32. 危機の淵に立つ者達
空は澄んでいるのに、街の空気はどこか重かった。
ローゼンの城都。帰ってきたはずなのに、歓迎の声ひとつない。レティシアは馬車を降り、振り返る。後ろではカイルとミリア、エディンが黙々と荷を下ろしていた。
静かすぎる帰還だった。
状況が、以前とはまるで違っていることは、国境を越えた瞬間から明らかだった。
ヴァルドリアの馬車がなければ、ここまでたどり着くのに何度足止めを食らったか分からない。国境沿いでは、ローゼンとは関係のない勢力――名もなき諸侯の兵や、どこから差し向けられたかも知れぬ私兵たちが、勝手に臨時の検問を張っていた。
通行証の確認に、身元の詮索、そして不要な質問の数々。まるで、ローゼンに入る者すべてが敵であるかのような扱いだった。
それでもヴァルドリアの紋章が掲げられた馬車であったからこそ、彼らは表向きには干渉せず、嫌味を吐くだけで道を開けた――ただ、それだけの話だ。
そんな旅路を経てようやく辿り着いた城門の前で、レティシアが一歩を踏み出したその瞬間だった。
「レティシア様!」
遠くから名前を呼ぶ声とともに、一人の従者が駆け寄ってきた。まだ若い青年で、息を切らし、顔は明らかに血の気を失っている。
「レティシア様、大変です!」
言葉を続けるより先に、彼の顔がすべてを物語っていた。何かが起きている――しかも、尋常ではない何かが。
「……何があったの?」
レティシアが即座に問い返すと、青年は一度大きく息を吸い、声を震わせながら答えた。
「今朝、各地の市場が一斉に閉鎖されました。ここだけでなく、周辺の街道でも物資の流通が止められていて……住民たちの不満が、すでにあちこちで――」
「補給線が、断たれているのね、他に被害は?」
「まだ混乱は広がっていませんが、商隊や地方の役人たちからの連絡が相次いでいます。関所での荷の押収、理由なき関税の上乗せ、そして……『ローゼンと関われば罰を受ける』と、誰が発したかも分からない通達が流れてきているようです」
カイルが荷を持ったまま、低く呟いた。ミリアは顔をこわばらせながら従者の話を聞いている。エディンは沈黙を守ったまま、レティシアの隣に控えていた。
「執務室を、整えて。急ぎ、報告をまとめるわ。諸侯の動き、交易路の情報、外交使節の反応……すべて整理して出せるように」
「はっ!」
従者は頭を下げ、足早に城内へと戻っていった。
レティシアは無言で城下を見渡した。
この一連の事件は、決して偶然ではない。
ヴァルドリアでの襲撃も、国境での不審な動きも、全ては、同じ意図のもとに仕組まれているのだと。
執務室に戻ると、レティシアは迷うことなく机へと向かい、引き出しから用紙と封蝋を取り出した。窓の外では、カイルたちが荷の整理を続けている気配がある。
インク壺のふたを開ける手に迷いはなかった。
――急がなければ。
ローゼンの本家へ、速やかに状況を報せる必要がある。封鎖の広がり、交易路の遮断、民衆の不安、それに――敵意の矛先。
走る筆先が紙を滑っていく。形式的な挨拶は省き、現状と推察される意図、そして予想される次の一手を短く端的に書き記す。
最後に「返答急務」と添えて、封をした。
「この手紙、最速で本家へ。城下の連絡使いを使って」
エディンがすでに傍らに控えていた。受け取った書状を確かめるように一瞥し、無言で頷いて部屋を出ていく。
その姿を見送りながら、レティシアは別の封筒を手に取った。
ヴァルドリアが本家へ宛てた書状。その返答が届いているか、確認しなければならない。
手元にある手紙の山々を探す。だが、見慣れた印章も、記録の走り書きも――どこにもない。
「……まだ、届いていない?」
思わず、言葉が漏れた。
確かに、ヴァルドリア側は言っていた。書簡は朝明け前には発たせたと。自分たちよりも早く本国に届いていて当然のはずだった。
それなのに――返答は、どこにもない。
レティシアは視線を落とし、書状の束をそっと押しやった。
これは、何かが遮られている。文書が届いていないのではなく、「届けられていない」のだ。
「エディン、すぐに連絡網を再確認して。城下だけじゃない、近郊の各街道沿い、伝令の経路すべて。途中で何かが遮断されている形跡があれば、優先して報告を。カイルと一緒に兵士を向かわせて、連絡網の回復に努めて頂戴」
「了解しました!」
エディンは即答し、足音も立てぬまま執務室を後にした。
再び執務室に静寂が戻る。だが、レティシアの手は止まらなかった。
机に座り直すと、すぐに新たな羊皮紙を引き寄せる。筆を取り、先ほどの書簡とは異なる丁寧な筆致で言葉を綴っていく。
――宛先は、ヴァルドリア中央行政局。ヴィクトル・ハーヴェル理事の名宛である。
報告と、要請。
現在ローゼンが受けている包囲的な圧力、通商遮断、そして連絡網への妨害の可能性。それらを率直に伝えたうえで、ヴァルドリアとして可能な範囲の経済支援を願いたい、と。
ローゼンが一方的に孤立しているように見せかけられることは、何より危うい。小国としての立場を守るには、外からの応援が必要だった。
書き終えた文面を封じながら、レティシアは小さく息を吐いた。
この書状も、今は送る術がない。
「……回復し次第、最優先で送ること。手配は整えておかないと」
本家からの返答はなく、連絡網も遮断されている。
それでも、何もせずに待つわけにはいかなかった。
――いま、このローゼンでいち早く対応できるのは、アルンヘルムにいる自分しかいない。
だからこそ、立ち止まるわけにはいかない。
手を尽くし、先手を打ち、守るべきものを守るために。
レティシアは、次の報告書に手を伸ばした。




