黄昏夢うつつ
数日が経ち、雪が溶け始めた頃。
夢に悩まされる人がたちまちいなくなり、平和な夜が続いていました。
それと同時に、クリニックが開くこともなくなりました。
「そういえば最近、先生の姿を見ないわね」
「ほんとほんと。ウチの娘もお世話になって、すっかり元気になったもんだから、なかなか足が遠のいてねぇ」
町の人たちも、はじめは気にしていませんでしたが、あまりにもクリニックが開かないからか、たちまち噂が流れ始めました。
ある人は、仕事がなくて町を出て行ったんじゃないかとか、またある人は旅に出かけたんじゃないかとか。あることないこと、話はたくさん流れていましたが、誰も本当のことを知りません。
「じゃあ、確かめに行こうよ!」
ある日曜のお昼時。子供達は決心して、クリニックの扉を開けようとしました。
すると、
「コラっ! 勝手に入ったら不法侵入よ!」
その姿を見ていたパトロール中の婦警さんが子供達を注意しました。
「ごめんなさい……」
「わかればいいのよ! 誰しも失敗はつきものだし!」
怒り顔から優しい笑顔に戻した婦警さんに、子供達は続けます。
「でもでも、先生が最近出てこないから、少し心配になっちゃって……」
「それも確かにそうね……」
この子達の言いたいことも、よくわかります。
婦警さんも、恩返しができていませんでしたから、少しでも助けになるなら、何でもするつもりでした。
「よし! じゃあ、中に入りましょ!」
「え、いいの?」
驚いた子供達。さっきダメと言われたばかりです。
「特例よ。と、く、れ、い。パトロールするだけなんだから!」
もちろん、本当はダメです。でも、そんなこと子供達は知らないし、婦警さんは知らないフリをしています。
「お邪魔します」
「おじゃまします」
婦警さんの後に続いて、子供達も明かりのついていないクリニックに侵入します。
幸い、鍵は開いたままでした。いえ、むしろ事件の匂いがぷんぷんします。
お医者さんを見つけるのに、そんなに時間はかかりませんでした。何せ、一人で切り盛りしている小さなクリニックです。そんなにたくさんの部屋はありません。
「先生見つけた!」
一人の男の子が、声を顰めながら叫びました。
みんなが集まると、そこには診察台の上で静かに眠るお医者さんの姿でした。
「あまり、苦しそうじゃないね」
かつて助けてもらった女の子が、お医者さんの表情を観察します。
「でも、起きないね」
「本当は寝ているの邪魔しちゃダメだと思うけど、これは仕方がないわ!」
みんなで揺さぶったり、大きな声を出してみたり、鼻を摘んでみたりと、たくさん邪魔をしました。
それでもお医者さんは起きません。
「もしかして」
女の子は、お医者さんの手を握ってギュッと目を閉じました。
お医者さんがいつも治療する時の真似です。
「ダメだ、先生の夢に入れないや」
「そりゃそうよね……」
みんな困り果てていると、騒ぎを聞きつけて何だ何だと町の人たちが集まってきました。
「おや、今度は先生が起きないのかい!」
「ウチの目覚ましなら起きないかな?」
「ウチで飼ってるザリガニなら起こせるに違いない!」
即席のお医者さん目覚まし隊が結成され、あの手この手とみんなで意見を出し合い色々と試してみます。
でも、
「全然ダメだああああ」
みんな失敗していきました。何をしても、ずっと眠ったままです。
「どうすればいいんだろう……」
うんうん唸っても、いい案が浮かびません。
「やっぱり、みんなで手を握った方がいいんじゃないかな」
誰かの言ったその案に賛成して、お医者さんの手を握り締め、願いました。
起きて、と。
お医者さんの夢の中は、真っ白な空間でした。
床も天井も、壁もない真っ白な大地。
その何も無い空間に、ポツリと置かれた牢屋。その前でお医者さんは胡座をかきながら眺めていました。
「出してよ! 早くここから出して!」
