34. 好転の兆し
残り4話です。
「届いたそうです!」
駆け込んできた従者の声に、執務室の空気がわずかに揺れた。
レティシアはすぐさま顔を上げる。筆を持ったままの手が止まり、紙の上に小さなインクのしみを残した。
「どこから?」
「例の旧道です。今朝方、使いのひとりが無事、指定の中継所に到達したとの連絡が……!」
それを聞いた瞬間、沈んでいたレティシアの表情にようやく血が通う。ミリアは小さくガッツポーズを作り、声には出さないまま、深く頷いた。
「よかった……!」
レティシアは、ゆっくりと息を吐いた。喜びというより、張り詰めていた何かがわずかにほどけたような、そんな感覚だった。
すでに、手紙を託してから一週間が経っていた。エディンとカイルが命をかけて届けてくれたのだろう。
情報が制限されている今、正確に“いつ”届いたのかは誰にも分からない。ただ、確かに、届いたという事実だけが、ここにある。
「すぐに返答が来るとは限らないわ。でも……届いた以上、何かが動くはずよ」
そう言いながら、レティシアは椅子から立ち上がった。動きの一つひとつに、ようやくわずかな重さが抜けていた。
「エディンとカイルの帰還は?」
従者は首を振る。
「確認できていません。ただ、馬の足跡が旧道近くで見つかっています。追跡班が向かっていますが……まだ接触には至っておらず」
「そう……」
無事を願うしかなかった。これ以上、失うわけにはいかない。
「ミリア、民衆の動きは?」
「昨日に比べて、やや落ち着きました。でも、街の南区で配給所の列が長引いていて、明け方には軽い衝突もあったとか。食料が足りません」
「報告書では?」
「今朝の段階で、小麦粉と塩、それと保存食が急騰しています。封鎖のせいで市場に出回らないのと、噂の影響で買い占めが……」
レティシアは静かに頷いた。
「このままでは、混乱は広がる一方ね。配給の配分を見直すわ。倉庫の在庫を再調査して、必要なら州の備蓄を開放して」
「了解です!すぐ手配します」
ミリアが走って執務室を出ていった。
◇
ヴァルドリア公国・中央議会棟。
重厚な石壁に囲まれた円形の議場では、すでに十数名の議員たちが席に着き、重々しい沈黙の中にあった。
長机の一角、席を立った一人の青年が、真っ直ぐに中央の演壇へと向かう。
フェルナー・ロスベルグ。
外交担当の一人であり、ローゼン視察団に同行した経験を持つ、若手ながらも現場を知る人物だ。
「私たちは、同盟でしょう!?」
強く響いたその言葉に、場の空気が微かに揺れた。
「確かに、ローゼンが今、外からの圧力を受けていることは明白です。報告では通商路の封鎖、連絡網の遮断、そして食糧不足の兆候まで出ている。これはもう“内政問題”の範疇ではありません。明らかな敵意――外部勢力の干渉です!」
フェルナーの言葉は、真っ直ぐだった。だが、すぐに別の声がそれを制する。
「しかし、それは“あの”シュレンガル帝国が背後にいるかもしれないという話でしょう?」
年配の議員が身を乗り出し、懐疑的な口調で言った。
「我々が安易に動けば、今度はヴァルドリアが次の標的となりかねない。いかに同盟とはいえ、帝国に楯突くというのは、国家の命運を懸ける行為だ」
数名の議員が静かに頷く。その懸念は当然のことだった。
だが、フェルナーは言葉を引かなかった。
「だからこそ、今なんです。もし、我々が手を引けば、帝国は“ひとつの国を押し潰せた”という前例を手に入れる。それが次に向かうのは、我々ヴァルドリアかもしれない。ローゼンは試金石なんです!」
議場にどよめきが広がった。
その中で、ヴィクトル・ハーヴェルは黙って腕を組み、フェルナーの姿を見据えていた。表情は読めない。だが、誰もが知っている。
――今、この国で最も発言力を持つのは、この男だ。
議長でもなく、長老でもない。ヴァルドリアの行政を実質的に動かす中心にいるのは、中央行政局理事ヴィクトル・ハーヴェル。彼の決定ひとつで、ローゼンの命運が、そしてこの議場の空気そのものが変わる。
しばしの沈黙の後、ヴィクトルはゆっくりと立ち上がった。
「……我々は、応えねばならない。ローゼンの――いや、レティシアの期待に」
静かな声だったが、ひとつひとつの言葉が重く響いた。
「彼女は、この国に敬意と信頼を寄せてくれていた。我々の中にも分け隔てなく接し、同盟の名のもとに、多くを学び、共に歩こうとした。それに対して我々が何も応えなければ――“同盟”とは一体、何なのか?」
議場が再びざわつく。だが今度は、反対ではなく、迷いの色が強かった。
「しかし……兵力差は歴然です。もしシュレンガルが本格的に動けば、ヴァルドリアの防衛力だけでは到底――」
年配の議員が慎重な調子で口を挟む。
「なら、お願いするだけです」
静まり返る場内に、淡々と響く。
「……あの国に。あそこなら、きっと動いてくれるはずです。帝国が動くのなら黙っていないはずです
その言葉に、議場の空気が張り詰める。名を出さずとも、誰もが理解していた。あの国――これまで表に出ることなく、だが確実に各地の情勢を見てきた国。その動きひとつで、均衡が崩れる可能性を秘めた存在。
「保証はない。ただ、ローゼンが潰されるのを黙って見ていられるほど、あの国も暇ではないでしょう」
ヴィクトルの声は静かだったが、迷いはなかった。
その静けさが、むしろ議場の空気をぴんと張り詰めさせる。
しばしの沈黙のあと、ヴィクトルはわずかに身を乗り出し、視線をひとりの男に向けた。
「フェルナー」
呼ばれた名に、彼が背筋を伸ばす。
「君の担当外だとは思うが、急ぎ動いてほしい。例の国に連絡を。伝えるんだ――『帝国が進軍を始めようとしている』と」
フェルナーはすぐさま立ち上がった。その表情には緊張と、それを凌駕する覚悟が浮かんでいた。
「……承知しました。すぐに準備に入ります」
ヴィクトルは短く頷いた。それ以上の言葉は不要だった。
会議室の扉が音を立てて閉じられたあとも、残された議員たちはしばし言葉を失っていた。
だが、それは躊躇ではなく、決断の重みに向き合っている様子であった。
動き出した意思は、もう止められない。
だが確かに、情勢は次の段階へと進もうとしていた。
残りの4話分は明日(24日)の昼12時・12時半・13時・13時半に順次投稿していきます。