9. 将軍ヴァルトロフ
中庭に響く軍靴の音が、夜の静けさを断ち切った。
整然と列をなす小隊の先頭には、鋼鉄の軍装に身を包んだ男がいた。銀の装飾が肩章を飾り、その目には一分の曇りもない。
将軍ヴァルトロフ。 ローゼン自治領樹立と同時にこちら側に来た、数少ない歴戦の猛者。
今となっては、本家直属の軍を預かる軍事の最高位の役割を担っていた。
ヴァルトロフが以前に在籍していた彼の王国では、あまりにも有能すぎたせいで、政敵になると恐れられ、冷遇扱いされてきた可哀そうな1人でもあった。
ルーヴェル邸の玄関前――
レティシアは、一歩前に進み出て、彼を迎えた。
「ようこそ、将軍閣下。アルンヘルムへ。遠路はるばるありがとうございます」
彼女の言葉に、将軍は小さく頷く。
「ご健勝そうで、何よりです。“アルンヘルム東部自治州領主、ローゼン殿下”」
レティシアが一瞬、口元をゆるめる。
「今は“レティシア様”とお呼びいただいております。本家の意を受けてこの地に立つ者として、形式は正させていただきたく」
「なるほど……承知しました。レティシア様」
「どうぞ、中へ。夜風のなかでのやり取りも風情はありますが、今夜は長くなりそうですもの」
レティシアが一歩、玄関の内側へ身を引くように促すと、ヴァルトロフは無言で軽く頭を下げた。
「失礼いたします」
将軍が歩を進めようとした、その時だった。彼の背後に控えていた小隊の兵たちは、誰一人としてその場から動こうとしなかった。彼らの視線は周囲に向けられ、まるで警戒しているかのようだった。
その様子に気づいたレティシアは、軽く眉を上げたのち、やわらかな声で言葉をかける。
「皆様も、どうぞお入りください。この邸は、小隊規模であれば、十分に応接できます。どうか遠慮なさらずに」
一瞬、将兵たちが視線を交わす。だが、その緊張はすぐに和らぎ、先頭に立っていた副官らしき若い将校が一歩前に出た。
「……ご配慮、痛み入ります。失礼いたします」
やがて、一行は礼を整えたまま邸内へと足を進めた。
廊下には、すでに灯がともされ、香を焚いた静かな空気が流れていた。深夜の静寂に包まれた屋敷のなか、足音だけがゆるやかに響く。
レティシアとヴァルトロフは、並ぶようにして歩く。
「……随分と、立派になられましたな」
ふと漏れたヴァルトロフの声は、軍人らしからぬ優しさがあった。
「私とお会いになったことが?」
「ええ。まだ貴女が幼かった頃、王都でお母上に拝謁した折、廊下で並んで立っておられた……貴方様が小さな手で、必死に剣の鍔を握っておられたのを覚えています」
レティシアは目を丸くし、それから苦笑する。
「では、記憶にある“鎧の人”は、将軍だったのですね。……あの頃は剣の重さどころか、言葉の重みすら分かっていなかったと思います」
「……時の流れというのは、時に残酷ですが、同時に立派でもありますな」
レティシアはその言葉を受け止めるように、一瞬だけ足を止めた。
「お言葉、感謝いたします。……どうぞ、お入りください。今夜は、長い夜になりそうですから」
彼女が扉を示すと、ヴァルトロフは深く一礼し、応接室へと歩を進めた。
応接室内は灯が行き届き、深紅の絨毯と調度が柔らかな温もりを醸していた。銀の茶器から立ち上る湯気が、わずかに香を帯びた空気に溶けてゆく。
レティシアは将軍の向かいに静かに腰を下ろした。
「それで将軍。やはり、他の地域でも……同様の被害が出ているのですね?」
ヴァルトロフは頷いた。その目には、戦場帰りの兵のような疲れがうっすらと浮かんでいた。
「はい。すでに三州にて“文書消失”が報告されています。内容は限定的とはいえ、いずれも軍政または対外関係に関わるものばかりでした。犯人の手口も共通しており――内部協力者の存在が濃厚と見ています」
「やはり……」
レティシアの瞳が一瞬鋭さを帯びた。
「そしてこの“アルンヘルム東部自治州”は、現在、本家にとっても最重要拠点の一つです」
将軍の声には、はっきりとした重みがあった。
「とりわけ、先日締結されたヴァルドリア公国との交易協定。その交渉過程や覚書の控え、草案までがこの地に保管されています。それを盗まれるとなると信用問題にまで陥ってしまうのではないかと考えております」
レティシアは深く頷いた。ヴァルドリアとの協定は、今後の経済安定を左右する重要な要素である。その裏付けとなる交渉記録が外部に漏れれば、交渉相手の信頼を失うだけでなく、今後の他国との同盟や通商にも悪影響がでかねない。
「交渉の成果を台無しにされるのは、何よりも避けなければなりませんわね。……守りきれなければ、この地に未来はありません」
応接室には一瞬の静寂が流れた。燭台の火がわずかに揺れる。
ヴァルトロフは静かに息を吐き、その目を細めた。
「――だからこそ、本家は私を抜擢したのでしょう。内部の事情を見通せる者として」
言葉の端に、重くも冷静な確信が滲んでいた。
「それに、万が一、犯人が“身内”であったとしても……王国時代からこの地に関わっていた私ならば、見当はすぐにつきます。面影も癖も、まだ身体に染み付いていますからな」
ヴァルトロフは椅子の背に手を添え、わずかに体を起こす。
彼はすでに軍人としての顔に戻っていた。背筋を伸ばし、応接室の扉を押し開けると、すでに外で控えていた副官が一礼して近づく。
「隊を文庫室および官吏区前へ展開させろ。各通路は三人一組で配置。不要な灯りは控え、気配の遮断を優先しろ。――逃がすな」
「はっ!」
副官が駆け足で離れると、ヴァルトロフは一歩遅れて出てきたレティシアの方を振り返った。
ヴァルトロフは手袋をはめ直しながら、廊下の奥に目を向ける。
「ではそちらの方も」
「はい。カイルは官吏区前を。エディンとミリアは文庫室へ」
レティシアの声に、皆が頷いた。
しばしの沈黙のあと、将軍はゆっくりと歩き出す。
その背を見送りながら、レティシアもまた、一歩を踏み出した。
「……行きましょう」
玄関の扉がゆっくりと開かれる。夜風が吹き込み、灯の火をかすかに揺らす。
そうして、一行は静かに屋敷を後にした。夜の闇へと、捜索の足音が消えていった。