カフェでの話
日曜日の午後、小さなカフェの片隅で、奈緒はゆっくりとミルクティーを口に運んでいた。
そのカフェは、駅から少し外れた路地裏にひっそりと佇んでいた。木製の椅子とアンティークのランプ。BGMにはジャズがかかっているが、音量は低く、空気に溶けるようだった。
私はその正面に座り、ホットミルクを両手で包み込むようにして持っていた。外は冷たい風が吹いていたが、店内はほのかに甘く、暖かかった。
「ねぇ、聞いてる?」
不意に奈緒の声が耳を打つ。
「……ごめん。ぼーっとしてた」
「ふふ、じゃあこれ。読んでみて?」
そう言って、彼女はカバンから原稿の束を取り出し、そっと私の前に置いた。手書きの文字。ところどころ、書き直した跡や、薄く消しゴムをかけた跡がある。端のページは少し丸まっていて、何度も読み返された形跡を示していた。
私は目を落とす。
タイトルは書かれていなかった。けれど、一枚目の中央にだけ、鉛筆で細く、こう記されていた。
『これは、静かな部屋の話』
文字を目で追うにつれて、次第に私の心拍が静かに上がっていくのがわかった。
原稿には、こう綴られていた。
男がいた。名前は加賀見悠。
趣味で、事故物件を調べては訪ね歩いていた。
特に霊感があるわけでもない。ただ、何かが「見えそうな場所」に立つことが、彼にとっては現実の境界を確かめる唯一の方法だった。
その日、彼が訪れたのは郊外にある古びた木造アパート。築三十年、二階建て。川沿いにぽつんと立っており、近くには人気もない竹林が広がっていた。
問題の部屋は、二階の角部屋。三年前に一家心中があったという噂があり、夜になると、女の叫び声が聞こえるとネットで囁かれていた。
彼は下の階に住んでいるという女性を訪ねた。
私はそこでページをめくる手を止めた。
なぜだろう。読んでいるうちに、部屋の空気がわずかに変わったような気がした。
音量の小さいジャズが、遠くで鳴る機械音のように感じられる。ホットミルクの温度が、急に冷めたようだった。
「……これ、フィクション?」
私は尋ねた。奈緒は、にこりと笑った。
「どうだと思う?」
「構成が、すごく丁寧。でも妙に、細かい部分まで描写がリアルで」
「だって、実際にあったことを書いたからね」
「え?」
「この前ね、本当に来たの。加賀見って名乗る男。アパートの上の部屋のことを聞きにきたのよ」
私は思わず背筋を伸ばした。
「じゃあ……この女性って」
「ああ、私のことだよ」
奈緒は、冗談とも本気ともつかない調子で言った。けれど、その目はどこか、遠くを見つめていた。曇った窓の向こう、冬の光がにじんでいる。
「上の部屋、空き部屋なの。でもね、夜になると足音がするの。誰かが歩いてる音、物が落ちる音、それから……声も」
「声?」
「叫び声。女の人の。毎晩じゃないけど……周期みたいなものがあるのかもしれない」
私は、うまく言葉を返せなかった。
「でも、それって……怖くないの?」
奈緒は答えず、カップを持ち上げ、最後のひと口を飲んだ。そして、まるで空気を変えるように、ふっと息を吐いた。
そのとき、
コツン……
天井から、小さな音がした。
私と奈緒は、同時に顔を上げた。
見上げた先には、低い天井。カフェの二階はない。
いや、そもそもこの店は平屋だ。
「……今の音、上からだよね?」
「うん」
「でも……上なんて、ないよね?」
奈緒は、にやりと笑った。けれどその笑みには、どこか張り詰めた緊張があった。
まるで、「これでようやく始まる」とでも言うような。
「音がすること自体は、そんなに珍しいことじゃない。でも、音がするはずのない場所から聞こえるようになったら、それはもう別の場所から来てるのよ」
私は言葉を失った。けれど、まだそのときは、物語の中と現実の境目がどこにあるのかを、ちゃんと見極められていると思っていた。
まさかそれが、錯覚だったとは知らずに。