6. 密偵と裏切り
しばらくは、アルンヘルムに潜む密偵のお話になります。
「……また、ですか」
書記官エディンが眉をひそめながら報告書を机に置いた。レティシアはそれを受け取り、一読する。
――第三文庫室から書簡が一通、所在不明。
「今月に入って三度目……。偶然では済みませんわね」
レティシアの言葉に、護衛隊長代理のカイルが姿勢を正した。
カイルは、「護衛隊長代理」という肩書を与えられてから、すでに十日ほどになる。かつて王都近衛に所属していた実力を買われ、自治領再編の混乱期において臨時の任に就いたのだ。まだ若いながらも冷静な判断力と誠実な人柄が評価されての抜擢だった。
だが、再編という言葉の裏には、常に“選別”がつきまとう。
かの王国から引き抜きをしている以上、密偵の存在は避け得ない現実だった。全員がローゼンの理想に共鳴しているわけではない。与えられた地位、待遇、未来――人はそれぞれの理由で動く。
カイルは、それを忘れない。だからこそ、彼の視線は常に鋭く、誰よりも周囲に警戒を向けていた。それはレティシアも分かっていた。
信じたいけど、信じきれないこともある。
統治者である以上、誰かを疑わなければならない日が来る。その現実を、彼女はすでに知っていた。
カイルは、一歩前に出て言った。
「殿下、今回の件……護衛隊が表立って動くと、相手に警戒されるかもしれません。できれば、目立たない人間に探らせたほうがいいかと」
レティシアが小さく頷く。
「具体的には?」
「ミリアとエディンです。あの二人なら城下でも顔が利きますし、不自然じゃない動きができる。信用も……できます」
そこまで言いかけたところで、廊下の向こうからドタドタと足音が響いた。
「レティシア様! 報告書、持ってきました!」
元気よく入ってきたミリアに、レティシアがふと微笑んで言った。
「ちょうどいいところに。午後から、エディンと一緒に外へ出てもらえるかしら?」
「えっ、またですか!? 最近ずっと使いっ走りみたいな気が……私、カイルさんより先に仕えてるんですけど!」
ミリアが頬をふくらませるのを見て、カイルが少し苦笑した。
「……だからこそ頼んでるんだよ。地の利もあるし、人付き合いも上手い。どうか助けてほしい」
「う……そんな風に言われたら断りにくい ……!」
ぶつぶつ言いながらも、ミリアはすでに動き出していた。その様子を見送って、レティシアは目を細める。
「ふふ、ああ見えて頼もしいわね」
執務室を出たミリアは、エディンの腕をぐいと引っ張った。
「もう、また一緒にって言われましたよ。今月で何回目ですか!私に頼んできたのは!」
「まあまあ。僕は別に構わないよ。外の空気を吸えるのはいい気分転換になるし」
エディンは書類を抱えたまま、どこか楽しげに微笑む。普段は書架に埋もれている彼も、最近では現場に出る機会が増えていた。
「で、今回はどこに向かうんです?」
「市場よ。カイルさんが言ってた“昨日の夕方に現れた黒装束の男”ってやつ、たぶん目立ってたはず。色んな人に当たれば何かわかるかもしれませんわ」
「了解。じゃあ僕は西側の通りを回ってみるよ。ミリアさんは?」
「私は正面の通りを一気に突っ切ります! 顔が広いのが取り柄ですもの!」
そう言って、ミリアは勢いよく駆け出していった。
ルーヴェル邸を出てから、二人は並んで石畳の坂を下った。初夏の風が旗を揺らし、丘の上からは、城下の屋根群が一望できた。
「……こうして外に出ると、やっぱり雰囲気が違いますね。少し前までとは」
エディンの言葉に、ミリアも頷く。道行く人々の表情は慎重で、それでいてどこか高揚していた。
かつては地方の辺境に過ぎなかったこの地が、今では地域の中心になろうとしている――それを誰もが肌で感じていた。
「……この通りも、なんだか市場っぽくなってきましたよね!賑やかで!」
「ええ。正式に“許可”されたわけじゃないはずですが……人がいるところに、商人は自然と集まるんですね」
乾物を並べる女商人、腰に皮袋を提げた香料売り、街角で笛を吹く子ども――ほんの数日のあいだに、ここには小さな“暮らし”が芽吹いていた。
ミリアは足を止め、周囲をじっと見渡す。
「さてさて…!カイルの言っていた“黒装束の男”は、どこにいるんでしょうね」
「目立つ服装のはずです。そう多くはないはずですが……」
エディンも同じく周囲に目を配りながら、静かに腰の鞄から紙束を取り出した。そこには、過去に記録された目撃情報が記されている。
「目撃者の話では、昨日の夕方、このあたりの香料屋の裏手で何か探っていたとのことです」
「じゃあ、私が聞き込みしてみますわ。顔見知りの人も多いですし!」
ミリアは笑顔を見せると、さっそく人混みの中へ飛び込んでいった。エディンも逆方向へと歩き出し、目と耳を研ぎ澄ませながら、市場の喧騒に溶け込んでいった。