姉の駆け落ち
「────えっ?お姉様が駆け落ちした?」
今しがた姉のクラリス・アスチルベ・フィオーレの失踪報告を受けた私は、手に持った書類を落としてしまう。
というのも────姉には婚約者が居たため。
単なる家出や冗談では、済まなかった。
昔から自由奔放でワガママで楽観主義な人だったけど、まさか家の存続が懸かっている婚約を滅茶苦茶にするようなことはないだろうと思っていた。
いや、信じていた。だからこそ、ショックが大きい……。
額に手を当てて黙り込み、私は強く奥歯を噛み締める。
と同時に、顔を上げた。
「お父様とお母様はなんと?」
「とにかく、クラリスお嬢様を探し出すようにと厳命されました。ただ、証拠が極めて少なく……家を出る際に書いた置き手紙くらいしか、手掛かりがありません」
報告に来てくれた侍女は困ったように眉尻を下げ、かなり悪い状況であることを示す。
『まだ遠くには行っていないと思いますが……』と気休めを言う彼女に対し、私は一つ息を吐いた。
「……置き手紙の内容は?」
「えっと、確か────『私は恋に生きるから、探さないでそっとしておいてほしい』と書かれていました」
「そう……」
額に手を当てたまま俯き、私はそっと目を伏せる。
何ともお姉様らしい文章だな、と思いながら。
それにしても、駆け落ちか……お相手は一体、誰かしら?
いや、それはお姉様を保護すれば分かる話か。
『今、考えるべきことじゃない』と思い、私は視線を上げた。
「一先ず、事情は分かったわ。私も捜索に加わる」
執務机にある大量の書類を一瞥し、『仕事は後回しにしよう』と判断する。
そして、椅子に掛けてあったコートを手に取ると────急に目眩を覚えた。
執務室の様子が歪んで見え、床へ膝をつく。
と同時に、侍女が
「レイチェルお嬢様、大丈夫ですか!」
と、声を張り上げた。
慌ててこちらに駆け寄ってくる彼女を前に、私はゆっくりと立ち上がる。
「大丈夫よ。問題ないわ」
一先ず目眩が収まったため、私は手に持ったコートを羽織った。
このまま外出する気満々の私に、侍女は顔色を曇らせる。
「今日のところは安静にしていてください。旦那様と奥様には、私の方から話しておきますので」
「ダメよ。家の一大事なんだから、私も協力しないと。一人だけ、呑気に眠ることなんて出来ないわ」
「ですが……レイチェルお嬢様はここ三日ほど、まともに寝られていないじゃないですか」
仕事のせいで徹夜続きだったことを指摘し、侍女は心配そうにこちらを見つめる。
『その証拠に凄い隈が……』と述べる彼女の前で、私は力無く笑った。
「確かに嘘でも『元気』とは言えないけど、今は何よりもお姉様の捜索を優先すべきよ」
「そうは言っても……」
「お姉様の婚約者が誰なのか、貴方も知っているでしょう?破談になんてなれば、謝罪や賠償程度では済まないわ」
「……」
単なる婚約じゃないことは侍女も理解しているため、途端に黙り込む。
でも、こちらの体調が余程気に掛かるのか引き下がろうとはしなかった。
「では、レイチェルお嬢様が捜索の指揮を取られるのはどうでしょう?」
『それなら、多少負担は減る筈』と考え、侍女はここに残るよう説得してくる。
せっかく羽織ったコートを脱がせようとする彼女に、私は小さく首を横に振った。
「いいえ、私も外へ出てお姉様を探すわ」
「じゃあ、捜索の指揮は一体誰が……」
『お嬢様以上に適任は居ない』と主張する侍女に対し、私は小さく肩を竦める。
「そんなの必要ないわ。だって────指揮するほど人数は居ないでしょう?」
ここフィオーレ伯爵家は建国当初より存在する名家にも拘わらず、必要最低限の人材しか雇えていない。
別に貧乏という訳では、ないのに……収入自体は貴族の中でも、トップクラスだ。
ただ、異様なまでに支出が多いだけ────姉の影響で。
