2. 家を守るということ
ノーグレイブ邸の門が静かに開いたのは、日が落ちて間もなくのことだった。馬車から降り立ったレティシアの姿を認め、使用人たちは誰からともなく集まり、膝をついた。
「お帰りなさいませ、レティシア様」
その声に、彼女は短く頷くだけだった。姿勢は正しいが、その瞳には疲れがにじんでいる。けれど、足取りは揺るがない。迷いなど、もうどこにもなかった。
玄関で彼女を出迎えたのは、兄のクロードだった。
「おかえり。――よく、言ったな」
その言葉に、レティシアはふっと微笑を返した。それだけで、兄はすべてを悟ったように頷くと、静かに命じる。
「父上に伝えろ。緊急評議の招集を要請する、と」
夜の静けさを破り、ノーグレイブ家の中枢が、動き出した。
◆
応接室には、厳格な面持ちの面々が揃っていた。主である公爵フェルナンド・ノーグレイブ、長兄クロード、母方の後見人にあたるエリオン卿、そして長年家政を担ってきた老執事バレスト。さらに、保守派の意見を代弁する叔父ギルバートも出席している。
中央の円卓の席に、レティシアが静かに腰を下ろした。
誰よりも若い彼女を、誰一人として軽んじようとはしなかった。
フェルナンドが口火を切る。
「……今回の件、既に概要は把握している。だが、君の口から経緯を報告してもらおうか」
「はい、父上」
レティシアは一つ息を吐いてから、言葉を選ばずに語った。王宮での出来事、アレクシスの“真実の愛”の宣言、そして――
「……殿下は、私を“完璧すぎて、息が詰まる”と仰いました」
室内の空気が凍る。
「政務も、人としての教養も、すべてを理由に。私は、重荷であったと」
クロードがゆっくりと顎に手をやり、そして小さく笑った。
「……つまり、我が妹は王家にとって“優秀すぎるから不要”だと。なんとも贅沢な話だ」
「控えよ、クロード」
父が低くたしなめるが、その表情も怒りを隠せていない。だが、それでもなお叔父ギルバートが口を開く。
「感情的になるな。王家との縁を切るなど、早計にすぎる。こちらが頭を下げてでも、政略の縁は保つべきでは――」
「それは、私を“下げ渡せ”と?」
レティシアの声音が静かに鋭くなる。
「娘を差し出し、侮辱を甘受し、なお従えというのであれば、私はもはやノーグレイブの名を名乗れません」
叔父が目を伏せる。エリオン卿が、ゆっくりと口を開いた。
「……我が国の東には空白の地が広がり、西では旧王侯たちが群雄割拠の姿勢を見せ始めている。今この時代は、誰もが周辺のほころびを狙っている。強者に従うか、弱者を飲むかのいずれかだ」
「北方でも、諸侯が勝手に“自治領”を名乗り始めていると聞いていますわ」
レティシアが淡く続ける。
「いま、この国の外も内も、揺れています。そんな中で“侮られた家”が彼の王政にとどまれば、どうなるかは――お察しの通りですわね。幾ら、あのカリオス帝国の後継国家であろうとも」
重々しい沈黙が広間を満たした。
カリオス帝国――かつて五百年にわたり、この大陸の半分を掌握したとされる大帝国。多くの民族と言語、宗教を内包しながら、鉄の法と皇帝の権威によって秩序を保っていた超国家的連合体。だがその均衡は崩れ、百年も前に分裂。後継を称する諸国はそれぞれ正統性を主張しながら、互いを認めることなく、いまなお国境を巡って小競り合いを繰り返している。アレクシスの国――王都リュクスを中心とするこの王政国家もまた、その“後継”を標榜する国の一つにすぎない。
「“帝国の継承者”を自負しているのなら、なおさらですわ。侮辱を受けた貴族家が沈黙するなどという、帝国的伝統はどこにもありませんもの」
カリオス帝国の名が出た瞬間、広間の空気が一段と張り詰めた。
それは、誰にとっても“伝説”であり、“亡霊”だった。
だが同時に、理想でもあった。
中央に強い皇帝を戴きながら、諸侯と都市に高度な自治を認めた帝国体制――
だがその理念――“秩序ある分権”という体制だけは、混乱の時代において改めて注目を集めていた。
老臣エリオン卿が、苦い顔をして一歩進み出る。
「……まさか、レティシア様。ローゼンの名を、再び表に出すおつもりですか」
その問いに、レティシアはあくまで穏やかに微笑みながら応じた。
「ええ。かつての誇りと理念を掲げるのに、これ以上ふさわしい名はございませんから」
静まり返った場内で、その言葉は確かな波紋を広げた。
“ローゼン”――
それは、かつてノーグレイブ家が統治していた東辺の自治領。
学術と軍政の中枢を担い、帝国の頭脳と呼ばれた誇り高き地の名。
帝国崩壊と同時に今の王政に取り込まれたものの、その名は今なお、歴史の中で特別な存在であった。
フェルナンド公が席を立ち、娘の隣に並んで言葉を継ぐ。
「我らは、侮辱されたまま沈黙するつもりはない。これは王家への報復ではない――誇りある“撤退”だ。ゆえに宣言する。ノーグレイブ家は、王政を離れ、ローゼン自治領として新たな道を歩む」
数秒の沈黙――
やがて、重々しい空気を破るように、エリオン卿が頷いた。
「……ならば私も従いましょう。かつての精神が、また息を吹き返すのならば」
続いて、軍部のクロード将軍が立ち、学術院の院長、地方領主たちが次々と席を離れた。
これは単なる離脱ではない。
“帝国の復興”ではないにしても、秩序ある自立であった。
フェルナンド公が静かに締めくくる。
「――この日をもって、我らはローゼンの旗を掲げる。
誰かに従うのではなく、己の理念で歩む。かつての名に恥じぬように」
その言葉に、誰かが静かに手を打つ。
それは祝福ではなく、決意への共鳴だった。
レティシアは一礼もせずに歩き出した。
背筋を伸ばし、ただまっすぐに――次の時代を見据えて。