表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/8

最初の記録

 静寂には、二種類ある。

 一つは、安らぎを与える静けさ。深夜の図書館、眠る街、雪が降る朝のような。

 もう一つは、思考を押し潰す沈黙。誰かがこちらを見ているのに、気配だけがあって姿のない、そういう、異様な、破られることを前提とした静寂。

 

 加賀見悠は、ひと月前に奇妙なメールを受け取った。

 差出人は知らないアドレスだった。件名も本文もなく、ただひとつのファイルが添付されていた。拡張子は.txt。何の変哲もないテキストファイルだ。

 いつもなら迷惑メールと判断して削除するところだが、その日、加賀見はなぜか開いてしまった。

 開封と同時に現れたのは、たった一行の文字だった。

「静かな部屋について、覚えていますか?」

 不意に、肺の奥がきゅっと縮む感覚が走った。

(……何だ、これ)

 だが、心当たりがないわけではなかった。

 いや、正確には「思い出したくないことがある」という、ぼんやりとした確信が胸を叩いた。


 加賀見悠は大学時代、文学部に籍を置き、ゼミで怪談や都市伝説をテーマに研究していた。ネットや雑誌に掲載された話、地方に残る口伝の記録、投稿サイトに転がる創作まがいの話まで、暇さえあれば読み漁っていた。

 そんな中で、ある時期、「静かな部屋」という話にたびたび出会った。

 内容は曖昧で、投稿者ごとに違っていたが、共通点があった。

 誰もいないはずの六畳間から物音がする。

 ドアの向こうからノックされる。

 押し入れに何かが潜んでいる。

 音がする部屋の番号は必ず「201」。

 そして、読んだ者の何人かが、「その部屋に入ってしまった」と綴っていた。

 もちろん、それらはすべてフィクションだと加賀見は思っていた。あるいは誰かが流行らせようとした創作都市伝説。

 しかし、読み進めるうちに、いくつかの文章が引っかかった。

 まるで別々の人間が、同じ部屋の中を描写していたのだ。間取り、畳の色、壁の染み、照明の位置、窓の有無。どれも、まったく同じだった。

(気味が悪い……)

 けれど、当時の加賀見にとってそれは気味が悪い程度でしかなかった。記録を取り、論文に活かせればそれでよかった。

 だがその中に、ひとつだけ、異質な記録があった。

 匿名のブログに掲載されていた短編小説。作者は「森下奈緒」と名乗っていた。

 「静かな部屋」というタイトルのそれは、他と違って話として完成されていた。構成がしっかりしており、心理描写が妙に生々しかった。

 なにより加賀見を引きつけたのは、文末の一文だった。

「私は今でも、この部屋から書いています。」

 そのとき、ディスプレイ越しに冷たい風が吹いた気がした。

 だが、ブログは数日後に消えた。

 まるでその一文を書き終えた瞬間、作者がいなくなったかのように。

 加賀見はその話をブックマークに保存し、いつかの資料にとメモを残した。それきり、忘れていた。

 あの日までは。


 添付ファイルを閉じてからというもの、妙な違和感が日常に入り込んできた。

 例えば、自宅アパートの玄関に、濡れた足跡がひとつだけ残っていたり。

 職場の会議室で、自分の後ろの席に誰も座っていないはずなのに、椅子がきしむ音がしたり。

 それが気のせいだと思いたくても、ある晩、ついに決定的なことが起きた。

 寝ようと布団に入った瞬間、天井から、

「コン……コン……」

 と、明らかにノックの音が響いた。

 建物の構造上、天井は最上階の屋根のはずだった。誰かが立ってノックできるわけがない。

 加賀見は布団を跳ね飛ばして飛び起き、部屋の隅々を確認した。

 誰もいなかった。

 でも、押し入れのふすまが、ほんの少しだけ、開いていた。

(いや……俺は開けてない……)

 ほんの数センチ。それでもそこから覗く闇は、異様に深かった。あまりにも静かで、空気がしんと詰まっていた。

 加賀見はそのふすまをそっと閉じ、チェーンロックのように突っ張り棒をかけた。

 そして、その夜は一睡もできなかった。


 数日後、加賀見は、大学図書館の奥にある研究資料室で、あるファイルを見つけた。

 それは旧文学部棟の研究記録。何十年も前の学生たちが、都市伝説やオカルトに関する記録を集めたファイルだ。

 めくると、見覚えのある単語があった。

「静かな部屋」

「201号室」

「消えた学生」

「記録者:森下奈緒」

 驚愕と同時に、ぞわりと背筋を何かが撫でていった。

(高瀬奈緒は実在した?)

 いや、そうではない。

 むしろ、「記録された時点で存在した」だけかもしれない。

 そのファイルには、こんな記述が残されていた。


 その部屋に入ってしまった人間は、順番に静かになる。

 最初に声を失い、次に記憶を手放し、最後には形を失って、部屋そのものになる。

 だからこの話は終わらない。


 その晩から加賀見は、押し入れの奥で誰かがこちらを見ている気配に気づきはじめた。

 ドアが、夜になると音を立てる。

 壁に耳を当てると、向こう側で誰かが囁いている。

 隣の部屋などないはずなのに。

 だが誰に相談すればよかったのか、わからなかった。

 なにより、自分が「順番に近づいている」と、確信してしまっていた。


 だから、彼は今日、この記録を書き始める。

 自分のためではない。誰かに残すためでもない。

 ただ、まだ戻れるうちにら記しておきたい。

 静かな部屋は、実在する。 どこにでも現れ得る。

 そして、一度扉が開けば、次の順番が来るまで、決して閉じない。


(……今夜もまた、ノックをする音がする)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