別にお金の掛かる趣味をしているとか、散財癖があるとかそういう訳ではない。
でも、姉には致命的な欠点がある。
それは────人様の事情に、平気で首を突っ込むこと。
例えば街中で叱責されているメイドを見つければ、深く考えずに助けてその雇い主を怒らせる。
真相は『財布をなくしたメイドを叱っているだけ』という至極真っ当なものだったのに。
とにかく、目の前のことしか見えていないのだ。
『正義感が強い』と言えば聞こえはいいけど、この性格のせいで何度トラブルになったことか……。
今のところ、家を巻き込んでの大騒動に発展していないのが救いね。
まあ、それもこれも多額の慰謝料を相手方に支払っているおかげだけど。
でも、そろそろ懐具合が厳しい。
『今年の税金を支払えないレベルだから……』と嘆息し、私は床に落ちたままの書類を眺める。
────と、ここで侍女がコートから手を離した。
「そう、ですね……分かりました。もう反対はしません。ですが、無理だけはしないでくださいね」
『お嬢様の身に何かあれば……』と案じる侍女に、私はスッと目を細める。
「ええ、約束するわ」
────と、答えた半月後。
私は難航を極める姉の捜索に、焦りを覚えていた。
このまま見つからなかったら、どうしよう?と。
『傭兵でも雇って、人員を増やすか……』と悩み、目頭を押さえる。
確実に疲労が蓄積しているせいか、目眩を覚えて。
さすがにもう限界かしら……一旦、寝室に行って仮眠を取ろう。
椅子からゆっくりと立ち上がって扉へ向かい、私は執務室を後にした。
と同時に、見知った顔を二つ捉える。
「────お父様、お母様?」
オレンジ髪の男性とピンク髪の女性を見据え、私はコテリと首を傾げた。
だって、このフロアには私や姉の部屋しかないから。
『何か用でもあるのだろうか』と考える中、父アーロン・カンパニュラ・フィオーレがそっと眉尻を下げる。
「レイチェル、お前に話がある」
神妙な面持ちでそう切り出し、父は金の瞳に憂いを滲ませた。
その隣で、母ドロシー・ディアスシア・フィオーレも暗い表情を浮かべる。
が、意を決したように口を開いた。
「実はね、レイチェル────あちらにクラリスの駆け落ちを知られてしまったみたいなの」
「……えっ?」
『あちら』というのは、恐らく姉の婚約者のことだろう。
つまり、私達は詰んでしまったのだ。
いくら愛のない政略結婚とはいえ、相手が恋人を作って逃亡なんて……よく思わない筈。
即刻、婚約破棄されてもおかしくはない。
『もしや、もう破談に?』と思案し、私は危機感を覚える。
と同時に、母が少し身を屈めた。
緑の瞳で真っ直ぐこちらを見つめ、ギュッと胸元を握り締める。
「それでクラリスとの婚約を白紙に戻すよう、要請されたわ」
やっぱり……特に愛している訳でもない相手のために、心を砕く必要なんてないものね。
『そこまでする義理はない』と考え、私はちょっと脱力する。
悪足掻きもここまでか、と思って。
姉の捜索は引き続き行うとして、目下の問題はどうやって破談の慰謝料を払うか、だ。
『完全にこちら側の落ち度だし、かなり高額だろうな』と思っていると、父が少し身を乗り出した。
「まだ話は終わりじゃないぞ、レイチェル。むしろ、ここからが本題だ」
「はい?」
破談は序章に過ぎないことを告げられ、私は戸惑いを覚える。
『まさか、もう慰謝料の話が?』と目を白黒させる私の前で、父は表情を引き締めた。
かと思えば、懐へ手を入れる。
「あちらから届いた手紙には、破談の申し出の他にある提案について書かれていた」
ジャケットの内ポケットから手紙を取り出し、父は僅かに手を震わせる。
どこか緊張した素振りを見せる彼の前で、私は背筋を伸ばした。
「その提案というのは?」
真剣な声色で話の先を促すと、父は手紙の表面を軽く撫でる。
「────伯爵家の次女レイチェル・プロテア・フィオーレとの婚約だ」