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3. 王宮の混乱

 王宮の朝は、常であれば規則正しい鐘の音と共に始まる。清掃の侍女たちの足音、巡回する衛兵の鎧が鳴らす微かな音、厨房から漂う焼きたてのパンの香り――


 けれどその日、空気は異様に重く、まるで城全体が深い霧の中に沈んだかのようだった。誰もが足取りを潜め、声を落とし、何かを恐れている。


 前夜――ローゼン自治領の誕生という一報が、王政中枢に激震をもたらしていた。


 ノーグレイブ家の離脱。公的には「婚約破棄に伴う中立宣言」とされていたが、実質的には王政からの決別、そして独立だった。

 貴族たちの間に走ったのは、単なる驚きではない。“何かが崩れた”という確信であった。


 そして、その“崩れた中心”にいたのが――王太子アレクシスである。




 



「……殿下は、この事態の重大さを、理解しておられるのですか」


 第一会議室。重厚な木製の扉が閉ざされ、外界から遮断されたその空間に、宰相ハルトウェインの冷ややかな声が響いた。


 長机には昨夜の議事録と、各地の領主からの急報が無造作に積まれている。整然と並ぶ書類の上に、誰もが視線を落とすことを避けるようにしていた。


「ノーグレイブ家が保有していた王都東部の四都市、その商業組合が今朝、自治領側との通商交渉を開始しました。正式な承認こそまだですが……すでに実質的な再編は始まっています」


 ざわ、と重臣の間に小さな動揺が広がる。そのなかで、ただ一人、アレクシスは俯いたまま動かない。


「……そんなはずはない。俺は、あれほどのことになるとは……」


 かすれた声が漏れる。乾いた唇を舌で濡らしながら、アレクシスは言葉を継ごうとしたが、それは喉の奥で詰まった。


「では、何を想定されていたのです?」


 老いた財務官が静かに問いかける。その声には咎めの感情はなく、ただ事実を問う冷淡さがあった。


「貴族の誇りとは、王家のために捨て置けるものではない。ましてやノーグレイブ家――いえ、今やローゼン自治領と名乗る者たちは、五百年の血脈と歴史を背景に持つ一門。侮辱を受けて黙っていると思われたのですか」


 アレクシスは口を開きかけ――そのまま、言葉を失った。視線すら上げられず、ただ沈黙が落ちる。


「殿下。“真実の愛”を貫かれるのは構いません。しかし、それによって政権の根幹を揺るがした事実は、いかにして償うおつもりですか」


「償う……?」


 繰り返されたその単語に、アレクシスの表情が歪む。王太子という立場にある者が、“償う”などという責を負うことがあるのか――それ自体が彼にとっては想定外だった。


「まさか……俺に、責任を……?」


「当然でしょうな。政治とは、情愛の遊戯ではないのです」


 その場に、冷たい沈黙が落ちた。


 アレクシスの周囲には、これまで忠実な廷臣や若手の官僚が集っていた。彼の理想と若さに共鳴した者たち。だが今、その誰もが沈黙している。かつて忠義を語ったその瞳が、今はただ虚ろに宙を泳ぎ、彼を正面から見据える者は一人としていなかった。


 それは――“信任の崩壊”だった。


 一方、王太子アレクシスの婚約者、イヴェット・カルステアはというと、王宮内で目に見える変化を痛感していた。


 昨日までは、通りすがる者が笑顔で挨拶をし、侍女たちが些細な好意を寄せていた。人々の視線は彼女を祝福のまなざしで追い、その足取りは堂々たるものだった。


 だが今日、その視線は冷え、計算と距離を孕んでいた。


 廊下ですれ違う侍女たちはわずかに会釈するだけで、目を逸らした。貴族令嬢たちの集まりでは、笑顔の中に鋭い皮肉が混じる。もはや彼女は、“王太子妃候補”としてではなく、“貴族社会における異物”として見られていた。


「イヴェット様……どうか、ご自愛を」


 付き従っていた侍女の一人がそっと口にしたが、その声にも、“もう庇えない”という諦めがにじんでいた。


 イヴェットはその意味を、痛いほど理解していた。




 ◆




 その日の夜、アレクシスの私室に一通の報告書が届いた。


 封筒の封蝋には、西方辺境の印章――将軍ヴァルトロフの名があった。彼は、かつてローゼン家と共に帝国再編を夢見た、実力と信念を併せ持つ軍人だった。


 文は簡潔だった。


「貴家の決断、静かに拝察いたしました。我らはすでに動いております。

 遅れた国に未来はないと心得ます――ローゼンの名と共に」


 その一文を読み終えたとき、アレクシスはゆっくりと椅子にもたれかかった。


 指先から力が抜けていく。


 それは――明確な離反だった。


 “真実の愛”の代償は、あまりにも重かった。


 それでも彼は、自らの判断を正しかったと、どこかで信じようとしていた。レティシアとの婚約を解消し、イヴェットとの関係を選んだあの日。自分は自分の人生を生きようと、そう決意したはずだった。


 だが――それを肯定してくれる者は、今やどこにもいなかった。

 

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