5. 初めての交渉
アルンヘルムの朝は早い。とりわけ今のローゼン自治領においては、夜明けと共に政務が始まり、陽が沈むまで働き通しの日々が続いていた。
その日、ルーヴェル邸には一台の馬車が静かに到着した。
「……来ましたね。隣国〈ヴァルドリア公国〉の使節団です」
エディンが書類を抱えたまま報告する。レティシアは一つ頷き、窓の外に目を向けた。淡い霧のなか、使者たちは礼を守りながらも、明らかに様子を伺うような視線を邸宅に向けていた。
「懐柔か、査定か。それとも……ただの牽制かしらね」
ヴァルドリア公国は、
レティシアの言葉に、カイルが隣で表情を引き締める。
「警備は万全です。必要なら……」
「ええ、必要なら、ね。けれどまずは対話よ。私たちが“国家”として見られているなら、それに応じる態度を示さなければならないもの」
執務室を後にしたレティシアは、使節団の迎え入れのため大広間へ向かう。重厚な扉が開かれたとき、静寂のなかに一瞬だけ、空気が張り詰めた。
「ようこそ、ローゼン自治領へ」
レティシアの言葉は、令嬢としてではなく、“領主”としてのものだった。
◇
「これは、光栄の至り。お招きいただき感謝いたします、レティシア=ノーグレイブ――いえ、ローゼン殿下とお呼びすべきでしょうか?」
レティシアは静かに笑んだ。
“殿下”――本来は王族、あるいはそれに準ずる地位にある者に対して用いられる敬称。だが、この場においては、別の意味合いを持っていた。
かつてのカリオス帝国では、帝国直轄地に次ぐ「自治領」の長が、領主殿下と呼ばれていた。帝都から遠く離れた諸侯たちは、それぞれの文化や軍を統率し、事実上の“国王”にも等しい権限を有していた。
レティシアが掲げる「ローゼン」という名も、帝国時代に広く知られた自治領の一つであり、その政治理念や法体系に根ざした敬称として“ローゼン殿下”と呼ぶことは、単なる皮肉でもなく、過剰な敬意でもなかった。
「形式にこだわる必要はありませんわ、フェルナー殿。けれど、私たちがもはや“個人”ではなく、“政体”として貴国と対話しているということは、認めていただきたいの」
ヴァルドリア公国の使節、フェルナーは軽く目を伏せた。
「……無論です。私どもも、ローゼン自治領が一定の統治機能と外交的姿勢を備えた“体制”であることは、重々承知しております」
その口調に、わずかばかりの迷いがにじむ。
「では、本日は“通商協定の草案”について、お話を伺えればと思います」
レティシアは静かに席を勧め、使節団を大広間の応接へと導いた。
テーブルの上には、幾つもの地図と契約書案が並べられている。アルンヘルムを起点とした東方貿易路、鉱山資源の供給経路、関税率の暫定的な設定――いずれも、国家間交渉に匹敵する分量と重みを持った議題であった。
「私達、アルンヘルムとしては、“公平な利益”と“相互の尊重”を前提に、協定を締結したいと考えております」
「……それは、王政との関係を前提としない、という理解でよろしいのでしょうか?」
「当然です。私たちは、もはや王政の庇護を受けず、いかなる通達にも従いません。その覚悟を以て自治を宣言いたしました」
はっきりとした一言が、交渉の空気を変える。
フェルナーは一瞬だけ目を細めたのち、小さく息を吐いた。
「……なるほど。では、我らも“新たな隣人”として、適切な距離と敬意を持って対応させていただきましょう」
――そう。たとえ帝国の亡霊と呼ばれようとも、この場には確かに一つの“国家”が生まれつつあった。
しばしの沈黙ののち、フェルナーは懐から書簡の束を取り出した。表紙には、ヴァルドリア公国の公印が押されている。
「こちらは、我が公国より提示された交渉項目案になります。主に関税、通商路の安全保障、査証制度についての初期的な取り決めを協議したく」
レティシアは頷き、用意された円卓へと席を移した。エディンが隣に控え、カイルは警護のため背後に立つ。使節団側も数名の書記官と共に書類を広げ、交渉が本格的に始まった。
「一点、念のためお聞きします。これらの取り決めについて、ノーグレイブ家――本家からの正式な承認は得ておられるのですか?」
フェルナーの問いに、レティシアは少しだけ微笑んだ。
「ええ。先日の評議にて、私の決定権と自治領政務の全権は承認されています。もちろん、“旧来の家”としての関係は保たれていますが、ここで交わす合意は“一州の自治領”としてのものです」
