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短編集ー文芸系

バナナとミルク

 卵と牛乳は完全栄養食。なんて話を、聞いた覚えはないだろうか。

 今も言うのかわからないけど、私が子どもの頃は、家庭科でそう教わった。

 色んなものをバランスよく食べるのがもちろん一番いいけど、考えるのが面倒くさい時、時間がない時は、なるべく簡単に済ませたい。

 けど卵は、基本的には加熱調理するのが前提だ。目玉焼き、卵焼き、スクランブルエッグ。フライパンを出して、卵をといて……ちょっと手間である。忙しい朝、なるべくなら火は使いたくない。

 そんな時に便利なのが、バナナである。

 実はバナナもまた、完全栄養食と呼ばれるほどに栄養価が高い。病気の時に食べた人も多いだろう。柔らかく、消化も良い。体調の悪い時は潰してミルクにひたしてもいい。果物の中ではさほど高価でもないし、一年を通して手に入る。そして何より、皮をむくだけですぐに食べられる。非常に優秀な食べ物である。

 そんなわけで、私の朝食はバナナとミルク。これが定番となっていた。


 しかしそんな簡単な朝食すら食べられない時があるのが、社会人である。

 まあ普通に寝坊したんだけど。

 常備してあるバナナをひとつもぎとって、潰れないよう鞄の一番上に放り込む。皮があるから、タッパーに入れたりとかしないでそのまま持ち歩ける。そんなところも優秀。余裕がある人はちゃんと袋に入れてね。

 そして会社のビルに入っているコンビニで牛乳だけ買って、出社。


「ギリギリセーフ……」


 始業までまだ少し時間がある。ぱぱっと食べてしまおう、と私はデスクでバナナの皮をむき、齧りついた。


「うわっ」


 聞こえた驚きの声に目を向けると、男性社員がぱっと目を逸らした。

 なんだったんだ? と思いながら食べ進め、牛乳をすすっていると、その男性社員は近くの男性社員数人とこそこそと話を始めた。


「なにあれ、エロ」

「朝から何アピールなの? 欲求不満?」

「つうか牛乳って、絶対狙ってるっしょ」

「誘われてんじゃん。お前声かけろよ」

「ばっか、やだよあんな年増」


 げらげらと笑い出した男性社員に、浮かんだ感想は「は?」である。マジでそれしかない。は?

 いったい何を見てそんな感想に至ったのか。いや、想像はつく。つくけど、まさか、小学生じゃあるまいし。いい歳した大人が、会社で言うことだろうか。

 私は急いで残りを口に詰め込んで、牛乳で流し込んだ。

 いつもと同じ朝食なのに。なんだかひどく、胃がむかむかした。


 お弁当に果物持ってくるのなんて、よくあることなのに。海外じゃりんご丸ごと持ってきたりするじゃないか。りんごだろうがみかんだろうがバナナだろうが、皮ごと持ってきたっていいじゃないか。

 時間がない時のお昼にしてもいいかなって考えてたけど、そんなのはとても無理そうだ。

 丁寧にカットして、タッパーにつめて、一口でちまちま食べないと。

 ああ、日本のお弁当がそうなっているのは、そのせいかもしれないな、なんて、ぼんやり思った。


 それから私は、食欲が激減した。

 正確には、人前でろくに食事が取れなくなった。

 元々は食べるのが好きだった。目の前の食事に集中していて、今まで気づかなかったことも多々あったのかもしれない。

 周りに意識が向くと、視線も、声も、届いてしまう。

 ラーメン屋で麺をすすっていたら、斜め前の人が食べ始めから食べ終わるまで、ずっとガン見していた。

 バーベキューで唇がべたべたになったので舐め取ったら、こっちを見てひそひそと話して笑われた。指もべたべただったのでティッシュを貰おうとしたら、「舐めればいいじゃん」と言われた。

 お祭りで、やけにフランクフルトを勧められた。断り切れずに貰ったら、何故か食べているところを写真に撮られた。記念だとか言ってたけど、だったら持ってるところで良かったじゃないか。


 ランチや飲み会ではろくに食べられなくて、家でだけドカ食いするようになった。そこだけが唯一、人目を気にせずに食事ができる場所だったから。

 そうしたら全体の食事量は減ったのに、太った。夕食だけドカ食いするから、朝起きても胃もたれしていて、なのに日中は全然食べないからふらふらして、体調が悪くなることが増えた。

