別邸《ヘレス side》
◇◆◇◆
────時は少し遡り、その日の朝。
私は執務室で、もう何度目か分からない予算引き上げの申請書類と向き合い、ふつふつと怒りを感じていた。
前回いくら渡したと思っている、と呟きながら。
確かにラニット公爵家はここアヴニール帝国で一番の金持ちだが、それでも限度というものがある。
『既に鉱山二個分の予算は渡しているぞ』と思案しつつ、私は眉間に皺を寄せる。
「そろそろ、釘を刺しに行くか」
『これ以上は看過出来ない』と判断し、私は席を立った。
その際、両耳に付けた銀のイヤリングが揺れる。
────と、ここで金髪の男が片手を上げた。
「でしたら、僕も同行します」
そう言って、こちらへ一歩近づいたのは秘書のロルフ・ルディ・バーナード子爵。
幼い頃から私に仕えており、良くも悪くも気心知れた仲だ。
『唯一、私に意見出来る第三者でもある』と思案する中、ロルフは困ったように笑う。
「こうなったのは、僕のせいでもありますから」
「そうだな。貴様が『結婚式や初夜を台無しにしたのだから、それくらい大目に見ては?』なんて言わなければ、レイチェル・プロテア・ラニットがここまで増長することはなかっただろう」
初めて申請書類が届いた時のことを思い返し、私は内心舌打ちする。
こんなやつの言うことなど聞かなければ良かった、と後悔しながら。
「うっ……僕もまさか、こんなことになるとは思わなかったんですよ」
『もっと身の程を弁えている方に見えたので』と言い、ロルフは小さく肩を落とした。
オレンジがかった瞳に憂いを滲ませる彼の前で、私は深い溜め息を零す。
「いいから、行くぞ」
ロルフの泣き言に付き合うのは御免なので、私はさっさと執務室を後にした。
後を追い掛けてくるロルフを一瞥し、私は別邸へ繋がる渡り廊下を進む。
そして、目的地へ足を踏み入れると────思わず、
「はっ?」
と、声が出た。
何故なら、そこは数ヶ月前と変わらない……いや、むしろちょっと薄汚れた空間だったから。
「あれだけ金を渡したのに、内装すら整えていないのか?」
『一体、何に金を使ったんだ?』と訝しみつつ、私は歩を進める。
『一先ず、妻の部屋へ向かおう』と思い、中央階段を上がった。
一階と同様どこか小汚いフロアを前に、私は小首を傾げる。
レイチェル・プロテア・ラニットの世話が大変で、通常業務をこなせていないのか?
『なら、人員を補充するべきか』と悩みながら、私は奥へ足を運んだ。
その間、使用人と出会すことは一度もなく……ついに妻の部屋へ辿り着く。
別邸担当の者達はどこに行ったんだ?いや、今はそれよりも
「────レイチェル・プロテア・ラニット、貴様に話がある」
妻の散財を諌める方が先だ。
勢いよく扉を開け放った私は、ロルフと共に中へ足を踏み入れる。
と同時に、目を剥いた。
この部屋もまた、数ヶ月前と変わらない様子だったから。
多少生活感はあるが、到底公爵夫人の暮らす空間とは思えない。
『一体、どういうことだ?』と思案しつつ、私は室内を見回す。
すると、目当ての人物を発見した────のだが……
「死んでいるのか?」
妻はベッドで横になったまま動かない。
『眠っている』と表現するにはあまりにも静かすぎる彼女に、私は頭を捻った。
その瞬間、妻が目を覚ます。
「いえ、生きています。ちょっとお昼寝していただけです」
『お騒がせしました』と謝り、妻はゆっくりと身を起こした。
かと思えば、真っ直ぐにこちらを見据える。
「それで、お話というのは?」
「これだ」
念のため持ってきた例の申請書類を突き出すと、妻は少しばかり身を乗り出した。
内容を確認しているのか暫し無言になるものの、意味を理解するなり嘆息する。
心底、辟易した様子で。
「信じていただけるか分かりませんが、それは私の書いた書類じゃありません」
額に手を当ててフルフルと首を横に振り、妻は身の潔白を訴えた。
と同時に、私は一つ息を吐く。
「────やはり、そうか」
「「えっ?」」
思わずといった様子で声を揃える妻とロルフは、大きく瞳を揺らす。
まさか、彼女の証言を信じるとは思わなかったのだろう。
「言っておくが、貴様を信用している訳じゃない。ただ、別邸の状態と使用人の様子を見て合理的に判断しただけだ」
『勘違いするなよ』と釘を刺しつつ、私は金髪の男へ視線を向けた。
「別邸担当の使用人を一人残らず、ここへ連れてこい」
────と、命令した二時間後。
ようやく、役者が揃った。
「全く……屋敷の敷地内で怠けるどころか、堂々と街へ出て昼から酒三昧とは一体どういう了見だ」
これでもかというほど苛立ちを露わにして、私は別邸担当の使用人達を睨みつける。
職務怠慢などと言うレベルじゃないぞ、と。
「も、申し訳ございません……!でも、これはその……レイチェルお嬢様が『休んでいていい』と仰って……!だから……!」
別邸統括侍女はこの期に及んで責任転嫁を行い、『お許しください!』と懇願してきた。
すると、妻が片手を上げてこう言う。
「いえ、そんなことは一言も言っていません。というか、初日以降ロベリア達とまともに顔も合わせていませんし」
「……なんだと?」
ピクッと僅かに反応を示し、私は眉間に深い皺を刻み込む。
こいつら主人の世話すら放棄していたのか、と憤って。
もし、ちゃんと世話していたなら『顔も合わせていない』という言葉は出てこないだろうから。
「舐められたものだな」
妻を軽んじるのは、その夫である私を軽んじるのと同じ。
それに、これは命令違反だ。
こちらは誠心誠意レイチェル・プロテア・ラニットに仕えるよう、指示していたため。
「……使用人の態度は旦那様の差し金じゃなかったのね」
妻は激怒している私を見て、パチパチと瞬きを繰り返した。
『これは予想外の展開』とでも言うように驚いている彼女を前に、私は青筋を立てる。
こんな陰湿でくだらないことする訳ないだろう、と腹が立って。
『第一、そこまで暇じゃない』と思いつつ、私は冷めた目で使用人達を見下ろす。
それもこれも全て貴様らの独断のせいだ。
「全員、打首にする」