仏に逢うては仏を殺せ
仏には出会うはずもないのだ。それをわざわざ説明するのは野暮なこと。諸概念を漏れなく丁重に埋葬しなくては。それが我々を我々たらしめるならば。そうでなくちゃ春の小川に示し合わせがつかないではないか。
彼女はたい焼きを買った。
たい焼きには仏が宿っているやもしれない。
彼女は仏を食べた。
そう。仏とは食べられるもの。
彼女は柿の木を植えた。
柿の木には仏が宿っているやもしれない。
彼女は仏を埋めた。
そう。仏とは埋められるもの。
彼女はレモンを流した。
レモンには仏が宿っているのやもしれない。
彼女は仏を流した。
そう。仏とは流されるもの。
彼女は秋刀魚を焼いた。
秋刀魚には仏が宿っているのやもしれない。
彼女は仏を焼いた。
そう。仏とは焼かれるもの。
彼女は和紙を折った。
和紙には仏が宿っているのやもしれない。
彼女は仏を折った。
そう。仏とは折られるもの。
鞄を必死にひっくり返して中身をぶち撒けたところで、底から脚が生えていていて鞄の口から飛び出していることに気がつかないならばしょうがないではないか。こうなってしまうのも致し方ない。これで異論はなしだ。全会一致で可決。満場一致のパラドックスなんてなかったのだ。そこかしこに仏がいると言うのに。誰にも見えない知らない聞こえないならば、仏なんてどこにもいやしないのだ。仏の中にでさえ。明け方の墓石の前に飾られたリンドウの花。どこかで燻っている線香の匂い。風に揺られてカラカラと鳴る卒塔婆。
彼女は人を殺した。
人には仏が宿っているのやもしれない。
彼女は仏を殺した。
そう。仏とは殺されるもの。