檻の中に閉じ込められた小鬼は必死で暴れます。
対して、お医者さんは諭すように言いました。
「それはできないよ。君を出したら、また誰かに悪夢を見せてしまうだろう?」
もちろん、それで納得する小鬼ではありません。
「だって仕方がないだろ! それが僕の役目なんだから! それに……」
「それに?」
小鬼に問いかけます。
「僕は望まれたことをしただけなんだ。なのにこんな仕打ち。あんまりだ」
小鬼は項垂れてしまいました。
その様子に、お医者さんは眉を顰めます。
「困ったなあ。そんかな顔をされたら、こんな檻の中に閉じ込めるのが億劫になるよ」
うんうん唸るお医者さんに、小鬼は文句をつけました。
「ここはつまらない。みんなの夢は欲望に溢れていたのに、お前は真っ白だ」
「失礼な。私にだって夢はあるよ。みんなが幸せな夢を見る夢を」
頬を膨らませるお医者さんでしたが、ここには牢屋一つしかありません。
「でも、ここには君の壊せるものは何もないね」
「いいや、そんなことはないぞ」
「え……」
お医者さんが驚いた表情を見せました。
「でも、それにはお前の願いが必要だ」
「私の願い……」
その時、どこからか声が聞こえてきました。
「先生、起きて!」と。
「行っちゃうのか?」
「うん」
小鬼の寂しそうな声に、優しく頷きました。
「少しだけ、待ってて」
そう一言残して、お医者さんは立ち上がりました。
「あ、起きた!」
お医者が目を覚ますと、診察台の周りにはたくさんの町の住民が集まっていました。
「みなさん、ありがとうございます」
「心配したんだぜ!」
「本当、もう会えないのかと思ったわ」
何度も見てきた安堵の表情。自分に向けられたのは初めてで、とても照れ臭く感じます。
「たっぷり寝たら、なんとか元気になりました。みなさんのおかげです」
お医者が目覚めたことで、目覚まし隊は解散となりました。
「先生がいなくちゃ、また悪い夢を見た時に大変だから」
誰かがそう言い、みんなは頷きます。
でも、お医者さんは首を横に振りました。
「ご安心ください。もう、みなさんが悪夢を見ることはありません」
その言葉に、みんなキョトンとします。
「なので、一旦店仕舞いです」
「どこか行っちゃうの?」
子供達が心配そうに見上げました。
「大丈夫です。町を出ていくわけではありません。私はみなさんの近くにいますよ」
そう微笑むと、「なんだよ、変な心配かけさせて」と、口々に解散していきました。
「ではでは。おやすみなさい」
黄昏時の緋色の空を一瞥して、お医者さんは誰もいなくなったクリニックのガラス扉に『close』の看板を掛けました。
「ふあぁ。さて、もう一眠りしますか」
お医者さんは診察台の上で横になると、ゆっくり目を閉じました。
「ただいま」
そう微笑みかけるお医者さんの足元には、砕け散った檻の残骸が転がっていました。
最後までご愛読いただきありがとうございました。
解釈は皆さんにお任せいたしますが、一つ言えるのは、悪夢はいつだって現れるということです。
それはきっと、欲望の裏に潜む漠然とした不安と、恐怖と、憎悪が入り混じった、あなた自身が持つ負の感情が作り上げた蜃気楼のようなものなのでしょう。
現実には、やっつけてくれるお医者さんが来てくれることはありません。
ですが、それと同時に覚めない悪夢もまた、ありません。
日夜繰り返す日々に怯える人が少なくない現代で、直接助けはできませんが、少しでも読んだ人の小さな希望になれたらなと思います。
是非、良い夢も、悪い夢も、同じ自分の一部であると抱きしめてあげてください。無理に閉じ込める必要も、消し去る必要もありません。
これを読んだ皆さんが、自分を愛せますように。
長い後書きまで読んでいただき、ありがとうございました。
最後に、評価ボタンと感想を残していただけると、私が良い夢を見られます。