。全室の居住者一覧。
201号室──空室
101号室──森下奈緒
この名前。昨日話をしたあの女性の名前だった。森下も奈緒も一般的によくある名前だ。
だが、加賀見は彼女がブログの短編小説の作者で間違いない感じていた。
加賀見がこのアパートを初めて訪れたのは、昨日のことだった。
気さくで物静かな口調。黒髪を肩に垂らしたその女性は、彼の質問にも落ち着いて応じてくれた。
「音……ああ、叫び声、聞こえますよ。あと、夜中の足音。たまに壁を叩く音もします」
彼女はそれを、「ただの音ですけど」と言って笑った。
まるで、自分が何を言っているのか、自覚がないかのようだった。
201号室の中から物音がした。
コトリ……
落ちたのは、何か軽い物。茶碗か、フォークのような音だった。
加賀見は、確かに聞いた。
呼吸がわずかに浅くなり、冷たい汗が背中を伝う。
だが、恐怖よりも、好奇心の方がわずかに勝っていた。
彼はノブに手をかけた。施錠されていることは分かっていたが、軽く力を込めると、やはりドアは開かなかった。
仕方なく身を引き、階段へと戻ろうとしたそのとき、
「お探しですか?」
背後から、声がした。
その声には、感情がなかった。
語尾のない、平坦な音の羅列。ただの「発音」でしかないような、乾いた響き。
加賀見が振り返ると、階段の途中に、彼女が立っていた。
森下奈緒。
昨日と同じカーディガン。長い髪を右肩にまとめ、相変わらず静かな笑みを浮かべている。
まるで、最初からそこにいたように、音もなく立っていた。
「昨日の方、ですよね。驚かせてしまってすみません」
「いえ……ちょっと、気になってしまって。昨日の洗濯物、まだ干されていたので」
彼女は目を細めて、言った。
「誰のだと思います?」
「え?」
「私にも分からないんです。たまに変わるんですよ。シャツの色や、ワンピースの柄。時々エプロンも干してある。でも、誰も住んでないはずなんですよね?」
加賀見は、返す言葉を上手く探せなかった。
「音も変わりますよ。夜は、歩く音が段々と近づいてきて、最後には窓の外から聞こえるの……」
奈緒は加賀見をまっすぐ見て聞いた。
「ねぇ、あなた、本当に知りたいんですか?」
その目は、まるで加賀見の胸の奥を覗き込むように向けられていた。
加賀見は、一瞬迷った。
けれど、そのときすでに彼は、選択する余地を持っていなかったのかもしれない。
「……はい。知りたいです」
彼女は静かにうなずいた。
「お茶でもいかがですか? 話せることもあるかもしれません」
加賀見は、うなずいていた。
それが、“境界”を越える行為だったと気づいたのは、ずっと後のことだった。