 良くないと分かっていたけど、やめられなかった。




「あっつ……」


 残業終わり、汗だくで帰路につく。今日もほとんど食べていないので、ふらふらしていた。

 途中でコンビニを見つけ、吸い込まれるように入る。

 この暑さでは、ホットスナックを食べる気にはならない。冷たいものがほしい、とアイスコーナーを見に行く。

 ひんやりとしたボックスを覗いて、美味しそうなアイスの数々を見つめる。


(練乳バー……)


 以前は好きだった。甘いミルクが、口の中でゆっくりと溶けていく。でも。


(これくわえながら歩いてたら、絶対なんか言われる……)


 言われなくても、見られるだけでも、嫌だ。

 食べたいアイスひとつ選ぶのに、こんなこと、考えなきゃいけないなんて。

 カップのアイスは歩きながらでは食べられない。結局私は、氷がたくさん入っているタイプのアイスを買った。

 会計をして、外に出ると蓋をあけ、ガラガラと氷を口の中に放り込む。

 失敗して、いくつか口から外に零れ落ちた。

 思わず周囲を見回して、誰もいないことにほっとする。

 別にアイス食べながら歩いてたって、悪いことしてるわけじゃ、ないのに。


 暗い夜道を、カラカラと氷の音を立てながら歩く。

 イヤホンはしていない。周囲の音は全部耳に入る。そうでないと危ないから。

 コツコツと、後ろから足音がした。体に緊張が走る。

 固い、革靴の音だ。ヒールじゃない、多分男性。

 振り返らない。少し、歩く速度を落とす。足音に耳を澄ます。

 足音は少しだけ速度を上げて、やがて私を追い抜いていく。すれ違った男性は、両耳にイヤホンをしていた。遠ざかる背中を見て、ほっとする。

 だいたいの人は、つけていると勘違いされたくないので、追い抜いていく。ここで早歩きすると競争になるので、私はわざとゆっくり歩く。

 

(……いいなあ)


 なんでもないようなことが、とてつもなく羨ましくなることがある。


 両耳にイヤホンをつけたまま、ランニングや散歩がしてみたい。

 お花見でビール片手に酔っぱらって、少しだけうたたねしてみたい。

 残業で帰るのが面倒になったら、そのまま会社に泊まってみたい。

 初めて会った人と意気投合して、飲みに行ってみたい。

 星空がひとりじめできるようなソロキャンをしてみたい。

 アパートの一階に住んで、庭に野菜を植えてみたい。

 

 旅館の朝食で納豆を食べたい。

 バーベキューでスペアリブにかぶりつきたい。

 お祭りでフランクフルトを思い切り食べたい。

 夏の夜にアイスバーを食べながら歩きたい。

 お弁当に、バナナを持っていきたい。


 世の中の半分は一生気にすることもなく叶えられる、そんな願いが。

 世の中の半分は、恐怖と引き換えにしないと叶わない。


 悲しい、悔しい。――腹立たしい。


 私は残りの氷を、一気に口に放り込んだ。




 ピピピ、と機械的な音が響いて、私はスマホのアラームを止めた。

 重い体をベッドから引き剥がして、冷たい水で顔を洗って目を覚ます。

 歯を磨いて、化粧をして、服を着替えて、髪を整える。


「さて」


 ごとりとミキサーを取り出すと、その中に小さく切ったバナナと牛乳を放り込む。気分で蜂蜜を加える。私の今の朝食は、もっぱらバナナスムージーだった。

 家でなら、好きなものを好きに食べられる。だけど、バナナだけは。あの日の記憶がフラッシュバックして吐き気がするので、そのまま食べられなくなってしまった。

 ミキサーは洗うのが面倒なので嫌いだったが、仕方ない。効率よく朝食を済ませるには、今のところこれが最適解。


 私の朝食は、今も変わらずバナナとミルク。

 変わったのは、その食べ方と、私の起きる時間。


 私の朝の貴重な時間は、楽しい食事は、健康な体は、あの卑劣な男達に奪われてしまった。

 それを私は、一生許さない。


 お前のブツを引き千切って、お前の口にくわえさせてやろう。

 それだけの屈辱を、与えてやろう。

 どんな手を使っても、必ず。


 材料を全部入れたミキサーの蓋を締めて、スイッチを入れる。

 バナナが刃に切り裂かれ、粉々になっていく。

 私はそれを眺めながら、にいと唇を吊り上げた。

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