最初の記録
静寂には、二種類ある。
一つは、安らぎを与える静けさ。深夜の図書館、眠る街、雪が降る朝のような。
もう一つは、思考を押し潰す沈黙。誰かがこちらを見ているのに、気配だけがあって姿のない、そういう、異様な、破られることを前提とした静寂。
加賀見悠は、ひと月前に奇妙なメールを受け取った。
差出人は知らないアドレスだった。件名も本文もなく、ただひとつのファイルが添付されていた。拡張子は.txt。何の変哲もないテキストファイルだ。
いつもなら迷惑メールと判断して削除するところだが、その日、加賀見はなぜか開いてしまった。
開封と同時に現れたのは、たった一行の文字だった。
「静かな部屋について、覚えていますか?」
不意に、肺の奥がきゅっと縮む感覚が走った。
(……何だ、これ)
だが、心当たりがないわけではなかった。
いや、正確には「思い出したくないことがある」という、ぼんやりとした確信が胸を叩いた。
加賀見悠は大学時代、文学部に籍を置き、ゼミで怪談や都市伝説をテーマに研究していた。ネットや雑誌に掲載された話、地方に残る口伝の記録、投稿サイトに転がる創作まがいの話まで、暇さえあれば読み漁っていた。
そんな中で、ある時期、「静かな部屋」という話にたびたび出会った。
内容は曖昧で、投稿者ごとに違っていたが、共通点があった。
誰もいないはずの六畳間から物音がする。
ドアの向こうからノックされる。
押し入れに何かが潜んでいる。
音がする部屋の番号は必ず「201」。
そして、読んだ者の何人かが、「その部屋に入ってしまった」と綴っていた。
もちろん、それらはすべてフィクションだと加賀見は思っていた。あるいは誰かが流行らせようとした創作都市伝説。
しかし、読み進めるうちに、いくつかの文章が引っかかった。
まるで別々の人間が、同じ部屋の中を描写していたのだ。間取り、畳の色、壁の染み、照明の位置、窓の有無。どれも、まったく同じだった。
(気味が悪い……)
けれど、当時の加賀見にとってそれは気味が悪い程度でしかなかった。記録を取り、論文に活かせればそれでよかった。
だがその中に、ひとつだけ、異質な記録があった。
匿名のブログに掲載されていた短編小説。作者は「森下奈緒」と名乗っていた。
「静かな部屋」というタイトルのそれは、他と違って話として完成されていた。構成がしっかりしており、心理描写が妙に生々しかった。
なにより加賀見を引きつけたのは、文末の一文だった。
「私は今でも、この部屋から書いています。」
そのとき、ディスプレイ越しに冷たい風が吹いた気がした。
だが、ブログは数日後に消えた。
まるでその一文を書き終えた瞬間、作者がいなくなったかのように。
加賀見はその話をブックマークに保存し、いつかの資料にとメモを残した。それきり、忘れていた。
あの日までは。
添付ファイルを閉じてからというもの、妙な違和感が日常に入り込んできた。
例えば、自宅アパートの玄関に、濡れた足跡がひとつだけ残っていたり。
職場の会議室で、自分の後ろの席に誰も座っていないはずなのに、椅子がきしむ音がしたり。
それが気のせいだと思いたくても、ある晩、ついに決定的なことが起きた。
寝ようと布団に入った瞬間、天井から、
「コン……コン……」
と、明らかにノックの音が響いた。
建物の構造上、天井は最上階の屋根のはずだった。誰かが立ってノックできるわけがない。
加賀見は布団を跳ね飛ばして飛び起き、部屋の隅々を確認した。
誰もいなかった。
でも、押し入れのふすまが、ほんの少しだけ、開いていた。
(いや……俺は開けてない……)
ほんの数センチ。それでもそこから覗く闇は、異様に深かった。あまりにも静かで、空気がしんと詰まっていた。
加賀見はそのふすまをそっと閉じ、チェーンロックのように突っ張り棒をかけた。
そして、その夜は一睡もできなかった。
数日後、加賀見は、大学図書館の奥にある研究資料室で、あるファイルを見つけた。
それは旧文学部棟の研究記録。何十年も前の学生たちが、都市伝説やオカルトに関する記録を集めたファイルだ。
めくると、見覚えのある単語があった。
「静かな部屋」
「201号室」
「消えた学生」
「記録者:森下奈緒」
驚愕と同時に、ぞわりと背筋を何かが撫でていった。
(高瀬奈緒は実在した?)
いや、そうではない。
むしろ、「記録された時点で存在した」だけかもしれない。
そのファイルには、こんな記述が残されていた。
その部屋に入ってしまった人間は、順番に静かになる。
最初に声を失い、次に記憶を手放し、最後には形を失って、部屋そのものになる。
だからこの話は終わらない。
その晩から加賀見は、押し入れの奥で誰かがこちらを見ている気配に気づきはじめた。
ドアが、夜になると音を立てる。
壁に耳を当てると、向こう側で誰かが囁いている。
隣の部屋などないはずなのに。
だが誰に相談すればよかったのか、わからなかった。
なにより、自分が「順番に近づいている」と、確信してしまっていた。
だから、彼は今日、この記録を書き始める。
自分のためではない。誰かに残すためでもない。
ただ、まだ戻れるうちにら記しておきたい。
静かな部屋は、実在する。 どこにでも現れ得る。
そして、一度扉が開けば、次の順番が来るまで、決して閉じない。
(……今夜もまた、ノックをする音がする)