31. 彼の国の野望(アレクシス視点)
久々のアレクシス視点です
高窓から射し込む朝日が、重苦しい空気を和らげることなく議場を照らしていた。
アレクシスは席に深く腰を下ろしながら、目の前で繰り広げられる喧騒を黙って見つめていた。
「――どうして、こうも失敗するのだ!」
怒号が響き、議長が手元の書類を乱暴に卓上から叩き落とした。床に散らばった文書の一枚が、アレクシスの足元まで滑ってくる。無造作に拾い上げたその紙には、赤字で「ヴァルドリア公国・視察団襲撃未遂」とある。
そして、被害者の欄には――『案内役の少年、重傷』。
アレクシスのまなざしが、わずかに動いた。
「……ガキ一人に傷を負わせただけ。成果と言えるほどのものでもないでしょうな」
向かいの若い議員が、つまらなそうに肩をすくめる。反射的に、アレクシスの指先がわずかに震えた。
「黙れ! 若造の分際で!」
議長が激しく卓を叩き、議場に重い音が響いた。
「相手は理事の孫だぞ。どれだけの失態か、まだ分からんのか! あれが誰の血を引いていると思っている!」
アレクシスは、黙して動かない。誰も彼に発言を求めないことに、そして自分がこの議論の中心から外されていることに、気づいていた。
(……これは、完全に蚊帳の外だな)
かつてなら真っ先に意見を求められたはずの自分は、今や議長の怒声を黙って聞いているだけの存在になっている。
場をやや強引に引き取るように、別の議員――太った中年の男が手を上げた。油断のない笑みを浮かべながら、声を響かせる。
「いやいや、議長。とはいえ、相手はヴァルドリアですぞ? 所詮は辺境の小国。理事の孫とはいえ、影響力などたかが知れております。むしろ、これを好機と捉えるべきですな」
「……何か策があるということか?」
議長の声に、議員はにやりと笑った。
「ええ、ございますとも。いっそ、シュレンガル帝国の力を借りましょう。あちらは、我々の“意図”を汲んでくれるでしょう」
その言葉に、議場がざわめいた。
シュレンガル帝国――
かつて大陸中央部の覇を賭けて、カリオス帝国と長きにわたって争った軍事国家である。その膨大な兵力と徹底した中央集権体制により、周辺諸国を従属させてきた覇権主義の強国。今なお、表舞台では平和を装いながらも、裏では各地に触手を伸ばし、影響力を拡大し続けている。
その名が口にされただけで、場の空気が一段と重くなるのを、アレクシスは肌で感じた。
彼の視線は、黙って議長の様子を見守っていた。続けて何が出てくるか、静かに待つように。
「まさか……本気で帝国に頭を下げるおつもりか」
低く漏れた声が、誰とも知れず議場の片隅から響いた。だがその疑念をあざ笑うように、議員はさらに言葉を重ねる。
「頭を下げる必要などありません。ただ、こちらの“問題”に、あちらの“利益”を結びつけてやればいいのです。我々が手を下さずとも、帝国は動いてくれる」
「つまり……切り札として、シュレンガルを“けしかける”つもりか」
議長が低く唸ると、議員は誇らしげに頷いた。
「まさにそれです。シュレンガルは常に“正当な介入”の名目を欲しています。我が国が“秩序維持”のために助力を要請すれば、彼らは喜んで乗ってくるでしょう。ついでにローゼンの息も、しばらくの間、止められる」
再びざわめきが広がる。だがそれはさきほどのような動揺ではなかった。むしろ、“可能性”に反応する熱気であった。
アレクシスは、その流れの中でただ一人、椅子に深く腰を沈めていた。騒がしく交わされる声が、どこか遠くで反響しているかのように聞こえている。
帝国は、いずれ自国の脅威となる存在。その危険を最もよく知る自分たちが、今、その手を借りようとしている。
まるで、毒をもって毒を制すような話だ。
だが、止める言葉を口に出す者はいない。もちろんアレクシス自身も。
なぜなら――
この場には、彼の声を“届かせるための席”が、初めから用意されていないのだから。
議長が大きく腕を広げ、声を張り上げた。
「よかろう! 本案については、具体的な実務段階に入るよう、関係部署に速やかに指示を出す。異議ある者は……いないな?」
いくつかの視線が交錯するが、誰も手を挙げない。議長の目が、改めて議場をひととおり睥睨し――満足げに頷いた。
「では、決定とする」
その瞬間、どっと拍手が起こった。立ち上がる者、握手を交わす者。シュレンガル帝国との水面下での協調路線が、“戦略”として可決された瞬間だった。
だが――
アレクシスだけは、微動だにしなかった。
その場の熱気が、彼の周囲だけを避けるように通り過ぎていく。誰も彼に言葉をかけないし、彼もまた、声を発さない。
けれど、心の奥底でははっきりと確信していた。
(――この政策は、失敗する)
シュレンガル帝国は、“味方”ではない。いかなる条件で協力を仰ごうとも、彼らの本質は侵略と支配だ。最初の一歩を踏み出した瞬間に、こちらの土俵は奪われる。
帝国は貸しを作らない。“取引”の形で入り込み、“実効支配”の名のもとに根を張る。
それを知りながら、誰も止めようとしない。自分の声が、もはや届かないことも。
拍手と談笑の余韻がまだ残る中、アレクシスは誰とも目を合わさず、静かに議場をあとにした。
廊下を抜け、階段を下り、馬車など待たせることもなく、彼はひとり早足で自邸への道を歩いた。背中に刺さるような陽光が、まるで警鐘のように感じられる。
(急がないと)
その思いだけが、足を速める理由だった。
門を抜け、自宅の扉を開けると、内側からすぐに駆け寄ってきたのは、栗色の髪を結った女性――イヴェットだった。
「アレクシス? どうしたの、顔色が――」
「支度をしろ。今すぐ、国外に出る」
返答を待つ余裕もなく、アレクシスは端的に言った。
イヴェットの瞳が見開かれる。
「なにを……それは、どういう――」
「時間がない。詳しくは移動しながら話す。荷は最低限でいい。身分証と外貨、それと連絡記録だけを持て」
その声は冷静だったが、焦りを隠しきれていなかった。
イヴェットは一拍遅れて、息を飲み込むように頷いた。
「……わかったわ。すぐに準備する」
彼女が動き出すのを確認してから、アレクシスは自室へ向かった。机の奥から鍵を外し、古い手帳と一枚の地図を取り出す。
全ては想定内――いや、こうなる可能性を、ほんのわずかでも見越していた自分がいた。
議場の拍手が意味するもの。
それは「王国にとっての死」を意味していた。
仮に勝ったとしても、帝国の手のひらの上に、もし負けても、責任を問われて処刑されるだけ。
どちらに転んでも、未来はない――それだけのことだった。
アレクシスは、手帳と地図を鞄に押し込み、扉の鍵をかけた。
燃え落ちる前に、抜け出すしかない。
王国が、己の愚かさで焼け落ちるその前に。
窓の外には、まだ朝の陽光が差していた。
けれど、それはすでに――見慣れた国の終わりを照らしているように思えた。




