なかったこと……?
「え? 刺された? 例の男の子? マジかーー……。うん。うん。えー、それ急所じゃん」
電話をしながら、眼鏡の男が紫煙をふかしているのはビルの階段踊り場だった。彼の名は水野。そこは都会のビル街の片隅で、じきに建て替えが進むであろう古いエリア。
「あー、わかった。とりあえずそいつはいなかったことにしておきます。大丈夫っす、口外しないんで。はーい、状況ありがとうっすー。おつかれーす」
「……何かあったんすか、せんせー?」
平坦なようですこし甘く掠れた声の主は竹宮だ。
アンダーリムの眼鏡が印象的で、傾げた顔にはピンクのインナーカラーがちらりと覗く。
「いやまぁ、そうだな」
「なんか不穏な感じでしたけど、その……刺された人、大丈夫なんです?」
伺うような竹宮の表情は曖昧だ。周囲に聞こえていた話をかいつまむと、『男が刺された』、『いなかったことにして口外しない』と、物騒極まりない。
そんな、センシティブかもしれない話題に触れるときは、明暗どちらにも取れた方がいい。竹宮はそう考えているのだろう。
「いや、だいじょーぶ」
「そすか。んでも、心配すね、早く治りますように……」
竹宮の言葉に、水野は怒りと呆け半々くらいの困惑を表した。
「はあ? いや、あいつは捨てるしかないよ。この世に存在しなかった、それが一番だから」
「えっ?」
飛んできた水野の言葉に、竹宮は困惑の色を強くする。
「そんな言われるほどの大罪人なんすか?!」
「大罪人っていうか……まあ、触れ込みを鵜吞みにした俺も悪いよ? でも、なーにが世界一の話術って話だよな」
「世界一の話術……?」
竹宮は一連の言葉に思考を巡らせていた。
これまでの水野の話では、世界一の話術を持つという触れ込みの男の子が刺されてしまったらしい。
何をしたのかわからないが、この世に存在しなかったと言わしめるほどのことをしでかし、口外しないとしてまるで機密のような扱いをされている。
竹宮は想像した。そんな人物といえば……
(なんだ! どんな男だ! 女はベらすホストか?? でも、せんせーが……?)
「ところで、せんせーって昇給してますか?」
「なんだよ藪から棒に。上がるワケないだろ原価上がってるんだから」
水野はしゃがみ込み、ぶつぶつと、『円安でサーバ費とグラフィック費が上がった』、『ライフワークバランスで追加アサインが増えた』、『賃貸・リース費が値上げ』だのと壁に”の”の字を書きながら愚痴っている。
竹宮は悟った。そして、言った。
「せんせー。生活苦しいからって……闇プロデューサーしないでください!! 歌舞伎町は……似合わないっす!!!」
「は?」
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「なるほどね。お前なりに想像してくれたのはわかったけど、違うから」
水野は肩を落としながら、竹宮に向かってタブレットの画面を向ける。
「んー・・・? なになに、これ、実写のAIっすか?」
「そう。デジタルヒューマンってやつ」
デジタルヒューマンとは、人間の声や姿を模倣して、高度な動作を取らせることを目的にしたプロダクトだ。
実例はいくつかあるが、有名なのは大みそかに披露された『川の流れのように』の歌手だろう。
「VTuberの裏で、こういうのも進んでてなー」
「……で、この人が刺された? でも、デジタルっすよね?」
「物理的にじゃないよ。特許な、特許」
水野が言いたいのをまとめるとこうだ。
世界で一番スムーズに話すことのできるデジタルヒューマン技術、その実態は他社の技術を流用したもの――。
仮にこれをゲームに採用していたら、特許侵害を指摘されかねず、最悪公開差し止め――。
そういうことだった。
「なんだよ。わかりにくい定期。心配して損した定期!」
「コア特許だから難しいけど、ゲーム業界だったらまだクロスライセンスとかで交渉の余地あったんだけどな」
クロスライセンス、それは相互に特許の利用を許諾することで、円滑な開発を進めたり、無用なトラブルを防いだりするものだ。
ゲーム業界はパクりパクられが当たり前――それはある一面では真実で、ある一面では嘘だ。
新しい機能や目新しいデザインは、他社の特許を侵害していないか、もしくは類似したデザインがないかを幾重にもわたってチェックしている。
もちろん、それでも漏れはあるし、世界中の津々浦々を網羅することなど叶わない。
だからこそ、先人をリスペクトし、忖度の精度を上げ、SpecialThanksとして祭り上げるのだ。
それをくだらないと言うのは容易い。だが、ゲームは大人だけのものではない。将来を作るのは老人ではないのだ。
「まあ、よくあることだよ。そういうときは、”なかった”ことにすればいいだけだ。それが研究費ってもんよ」
ぷりぷりし始めた竹宮をよそに、水野はたいして気にもしていないように煙草に火をつけた。
煙はまるで日の目を見なかった者たちと繋がっているかのように、ゆっくりと立ち上っていった。