みちしるべ・・・?
「マジかよ。応援してたのにな……」
水野は思わず、階下に煙草の灰を落としそうになった。
「Xなんて見てないで、さっさとチェックしろ定期」
休憩所を囲うビル街は太陽で輝いている。九月の踊り場はまだ暑い。
けれど、水野を突きさしたその声は、ひんやりした氷みたいに投げかけられた。
竹宮だった。
「こっちはせんせーの頼みで大量の人名とにらめっこしたのだけれど? 急ぎでって言ったのに、自分は余裕の休憩ってのは納得いかないっすよなあ」
「まあ、そう言うなよ。ほら、あの妻子いるVtuberが引退なんだってよ。これは業界的にも大きい話題だろうよ」
「ふうん?」
竹宮がうさんくさげにメガネ奥の瞳を細める。
仕方がない――。水野は働き者のアシスタントの方へ身体を向けると続けた。
「業界的には、数えるほどしかいない婚姻と子供を公表してたお方だぞ。結婚していても、子供がいたとしても、活動は続けられる。その存在自体が、灯台。皆を勇気づけてたと言ってもいい」
「じゃあ、なんでそんな偉人が辞めちゃうのよ?」
「しらね……。だがまあ、ここが芸能人との違いなのかもしれないな」
はあ? と竹宮は不審顔をする。
「芸能人とVtuberは違う定期。それに、結婚出産は芸能でも良くあるでしょう?」
「いーや違う。Vtuberは家族が増えると守秘義務を果たせなくなるかもしれない」
「守秘義務……。それはゲームとかアニメでもあるやんか。大して重いこと、ないと思うっすけど」
芸能はもちろん、BtoC業界に守秘義務は付き物だ。
あのゲームの続編はいつ……だとか、アニメの主題歌が誰で……なんていうのは、あげればきりがない。
「そういや、あれの参加者……。結局何人だった?」
「んー。リストは800人くらいでした。けっこう多いっすね」
「やっぱり、そうかあ……」
水野は煙草に火を付けた。
思考を切り替えるときの癖だ。世間では煙たがられるが。
「平均年収の半分くらい、か……」
「? なにが?」
「製作費の頭割りだよ」
水野が竹宮に頼んでいたのは、水野がいっちょ噛みしたアニメの制作陣のリストアップだった。その人数を総製作費で割ると、だいたいの分配が明らかになる。
「ゲームと比べたら雀の涙だ」
もちろん、期間にもよるがな。と水野は続ける。
おそらくは、これが薄利の元凶なのだろう。公平な分配として、これだ。
上流から下流までの傾斜を考えれば、その差はさらに広がるだろう。
「あー。なるほど……」
「まさに命取りってことだ。実家が太くでもなきゃ、やっていけねえ」
「私の推し絵師も、実家でカツカツ言うてた……」
家族からの援助がなければやっていけない業界は、
やりがいを啜り続けるか、パトロンに適応していく。
動画一枚いくらの境遇と握手会や投げ銭の世界。
それが、表に出る輝かしい著名人たちの下には広がっているのだ。
「さっきの話だが、VTuberの最大の秘密って、なんだと思う?」
「んー……中の人定期。あっ……」
「そういうこと、だ」
芸能人は顔で分かる。しかし、Vtuberは存在そのものが秘密なのだ。
だからこそ、中の人に纏わるトラブルでは、巨大なスポンサーも過敏になる。
水野は紫煙を吐いた。もしかすると、ため息かもしれない。
結局自分は、作る側にはいられず、誰かに”作らせている”。
「たかだか新作情報をばらさないくらい、簡単だと思わないか?」
「ぼそぼそ話してるせんせーは、守れてるって、言い切れますかねえ?」
やれやれ、と首を振る竹宮に、水野は今度こそため息をついた。
――降ろされたことはないが、降りたことはあるよ。
その一言は、つげなかった。