その毅然とした言葉に、使節団の一人が小さくうなずいた。
「それでは本題に入ろう。まず関税についてだが、我が国としては、従来の王国水準からの“緩和”を要望している。とくに織物、鉱石、香料の三品目は主要輸出品であり、交易の障壁が高いと採算が合わん」
「一方で、私達の自治領もまた、新たな財政基盤を築かねばなりません。ただ、完全な無税とまでは難しいですが、初期の信頼構築という意味で、一定の優遇措置は検討可能です」
レティシアの返答に、場の空気が少しだけ和らいだ。
それは、その背景にある「税」の重みを、皆が痛いほど理解していたからだ。
かつての王政下における関税制度は、名ばかりの法令と実態が乖離していた。地方ごとに運用基準が異なり、関税官の裁量によって“上乗せ”が常態化していたのである。特に王都や交易要衝では、税率の名を借りた賄賂要求が横行し、悪名高い“手数料”と称する不正徴収が半ば制度化していた。
ある商会の記録には、正規の税率は物品価値の一割であるにもかかわらず、実際に支払った金額が三割を超えていた例もあった。理由は「再検査費」「遅延回避金」「通関書発行手数料」――名目は様々でも、要するにすべて“口止め料”だった。
それでも商人たちが沈黙していたのは、王家の怒りを買うことのリスクと、交易の停止という致命的損失を恐れてのことだった。
フェルナーは、それらをよく知っていた。ゆえに――ローゼン自治領が「明朗な税制」と「定率課税」を掲げたことの意味を、誰よりも重く受け止めていた。
「……我が国にとって、もっとも重要なのは“安定”と“透明性”です。王政のように、交渉のたびに条件が変わる相手とは、長期的な信頼を築けませんのでな」
彼の声には、実務家としての実直さがあった。
レティシアは頷いたのち、卓上の書類に視線を落としながら、静かに口を開いた。
「では――本自治領として、三品目に関しては段階的関税緩和の協定を提案いたします」
広間に微かなざわめきが走った。
「初期三か月は、関税を王政水準の半分とし、双方の監査官を交えて取引量と収益の変動を観測。その後の三か月で改めて税率を協議し、必要に応じて再調整する。ただし、いずれの段階においても“通達による一方的な変更”は行わず、必ず共同委員会の合議を経ることを条件とします」
言葉を選びながらも、レティシアの声は明確だった。
「……段階的関税協定、か」
フェルナーが眉を寄せ、沈思するように指先で唇をなぞった。
「なるほど……悪くない。だが、その“共同委員会”とやらの構成については?」
「互いに五名ずつの代表を出し、交渉記録と通商監査報告を基に議決。議長は交代制とし、必要時には第三国からの監査官を招聘してもよいでしょう」
フェルナーは少し目を細め、しばし黙考する。
沈黙ののち、彼は口元にわずかな笑みを浮かべて言った。
「……随分と実務に通じていらっしゃる。貴女がただの令嬢でないことは、今のでよく分かりましたよ。あの方は――とんでもない一族を手放したようですね」
フェルナーは、皮肉とも同情ともつかぬ口調でそう付け加えた。
レティシアは、その言葉に一瞬だけまなじりを細めた。
「ええ。けれど、それもまた“彼ら”の選択ですわ」
その言葉に、フェルナーは再び黙した。目を伏せ、静かに卓上の契約案に視線を落とす。やがて、彼は短く息を吐いた。
「……では、この条件で我が国としても前向きに検討しましょう。正式な返答は、帰国後、我が公国議会の承認を経たうえで」
「もちろんです。焦る必要はありませんわ。むしろ、拙速な合意よりも、誠実な同意の方が、関係を長く保つ礎になります」
フェルナーは少しだけ唇の端を上げた。まるで、久方ぶりに“対話の意味”を思い出したかのように。
「――貴女方のような一族が、もっと早く表舞台に出ていれば、この大陸の地図も少し違ったかもしれませんな」
それだけを言い残し、彼は一礼して部屋を後にした。
重厚な扉が閉じられ、室内に静寂が戻る。
レティシアはゆっくりと椅子に腰を下ろし、ひとつ小さく息をついた。緊張の糸を手放すように、肩がわずかに落ちる。
「……交渉は、成功と見てよろしいでしょうか」
隣で控えていたエディンが、静かに尋ねた。
「ええ。少なくとも、“国家”としての第一歩は、刻めたと思いますわ」
窓の外では、まだ淡い霧が町を包んでいたが、その向こうには、確かに朝陽が差し込んでいた。